武内宿禰(6) 日本書紀版 香坂王と忍熊王


武内宿禰(6) 
日本書紀版
香坂王と忍熊王  

かごさか王とおしくま王


新羅を討った翌年の春2月に、神功皇后は群臣・百寮を率いて、穴門の豊浦の宮に遷りました。そこで仲哀天皇の亡骸を収めて、海路で京に出ました。

その時、香坂王忍熊王
「天皇が崩御された。また皇后が西を討って、あわせて皇子が新たに誕生された。」
と聞いて、密かに話し合って、
「今、皇后には御子がいる。群臣はみな従っている。必ず共に謀って、若き御子を天皇に立てるだろう。吾らは兄なのにどうして弟に従えるか。」と言いました。

そこで偽って、天皇の為に御陵を作るふりをして、播磨に行って、御稜を明石に興しました。こうして、船団を編んで、淡路島に渡して、その島の石を運んで造りました。

その時、人毎に武器を持たせて皇后を待ちました。犬上の君の祖、倉見別(くらみわけ)と吉師の祖のイサチの宿禰は共に香坂王に付きました。そこで将軍として東国の兵を興させました。

時に、香坂王と忍熊王は一緒にトガノに出て、うけひ狩り(占いの狩)をして言いました。
「もし、事が成就するならば、必ず良い獲物が手に入る」
と言いました。二人の王はおのおの仮の桟敷にいました。赤いイノシシが急に出て来て、桟敷に登って、香坂王を食い殺しました。軍勢はみな恐れました。

忍熊王は倉見別に言いました。
「この事は重要な験だ。ここで敵を待ってはならない。」と。
そこで軍勢を引いてさらに帰って、住吉に駐屯しました。

この時、神功皇后は忍熊王が軍勢を起こして、待っていると聞いて、武内宿禰に命じて、皇子を抱かせて、迂回して南海から出て、紀伊水門に停泊させました。皇后の船はまっすぐ難波を目指しました。

その時、皇后の船が海中でぐるぐる廻って、進めなくなりました。そこで務古水門に戻って占いをしました。すると、天照大神が教えました。
「我が荒魂を皇后に近づけてはならない。広田の国に祀りなさい。」と。
そこで山背の根子の娘、葉山姫に祀らせました。
またワカヒルメの尊が教えて言いました。
「吾は活田の長峡(いくたのながお)の国にいよう。」と。
そこで海上(うながみ)のイサチに祀らせました。

また事代主の尊が教えて言いました。
「私を長田の国に祀りなさい。」と。
そこで葉山姫の妹の長姫に祀らせました。
また、表筒男・中筒男・底筒男の三柱の神が教えて、
「吾が和魂(にぎみたま)を大津のヌナクラの長峡(ながお)に祀りなさい。
そこで往来する船を見守ろう。」と言いました。
こうして神の教えのままに鎮めて、無事に海を渡る事が出来ました。

忍熊王はまた軍勢を退却させて、ウヂに行って、軍勢を立て直しました。
皇后は南の紀伊の国に行って、皇子に日高で会いました。群臣と協議して、ついに忍熊王を攻撃するために、さらに小竹宮(しののみや)に遷りました。
                                      (略)


3月の丙申(ひのえさる)の朔庚子(かのえねー5日)に、武内宿禰と和邇(わに)の臣の祖・武振熊(たけふるくま)に命じて、数万の軍勢を率いて、忍熊王を討たせました。

そこで武内宿禰らは精兵を選んで、山背から出ました。ウヂについて、川の北に駐屯しました。忍熊王は陣営を出て戦おうとしました。その時熊の凝(こり)という者が忍熊王の軍勢の先鋒となりました。その時、自分の軍勢を奮い立たせようと思って、声高に歌を詠みました。

  かなたの あれ、あの松原 
  あの松原に 進んで行って、
  槻弓(つくゆみ)に 音の出る鏑矢(かぶらや)をつがえて、
  貴人は貴人どうし、 親友は親友どうし、さあ闘おう。
  我は 闘おう。 霊力が極まっているという 武内の朝臣と。
  腹の中は 小石だらけのやつさ。さあ、闘うぞ、我は。

その時、武内宿禰は大軍に命じて、全員に髪を椎(つち)のように結わせました。そして号令をかけて、
「おのおの、控えの弦を髪の中に収めて、また木刀を腰につけよ。」
と言いました。

そうして、皇后の仰せだ言って、忍熊王をだまして言いました。
「吾は天下を取ろうとは思っていません。ただ、幼い皇子を抱いて、君王(忍熊王)に従うだけです。どうして、戦おうなどと思うでしょうか。
願わくは、共に弦を絶って、武器を捨てて、ともに連合して和睦しようではないですか。
そうして、君王は皇位を継承して、その席に安心して座り、枕を高くして安んじて、よろずのまつりごとを専制なさるがよい。」と。

そう言うと、はっきりと分かるように、軍勢に命じて、全員に弓の弦を断ち切らせて、太刀をはずして、川に投げ入れさせました。
忍熊王はその偽りを信じて、自分の軍勢に命じて、武器をはずして川に投げ入れて、弓の弦を切らせました。

そうすると、武内宿禰は大軍に号令をかけて、髪に隠した弦を出して、再び弓に張って、真剣を付けさせました。そうして、川を渡って進軍しました。

忍熊王は騙された事が分かって、倉見別(くらみわけ)・イサチの宿禰に言いました。
「謀られた。もう、代わりの武器はない。どうして戦えようか。」
といって、軍を連れて少し退却しました。

武内宿禰は精兵を出して、追いかけました。ついに逢阪で対戦して、討ち破りました。それで、その地を名づけて逢坂と言います。
忍熊王の軍勢は逃げました。武内宿禰はささなみの栗林で追いついて、大勢を斬りました。
そこに血が流れて、栗林にあふれました。それで、縁起が悪いと言って、今に至るまで、この栗林の木の実は御所に献上しません。

忍熊王は逃げて隠れる所が無くなりました。そこでイサチの宿禰を呼んで、歌を詠みました。
  さあ、我が君、イサチの宿禰よ。
  霊力が極まった 内の朝臣の 
  頭槌(くぶつち)の太刀にやられて 痛手を負わないとするなら、
  ニホ鳥のように 水に潜るしかない。

こうして二人共に、瀬田の渡し場で身を投げて死にました。その時武内宿禰は歌を詠んで言いました。
  淡海の 瀬田の渡し場に 潜る鳥
  目には見えないので 本当に身を投げたかどうか分からなくて、
  溜息がでる。
そう言って、その遺体を探させたけれども、見つかりませんでした。こうして数日して、ウヂ川に出ました。武内宿禰はまた歌を詠んで言いました。
  淡海の 瀬田の渡し場に 潜る鳥
  田上を過ぎて ウヂで捕まえた。

冬10月の癸亥(みずのとゐ)の朔甲子(きのえねー2日)に、群臣は皇后を尊んで、
皇太后(おおきさき)と呼びました。この年、太歳辛巳(かのとみ)。摂政元年としました。

2年の冬11月の丁亥(ひのとゐ)の朔甲午(きのえうまー8日)に、仲哀天皇を河内の国の長野の陵に埋葬しました。

3年の春正月の丙戌(ひのえいぬ)の朔戊子(つちのえねー3日)にホムダワケの皇子を立てて、皇太子としました。そうして、磐余(いわれ)に都をつくりました。これを若桜の宮といいます。
                                           (略) 
                                          (つづく)

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by himeluna | 2010-08-05 18:29 | 武内宿禰(たけしうちのすくね) | Trackback | Comments(0)
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