筑紫の朝倉橘広庭の宮で崩御

                                    【日本書紀】

斉明天皇(2)(皇極天皇)
生没(594~661)在位(655~661)

筑紫の朝倉橘広庭の宮


この年(斉明6年)、百済の為に新羅を討とうと決定して、すぐに駿河(するが)の国に命じて船を造らせました。船が出来上がって、続麻郊(おみの)に曳航していった時、その船が夜中に何故か前後(へとトモ)が入れ替わってしまいました。それを見た人々は敗戦の予兆だと思いました。

信濃の国では「蠅が群がって西に向かって巨坂(おおさか)を飛び越えた。その大きさは十人の広げた手で囲むほど。高さは天に届いた。」と言いました。これも救援軍が負ける前兆ではないかと噂しました。

童謡が歌われました。(意味は分かりませんー綾杉)
  まひらくつのくれつれをのへたをらふくのりかりが
  みわたとのりかみをのへたをらふくのりかりが
  甲子とわよとみをのへたをらふくのりかりが

斉明天皇7年の春1月6日に、天皇が乗船された船が西に行って、初めて海路に出ました。
8日に御船は岡山県大伯(おおく)の海を通りました。その時、大田姫皇女(おおたのひめみー中大兄皇子の娘で大海人皇子の妃)が女の子を出産しました。そこでその地名をとって大伯皇女(おおくのひめみこ)と名付けました。

14日に御船は伊予の熟田津(にぎたつ)の石湯行宮(いわゆのかりみや)に停泊しました。
3月25日に御船は航路に戻って那の大津に着きました。磐瀬行宮(いわせのかりみや)に住みました。天皇は名を改めて長津の宮とされました。

夏4月に百済の福信が使者を派遣し、手紙をたてまつって、百済の王子・余豊璋を返してほしいと願いました。(ある本には4月に天皇は朝倉の宮に遷宮されたといいます。)

5月9日に天皇は朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に遷宮されました。この時に朝倉神社の木を切り払って広庭宮を作ったために、神の怒りにふれて雷が落ちて、御殿を壊してしまいました。

また、この宮の中に鬼火が現れました。このせいで大舎人(とねり)や色々な近侍たちが大勢病気になって死にました。
23日に耽羅(たむら)国(済州島)が初めて王子アハギたちを人質として差し出しました。
6月に伊勢王(いせのおおきみ)が亡くなりました。
秋7月の24日に斉明天皇は朝倉宮で崩御されました。(68歳)

8月1日に皇太子・中大兄皇子は天皇の御遺体を磐瀬宮に移しました。この夜、朝倉山の上に鬼が出て、大笠を付けて、喪儀を見ていました。人々は怪しみました。

冬10月7日に天皇の喪船は海路で帰って行きました。途中の湊で皇太子が天皇をしのんで歌を詠みました。
 あなたの目が恋しい。
 こうして舟泊まりしていると、こんなに恋しいとは。
 あなたの目をもう一度見たい。
23日に天皇の喪船は難波に戻って来ました。 
11月7日に天皇の御遺体を飛鳥川原でモガリしました。9日までモガリをしました。

(日本世紀の本には、11月に福信が捕らえた唐人・続守言(しょくしゅげん)たちが筑紫についたという。ある本には、この年に百済の佐平・福信が献上した唐の捕虜106人、近江の国の墾田(はりた)に住まわせたという。その前年にすでに福信は唐の捕虜を献上したとも言っている。ここに異説を書いておく。定めよ。)

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7世紀の地図です。   (高句麗+百済)VS(唐+新羅)
この二年後に白村江の戦いがあります。
百済の福信が日本に来た時期が当時すでに幾つもの説が出てしまって分からなくなっています。
橘広庭宮は三か所ほど候補地が挙がっています。町は須川に石碑を立てています。
磐瀬宮(長津宮)は福岡市の高宮八幡宮付近だと言われています。
            福岡県那珂郡安徳村梶原です。
朝倉でのモガリの宮は朝倉市の恵蘇八幡宮・木の丸殿です。詳細は『ひもろぎ逍遥』に書いています。



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by himeluna | 2010-09-24 22:52 | 斉明天皇(皇極)35.37代 | Trackback | Comments(0)
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