神功皇后(13)百済と連合して新羅に勝利す

                                    【日本書紀】

神功皇后(13)

百済と連合して新羅に勝利す
 
 
神功摂政47年の夏4月に、百済の王クテイ、ミツル、マクコを日本に派遣して朝貢しました。その時、新羅国の朝貢の使者もクテイと共に参りました。皇太后と太子・誉田別尊(ほむたわけのみこと)は大いに喜んで言いました。

先の王の所望された国の人が今、来朝した。痛ましい事よ、天皇は亡くなってしまって、間に合わなかった。」と。群臣たちは皆涙を流しました。

このあと二つの国の貢物(みつぎもの)を調べました。すると、新羅の貢物には珍しいものが沢山ありました。百済の貢物は少なくて、賤しくてよくありませんでした。そこで百済のクテイたちに尋ねました。
「百済の貢物は新羅に劣っているが、どうしてだろうか。」
答えて言いました。

「私たちは道に迷って、沙比(さひ)の新羅に着きました。すると新羅人は私たちを捕えて牢獄に入れました。三か月すると、殺そうとしました。その時、私たちは天に向かって呪詛(じゅそ)しました。新羅人はその呪詛を恐れて殺せませんでした。

しかし、私たちの持っていた貢物を奪って、自国の貢物としました。新羅の賤しいものを百済国の貢物とした上で、私たちに言いました。

『もし、これを取り違えてしまったら、帰国した時にお前たちを殺す。』と。私たちは恐れて従うのみです。こうして、なんとか生きて日本の朝廷に来る事が出来ました。」と。

それを聞いて皇太后とホムタワケの命は新羅の使者を責めて、天神に祈って言いました。
「誰を百済に派遣して、この話の真偽を確かめさせたらいいでしょうか。誰を新羅に派遣して、その罪を問えばいいでしょうか。」と。

そこで、天神が教えて言いました。
武内宿禰に計画させよ。そして、千熊長彦(ちくまながひこ)を使者にすれば、まさに願いの通りになるだろう。」と。こうして、千熊長彦を新羅に派遣して責めると、百済の献上物を横取りしたのが明らかになりました。     

49年の春3月に、荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)を将軍に任命しました。クテイたちと共に軍備を整えて、海を渡って卓淳国(とくじゅん)に行って、新羅を攻撃しようとしました。

その時、ある者が言いました。
「兵士が少なくては新羅を破ることはできません。サハクカフロに援軍を頼むのがよろしいかと。」
進言を受けて援軍を頼むと、百済のモクラコンシササナコは精兵を率いて、サハクとカフロと共に卓淳に集合して、新羅を攻撃して討ち破りました。

こうして、ヒシホ・南加羅・トクの国・安羅(あら)・多羅・卓淳(とくじゅん)・加羅、七つの国を平定しました。それから西の方に兵を移動させて、コケイの津に至って、南蛮のトムタレ(済州島)を討って百済に授けました。

それを受けて、百済王の肖古(しょうこ)とクウィス王子が軍勢を率いてやって来ました。その途中、ヒリ・ヘチュウ・ホムキ・ハンコの四つの邑は戦わずに降伏しました。

百済の王と王子は、荒田別・モクラコンシたちにオル村(ツルスキ)で会いました。互いに喜んで厚く礼を交わしました。

四人の中で千熊長彦と百済の王だけが百済国に行って、ヘキ山に登って誓いました。

またコサ山に登って一緒に岩の上に座りました。そして百済の王は、
「もし草を敷いて敷物としたら、火に焼かれる事もありましょう。
また木を組んで敷物としたら、水に流される事もありましょう。
こうして岩の上に座って誓うのは、永遠に朽ちることはないという事を示しています。

だからこの誓いは今からのち、千秋万歳に絶えることなく、終わることもないのです。
常に貴国の西蕃と称して、春秋に朝貢します。」
と言って誓いました。

それから千熊長彦を都に連れて行って、手厚く待遇しました。その後クテイたちを添えて千熊長彦を日本に送り届けました。

c0213541_21434988.jpg


c0213541_219724.gif



[PR]
by himeluna | 2011-03-02 12:48 | 神功皇后(息長帯比賣命) | Trackback | Comments(0)
トラックバックURL : http://himeluna.exblog.jp/tb/16238583
トラックバックする(会員専用) [ヘルプ]
※このブログはトラックバック承認制を適用しています。 ブログの持ち主が承認するまでトラックバックは表示されません。
スペルボーン(Spellborn)