武内宿禰(7)角鹿の笥飯の大神、新羅国、卓淳国、百済国
武内宿禰(7)
たけしうちのすくね
角鹿の笥飯の大神、新羅国、卓淳国、百済国
つぬがのけひの大神、しらぎ国、とくじゅん国、くだら国
神功摂政5年の春3月の癸卯(みずのとう)の朔己酉(つちのととりー7日)に、新羅の王はウレシホツ、モマリシチ、ホラモチたちを派遣して朝貢(ちょうこうー貢ぎ物をすること)しました。それは先に人質となった、ミシコチ伐旱(ほつかんー新羅の官位)を返してほしいという心情からでした。
新羅の使者たちはミシコチ伐旱に謀り事を教えて、欺かせて言わせました。
「使者のウレシホツとモマリシチたちが私めに言いました。
『新羅の王は、私めが久しく還らないので、妻や子供たちを皆捕えて奴婢としてしまった。』と。願わくば、しばらく本土に還って、真偽を確認したいのですが。」と。
皇太后(神功皇后)は許可しました。葛城の襲津彦(そつびこ)を付けて派遣しました。共に対馬に着いて、鉏海(さひのうみー対馬から朝鮮までの海域・諸説あり)の湊に泊まりました。
その時、新羅の使者のモマリシチたちが密かに船と水手(かこ)を手配して、ミシコチ旱岐(かんき)を乗せて新羅に逃がしました。その時、人形を作ってミシコチの布団の中に置いて、偽って病人のふりをさせて、襲津彦に言いました。
「ミチコチが急に病気になって死にそうです。」と。
襲津彦は人を送って病人を見に行かせました。そこで騙された事が分かって、新羅の使者三人を捕えて牢屋に入れて、火をつけて焼き殺しました。
そして、新羅に行って、蹈鞴津(たたらのつ)に行き、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰国しました。この時の捕虜たちは今の桑原、サビ、高宮、忍海(おしぬみ)たちの、四つの邑の漢人(あやひと)らの始祖です。
神功摂政13年の春2月の丁巳(ひのとみ)の朔甲子(きのえねー8日)に、神功皇太后は武内宿禰に命じて、太子に従って、角鹿(つぬが)の笥飯(けひ)の大神に参拝させました。
癸酉(みずのととりー17日)に太子は角鹿から帰って来ました。この日に、皇太后は太子の為に大殿で宴をしました。皇太后は酒をなみなみと注いだ杯をささげて、太子を祝福しました。そして、歌を詠みました。
この御酒は 私の作った御酒ではありません。
神酒の司、常世の国にいます
少御神(すくなみかみ)が 豊かであるように祝福し、
祝って踊りまわって、神祝いをして
祝い狂って 出来上がった御酒です。
残さず飲みたまえ。ささ。
武内宿禰は太子のために返歌をしました。
この御酒を 醸した人は その鼓を 臼のように立てて
歌いながら 醸したんだなあ。
この御酒の やたら 楽しさと言ったら。
さあ。
神功摂政46年の春3月の乙亥(きのとゐ)の朔(ついたち)の日に、斯摩(しま)の宿禰を卓淳(とくじゅん)国に派遣しました。卓淳の国王・マキム旱岐(かんき)が斯摩宿禰に話しました。
「甲子(きのえね)の年の7月の20日に、百済人(くだらびと)クテイ、ミツル、マクコの三人が我が国に来て言いました。
『百済の王が東の方に日本の貴い国がある事を聞いて、臣下を派遣して、その貴い国に朝貢させました。道を探し求めて、その国に着きました。もし、貴殿の国の臣下にも道を教えて通わせるなら、我が国王も深く貴殿をよろこばしく思います。』と。
それを聞いて、私(卓淳国王)はクテイたちに言いました。
「前から、東の国に貴い国がある事は聞いていた。しかし、通ったことがないので、道も分からない。ただ、海のかなた遠くで、波が険しい。大船に乗って、ようやく通う事が出来るだろう。もし湊があるとしても、船がなければどうして行く事ができようか。」と。
