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葛城襲津彦(7)謎と矛盾を考えました

                                    【日本書紀】

葛城襲津彦(7)

謎と矛盾を考えました

                   
サチヒコソツビコは別人だった。
文中に唐突に挿しこまれたサチヒコという人物。百済記から引用したという事ですが、サチヒコが死んだあとも、ソツビコは活躍していました。
二人の人生を比較すると、全く別人だという事が分かりました。

日本書紀の編者は、勘違いして挿入したようです。(後の人が挿入した可能性も)
その原因は、
    1、発音が似ている。
    2、どちらも新羅を討ちに行った。
    3、どちらも長らく帰って来なかった。
    4、どちらも天皇に近い人物である。
という共通点からのようです。
しかし、4については、サチヒコはが皇宮へ、ソツビコはを天皇へ嫁がせています。
ソツビコには姉がいます。妹がいないとは言い切れないのですが、ソツビコの娘に生まれた男の子のうち三人までも天皇にしています。天皇家の外戚として、まさしくこの事件の中枢にいる人です。新羅の美女二人ぐらいでは裏切る事はないですね。

※日本書紀の編集のプロセスを考えました
日本書紀の編者が何冊もの歴史書を付き合わせながら、まとめていったのが、よく分かる部分でした。書いてある通りに西暦200年代だとすると、倭国は100国あったのが30国に統合された時代で、その中の数国には歴史書を編纂する力があったと思われます。

ヤマト統一後の編者はそれら歴史書を手に入れて、30国が1国になるまでの記事の編纂に大変苦労したと思われます。が、上手く行かず、竹内宿禰は300歳となり、仲哀天皇も100歳で即位となりました。(訳していて、200年代の話がいつの間にか400年代になっていて、オドロキ。)

今回、竹内宿禰の子供の葛城襲津彦の兄弟たちの流れを追ってみると、竹内宿禰と同じように年を取っている事が分かったので、このままでは、み~んな数100歳になりそうです。

その原因を考えて見ると、竹内宿禰系の歴史書とか、仁徳天皇系の歴史書があって、それを付き合わせた時に、無理をしたのではないかと思いました。
合体された歴史書を元の数冊に戻せたら、面白いだろうになあ。

※神功皇后の4~5世紀説が出た原因について
資料や本を読んでいると神功皇后の三韓征伐あるいは新羅征伐という事件が4~5世紀の話であるという説がよく見られます。

日本書紀では200年から数年後の話のように書いてあるのに、どうして4世紀と書く人がいるのだろうかと、謎に思っていたのですが、韓国や中国の歴史書と付き合わせて、「トキ王が405年」とあるからだろうなと思いました。あるいは「サチヒコの382年説」から来たのかもしれません。

年代は、まだよく分かりません。真鍋大覚氏の計算では、200年代説です。(主な理由は、神功皇后が3回も大歳をした天文現象を計算した結果です。この大歳については『ひもろぎ逍遥』の「高良大社(4)」にチラリと書いてます。)

                     (つづく)


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