武内宿禰(8)韓人の池・壱岐の真根子・名前の交換 

                                    【日本書紀】

武内宿禰(8)

たけしうちのすくね
韓人の池・壱岐の真根子・名前の交換 

〔応神天皇〕
応神天皇7年の秋9月に高麗人(こまびと)、百済人(くだらびと)、任那人(みまなびと)・新羅人が並んで来朝しました。その時、武内宿禰(すくね)に命じて、この韓人(からひと)たちを率いて、池を作らせました。その池は韓人の池と呼びます。
(略)
応神天皇9年の夏、4月に武内宿禰を筑紫に派遣して、百姓(豪族・人民たち)を監察させました。その留守の間、武内宿禰の異母弟の甘美内(うましうち)宿禰が、この兄を落とそうとして、天皇に讒言(ざんげん)しました。

「武内の宿禰は常に天下を取ろうと思っています。今聞いたのですが、筑紫に行って、密かにはかりごとをして、『筑紫を分裂させて、三韓の王を呼んで自分に従わせて、天下を取ろう』と言っているそうです。」と申し上げました。すると、応神天皇はすぐに使者を使わして、武内の宿禰を殺すように命じました。

武内の宿禰は嘆いて言いました。「私はもとより、二心(ふたごころ)は無く、忠義をつくして天皇にお仕えしていた。いったい何のわざわいなのか、罪もないのに死ねというのか。」と。

そこに壱岐直(いきのあたい)の祖の真根子(まねこ)という人がいました。その人は武内宿禰と見た目がそっくりでした。武内宿禰が罪もないのに空しく死ぬのを惜しんで、言いました。

「まさに、大臣は忠義の心で天皇に仕えています。はかりごとなど悪い考えがないのは、天下のすべてが知っています。願わくは、密かにここを去って、朝廷に参内して、自ら罪の無き事を弁明して、それから死んでも遅くはないでしょう。

また、誰からも『私めの姿かたちが大臣そっくりだ。』と言われます。だから、私めが大臣に代わって死んで、大臣の清らかな心を明かしましょう。」
と言って、即座に剣で自分を刺して亡くなりました。

武内宿禰はひとり大変悲しんで、密かに筑紫を去って、船に乗って、南海を廻って、紀水門(きのみなと)に泊まりました。ようやく帝に面会を許されて、罪のない事を弁明しました。

応神天皇は武内宿禰と甘美内宿禰の言い分の食い違いを尋ねました。すると、二人は自分の言い分を変えずに争いました。どちらが正しいのか決められませんでした。

そこで応神天皇は天地の神に誓わせて、探湯(くがたち)をさせました。(探湯とは熱湯に手を入れて、ただれた方を邪とする審判法)こうして、武内宿禰と甘美内宿禰は磯城(しき)川のほとりで、探湯をしました。武内宿禰が勝ちました。

すると、すぐに太刀を取って、甘美内の宿禰殴り倒して、ついには殺そうとしました。応神天皇は勅命を出して、許させて、武内宿禰の母方の紀の直(あたい)の奴婢にしました

〔仁徳天皇〕

武内宿禰の子供と仁徳天皇は同じ日に生まれたので名前を交換した。


仁徳天皇元年の春正月の丁丑(ひのとうし)の朔己卯(つちのとう―3日)に、オオサザキの尊が天皇に即位しました。応神天皇の皇后を尊んで、皇太后としました。仁徳天皇は難波に都を作りました。これを高津の宮といいます。

仁徳天皇は宮垣、室屋に漆喰を塗りませんでした。柱や梁などにも色を塗って飾らせませんでした。屋根にカヤを葺く時も、切り揃える事はありませんでした。それは、天皇個人の事で、人民が耕作したり、機織りをする時間を奪わないようにという配慮からでした。

