ソツビコは新羅の攻撃を命ぜられる。

                                    【日本書紀】

葛城襲津彦(4)

ソツビコは新羅の攻撃を命ぜられる。
沙至比跪は新羅でなく、加羅国を攻撃する。


【神功皇后の巻】

神功摂政62年新羅が貢物をしませんでした。その年に襲津彦を派遣して、新羅を攻撃させました。

百済記によると、
壬午年に新羅は貴国(=日本)に仕えませんでした。貴国は沙至比跪(さちひこ)を派遣して討伐させました。新羅人は美女を二人飾り立てて湊に迎えに行かせました。沙至比跪はその美女を受けて、寝返りして加羅国を討伐しました。加羅の国王コホ旱岐(かんき)とコハククチ、アシュチ、コクサリ、イラマス、ニモンチたちは人民を連れて百済に逃げました。百済は手厚く待遇しました。

加羅の国王の妹のケデンチは大倭に行って、申し上げました。
天皇は沙至比跪(サチヒコ)を派遣して新羅の攻撃を命じました。それなのに、新羅の美女を与えられて、その命令を捨てて、攻撃しませんでした。寝返って、我が国を滅ぼしました。兄弟も人民も皆さすらっています。悲しみに耐えません。それを伝えに参りました。」
天皇は大変怒って、すぐにモクラコンシを派遣して軍勢を率いて、加羅に行って、その国を取り返したと伝えます。

ある本には
沙至比跪(サチヒコ)は天皇の怒りを知って、あえて表だって帰国しませんでした。そのまま潜伏しました。そのに仕えていました。比跪はひそかに使者を出して、天皇の怒りが解けているかどうか尋ねさせました。

妹はそこで、夢を見たことにして言いました。
「ゆうべの夢に沙至比跪が出て来ました。」
天皇は大変怒って言いました。
「比跪がどうして出て来たのだ。」。
妹は帝の言葉を伝えました。比跪は許されていない事を知って、石穴に入って死んだと言います。
※文脈を変えずに訳しています。日本書紀は襲津彦=沙至比跪として書いていると思われますが、襲津彦はこの先にも登場します。

※神功摂政62年は西暦262年。注によると、百済記の記述は壬午年で、382年と解釈されています。その差120年。

※加羅国は二つの可能性があるそうです。広義の加羅は任那地方全体をさして、狭義では「高霊」の加羅がある。地図の中央に赤字で「高霊」と表示しています。


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古代朝鮮の地図は、時代によって変遷があるのですが、確かめようがないので、
今回は「伽耶文化展」の本を参考にしました。
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by himeluna | 2010-12-06 21:49 | 葛城襲津彦かづらきそつひこ | Trackback | Comments(2)
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Commented by jumgon at 2010-11-28 22:38 x
倭と朝鮮半島としょっちゅう行き来してたのですね。
昔は「そんなの本当?」って疑ってましたが、この頃は実際にあったことだと思っています。
Commented by himeluna at 2010-11-29 11:11
全く同感です。日本書紀を訳していて、びっくりしました。遣唐使が大変だったのを聞いているので、殆ど交流がなかったのだと思っていたのですが、こんなに交流していたとは、思いがけなかったです。
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