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景行天皇(12)崩御まで

                                    【日本書紀】

景行天皇(12)
崩御まで

53年の秋8月1日に、天皇は群臣に向かって、
「私が愛した子をいつになったら忘れられるのだろうか。願わくは、小碓の王が平定した国を巡行してみたい。」と言いました。

この月に天皇は伊勢に行き、転じて東海に行きました。
冬10月に上総の国に着いて、海路で淡水門(あわのみなと)を渡りました。この時、覚賀鳥(かくかのとり)の声が聞こえて来ました。その鳥の姿を見ようと思い、海の中に入りました。そこで白蛤(うむき)を見つけました。

そこで、膳臣(かしわのおみ)の遠祖、名は磐鹿六雁(いわかむつかり)が蒲(がま)をタスキにして、白蛤を刺身にして出しました。その六雁臣の技を褒めて、膳大伴部(かしわでのおおともべ)の長官にしました。

12月に東国から戻ってきて、伊勢に滞在しました。そこを綺宮(かにはたのみや)と言います。
54年秋9月19日に伊勢から倭に戻って、纒向宮(まきむくのみや)に住みました。

55年春2月5日に、彦狭島王(ひこさしまのみこ)を東山道の15国の都督に任じました。彦狭島王は豊城命(とよきのみこと)の孫です。王は春日の穴咋邑(あなくいのむら)に着いた所で病気になって亡くなりました。この時、東国の人民は彦狭島王が自分たちの所まで来られなかった事を悲しんで、ひそかに王の遺骸を盗んで上野国(かみつけのくに)に埋葬しました。

56年の秋8月に天皇は御諸別王(みもろわけのみこ)に、
「そなたの父、彦狭島王は任地に着かずに亡くなってしまった。だから、そなたが東国を治めなさい。」
と言いました。そこで、御諸別王は天皇の命を受けて、父の後を引き継ぎ、当地で善政を行いました。

この時、蝦夷が騒ぎました。すぐに兵を挙げて攻撃しました。蝦夷の首長の足振辺(あしふりべ)と大羽振辺(おおはふりべ)と遠津闇男辺(とおつくらおべ)たちが頭を下げてやって来ました。おがんで罪を受けて自分の土地を献上しました。そこで降伏する者は許して、服従しないものは討ちました。こうして、東国は久しく無事に治まりました。その子孫は今も東国にいます。

57年の秋9月に坂手の池を造りました。その時、竹を堤の上に植えました。
冬10月に諸国に命じて田部屯倉(みやけ)を興しました。
58年春2月11日に近江の国に行幸して志賀に3年留まりました。これを高穴穂宮と言います。
60年の冬11月7日に天皇は高穴穂宮で亡くなりました。御年106歳でした。

                                   (終)



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