ニギハヤヒ(4)長髄彦は防戦に成功したが、敵軍は再び攻撃して来た。

                                    【日本書紀】
饒速日命(4)

 長髄彦は防戦に成功したが、敵軍は再び攻撃して来た。  

〔神武天皇の巻のつづき〕

イワレビコ命(天皇)たちは、速吸の門、宇佐、岡の水門、安芸の国、吉備の国、難波を経て、河内の国草香邑の白肩の津に至った。

夏4月9日にイワレビコ命の軍勢は武器と馬をととのえて、歩いて竜田に向かいました。しかし、その道は狭く険しく、並んで行く事が出来ませんでした。いったん戻って、さらに東の肝駒(いこま)山を越えて、中のクニに入ろうとしました。

それを長髄彦が聞いて、
「天神の御子たちがやって来るのは、きっと我が国を奪おうとしているのだろう。」
と言って、すぐに従えていた軍勢を決起させて、進路をさえぎって、クサカエの坂で対戦しました。流れ矢がイツセの命の肱脛(ひじはぎ)に当たりました。イワレビコ命の軍勢は進軍して戦う事が出来なくなりました。

イワレビコ命は憂いましたが、閃きを心に浮かべて言いました。
「私は日の神の子孫なのに、日に向かって敵を討ったのは天の道に逆らっていた。いったん退いて弱い事を神に示して、神々を祀って、背中に日の神の威光を背負ってお蔭をいただいて敵を襲うのがよい。こうすれば刃に血を塗る事もなく、必ず敵はおのずから敗れるだろう。」と。
皆、「もっともです。」と賛同しました。

そこで、軍勢に命じて、
「しばし留まる。進軍せず。」と言いました。すぐに軍勢を引いて、退却しました。敵は追って来ませんでした。退却して草香の津に着いて、楯を立てて雄たけびをしました。そこで改めて、その津を盾津と呼ぶようになりました。今蓼津(たでつ)というのは訛りです。
その後、イツセの命は傷が悪化して亡くなる。イワレビコ命は八咫烏を得て、エウカシ、エシキなど次々に討っていった。

12月4日にイワレビコ命の軍勢はついに長髄彦を攻撃しました。何度も交戦して、勝つ事が出来ませんでした。その時、急に空が陰って氷雨が降り出しました。すると、金色の神々しいトビが飛んで来て、イワレビコの弓のハズに止まりました。そのトビは稲光のように光り輝きました。

その為に、長髄彦の軍勢は皆まぶしさに目がくらんで戦えなくなりました。長髄とはムラの名前です。それを人の名前に付けていました。イワレビコ命の軍勢のトビの瑞祥が起こったので、時の人はトビのムラと名付けました。今、鳥見(とみ)というのは訛りです。

イワレビコの命はイツセの命がクサカエの戦いで矢に当たって亡くなった事を忘れず、恨み続けて、敵を殺そうと思っていました。

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by himeluna | 2010-12-21 20:03 | ニギハヤヒノ命(ホアカリ) | Trackback | Comments(9)
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Commented by とし at 2012-03-06 14:07 x
饒速日尊(にぎはやひのみこと)がなぜ長髄彦(ながすねひこ)を殺したのか、そして神武に褒められるか、ここのところが読解できれば、葦原の中国平定の物語はその全貌が見えて来ます。
Commented by himeluna at 2012-03-09 00:26
としさん、はじめまして。
貴HPの一部ですが拝見しました。
私はそちらの歴史が分からないので興味深く拝読しました。
竹内街道に黒山という地名があるのを見てびっくりです。
筑紫でも竹内と黒はセットなのです。
これからもよろしくお願いします。 ^^
Commented by 次左衛門 at 2012-03-30 11:30 x
初めまして。
豊玉姫の中に、青木繁の名が出てきましたので、書かせていただきます。9割冗談。1割本気です。御笑覧下さい。
昨年TVを見ていてふと思いついたことです。
“青木繁の、「わだつみのいろこの宮」、「黄泉比良坂」、「日本武尊」「大穴牟知命」など一連の神話系作品及び代表作「海の幸」は、青木が遠い祖先に思いを馳せて描いたものではないか、いや、青木はそこまで意識はしていなかった。青木の体に流れる遠い祖先、海人族の血がこれらの作品を描かせた。特に自分達の肖像を「海の幸」に描かせたのではないか”と言うことです。
理由も書きたいのですが字数の制限がありますので。
Commented by himeluna at 2012-03-31 14:19
次左衛門さん、はじめまして。
大作「海の幸」には青木繁の自画像が含まれていましたよね。
今、次左衛門さんの話を伺って思い出しました。
なるほど。
おっしゃるとおり、遠い祖先の記憶、あるいは魂の記憶が描かせたのでしょうね。
今までそんな風に考えた事もなかったのですが、とても魅力的な考えだと思います。

