『旧唐書』
くとうじょ
倭国伝・日本伝

倭国

倭国はいにしえの倭奴国のことである。唐の都の長安を去ること1万4千里。新羅の東南の大海の中にある。倭人は山ばかりの島に依り付いて住んでいる。倭国の広さは東西は5か月の旅程で、南北は3か月の旅程であり、代々中国と通じていた。

その国の町などには城郭が無く、木で柵を作り、家の屋根は草で葺いている。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。制定する官位は12等級ある。訴訟する者は匍匐(ほふく)して前に出る。

倭国には女が多く、男は少ない。かなりの漢字が通用している。俗人は仏法を敬っている。人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている。

貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。
婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。

貞観5年(631)。倭国は使いを送って来て、地方の産物を献上した。太宗は道のりが遠いのをあわれんで、所司(=役人)に命じて毎年朝貢しなくてよいように取りはからわせ、さらに新州の刺史(しし=長官)高表仁に使者のしるしを持たせて倭国に派遣して、てなずけることにした。ところが表仁には外交手腕がなく、倭国の王子と礼儀の事で争いを起こして、国書を述べずに帰国した。

貞観22年(648)になって、倭国王は再び新羅の遣唐使に上表文をことづけて太祖へ安否を伺うあいさつをしてきた。



日本

日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。

その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。
彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言っている。

長安3年(703)、その大臣の粟田真人が来朝して国の特産物を献上した。朝臣真人の身分は中国の戸部尚書(租庸内務をつかさどる長官)のようなものだ。彼は進徳冠をかぶって、その頂は花のように分かれて四方に垂れている。(進徳冠…唐の制度の冠の一つで九つの球と金飾りがついている)紫の衣を身に付けて白絹を腰帯にしていた。

真人は経書や史書を読むのが好きで、文章を創る事ができ、ものごしは温雅だ。則天武后は真人を鱗徳殿の宴に招いて司膳卿(しぜんけい・食膳を司る官)を授けて、本国に帰還させた。

開元の初め(玄宗の時代・713~741)また使者が来朝してきた。その使者は儒学者に経典を教授してほしいと請願した。玄宗皇帝四門助教(教育機関の副教官)の趙玄黙に命じて鴻盧寺で教授させた。
日本の使者は玄黙に広幅の布を贈って、入門の謝礼とした。その布には「白亀元年の調布(税金として納めたもの)」と書かれているが、中国では偽りでないかと疑った。

日本の使者は唐でもらった贈り物を全部、書籍を購入する費用に充てて、海路で帰還していった。
その副使の朝臣仲満(阿倍仲麻呂)は中国の風習を慕って留まって去らず、姓名を朝衡(ちょうこう)と変えて朝廷に仕え、左補闕(さほけつ・天子への諫言役)、儀王(第12王子)の学友となった。朝衡(仲麻呂)は京師に50年留まって書籍を愛好し、職を解いて帰国させようとしたが、留まって帰らなかった。

天宝12年(753)。日本国はふたたび使者を送って朝貢してきた。(※藤原清河・大伴古麻呂・吉備真備ら)

上元年間(760~762)に朝衡を左散騎常侍(天子の顧問)・鎮南都護(インドシナ半島北部の軍政長官)に抜擢した。

貞元20年(804)。日本国は使者を送って朝貢してきた。学生の橘逸勢(はやなり)・学問僧の空海が留まった。

元和元年(806)。日本国使判官の高階真人は「前回渡唐した学生の学業もほぼ終えたので帰国させようと思います。わたくしと共に帰国するように請願します。」と上奏したのでその通りにさせた。

開成4年(839)。日本国は再び使者を送って朝貢してきた。



『旧唐書』に出てきた二つの国について、『ひもろぎ逍遥』の関連記事。

百済の前方後円墳(5)
       中国正史に「倭国」と「日本」 二つの王朝が書いてある…
       まずは『旧唐書』倭国伝を読んでみよう


百済の前方後円墳(6)
       『旧唐書』日本伝・日本国の成り立ちと不思議な白亀年号



「百済の前方後円墳」を最初から読むならコチラへ
       (1)北部九州から渡った倭人たち
       (2)磐井の君VS継体天皇の背景
       (3)そこは倭国の支配下だったー四県割譲事件
       (4)中国から見た事情・『宋書』倭国伝―倭の五王
       (5)中国正史に「倭国」と「日本」 二つの王朝が書いてある…
       (6)『旧唐書』日本伝・日本国の成り立ちと不思議な白亀年号



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                                    【日本書紀】

穂積臣押山
ほづみのおみおしやま


継体6年の夏、4月6日に穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を百済に派遣しました。その時、筑紫国の馬40頭を贈りました。

冬12月に百済は日本に使いを送って朝貢してきました。別に上表文を書いて、任那国の上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の四県(こおり)を譲渡するように請願しました。

哆唎国守(みこともち)の穂積臣押山が
「この四県は百済に近く、日本からは遠く隔てています。哆唎と百済は近くて朝夕通い易く、鶏や犬がどちらの国のものか分からないほどです。今、哆唎を百済に与えて合併させるのは手堅い政策で、最良のものでしょう。しかし、たとえ百済と合併させても(他国からの侵略に対して)まだ危ういといえますが、それでも百済と切り離して置いたなら、数年も守りきれないでしょう。」と奏上しました。

大伴の大連金村も詳しくこの事情を知っていて同じ内容を奏上しました。 

そこで物部の大連・麁鹿火(あらかひ)を勅命を伝える使者としました。物部の大連・麁鹿火は難波の客館に出立して、百済の使者に勅命を伝えようとしましたが、そのが強くいさめて、

