蘇我の稲目(5)高句麗の捕虜の姫らを妻に貰い受ける

                                    【日本書紀】

蘇我の稲目(5)

高句麗の捕虜の姫らを妻に貰い受ける

欽明天皇16年、秋7月4日、天皇蘇我の大臣稲目の宿禰穂積の磐弓の臣らを派遣して、吉備の五つの郡(こおり)に白猪屯倉(しらいのみやけ)を設置させました。

欽明天皇17年、春1月に、百済の恵王子は帰国を願い出ました。そこで、天皇は兵器と良馬を沢山授けました。また多くの褒美を与え、人々は感嘆しました。

阿倍の臣、佐伯の連、播磨の直(あたい)を派遣して、筑紫の国の舟師(ふないくさ)を率いて、守りながら百済に送りました。

その時、特別に筑紫の火の君筑紫の君の子、火の中の君の弟)を派遣して、勇士1000人を率いて守らせて、ミテの津に送らせ、海路の要害の地を守らせました。

秋7月6日、蘇我の大臣稲目の宿禰らを備前の児島郡に派遣して、屯倉を設置させました。葛城の山田の直瑞子(みつこ)を監査役にしました。

冬10月に、蘇我の大臣稲目の宿禰を倭の国の武市の郡に派遣して、百済人の大身狭(おおむさ)の屯倉を、高句麗人の小身狭(おむさ)の屯倉を設置させました。紀の国には海部(あま)の屯倉を置きました。

欽明天皇23年8月に、天皇は大将軍大伴の連狭手彦(さでひこ)を派遣して、兵数万を率いて高句麗を討たせました。狭手彦は百済の計略を用いて、高句麗を打ち破りました。

その王は垣を越えて逃げました。狭手彦はついに勝って、宮殿に入り、珍しい宝物の数々と・七織物のカーテンと鉄屋(くろがねのいえー内容不明)を手に入れて帰還しました。(鉄屋は高句麗の西の高殿の上にあったもので、織物のカーテンは王の奥の部屋のものという)七織物のカーテンは天皇に献上しました。

甲二領、金細工の太刀二振り、彫刻を施した銅の鐘三つ、五色の幡二棹、美女姫(おみなひめ)に侍女の吾田子(あたこ)を付けて、蘇我の稲目の宿禰の大臣に送りました。大臣はその二人を召し入れて妻にして、軽の曲殿(まがりどの)に住まわせました。
(鉄屋は長安寺にあるが、どこの国にあるのかは分からない。)

欽明天皇31年の春3月の1日に、蘇我の大臣稲目の宿禰は亡くなりました。

ひとりごと
崇仏論争がどんなものか知りたくて、訳してみましたが、日本書紀には載ってないようです。何か他に史料があるのでしょうね。
稲目は仏教に帰依しながらも、日本の神への信仰も捨ててはいないように見受けられます。

彼の仕事は屯倉の設置や収税などがメインのようです。
稲目だけを拾ったのですが、途中、任那や新羅などの戦いが沢山描かれています。高句麗からの戦利品が天皇と稲目に送られた事から、彼はよほどの実力者だったんですね。孫たちが天皇になるのはもう少し先の事です。

鉄屋は何か分からないそうですが、簡単に移動できるものだという事が伺えます。長安寺の場所が分からなくなっていると、書いてありましたが、朝倉市に長安寺がありますが…。斉明天皇の朝倉広庭宮の跡地の候補地のそばだけど、関係ないかな…。お寺だから同じ名前があちこちにあるのでしょうね。



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by himeluna | 2011-01-21 16:23 | 蘇我の稲目 | Trackback | Comments(0)
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