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神功皇后(3)神託と天皇の崩御

                                    【日本書紀】

神功皇后(3)

神託と天皇の崩御

秋9月5日に、仲哀天皇群臣たちを召して、熊襲攻撃について協議させました。

その時、皇后に神が懸かって神託がありました。
「天皇よ、どうして熊襲が服従しないのを憂うのか。そこは例えれば、肉のついていない背中のように痩せた国であるぞ。兵を挙げて討つほどの国であろうか。

この国より宝がある国がある。例えれば、乙女の眉のように弧を描いた国で、我が国の津に向き合った所にある。眼もくらむ金・銀、美しい色が沢山その国にはある。その名をタクブスマ(タクの木の繊維で作った布団が白い、その白色の名を持つ)新羅の国という。

もし、われを良く祭れば、刃に血を塗る事なく、その国はおのずと降服するであろう。また熊襲も服従するであろう。われを祭るには、天皇の御船と穴門の直(あたい)ホムタチの献上した大田水田を供えよ。」と言いました。

天皇は神託を聞いて、疑いました。すぐに高い山に登って、はるかに大海を望みましたが、広々として国は見えません。天皇は神に答えました。

「私が見渡すと、海ばかりで国は有りませんでした。大空に国がある訳でもありますまい。どこの神が私をだまそうとしているのですか。もともと私の皇祖の諸天皇たちからずっと天地の神々を祭って来ました。どうして、それに漏れた神があるでのしょうか。」と。

すると、再び神が皇后に懸かって、
「天にある水鏡をのぞくように、われが天から下界を見ている国であるのに、どうして国が無いなぞと、私の言葉をそしるのだ。そなた天皇がそんな事を言って、最後まで信じなければ、そなたはその国を得る事は出来まい。ただ、皇后がようやく身ごもったので、その子が手に入れることになるであろう。」と言いました。

しかし天皇はやはり信じないで、強引に熊襲を攻撃しました。勝つ事が出来ないで戻って来ました。

仲哀9年春2月5日に、天皇は急に具合が悪くなり、翌日に崩御しました。おん年52歳でした。神の言葉を信じなかったために早く崩御したのでした。
(ある本には、天皇はみずから熊襲を攻撃して、敵の矢に当たって、亡くなったともいう。)

皇后と大臣の武内宿禰は天皇の崩御を隠して、天下に知らせませんでした。
皇后は大臣の武内宿禰と中臣の烏賊津の連(むらじ)、大三輪の大友主の君、物部のイクヒの連、大伴の武以(たけもつ)の連を召して、
「今、天下はまだ天皇の崩御を知らない。もし人民が知ったら、気を抜くのではないか。」と言って、すぐに四人の大夫(たいふ)に命じて百寮を統率して、宮中を守らせました。

そして、ひそかに天皇の遺体を船に収めて、武内宿禰に海路を穴門まで送らせました。こうして、豊浦宮でモガリをしました。秘密にするために、火を灯しませんでした。これをホナシアガリと言います。
22日に大臣の武内宿禰は穴門から戻って来て、皇后に報告しました。

この年は新羅の役のために天皇の葬儀は出来ませんでした。
                   (つづく)

仲哀天皇が登った高い山は、すぐ近くの立花山でしょうか。会議をしたのは伝承のある、新宮町の神木(=神議)でしょうか。我が国の津は、儺の津の事でしょう。

橿日の宮で仲哀天皇は急に亡くなりました。この場所は香椎宮の古宮です。
『ひもろぎ逍遥』では、この会議のメンバーを推測して、仲哀天皇の兄弟である十域別王、稚武王も加えましたが、この日本書紀によるとメンバーに入ってませんね。

確かに天皇が亡くなれば、すぐに兄弟のどちらかが即位しようとするはずなので、兄弟にも教えなかった可能性があります。この二人はそのまま出陣させて、帰りに遠い島にそれぞれ残したので、もしかしたら最後まで教えなかったのかも、とも思うようになりました。

天皇の亡骸を豊浦宮に船で移送する話について、実際にこの日程で出来るのかどうか、実験考古学の資料をもとに調べると、裏付けがとれました。
このあたりの話は『ひもろぎ逍遥』の次の所で書いています。

香椎宮

(Ⅰ) 古宮を訪ねて
(Ⅲ) 天皇の崩御をどうやって隠す?
志式神社
(Ⅴ) 哀しき神々たち 
三良(さぶろう)天神 と 志志岐(ししき)三神
新宮町の神功皇后伝説

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