「そもそも住吉大神が初めて海の向こうの金銀の国、高句麗、百済、新羅、任那などを、胎中天皇と言われる誉田天皇に授けられました。だから大后の息長足(おきながたらし)姫の尊(神功皇后)が大臣の武内宿禰と国ごとに官家(みやけ)を初めて置いて、海外の属国として長年経っているのです。そのように由緒あるものです。
もしそれを裂いて他の国に与えたなら本来の区域と違ってしまいます。永く世のそしりを受けて人々から非難されるでしょう。」
と言いました。

大連(おおむらじ)は「そなたが言うのも道理だが、勅命があった以上は、反対すれば天皇の命令に逆らう事になる。」と言いました。妻は強く諫めていいました。
「病気だと言ってあなたが伝えなければいいのです。」

大連は妻の言葉に従いました。そのため、改めて使者が選ばれて、勅文に下賜の物を付けて、百済の上表文に応じて任那の四県を与えました。
勾大兄(まがりのおおえ)皇子はこの件に関して全く知らず、あとで勅命があった事を知りました。驚いて悔いて変更する命令を下しました。

誉田天皇の御代から官家(みやけ)を置いていた国を軽々しく隣国が乞うがままにたやすく与えられようか。」と。すぐに日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わして改めて百済の客人に伝えました。

百済の使者は言いました。
「父の天皇が便宜を図られて既に勅命を与えられたのです。子である皇子がどうして父帝の勅命を変えて、みだりに改めて言われるのですか。きっとこれは虚言でしょう。もしそれが真実ならば大きな頭の杖を持って打つのと小さな頭の杖を持って打つのとどっちが痛いでしょうか。(もちろん天皇の勅命が重く、皇子の命令は軽い。)」と言って帰国しました。

のちに「大伴の大連と哆唎国守の穂積臣押山は百済のワイロを貰ったのだ」という噂する者がいました。

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『宋書』倭国伝
 そうじょ わこくでん

                       成立(432年着手? 502年完成)

倭国は高句麗の東南の大海の中にあって、代々我が国に朝貢してきた。

高祖(南朝宋の武帝)永初2年(421)。高祖・武帝は「倭の讃王は万里も離れている所から朝貢して来る。遠くからでも朝貢する誠意を考慮して官職を授けよう。」と言った。太祖(宋の文帝)の元嘉2年(425)。讃王はまた司馬の曹達を派遣して上表文を奉り、特産品を献上した。

讃王が死んで弟の珍王が即位し、使者を送って朝貢してきた。みずから(都督の最高位である)使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と名乗り、上表文を奉って正式に任命されるよう要望してきた。文帝は勅命を下して安東将軍・倭国王に任命した。珍王はまた倭の隋ら13人に平西・征虜・冠軍・輔国などの将軍の称号を授けるように要望した。文帝はこれらすべて許可した。

元嘉20年(443)。倭国王の済王(せいおう)が使者を送って朝貢してきた。そこで安東将軍・倭国王と任命した。元嘉28年(451)。使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事の称号を加えて、安東将軍は元のままにした。ならびに上表された23人を将軍・郡長官に任命した。(※百済の名が消えていることに注意。)

済王が死んだ。世継ぎの興王(こうおう)が使者を遣わして朝貢してきた。世祖(孝武帝)の大明6年、(462)孝武帝
「倭王の世継ぎ興王はこれまでと変わらず忠心を示し、我が国を守る外海の垣根となり、我が国の文化に感化されて辺境を守り、うやうやしく朝貢してきた。興王は先代の任務を受け継いだのだから、爵号を授ける。安東将軍・倭国王と称号せよ。」と勅命を下した。
興王が死んで弟の武王が即位した。みずから使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称した。

順帝の昇明2年(478)倭国の武王は使者を送って上表文を献じて、「封国である我が国は偏遠の地にあって、外の垣根の役割をしています。昔から祖先はみずから甲冑を身につけ、山川を跋渉し、ひとところに安んじて留まる暇はありませんでした。

東の方は毛人の55国を征し、西の方は衆夷(しゅうい)66国を征服し、海を渡って北の95国を平らげました。皇帝の王道は広く溶け込み、封土は広大です。

我が国は先祖代々宋国に入朝するのに時節を誤った事はありません。わたくしは愚か者ではありますが、かたじけなくも先祖の偉業を継いで、統治する人々を率いて天極である宋国に帰順しています。通う道は百済を通って船路です。

ところが高句麗は無道者で、百済を飲み込もうとして国境の人民を略奪し、殺害しています。常に朝貢の道は滞って、我が良風を失わせようとしています。貴国に行こうとしても通じたり、通じなかったりします。

臣下であるわたくしの父済王は実に高句麗が宋国へ通う道を塞ぐことを怒り、弓矢を持つ兵士100万、義憤の声を挙げて奮いたち、大挙して攻めようとしましたが、にわかに父王と兄王が亡くなって後一息で成功する時に、さいごの一撃が出来ませんでした。わたくしは国に居て喪に服しているので兵士たちを動かさないでいます。こうして戦いをやめて兵士を休めて、高句麗に勝たずにいます。

されども、今こそ兵士を鍛錬して父と兄の志を全うしようと思います。我が義士も勇士も文官も武官も力を発揮して敵と刃を交えようとも命は惜しくはありません。もし皇帝の徳によって、我らを援護していただければ、この強敵をくじき、地方の乱れを収め、祖先の業績にも劣ることはありません。

勝手ながら、わたくしに開府儀同三司を任命され、ほかの諸将にもみなそれぞれに任命されて、貴国に忠節をつくすように勧めて下さい。」と。

そこで順帝は武王を使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王に任命した。


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景行天皇(1)
大足彦忍代別天皇
おおたらし・ひこ・おしろわけのすめらみこと
即位
双子が生まれる

大足彦忍代別天皇イクメ・イリビコ・イサチの天皇(垂仁)の第三子です。母は皇后のヒバス媛の命と言います。丹波道主の王の娘です。イクメ・イリビコ・イサチ天皇37年に皇太子となりました。21歳でした。