すると、クテイたちが言いました。
『それならば、すぐ今は通う事は出来ないでしょう。また帰国して船を準備しますから、その後に(便乗して)通うと良いでしょう。』
また念を押して言いました。
『もし、貴い国の使者が来る事があれば、必ず我が国に伝えたまえ。』とも。
そう言って帰国しました。」
その話を聞いて、斯摩宿禰は従者のニハヤと卓淳国の人、ワコの二人を百済国に派遣して、その王を慰労しました。時の王・百済の肖古(しょうこ)王は深く喜んで、手厚く待遇しました。
その時、五色の綾織の絹をそれぞれ一匹、また牛の角を張りつけた弓矢、合わせて鉄ののべ板40枚をニハヤに預けました。またすぐに宝の蔵を開けて、いろいろ珍しいものを見せて、
「我が国には献上物にしたい珍宝があります。貴国に献上しようと思っていても、道が分からない。志はあっても、かないませんでした。しかし、今、使者に預けて、献上します。」と言いました。
そこで、ニハヤがそれを受け取って、還って来て斯摩宿禰に話を伝えました。こうして、斯摩宿禰は卓淳国から帰国しました。
(注…百済人は日本へ朝貢したと、卓淳国では言っていましたが、自国では、ニハヤには道が分からなかったと言っています。矛盾しますがそのまま訳します。)
神功摂政47年の夏4月に、百済の王はクテイ、ミツル、マクコを日本に派遣して、朝貢しました。その時、新羅国の貢ぎ物の使者もクテイと共に参りました。
皇太后と太子・誉田別尊(ほむたわけのみこと)は大いに喜んで言いました。
「先の王の所望された国の人が今、来朝した。痛ましい事よ、天皇は亡くなってしまって、間に合わなかった。」と。群臣たちは皆涙を流しました。
このあと二つの国の貢物(みつぎもの)を調べました。すると、新羅の貢物には珍しいものが沢山ありました。百済の貢物は少なくて、賤しくてよくありませんでした。
そこで百済のクテイたちに尋ねました。
「百済の貢物は新羅に劣っているが、どうしてだろうか。」
答えて言いました。
「私たちは道に迷って、沙比(さひ)の新羅に着きました。すると新羅人は私たちを捕えて牢獄に入れました。三か月すると、殺そうとしました。
その時、私たちは天に向かって呪詛(じゅそ)しました。新羅人はその呪詛を恐れて殺せませんでした。しかし、私たちの持っていた貢物を奪って、自国の貢物としました。新羅の賤しいものを百済国の貢物とした上で、私たちに言いました。
『もし、これを取り違えてしまったら、帰国した時にお前たちを殺す。』と。
私たちは恐れて従うのみです。こうして、なんとか生きて日本の朝廷に来る事が出来ました。」と。
それを聞いて皇太后とホムタワケの尊は新羅の使者を責めて、天神に祈って言いました。
「誰を百済に派遣して、この話の真偽を確かめさせたらいいでしょうか。誰を新羅に派遣して、その罪を問えばいいでしょうか。」と。
そこで、天神が教えて言いました。
「武内宿禰に計画させよ。そして、千熊長彦(ちくまながひこ)を使者にすれば、まさに願いの通りになるだろう。」と。
こうして、千熊長彦を新羅に派遣して、責めると、百済の献上物を横取りしたのが分かりました。
(略)
神功摂政51年春3月に百済王はまたクテイを派遣して朝貢してきました。皇太后は皇太子と武内宿禰に、
「親しく何度もやって来る百済国は、人ではなく天が与えたような国です。貢いで来る物は珍しいものばかかりで、見たこともないものばかり。時を置かず、常に朝貢して来て大変喜ばしいことです。(私が死んだあとも)変わらず、厚く恩恵を与えるように。」
と言いました。
(略)(つづく)
(注…新羅からの朝貢も、二度目なのに仲哀天皇が所望した国が今やって来たと言っていて、矛盾があります。天皇の死後47年目という事です。)