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福岡県の葛城・平群・曽我・古代早良郡の地図

                                    【日本書紀】

葛城襲津彦(8)

福岡県の葛城・平群・曽我
(今回は、福岡県の古代の地名の資料です。)


※簡単に朝鮮半島と往来していた
訳をしていて思ったのは、ソツビコたちに大変機動性がある事です。軍はもちろん、弓月の君王の妹なども日韓を簡単に往来しています。ですから、この話の舞台は、福岡市の早良区や西区を中心とした話ではないかと思うようになりました。
当時の朝鮮半島への航路は唐津経由か志賀島経由でした。

和名類聚抄』によると、福岡市西部を中心に平群曾我、額田、田部などがあった事が書いてあります。大和地方と似た構成です。ですから、渡来人たちは福岡市にまず、拠点を置いて、それから大和地方に移動したと考えるのがナチュラルです。そうすると、どちらにも平群などがある理由が分かります。


※『和名抄』に早良郡に平群や曽我があった事が書いてあった。
「早良郡」ウィキペディアより (早良郡で検索すると出て来ます。)
『和名類聚抄』によれば、毘伊(ひい、現在の城南区樋井川付近)、能解(のけ、現在の福岡市早良区野芥付近)、額田(ぬかだ、現在の西区野方付近)、早良(さわら、現在の城南区鳥飼付近)、平群(へぐり、現在の早良区羽根戸から金武付近)、田部(たべ、現在の早良区小田部付近)、曽我の7郷があったとされる。

※真鍋大覚氏による伝承

『儺の国の星・拾遺』
p244
筑紫で孝元帝(前214~158)から清寧帝(480~484)の間に玄界灘の交易を掌握していた平群は近東系の出であって、月氏のササンの子孫であったと思われる。筑前早良の由来は「ささのあまのはら」で、平群氏が百済人をここに租界させた。
p245
昔、祖先に「かひ」と「とひ」の二つの氏族があった。「かひ」とは夏至を元日とする氏族であり、「とひ」は冬至を元日とする氏族であった。かすかな口伝ではあるが、平群氏は望旦夏至に固執し、曾我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる。

皇極帝(645)年はまさに暦法の採否をめぐって中大江皇子の激烈な論争と対決が背景にあったことを心得なければならない。
「そが」は素娥と書き、月の東洋的異称であった。これに対して、「へぐり」は平群と書き、月の西洋的異称であった。

和名抄には筑前国早良郡の条に、まだ平群、蘇我の郷名が記録されているが、今はない。
所は脇山であって、改名の由来は文書にはない。月を女人に事寄せる泰西の民族の伝統に「わき」なる異邦人の租界の古称を重ねて作り上げたものと古老は語っていた。
賀茂の氏族は日本の開拓者であった。刀剣の類を作り上げるよりも、むしろ百姓の鋤鍬の方を主としていた。北方系の胡人であった。

『儺の国の星』
p155 
早良戸栗(へぐり)は、かつての平群氏の故郷であった。
p196
大和の笠置の山々の名は、筑紫の葛城から神功皇后(201~269)の御宇に遷したものと伝えられる。葛城の峰は香椎宮から太宰府の東の空に連なる。

葛城氏竈門山系と水縄山系を領有して南方貿易を独占していたのに対し、平群氏背振山系と志摩山系を治めて北方貿易を掌握していました。せふりの語源は「へぐり」に在ったと語られますが、日繰(ひぐり)すなわち天文暦法の家系を示す古語であります。

香椎宮から太宰府の東の峰は犬鳴連峰の事でしょうか。
水縄=耳納
ウィキペディアと眞鍋氏を合せて解釈して地図を描いてみました。

福岡県の葛城・平群・曽我・古代早良郡の地図_c0213541_21321536.jpg

なお、「賀茂」が野芥の北にあります。

大和にこれと重なる構成の地名があるのは教科書で学びます。
葛城襲津彦は筑紫の出身で、大和に移住したものと考えると、うまくいきそうです。
それに前後して、多くの氏族の移住もあったのでしょう。
父親の「竹内(つくしうち)の宿禰」は「筑紫の内の宿禰」と考えました。

※日本書紀中の的(いくは)臣について
ソツビコの子孫が的(いくは)臣です。阿藝那臣も子孫です。藝の字は曇の写し間違いだと思いました。安曇那臣が正しいと思います。的臣は福岡の筑後川流域・浮羽(うきは)で、阿曇那臣は福岡市です。



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