99年春2月にイクメ・イリビコ・イサチ天皇は崩御しました。
景行元年の秋7月11日に、皇太子は天皇に即位し、年号を改めました。この年の太歳は辛羊(かのとのひつじ)にありました。

景行2年春3月3日に播磨のイナビの大郎姫(おおいらつめ=イナビのワキ郎女)を皇后としました。皇后は二人の男子を生みました。長男を大碓(おおうす)の皇子(みこ)と言い、次男を小碓(おうす)の尊(みこと)と言います。
(一書には皇后は三人の男子を生む。第三子を稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)という)

その大碓皇子と小碓尊は双子でした。天皇はただならぬ事が起こったと、臼に向かって(まじないの言葉?)を言いました。そのために双子に大碓・小碓と名付けました。

この小碓尊は日本童男(やまとおぐな)とも言います。あるいは日本武尊(やまとたけるのみこと)と言います。幼い時から勇ましい性格で、男盛りになると美しい顔立ちになりました。身長は170センチで、力が強く、鼎(かなえ)を持ち上げることが出来ました。

景行3年の春2月1日に景行天皇は紀伊の国に出かけて、もろもろの神祇を祭祀しようとして占いましたが、吉ではありませんでした。そこで行幸は中止になりました。

代わりに、ヤヌシ・オシオ・タケオ・ココロの命を遣わして祭祀させました。ヤヌシオシオタケオココロの命が詣でて、阿備(あび)の柏原で、神祇を祭祀しました。そこに9年間住みました。その時、紀の直(あたい)の遠祖ウヂヒコの娘の影姫を娶って、武内宿禰が生まれました。


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景行天皇(2)

妃と御子たち

景行4年の春2月11日に、天皇は美濃に行きました。左右に控える者が、
「この国に美人がいます。弟姫(おとひめ)といいます。美しい顔をしています。八坂のイリビコの皇子の娘です。」と言いました。

天皇は妃にしようと思って、弟姫の家に行きました。弟姫は天皇が来られたと聞いて、すぐに竹林の中に隠れました。天皇は、それなら自分の所に来させようと考えて、泳宮(くくりのみや)に滞在しました。

鯉を池に泳がせて、朝夕これを見て遊びました。弟姫はその鯉が泳ぐのを見たいと思って、こっそりとやって来て池を見ました。天皇はすぐに姫を留めて、寝所に召しました。

しかし弟姫は夫婦の営みは昔も今も当たり前の事なのに、私はどうしてもなじまない、と思って、天皇に
「わたしは夫婦の営みになじめません。今は天皇の御威光のために、寝屋の帳(とばり)の中に召されていますが、どこか喜べないのです。

それに、私の顔は美しくしくもないし。これから先も後宮にお仕えするのは耐えられそうもありません。

ただ、私には姉がいます。八坂の入姫(いりひめ)と言います。とても綺麗な顔をしています。操があって、きよらかな心の人です。私の代わりに後宮に召し入れて下さい。」
と願い出ました。

天皇は許しました。こうして八坂の入姫を召して妃としました。入姫は7人の男子と、6人の女子を生みました。

第一はワカタラシヒコの天皇となります。
第二はイホキイリビコの皇子と言います。
第三はオシノワケの皇子と言います。
第四はワカヤマトネコの皇子と言います。
第五はオオスワケの皇子と言います。
第六はヌノシの皇女と言います。
第七はヌナキの皇女と言います。
第八はイホキイリビメヒメの皇女と言います。
第九はカゴヨリヒメの皇女と言います。
第十はイサキイリビコの皇子と言います。
第十一は吉備のエヒコの皇子と言います。
第十二はタカキイリビメの皇女と言います。
第十三はオト姫の皇女と言います。

また別の妃で、三尾氏のイワキワケの同母妹のミヅハノイラツメイホノの皇女を生みました。

次の妃のイカワ姫神櫛の皇子イナセのイリビコの皇子を生みました。
長男の神櫛の皇子は讃岐の国の始祖です。
次男のイナセのイリビコの皇子は播磨の別の始祖です。

次の妃、阿倍氏のコゴトの娘の高田姫タケクニコリワケの皇子を生みました。
これは伊予の国のミムラノワケの始祖です。

次の妃、日向の髪長オオタネ日向のソツビコの皇子を生みました。
これはアム君の始祖です。

次の妃、ソのタケ姫クニチワケの皇子クニソワケの皇子(=ミヤヂワケ皇子)とトヨトワケの皇子を生みました。
長男のクニチワケの皇子は水沼(みぬま)の別(わけ)の始祖です。
次男のトヨトワケの皇子は火の国の別(わけ)の始祖です。

以上天皇の男女の御子は前後合わせて八十柱います。

しかし、ヤマトタケルの尊とワカタラシヒコの天皇とイホキイリビコの皇子以外の七十余人は皆、国郡に封じて、それぞれの国に行かせました。
こうして今の世に諸国の別(わけ)というのは、この別王(わけのみこ)の末裔です。
                 (つづく)

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景行天皇(3)
神夏磯姫・鼻垂・耳垂・麻剝・土折猪折

この月に天皇は美濃の国の造(みやつこ)で名前は神骨(かむほね)の娘たち、姉の兄遠子(えとほこ)と妹の弟遠子(おととほこ)が二人とも美人だと聞いて、大碓の命にその姉妹の顔を見て来るように言いました。大碓の命は姉妹を見て密通してしまい、父の天皇には黙ったままにしました。天皇は大碓の命を恨みました。

冬11月1日に天皇は美濃の国から帰還しました。纒向(まきむく)にさらに都を作りました。これを日代(ひしろ)の宮と言います。

12年秋7月に熊襲が叛いて朝貢しませんでした。
8月15日に天皇は筑紫に向かいました。
9月5日に周芳(すは)のサバに着きました。その時、天皇は南の方を見て、群臣たちに
「南の方に煙が沢山立っている。きっと賊がいるに違いない。」
と言いました。