始め、仁徳天皇が生れる日には、ミミズクが産殿に飛び込んできました。その翌朝、応神天皇は大臣・武内宿禰を召して「これは何のしるしだろうか。」と尋ねました。

大臣は「吉祥です。たまたま、私の妻が出産したのですが、ミソサザイが産屋に飛び込んできました。これまた不思議な事です。」と言いました。

この時天皇は言いました。
「今、我が子と大臣の子と、同じ日に生まれたとは。どちらも吉瑞があった。これは天の表(しるし)だ。思うに、その鳥の名を取り換えて、お互いの子に名付けて、後の世の契りとしよう。」と。

そこでミソサザイ(サザキ)の名前を太子(仁徳天皇)に付けて、オオサザキの皇子としました。ミミズクの名を大臣の子に付けて、ツクの宿禰としました。これは平群臣の始祖です。この年、太歳がありました。

雁の産卵
仁徳天皇50年の春3月の壬辰(みずのえたつ)の朔丙申(ひのえさるー5日)に、河内の人が奏上しました。
「茨田(まむた)の堤に雁が産卵しました。」と。

即日、使いをやって、確認させました。使者は「事実です。」と奏上しました。天皇は歌を詠んで武内宿禰に尋ねました。
  霊力が極まるという 武内宿禰よ
  そなたこそ世の長生き人 そなたこそは国の長生き人
  秋津島 倭(やまと)の国に 雁が産卵すると そなたは聞いた事がありますか。

武内宿禰が返歌をしました。
  国を治める わが大君よ。 なるほど なるほど 私にお尋ねになるのですね。
  秋津島 倭の国に 雁が産卵するとは 聞いた事がありません。


   日本書紀は以上です。   次回系図を出します。


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by himeluna | 2010-08-03 11:46 | 武内宿禰(たけしうちのすくね) | Trackback | Comments(6)
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Commented at 2010-08-22 00:22 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by himeluna at 2010-08-22 09:57
ええ、すごいですね。訳をしながら、いったいどこの話が分からないでいるのです。茨田なんですか。もちろん堤なんて、消滅しているんでしょうね。地名は生きた歴史ですから、それさえ消えるのは残念です。次世代の人には、まるで外国の話のように聞こえるでしょうね。いや、私にも、異国の話のようです。
よかったら、茨田は現在何と言う地名に変わったか教えてもらえますか?
Commented by ばぁば at 2010-08-22 15:23 x
教えていただけますか?
私の知る限り、茨田諸口(まったもろくち)、茨田徳庵(とくあん)という地名がありました。現在の地名は大阪市鶴見区諸口になっています。横に寝屋川が流れていて堤は無くなりましたが未だに堤防が続いています。野崎参りでも有名です。徳庵から四条畷、枚方、京都と水運で栄えたそうです。
Commented by himeluna at 2010-08-22 16:18
今地図を見ました。日本書紀の地名が特定できるなんて、楽しいですね。博多湾と大阪湾は、古代から深くつながっているので、いろんな点で、つながりがあるので、その一端でも味わえたら、嬉しいですよね。これからも、よろしくお願いします。
Commented by じゅんじゅん at 2010-08-25 21:11 x
ばあば、さん のおっしゃるようにそのあたりなんですが、一応補足させてください。
『延喜式内社 堤根神社』
大阪府門真市宮野町8-34
約1600年前、河内湖周辺を水害から守るため、仁徳天皇の命により茨田宿弥が旧淀川(古川)日本最古の堤防、茨田堤を築く。
この堤を守るため、茨田氏の先祖彦八井耳命(神武天皇の皇子)を守護神として奉祀したのが神社の起源である。
大阪市鶴見区に(茨田高校)があります。’中学校も、小学校も、、、
Commented by himeluna at 2010-08-26 09:08
さらに詳しい情報をありがとうございます。茨田と書いてまむたと詠ませるのも、人の名前からだったんですね。
彦八井耳命は神八井耳命と同じ人なのかなあ。
堤を守るために神社が作られたというのは、起源としてすごく分かりやすいですよね。また、地図を見なくては。ありがとうございます(^。^)
スペルボーン(Spellborn)