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蘇我の稲目(1)稲目は大臣となる

                                    【日本書紀】

蘇我の稲目(1)
そがのいなめ
稲目は大臣となる。

宣化天皇元年、春1月に都を檜隈(ひのくま)の廬入野(いほりの)に遷しました。それを宮の名としました。

2月1日に大伴の金村大連を大連(おおむらじ)とし、物部のアラカヒ大連を大連と、前任同様にしました。また蘇我の稲目宿禰を大臣(おおおみ)としました。阿部の大麻呂臣を大夫(まえつきみ)としました。

5月1日に宣化天皇の詔(みことのり)がありました。
「食糧は天下の根本である。黄金が万貫あっても、飢えを癒す事はできない。白玉が千箱あっても寒さを助けることは出来ない。

筑紫の国は遠近の国々が朝貢してくる所で、往来の関門にあたる所である。海外の国は海流を観測して来朝して賓客となり、空の雲を観察して朝貢して来る。

胎中天皇である応神天皇の時から私に至るまでに、稲モミを収蔵して、余剰米を蓄えている。凶作の年にそなえ、賓客を手厚くもてなす事ができる。国を安泰にするのに、これより優れた方法はない。

だから、私は阿蘇の君を遣わして、河内の国の茨田(まむた)郡の屯倉の稲モミを運ばせようと思う。蘇我大臣稲目の宿禰は、尾張連(おわりのむらじ)を遣わして、尾張の国の屯倉の稲モミを運ばせよ。

物部の大連アラカヒは新家(にいのみ)の連を遣わして、新家屯倉の稲モミを運ばせよ。阿部の臣伊賀の臣を遣わして、伊賀の国の屯倉の稲モミを運ばせよ。

宮家(みやけ)を那の津のほとりに作らせよ。また、かの筑紫・肥・豊の三つの国の屯倉は分散して遠いところにある。運んで移すのに遥かに隔たっている。もし使おうとしても、急に備える事が出来ない。諸郡に命じて、一部を分けて那の津のほとりに集めて、非常時に備えて、ひたすら人民の命とするように。急いで郡県に命じて、私の心を伝えよ。」

秋7月に物部アラカヒ大連は亡くなりました。この年太歳がありました。

宣化天皇2年。冬10月1日に、天皇は、新羅任那を攻撃したことを知って、大伴の金村大連に命じて、その子の(いわ)と狭手彦(さでひこ)を遣わして、任那を助けました。その時に磐は筑紫に留まって、その国の政治を行い、三韓に備えました。狭手彦は行って、任那を鎮圧し、また百済を救いました。

宣化天皇4年の春2月10日に、天皇は檜隈の廬入野(いおりの)の宮で崩御しました。73歳でした。


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