そこに留まって、まずは多臣(おほのおみ)の祖の武諸木(たけもろき)と国前(くにさき)の臣の祖のウナテと物部の君の祖の夏花(なつはな)を遣わして、その状況を調べさせました。

そこには女人がいて、神夏磯姫(かむなつそひめ)と言い、人民も大勢いました。姫は一国の首長という存在でした。

神夏磯姫は天皇の使者が来る事を知って、すぐに磯津(しつ)の山の榊を抜き取って、上の枝には八束の剣を掛け、中の枝には八咫鏡を掛け、下の枝には八坂瓊(に)を掛けて、白旗を船の舳先に立てて、迎えて言いました。

「どうぞ兵を差し向けないで下さい。我らは叛くようなものではありません。今こうして帰順いたします。ただ服従しない者たちが他にいます。

一人は鼻垂(はなたり)と言い、勝手に自分は王だと言って山の谷に集まって、ウサの川上にたむろしています。
二人目は耳垂(みみたり)と言って、しばしば略奪してむさぼり食ったり、人々を殺したりしています。御木(みけ)の川上に住んでいます。

三人目は麻剝(あさはぎ)と言い、ひそかに仲間を集めて高羽(たかは)の川上に住んでいます。
四人目は土折猪折(つちおりいおり)と言って、緑野の川上に隠れ住んで、山川が険しいのを当てにして、人民をさらっています。

この四人は要害の地に住んでいて、それぞれに住民がいて、一国の首長だと言っています。それらは皆『皇命には従わない』と言っています。どうぞすぐに攻撃して下さい。時期を逃さないで下さい。」
と言いました。

そこで、武諸木たちはまず麻剝の仲間を誘いこむ事にしました。赤い上着や袴や珍しいものをいろいろと与えて、かねてから服従しない他の三人を連れて来るように言いました。すると、仲間を連れて集まって来ました。武諸木たちは彼らを残らず捕えて殺しました。

天皇はついに筑紫に入り、豊前の国の長峡(ながお)県(あがた)に着いて、行宮を建てて住みました。そこを京(みやこ)と呼ぶようになりました。
                      (つづく)


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景行天皇(4)
土蜘蛛と熊襲


冬10月に碩田(おおきた)の国にやって来ました。その国は広くて大きくて美しくもありました。そこで、オオキタと名付けました。速見の邑(むら)に着きました。女人がいて、速津姫と言いました。クニの首長でした。

速津姫は天皇が来られたと聞くと、自ら迎えに出て言いました。
「この山に大きな石窟があり、ネズミの石窟(いわや)と言います。そこに二人の土蜘蛛が住んでいます。一人はといい、もう一人をと言います。

また直入(なおいり)の県(あがた)の彌疑野(ねぎの)には三人の土蜘蛛がいます。一人を打猨(うちさる)と言い、二人目を八田(やた)と言い、三人目を国マロと言います。

この五人はみな力が強く、仲間も多いのですが、みな「皇命には従わない」と言っています。もし強引に召せば、兵を挙げて手向かうでしょう。

天皇はそれは良くないと思って進みませんでした。そこでクタミの邑に留まって、仮宮を建てて住みました。それから群臣たちと話し合って、
「今、一挙に大軍を投入して土蜘蛛を完璧に討とう。もし我らの軍勢の勢いに恐れをなして、敵が山野に隠れてしまえば、後の憂いとなる。」
と言いました、

そうして、椿の木をツチ(ハンマーの類)に加工して武器にしました。それから強い兵士を選んでそのツチを授け、山を穿ち、草をはらって、石室の土蜘蛛を襲って、稲葉の川上で破り、ことごとく一党を殺しました。

血が流れて、くるぶしまで浸かりました。のちに時の人はその椿のツチを作った所を、海石榴市(つばきち)と言いました。また、血が流れた所を血田(ちた)といいます。

次に打猨を討とうとして、彌疑(ねぎ)山を通りました。その時、敵の矢が横から打ち込まれました。官軍の前に矢が雨のように打ちこまれました。天皇はいったん城原(きはら)に戻って、占って川のほとりに陣を構えました。

そして軍隊を整えて、まず八田を彌疑野で撃ち破りました。すると打猨は、これは勝てないと思って、「服従します。」と言いましたが、天皇は許しませんでした。打猨たちは皆、谷に身を投げて死にました。

天皇は初め、敵を討とうとして、柏峡(かしはを)の大野に宿りました。その野には石がありあました。長さ六尺(約180センチ)、広さ三尺(約90センチ)、厚さ一尺五寸(約45センチ)。
(※「初め」というのは、話を遡らせて、筑紫入りの時の話を挿入したのか? 綾杉)

天皇はウケイをして、
「私が土蜘蛛を滅ぼす事が出来るなら、この石を蹴ったら、柏の葉のように空に舞いあがれ。」
と言って、蹴りました。すると石は柏の葉のように大空に上がりました。そこからその石を踏石(ほみし)と名付けました。この時に祈った神は、志我の神、直入の物部の神、直入の中臣の神の三柱です。

11月に日向の国について、行宮を建てました。これを高屋宮と言います。

12月5日に熊襲攻撃を話し合いました。そこで天皇は群臣に、
「私は襲の国に厚鹿文(あつかや)・迮鹿文(さかや)と言う者がいると聞いている。この二人は熊襲の猛者であり、仲間も多い。この男たちを熊襲のヤソタケル(たくさんの猛者)と言っている。

強すぎて戦うには厳しい。こちらの兵士の数が少ないと敵には勝てない。しかし兵士を大勢動かせば、民の負担は大きい。何とかして武器に頼らず、平和裏に平定出来ないか。」
と言いました。

この時、一人の臣下が進んで言いました。
「熊襲タケルには二人の娘がいます。姉をイチフカヤ、妹をイチカヤと言います。美人です。また勇ましい心持ちです。豪華な品々を与えて、召し入れては如何でしょうか。そして親の消息を伺って弱点を突けば、刃に血を濡らさずに、敵は自然と敗れるでしょう。」
と。
天皇は「それはよい。」と言いました。

