神功皇后(12)摂政時代

                                    【日本書紀】

神功皇后(12)

摂政時代

冬10月2日に、群臣神功皇后を尊んで、皇太后(おおきさき)と呼びました。この年、太歳を辛巳(かのとみ)に催行し、摂政元年としました。
神功摂政2年の冬11月8日に、仲哀天皇を河内の国の長野の陵に埋葬しました。

3年の春正月3日にホムダワケの皇子を皇太子としました。そうして磐余(いわれ)に都をつくりました。これを若桜の宮といいます。       

5年の春3月7日に、新羅の王ウレシホツ、モマリシチ、ホラモチたちを派遣して朝貢しました。それは先に人質となった、ミシコチ伐旱(ほつかんー新羅の官位)を返してほしいという心情からでした。

新羅の使者たちはミシコチ伐旱に謀り事を教えて、欺かせて言わせました。
「使者のウレシホツとモマリシチたちが私めに言いました。
『新羅の王は、私めが久しく還らないので、妻や子供たちを皆捕えて奴婢としてしまった。』と。願わくは、しばらく本土に還って、真偽を確認したいのですが。」と。

皇太后(神功皇后)は許可しました。葛城の襲津彦(そつびこ)を付けて派遣しました。共に対馬に着いて、鉏海(さひのうみー対馬から朝鮮までの海域・諸説あり)の湊に泊まりました。

その時、新羅の使者のモマリシチたちは、密かに船と水手(かこ)を手配して、ミシコチ旱岐(かんき)を乗せて新羅に逃がしました。その時、人形を作ってミシコチの布団の中に置いて、偽って病人のふりをさせて、襲津彦に言いました。
「ミチコチが急に病気になって死にそうです。」と。

襲津彦は人を送って病人を見に行かせました。そこで騙された事が分かって、新羅の使者三人を捕えて牢屋に入れて、火をつけて焼き殺しました。そして新羅に行って、蹈鞴津(たたらのつ)に行き、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰国しました。この時の捕虜たちは今の桑原、サビ、高宮、忍海(おしぬみ)たちの、四つの邑の漢人(あやひと)らの始祖です。

13年の春2月8日、神功皇太后は武内宿禰に、皇太子に従って角鹿(つぬが)の笥飯(けひ)の大神に参拝するように命じました。
17日に皇太子は角鹿から帰って来ました。この日に、皇太后は太子の為に大殿で宴をしました。皇太后は酒をなみなみと注いだ杯をささげて、皇太子を祝福しました。そして、歌を詠みました。

  この御酒は 私の作った御酒ではありません。
  神酒の司、常世の国にいます 
  少御神(すくなみかみ)が 豊かであるように祝福し、
  長寿であるように祝福し、
  神祝いをして 祝い狂って 出来上がった御酒です。
  残さず飲みたまえ。ささ。

武内宿禰は皇太子に代わって返歌をしました。
  この御酒を 醸した人は 
  その鼓を 臼のように立てて
  歌いながら 醸したんだなあ。
  この御酒の やたら 楽しさと言ったら。
  さあ。

神功摂政39年。この年、太歳を己未(つちのとひつい)に催行しました。
「魏志」に曰く、明帝の景初の3年の6月、倭の女王が大夫・難斗米たちを派遣して、帯方郡に至り、天子に謁見を求めました。太守の鄧夏は役人を派遣して、魏の都洛陽に一行を行かせました。

40年。「魏志」に曰く、正始元年に建忠校尉・梯携たちを派遣して詔書と印綬を倭国に賜りました。

43年.「魏志」に曰く、正始4年、倭王は再び大夫の伊声者掖耶たちを派遣して朝貢しました。

46年の春3月1日に、斯摩(しま)の宿禰卓淳(とくじゅん)国に派遣しました。卓淳の国王・マキム旱岐(かんき)が斯摩宿禰に話しました。
「甲子(きのえね)の年の7月20日に、百済人(くだらびと)クテイ、ミツル、マクコの三人が我が国に来て言いました。

