蘇我の稲目(4)百済王子・余昌と亡き王について語る

                                    【日本書紀】

蘇我の稲目(4)

百済王子・余昌と亡き王について語る

欽明天皇14年、秋7月4日、天皇は樟勾宮(くすのまがりのみや)に行幸しました。

蘇我の大臣の稲目の宿禰は勅命を受けて、王辰爾(おうじんに)を遣わして、船の関税を調べて記録させました。そして、王辰爾を船長(ふねのつかさ)とし、姓(かばね)を与えて船史(ふねのふびと)としました。今の船連(ふねのむらじ)の祖先です。

欽明天皇16年、春2月、百済の王子・余昌(よしょう)は弟の王子・恵(けい)を倭国に派遣して、
聖明王は敵に殺されました。」と奏上しました。(15年に新羅によって殺される。)
天皇はそれを聞いて悼みました。すぐに恵王子のいる津に使者を出して、慰労して許勢の臣に尋ねさせました。
「日本に留まられるか。または本国に戻られるおつもりか。」と。
恵王子は
「天皇の御徳を頂いて、願わくは、亡き父王の仇を討ちたいと思っています。もし憐れんで、兵器を沢山戴けるならば、恥をすすぎ、仇を討つのが私の願いです。私が日本に留まるかどうかは、仰せに従います。」答えました。

しばらくして、蘇我の臣が訪ねて来て、言いました。
「そなたの父、聖王は天の道、地のことわりを悟っていて、その名は四方八方に知れ渡っていた。思い起こせば、国の安定を保ち、日本の隣国を統治して、千年も万年も天皇にお仕えしようと思った人だった。

思ってもいなかった。こうして急に天に昇り、水のように流れ去って戻らず、暗い玄室に永遠の休みにつかれようとは。心が痛くてしかたがない。悲しくてしかたがない。心ある者なら皆悼まずにはいられない。

もしかしたら何かの咎(とが)があって、こんな災いを招いたのだろうか。今からどんな手段で国家を鎮めたらいいのだ。」

王子の恵が答えました。
「わたしめは知恵が足らず、神の大計も分かりません。ましてや、禍福の成り立ちや国家の存亡の事など。」と。

蘇我の卿(まえつきみ)は、
「むかし大泊瀬天皇(雄略天皇)の御世に、そなたの国、百済は高句麗に攻められて(南方に遷都し)、まるで積み重なった卵のように危うかった。

そこで、我が天皇は神祇官の長官に命じて、天地の神を敬って策を授けていただいた。
祝者(はふり)が神託を受けて報告したのは、『国を建てた神を謹んで勧請して、滅ぼうとする百済国王を救えば、必ず国家は治まって、人民は安らかになるであろう。』という事であった。

そこで天皇は神を勧請して、そちらに持って行かせて救われた。だから国は安泰になったのだ。その国を建てた神とは、天地が開けて別れた時、草木が物を言う時代に、天から降って国家を作った神だ。

この頃はそなたの国はうち捨てて祭っていないと聞く。まさに今、その過ちを悔い改めて、神の宮を修理して、神の御霊(みたま)をお祭りすればば、国は栄えるであろう。そなた、この事を忘れてはならないぞ。」と言いました。
(つづく)


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by himeluna | 2011-01-22 13:40 | 蘇我の稲目 | Trackback | Comments(2)
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Commented by じゅんじゅん at 2011-02-01 14:57 x
蘇我の稲目、もう(4)まで進んでいるのですか!ハイペースですね。
このあたり、百済との関係が不思議な時代ですね。
(1)の屯倉の記事も、具体的な歴史事実がわかっておもしろいです。
Commented by himeluna at 2011-02-01 16:15
そうなんです。百済や高句麗がばんばん出て来て、驚いてます。どうなってんの?と思って、ついつい訳が進みます。
スペルボーン(Spellborn)