そこで、豪華な品々を見せて二人の娘を欺いて、召し入れました。
天皇はイチフカヤを召して、偽って寵愛しました。その時、イチフカヤは天皇に
「熊襲が従わないからと言って、心配しないでください。私によい案があります。兵士を一人ふたり私に付けてください。」と言いました。

そうして実家に帰って、強い酒を設けて、父親に飲ませました。父は酔って寝込みました。イチフカヤはこっそりと父の弓の弦を断ちました。その後、付いて来た兵士が熊襲タケルを殺しました。

天皇はその不孝のひどさを憎んでイチフカヤを殺しました。そして妹のイチカヤに火の国造を与えました。

13年夏5月に襲の国をすべて平定しました。こうして高屋宮に6年も住みました。その国に美人がいました。ミハカシ姫と言います。召して妃としました。豊国別皇子を生みました。この皇子は日向国造の始祖となりました。

ひとりごと
これは北部九州の話ですね。もう、この移動ルートは特定されているのでしょうか。いろんな角度からの情報をいただけたらいいな…。


◆現存する帝踏石はコチラ
「北九州のあれこれ」 
http://homepage2.nifty.com/kitaqare/tens15.htm


◆景行天皇の移動ルートの仮説はコチラ
「古 代 史 の 謎 を 解 く 旅 Ⅱ」
http://www.geocities.jp/oden1947/keiko371.html



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景行天皇(5)
筑紫巡幸

17年の春3月12日に、子湯(こゆ)の県(あがた)に行って、丹裳(にも)の小野に出かけました。その時、天皇は東の方を望み見て、側近に、
「この国は日が昇る方にまっすぐ向いているな。」
と言いました。そこで、その国を日向と言います。

この日、野中の大石に上って、京都をしのんで歌を詠みました。
  ああ、恋しい我が家の方から雲が湧いて流れてくるよ
  倭は国の中心の素晴らしい所 
  青々と重なった垣根のような山々に囲まれた倭はなんと美しい
  命があって 元気な人は 
  畳んだムシロのように重なり合った平群の山の
  白樫の枝を手折って 髪飾りにさせ この子よ
これを国しのび歌と言います。

18年の春3月に天皇は京に向かって筑紫の国を巡幸しました。はじめに夷守(ひなもり)に着きました。この時石瀬(いわせ)河のほとりに人々が集まっていました。天皇ははるか遠くから望み見て、側近に
「あの集まった人たちは何者だ。賊だろうか。」
と言いました。

そうして兄夷守(えひなもり)・弟夷守(おとひなもり)、二人に偵察させました。弟夷守が戻ってきて、
「諸県(もろかた)の君の泉姫が宴を献上しようと一族が集まっていました。」
と言いました。

夏4月3日に、熊の県(あがた)に着きました。そこには熊津彦の二人兄弟がいました。天皇はまず兄熊(えくま)を召しました。兄熊は使者に従ってやって来ました。次に弟熊を召しましたが、やって来ませんでした。そこで、兵を出して殺しました。

11日に海路から葦北の小島に停泊して食事をしました、その時、山部のアビコの祖の小左(おひだり)を召して、冷たい水を所望しました。しかし島の中には水はありませんでした。どうしようもありません。小左は天を仰いで、天神地祇に祈りました。すると、たちまち清水が崖のそばから湧き出ました。そこで水をくんで献上しました。これから島を水島と言います。その泉は今なお水島の崖に残っています。

5月1日に葦北から船を出して火の国に着いたのですが、日が暮れてしまい、暗くて岸部が分かりませんでした。遥かに火の光が見えました。
天皇は舵取りに、
「まっすぐ火を目指せ」と言いました。
そこでその火を目指して行って、岸に着く事が出来ました。天皇はその火の場所を尋ね、
「何というムラか。」と言いました。国の人が
「ここは八代の県の豊村です。」と言いました。
またその火について、
「これは誰が焚いた火か。」
と聞きましたが、誰なのか分かりませんでした。
結局、人が焚いた火ではないことが分かりました。こうして、その国を火の国と言うようになりました。

6月3日に高来の県から玉杵名のムラに渡りました。その時、土蜘蛛・津頬(つつら)を殺しました。

16日に阿蘇の国に着きました。その国は野が広く遠大で、人家がありませんでした。天皇は
「この国に人はいるのか。」
と言いました。その時、二柱の神が出て来ました。
阿蘇都彦・阿蘇都姫と言いました。たちまちに人間の姿を取って現れて、
「吾ら二人がいる。どうして人がいないことがあろうか。」
と言いました。この事から、その国を阿蘇と名付けました。



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                                    【日本書紀】
景行天皇(6)

筑後の国・日高見の国

秋7月4日に、筑紫後国の御木(みけ)に着いて、高田の行宮に滞在しました。そこに倒れた木がありました。長さは970丈。(1.7m×970=1649m)群臣はその木を踏んで往来しました。その時、誰かが歌を詠みました。
 朝霜が降りた 御木の小橋よ 
 群臣らは 渡ることよ 御木の小橋を
天皇は「これは何の木だ。」と尋ねました。

一人の老父が
「この木は歴木(くぬぎ)と言います。昔まだ倒れていない頃には、朝日が当たるとその影は杵島(きしま)の山に届き、夕日が当たると、阿蘇山に届きました。」と言いました。
天皇は「この木は神々しい木だ。これからはこの国を御木(みけ)の国と呼ぶがよい。」と言いました。

7日に八女の県(あがた)に着きました。藤山を越えて南の粟岬を望みました。天皇は
「あの山の峰々が重なってなんと美しいことか。ひょっとすると神がおわすのではないだろうか。」と言いました。