『百済の王が東の方に日本という貴い国がある事を聞いて、臣下を派遣して、その貴い国に朝貢させました。道を探し求めて、その国に着きました。もし、貴殿の国の臣下にも道を教えて通わせるなら、我が国王も深く貴殿をよろこばしく思います。』と。

それを聞いて、私(卓淳国王)はクテイたちに言いました。
「前から、東の国に貴い国がある事は聞いていた。しかし、通ったことがないので、道も分からない。ただ、海のかなた遠くにあって波が険しい。大船に乗るなら、何とか通う事が出来るだろう。もし湊があるとしても、船がなければどうして行く事ができようか。」と。

すると、クテイたちが言いました。
『それならば、すぐ今は通う事は出来ないでしょう。また帰国して船を準備しますから、その後に(便乗して)通うと良いでしょう。』
また念を押して言いました。
『もし、貴い国の使者が来る事があれば、必ず我が国に伝えたまえ。』とも。
そう言って帰国しました。」

その話を聞いて、斯摩宿禰は従者のニハヤと卓淳国の人、ワコの二人を百済国に派遣して、その王を慰労しました。時の王・百済の肖古(しょうこ)王は深く喜んで、手厚く待遇しました。

その時、五色の綾織の絹をそれぞれ一匹、また牛の角を張りつけた弓矢、合わせて鉄ののべ板40枚をニハヤに預けました。またすぐに宝の蔵を開けて、いろいろ珍しいものを見せて、
「我が国には献上物にしたい珍宝があります。貴国に献上しようと思っていても、道が分からない。志はあっても、かないませんでした。しかし、今、使者に預けて、献上します。」と言いました。

そこで、ニハヤはそれを受け取って、還って来て斯摩宿禰に話を伝えました。こうして、斯摩宿禰は卓淳国から帰国しました。

(注…百済人は日本へ朝貢したと、卓淳国では言っていましたが、自国では、ニハヤには道が分からなかったと言っています。矛盾しますがそのまま訳します。)

ひとりごと
この部分には有名な魏志倭人伝の記事に該当する文が挿入されています。
この事から、神功皇后=卑弥呼と解釈する人もいます。
卑弥呼の人生と神功皇后の人生を並べて比較すると全く別人物である事が分かります。
この挿入部分は、日本書紀の編者が神功皇后=卑弥呼としたかったからで、その為に
神功皇后の寿命を100歳にしたという説もあります。


韓国の弾琴台土城で鉄鋌が40枚出土した記事が新聞に載っていました。
時代は少し違いますが、40枚という数字が日本書紀のこの部分と一致することで、
興味深いものとなっています。
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(2011年3月24日 西日本新聞 写真・文は福岡大学教授 武末純一氏による)
記事は『ひもろぎ逍遥』「弾琴台土城」にて掲載
http://lunabura.exblog.jp/16245067/
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by himeluna | 2011-03-03 18:24 | 神功皇后(息長帯比賣命) | Trackback | Comments(3)
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Commented by jumgon at 2011-04-16 21:40
弾琴台土城の記事、わたしは知りませんでした。わたしがあまり新聞を見てなかったからでしょうか?
Commented by himeluna at 2011-04-16 22:52
多分、西日本新聞だけに掲載された可能性が高いと思います。
内容がとても興味深いので、切り抜き記事としてUPしたいなと思っています。(そうしないと紛失したら哀しい…。)
でも、ネットで「弾琴台土城」で検索すると、福岡大学の歴史研究会のブログが出て来て、武末純一氏が書いた記事が出て来ます。内容はほぼ新聞と同じです。
最近は情報が集まり過ぎて、整理が間に合いません。
Commented by 佐伯日菜子 奥大介 at 2013-06-13 19:33 x
小島義雄の腹筋を見て、お笑い芸人ではなく、本当はアスリートではないだろうかと、思ってしまう今日この頃です。
スペルボーン(Spellborn)