この狭いコメント欄、500字ほど書けるようです。
続編楽しみにしています。
Commented by 次左衛門 at 2012-04-02 08:06 x
himeluna様、ご覧頂き有難うございます。
青木と同郷の私にとって、青木の作品は身近にありました。
青木の作品は久留米の石橋美術館に多く所蔵されていますが、現在HPに掲載されているものは何故か数も少なく、画像も小さいので、(昔は大きな画像をUPしていました)、
青木繁-画像で検索してください。宜しければ、久留米においでになりませんか。
「海の幸」は実物の前に立つと、「意外に小さいな」と言う感じを受けます。しかし、何か魂に訴えかける様な力強さに圧倒されます。
中央の白い顔の人物は、愛人の福田タネです。全体的に力強い、荒々しい、粗いタッチで、絵の周辺部は未完成では、と思われる様な描き方ですが、この顔の辺りは詳細に書き込まれています。遠い記憶を辿るうちに、中央部からハッキリ見えて来た、とも感じられます。
この「海の幸」を始めとして、先に述べまして作品群、それに「自画像」、愛児の顔を描いた「幸彦」、福田タネを描いた「女の顔」等の他は、ほとんど見べき作品は無いと思います。
青木はこれらの作品を描くためだけに此の世に現れ、目的が終わったところで、さっさとあの世に戻って行った、と言う様な気がします。
Commented by 次左衛門 at 2012-04-02 08:37 x
久留米と言う内陸に生まれながら、彼の足跡をたどると、
房総半島の布良、天草、唐津、そして博多、と海辺の土地が多く、更に代表作「わだつみのいろこの宮」、「海の幸」の様に、青木には何故か“海”のイメージが付きまといます。
晩年、中央で受け入れられない悔しさを胸に、失意の内に久留米に戻ります。
「ひもろぎ逍遥」の中の大川風浪宮、大善寺玉垂宮、高良大社などを拝見し、久留米にも海人安曇族の影が色濃くあることを知りました。
先日、大川市の清力美術館を見学したついでに、風浪宮さんに御参し、阿曇磯良丸様にもお目にかかりまた。 
青木は清力酒造中村家(清力美術館の元の所有者)に作画を依頼されてしばらく大川に居候をしています。この時の作品「晩帰」には、もうあの力強さ、高い精神性は感じられません。
この滞在の間、青木は風浪宮を訪れたはずです。
あの阿曇磯良丸の木彫と対面して何を感じたでしょう。
青木を大川に呼び寄せたのは、中村家ではなく阿曇磯良丸だったのかもしれない、「海の幸」を描かせたのは阿曇族だったのではないでしょうか。
磯良丸は青木に感謝とねぎらいの気持ちを伝えたかったのでしょう。

Commented by 次左衛門 at 2012-04-02 09:04 x
青木は福岡市の松浦病院で最後を迎えます。
この松浦病院の場所は不明ですが、博多湾、志賀島が望める所ではなかったか、と想像します。
阿曇族が祀る少童命三神の生誕の地は、「筑紫の日向の小戸の橘の檍(あはき)原」とあり、この小戸は、福岡市のヨットハーバーが有るところだと思います。檍 (あはき)は、
(あほき)、青木かもしれません。
青木 繁は何かに導かれ先祖が生まれた地で生涯を閉じたのではないでしょうか。
次に続きます。
Commented by 次左衛門 at 2012-04-02 09:11 x
姉達に宛てた手紙、
「・・焼き残りたる骨灰は序の節、高良山の奥のケシケシ山の松樹の根に埋めて被下度、小生は彼の山のさみしき頂より思い出多き筑紫平野を眺めて、此の世の怨恨と呪詛とを捨てて静かに永遠の平安なる眠りに就く可く候・・」が遺書となりました。
文中の高良山の山腹に鎮座している高良大社御祭神の
玉垂命が誰なのか、昔より諸説があり、その中に
「日子穂穂手見命」説もあるそうです。「わだつみのいろこの宮」で樹上より下を見下ろしているあの美青年です。
そしてその奥(耳納山地を東へ入る)のケシケシ山からの
眺望は青木の言葉の通り、筑後川、筑紫平野が一望でき、視線を上げれば、その遠くの先には、大宰府、博多湾、志賀島そして玄界灘が広がっています。
ここには青木の歌碑が建てられています。
  “我が国は 筑紫の国や白日別
              母います国 櫨(はぜ)多き国”

 青木 繁に関しては次のページが良くまとめられています。
http://woodssite.net/syoujima/aoki.html



青木繁に関しては、次ペ-ジが良くまとめられています。
http://woodssite.net/syoujima/aoki.html

Commented by himeluna at 2012-04-03 18:22
素敵なお話ありがとうございます。
実は石橋美術館は何十回(多分)も足を運んだんですよ。
十歳になった頃からでしょうか。
だから、私の持つ色彩は青木や晩年の坂本繁二郎とか、黒田などから影響を受けたのだなと思ってるんです。
あの油絵の色です。

お話のどれもこれもが私の細胞にしみついています。
青木の歌は私の古代史への道しるべだったのかもしれません。
安曇磯良の故郷・志賀海神社では白い布を垂れた神として今なお祭事の中心です。
『ひもろぎ逍遥』に出しているので、その神秘的な姿をご覧ください。
高良山と志賀海神社は安曇磯良で結ばれています。

スペルボーン(Spellborn)