その時、水沼(みぬま)の県主(あがたぬし)・猿大海(さるおおみ)が、
「女神がおわします。名を八女津姫(やめつひめ)と言います。いつも山の中におわします。」
と奏上しました。八女(やめ)の国の名はこれから起こりました。

8月に的邑(いくはのむら)に着いて、食事をしました。この日、料理人たちはウキ(盃)を忘れました。そこでウキを忘れた所を浮羽と呼ぶようになりました。今、的(いくは)というのは訛りです。昔筑紫の人々はウキを浮羽と呼んでいたのです。

19年の秋9月20日に天皇は日向から着きました。
20年の春2月4日にイホノの皇女を遣わして、天照大御神を祭らせました。

25年の秋7月3日に武内宿禰を遣わして、北陸と東方の諸国の地形と人民の消息を視察させました。

27年の春2月12日に武内宿禰は東国から戻ってきて、
「東の田舎に日高見の国がありました。その国の人たちは男女とも、髪をツチのような形に結って、入れ墨をして勇ましい気性です。蝦夷(えみし)と言います。土地が肥えていて、広々としています。攻撃して手に入れるのがよろしいでしょう。」
と奏上しました。

秋8月に熊襲がまたそむいて辺境に侵入しました。

冬10月13日に日本武尊(やまとたける)を遣わして、熊襲を攻撃させました。この時16歳。日本武尊は
「私は弓が強い者を連れて行きたいと思います。そのような弓の名手はいないでしょうか。」
と言いました。ある者が答えました。
「美濃の国に弓の名手がいます。弟彦公(おとひこのきみ)と言います。」
と。そこで葛城の宮戸彦(みやとひこ)を遣わして、弟彦公を召しました。すると弟彦公は石占の横立(いしうらのよこたち)と尾張の田子の稲置(いなき)と乳近(ちぢか)の稲置を引き連れてやって来ました。そうして日本武尊に従って行きました。

現存している地名
緑字の地名は福岡県の筑後地方に、記載通りの地名が残っています。
御木=三池 歴木(くぬぎ) 水沼=三瀦 藤山 八女 浮羽
歴木とは石炭の事で、三池炭鉱は有名ですね。

高田の行宮もどなたかご存知の方ありませんか。



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景行天皇(7)
日本武尊の熊襲攻撃


日本武尊は12月に熊襲国に着きました。そして、国の様子や地形を観察しました。当時、熊襲には魁帥(たける)という者がいました。名前を取石鹿文(とろしかや)、別名川上梟帥(かわかみのたける)と言いました。ちょうど親族が集まって、宴をしようとしていました。

そこで日本武尊は髪を解いて乙女の姿になって、ひそかに川上梟帥の宴の時を伺いました。剣を衣の内に佩(は)いて宴の家に入り、女たちの中に紛れ込みました。

川上梟帥はその乙女が美しいのが気に入って、手を取って横に座らせ、杯を取って飲ませて、戯れました。そうして夜が更けて人もまばらになりました。川上梟帥は酔っ払っていました。

日本武尊は衣の中から剣を抜き出して、川上梟帥の胸を刺しました。川上梟帥は息を引き取る前に、頼んで言いました。
「ちょっと待って下さい。言いたい事があります。」
日本武尊は剣を途中で止めて待ちました。
川上梟帥は
「あなたはどなたですか。」と尋ねました。
「私は大足彦(おおたらしひこ)天皇の御子である。名は日本童男(やまとおぐな)と言う。」と日本武尊は答えました。

川上梟帥は言いました。
「私は国中で力ある者です。私の威力に勝るものはいず、従わないと言う者はいません。私は何度も武力で戦ってきたけれども、皇子のような人にはあった事がありません。私のような賤しいものが、いやしい口で尊号を奉ります。聞き届けてくださいますか。」

「よかろう。」
「これから先、日本武皇子(やまとたけるのみこ)と名乗って下さい。」
言い終わると、日本武尊は胸を突き通して殺しました。今に至るまでも、日本武尊と称えて呼ぶのはこれが由縁です。

この後、弟彦たちを遣わして、ことごとくその一党を斬らせました。生き残る者はいません。

こうして海路で倭に向かって吉備を通って穴海を渡りました。そこには荒ぶる神がいました。すぐに殺しました。また難波では柏済(かしわのわたり)の荒ぶる神を殺しました。

28年の春2月1日に、日本武尊は熊襲を平定した状況を奏上して、
「私は天皇の神霊のおかげで、兵士を挙げて、熊襲の首長を殺して、その国を平定しました。こうして西洲(にしのくに)は鎮まりました。人民は無事です。ただ吉備の穴済の神と難波の柏済の神たちだけは有害で、道行く人々を苦しめていて、悪人がおおぜい集まっていたので、を殺して、水陸の安全な道を開きました。」
と言いました。
天皇をそれを聞いて、日本武の功績を褒め讃え、格別に寵愛しました。


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景行天皇(8)
蝦夷反乱


景行40年の夏6月に東の国々が多くそむいて、辺境が騒がしくなりました。
秋7月16日に天皇は群臣たちに、
「今、東国が安泰でなくなり、荒ぶる神が大勢立ち上がっている。その中でも蝦夷(えみし)が特にそむいていて、しばしば人民を略奪している。反乱を平定するのに誰を遣わしたら良いだろうか。」
と言いました。が、群臣たちは誰を派遣したらいいのか分かりませんでした。

すると日本武尊が奏上しました。
「私が先に西の方を征伐したので、今度は兄の大碓(おおうす)の皇子の仕事でしょう。」
と。しかし大碓の皇子は恐れて、草の中に隠れてしまいました。

天皇はすぐに使者を送って召しました。天皇は責めて、
「汝が望まない事を無理じいはしない。しかし、まだ敵と相対した訳でもないのに、はなから恐ろしがるのがひどすぎる。」
と言って、これが原因となって、美濃の国に封じました。大碓の皇子は勅命に従って封土に行きました。そして身毛津(むけつ)君守(もり)の君の二族の始祖となりました。

すると、日本武尊はオタケビを上げて、
「熊襲はすでに平定してまだ何年も経たないのに、今また東の夷が背いた。いつになったら太平になるのだ。私が苦労してでも、その乱れを平定しましょう。」
と言いました。

そこで、天皇は将軍としてのしるしの斧とまさかりを授けて言いました。
「東の夷は性格が荒々しくて強情だと聞いている。侵犯ばかりしている。村には長がいなくて、邑にも首長がいない。互いに境を侵し合って略奪し合っている。また山には邪神がいる。野には悪い鬼がいる。別れ道をさえぎり、道を塞いで、多くの人々を苦しめている。

その東の夷の中でも蝦夷は一番手強い。男女が交って住んでいて、子供の父親が誰か分からない。冬は穴に住み、夏はやぐらのような所に住んでいる。毛皮を衣にして血を飲んで、動物と区別がつかない。山に登るのは飛ぶ鳥のようで、草原を走るようすは逃げる獣のようだ。

恩恵を受けても忘れてしまう。恨み事があれば必ず報復する。矢は束ねた髪に入れて、太刀は衣の中に佩いている。仲間を集めては辺境を犯す。あるいは農作業中の人間を拉致していく。攻撃すれば草に隠れ、追えば山に入る。昔から今に至るまで、まだ王風に染まらない。

今こうして、そなたをあらためて見ると、背が高く身体は大きく、容貌は端正だ。力があって鼎を持ち上げることが出来る。猛々しさは雷電のようだ。向かう所敵はなく、攻撃すれば必ず勝つ。

そうか、姿形は我が子だが、中味は神人ではないか。これは、私に力量がなくて国が乱れるのを天がかなしんで、皇位継承を整えて宗廟が絶えないようになせる業か。

この天下はそなたの天下である。この位はそなたの位である。願わくば、先々の事も深く考えて計画して、悪い所を探り変化を見抜いて威力を示し、徳を持って懐柔して、軍卒を使わずに自然と従属するようにしむけよ。巧みな言葉を使って荒ぶる神を抑え、武を振るって悪い鬼たちを追い払ってしまうように。」
と言いました。

そこで、日本武尊は斧とまさかりを受け取って再拝して奏上しました。
「かつて西を討った年に、皇霊の威力を頂いて三尺剣を下げて熊襲国を討ちました。それほど時間もかからず、賊の長は罪に従いました。

今また天神地祇の霊力を頼り、天皇の威信を借りて、辺境に行って徳を示し、服従しないものがあれば兵を挙げて攻撃します。」
と言って、重ねて再拝しました。

天皇は吉備の武彦大伴の武日の連に命じて日本武尊の伴につかせました。またナナツカハギを料理人としました。冬10月2日に、日本武尊は出発しました。



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景行天皇(9)

日本武尊の死と白鳥


(日本武尊が蝦夷討伐に行くと、敵は戦わずに降服した。)

日本武尊はノボ野に着くと病気がひどくなりました。そこで捕虜にした蝦夷たちを神の宮(伊勢)に献上しました。それから吉備の武彦を遣わして天皇に奏上しました。

「私は帝から勅命を受けて、遠く東の夷を討ちました。神の恩寵と帝の威光のおかげで、そむく者は罪に従い、荒ぶる神たちはおのずから降服しました。鎧甲を脱ぎ、鉾を収めて、心安らかに帰還の途についています。早く帝に復命の御挨拶をしようと思って。

しかし天命が尽きてしまい、私には残された時間が無くなりました。独り荒れ野に臥しています。誰と話す事もありません。この身が滅ぶのが残念でしかたがありません。もう帝にお会いできないのが哀しくてしかたありません。」
そうしてノボ野で亡くなりました。この時30歳でした。

天皇はそれを知って、寝ても覚めてもいたたまれず、食事をしても味がせず、昼も夜もむせび泣いて悲しみました。
「我が子、小碓の王よ。昔熊襲が背いた時には、まだアゲマキの髪を結う年にもならなかったのに長い戦いに出かけ、戻って来てからは私の側にいて力になってくれた。

しかし東の蝦夷たちが騒がしくなって、征伐に行く者がいなかった。大事な子供なのに賊との境に行かせてしまった。

一日たりとて、思わぬ日はなかった。もうそろそろ還って来る頃だと朝夕心待ちにしていたのに。いったい何の災いや罪があって、思いがけず愛する者を失くさなければならないのだ。これから先はいったい誰とまつりごとをすればいい。」
と嘆いて言いました。

それから群臣・百寮に命じて伊勢の国のノボ野の陵に埋葬しました。この時、日本武尊は白鳥となって陵から飛んで、倭国を指して飛びました。群臣たちが棺を開けて見ると、衣だけが残っていて遺体はありませんでした。

そこで帝は使者を遣わして白鳥を追わせました。すると倭の琴弾の原にいました。今度はそこに陵を作りました。白鳥はまた飛び立って河内に行って、旧市(ふるいち)の邑に留まりました。またそこに陵を作りました。

このために時の人はこの三つの陵を名付けて、白鳥陵と言いました。しかし、白鳥はついに高く飛翔して天に昇りました。そのために衣冠だけを棺に納めました。そして功績を伝える為に武部(たけるべ)を定めました。この年、景行43年でした。


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景行天皇(10)

蝦夷その後
 

51年の春、正月7日に天皇は群臣を召して、宴を数日催しました。この時、皇子の稚足彦尊(わかたらしひこ)と武内宿禰は宴の庭に出て来ませんでした。

天皇が召して、その訳を尋ねると、
「このような宴の日には群臣百寮は必ず宴の遊びの方に心が行って、国家の事がおろそかになります。もし狂った人がいて宮の垣根の隙を狙いでもしたらと思い、門の所で非常に備えていました。」
と二人は答えました。

これを聞いて天皇は「もっともな事だ。」と言って、二人を格別に可愛がりました。

秋8月4日に、稚足彦尊を立てて、皇太子としました。この日、武内宿禰を棟梁(むねはり)の大臣に任命しました。

さて、前述の日本武尊の佩(は)いていた草薙の剣は、今は尾張の国の年魚市(あゆち)の郡(こおり)の熱田社にあります。

またこの頃、伊勢神宮に献上した蝦夷たちは昼夜大声で騒いで、礼節なく出入りしていました。倭姫(やまとひめ)は、「この蝦夷たちを神宮に近づけてはならない。」と言って、朝廷に送りました。

そこで、御諸山(みもろやま=三輪山)の麓に住まわせました。するとまもなく神山の木を切って、隣里には大声で呼ばわって、人民がおびえました。

天皇はそれを聞いて、群臣に
「神の山の麓に住まわせた例の蝦夷は、もともと獣のような心持ちなので、国の中には住まわせられない。向こうが望むように郊外に住まわせよ。」
と言いました。

これが今の播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の五つの国の佐伯部の祖となりました。




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景行天皇(11)

日本武尊の系図

日本武尊ははじめに両道入姫(ふたぢのいりひめ)の皇女(ひめみこ)を娶って妃とし、稲依別王(いなよりわけのみこ)、足仲彦(たらしなかつひこ)天皇(仲哀天皇)、布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)、稚武王(わかたけのみこ)が生まれました。
この中の第一子の稲依別王は犬上の君、武部の君の二つの族の始祖です。

日本武尊は又、吉備の武彦の娘、吉備の穴戸の武姫を妃として、武卵王(たけかひごのみこ)と十城別王(とおきわけのみこ)が生まれました。
兄の武卵王は讃岐の綾の君の始祖です。弟の十城別王は伊予別君の始祖です。

また次の妃の穂積氏の忍山の宿禰の娘の弟橘姫稚武彦王を生みました。

52年の夏5月4日に景行天皇の皇后の播磨の太郎姫(おおいらつめ)が亡くなりました。
(太郎姫は日本武尊の生母)
秋7月7日に八坂入媛命を皇后としました。

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次の二人は神功皇后の三韓攻撃の帰りに、それぞれ唐津市と平戸市に警備の為に残されて、
祭神として祀られています。

稚武王 ⇒ 唐津市呼子加部島 田島神社 祭神
十城別王 ⇒ 平戸市 志志岐神社

詳しくは 『ひもろぎ逍遥』志式神社(5)
哀しき神々たち 三良天神と志志岐三神 に書いています。
http://lunabura.exblog.jp/13130472/


十城別命の太刀が平戸城に展示されています。
環頭の太刀(国指定文化財、亀岡神社所蔵、平戸城天守閣)
柄頭を環状にまるめ、水牛の角の鍔、竹を馬革で包んだ鞘を持つ93㎝の鉄製直刀。
神功皇后の朝鮮出兵当時の武将の刀であったと伝えられています。志志岐神社祭神である十城別命(ときわけのみこと)は、日本武尊の御子であり、仲哀天皇の弟。

平戸観光再発見
http://www.hirado-net.com/history/cate01_02.php
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景行天皇(12)
崩御まで

53年の秋8月1日に、天皇は群臣に向かって、
「私が愛した子をいつになったら忘れられるのだろうか。願わくは、小碓の王が平定した国を巡行してみたい。」と言いました。

この月に天皇は伊勢に行き、転じて東海に行きました。
冬10月に上総の国に着いて、海路で淡水門(あわのみなと)を渡りました。この時、覚賀鳥(かくかのとり)の声が聞こえて来ました。その鳥の姿を見ようと思い、海の中に入りました。そこで白蛤(うむき)を見つけました。

そこで、膳臣(かしわのおみ)の遠祖、名は磐鹿六雁(いわかむつかり)が蒲(がま)をタスキにして、白蛤を刺身にして出しました。その六雁臣の技を褒めて、膳大伴部(かしわでのおおともべ)の長官にしました。

12月に東国から戻ってきて、伊勢に滞在しました。そこを綺宮(かにはたのみや)と言います。
54年秋9月19日に伊勢から倭に戻って、纒向宮(まきむくのみや)に住みました。

55年春2月5日に、彦狭島王(ひこさしまのみこ)を東山道の15国の都督に任じました。彦狭島王は豊城命(とよきのみこと)の孫です。王は春日の穴咋邑(あなくいのむら)に着いた所で病気になって亡くなりました。この時、東国の人民は彦狭島王が自分たちの所まで来られなかった事を悲しんで、ひそかに王の遺骸を盗んで上野国(かみつけのくに)に埋葬しました。

56年の秋8月に天皇は御諸別王(みもろわけのみこ)に、
「そなたの父、彦狭島王は任地に着かずに亡くなってしまった。だから、そなたが東国を治めなさい。」
と言いました。そこで、御諸別王は天皇の命を受けて、父の後を引き継ぎ、当地で善政を行いました。

この時、蝦夷が騒ぎました。すぐに兵を挙げて攻撃しました。蝦夷の首長の足振辺(あしふりべ)と大羽振辺(おおはふりべ)と遠津闇男辺(とおつくらおべ)たちが頭を下げてやって来ました。おがんで罪を受けて自分の土地を献上しました。そこで降伏する者は許して、服従しないものは討ちました。こうして、東国は久しく無事に治まりました。その子孫は今も東国にいます。

57年の秋9月に坂手の池を造りました。その時、竹を堤の上に植えました。
冬10月に諸国に命じて田部屯倉(みやけ)を興しました。
58年春2月11日に近江の国に行幸して志賀に3年留まりました。これを高穴穂宮と言います。
60年の冬11月7日に天皇は高穴穂宮で亡くなりました。御年106歳でした。

                                   (終)



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