カテゴリ:磐井(いわい)と葛子( 1 )


筑紫の君・磐井と葛子
(いわい くずこ)


【古事記】

オホドの命(継体天皇)の御世に、
筑紫の君・石井(いわい)は天皇の命令に従わすに、無礼な事が多かったので、
物部の荒甲(もののべのあらかい)の大連(おおむらじ)と
大伴の金村(かなむら)の連二人を遣わして、石井を殺しました。

*古事記にはこれだけしか書いていなかったので、日本書紀も訳しました。

【日本書紀】

継体天皇21年の夏、6月の壬辰(みづのえたつ)の3日に近江の毛野(けな)の臣は6万の軍勢を率いて、任那(みまな)に行って、新羅に占領された南加羅(から)・トクコトンを取り返して任那に合併しようとしました。

この時、筑紫の国の造(みやつこ)磐井(いわい)は密かに背く計画を立て、協力せずに、ぐずぐずして年月が経ちました。実行が難しいので、つねにチャンスを伺っていました。

新羅はこれを知って、密かにワイロを磐井のもとに送って、勧めました。
「毛野(けな)の臣の軍勢を防ぎ止めてほしい。」と。

そこで、磐井は火の国、豊の国、二つの国に勢力を張りながら、朝廷の職務を遂行しませんでした。
外は海路を通って高麗(こま)・百済(くだら)・新羅・任那などの国からの、毎年の貢物(みつぎもの)を持ってくる船を自分の所に誘導し、内には任那に派遣した毛野臣の軍勢を遮って、無礼な言葉で、
「お前は、今は朝廷からの使者になっているが、昔は私の仲間として、肩を寄せ、肘をすり合わせて、同じ釜の飯を食ったではないか。どうして、急に使者になって、私にお前なんかに従えというのか。」
と言って、ついに戦って、受け入れませんでした。

磐井は奢り高ぶっていました。毛野の臣は前を遮られて、進軍できずに停滞しました。

継体天皇大伴の大連(おおむらじ)金村物部の大連アラカヒ
許勢(こせ)の大臣ヲヒトらに命じて言いました。
「筑紫の磐井が背いて、西の田舎の国を所有している。誰か将軍となって成敗する者は?」

大伴の大連らがみんなそろって言いました。
「まっすぐで勇敢で軍事に心得があるのは、物部のアラカヒの右に出る者はいません。」と。
天皇は「よかろう。」と言いました。

秋8月の辛卯の1日に命じました。
「大連(おおむらじ)よ、例の磐井が従わない。そなたが行って討て。」と。

物部のアラカヒの大連が、拝して言いました。
「そもそも磐井は西の田舎のずるくて悪賢いやつです。川が道を阻んでいるのを当てにして、朝廷に仕えず、
山が高いのを利用して、乱を起こしています。

臣下としての徳分がなく、道に背いています。あなどって、おごり高ぶり、自分は賢いと思っています。昔から、大伴家の祖の道臣(みちおみ)から、室屋(むろや)まで、帝を守って戦って来ました。民を苦しみから救う事は、祖先も私も同じです。天が助ける事をするのは、私めが重視する所です。謹んでお受けします。」
と言いました。

帝は言いました。
「優れた将軍が戦をするのは、民に恩恵を施して、思いやって治める事と同じだ。攻めては川が決壊するように破壊力があり、戦えば風が吹くように素早く敵をなぎたおすものだ。」と。

また、続けて言いました。
「大将軍は民の命だ。国や家が滅びないのは、そのお蔭だ。務めよ。謹んで天罰を行え。」と。

帝はみずから大将の印のマサカリを取って大連に授けて言いました。
長門(山口県)から東は私が取ろう。筑紫より西の方はそなたが治めよ。
賞罰を行って政をせよ。いちいち、奏上せずともよい。」と言いました。

22年の冬、11月の甲寅のついたち(11日)に、大将軍、物部の大連・アラカヒは自ら、賊軍の磐井と筑紫の三井郡で交戦しました。
軍旗や軍鼓が向き合い、軍兵のあげる砂ぼこりが入り乱れました。この戦いがすべてを決する事が分かっているので、両陣営は決死の戦いをしました。物部のアラカヒはついに、磐井を斬って、ついにその境を定めました。

12月に、筑紫の君、葛子(くずこ)は、父の罪に連座して殺される事を恐れて、糟屋(かすや)の屯倉(みやけー武器などの倉庫)を献上して、死罪を逃れるように願い出ました。

* *  *


磐井の乱」が起こったのは継体21年(527)です。

その頃、筑紫の君は自国の治水事業で忙しかったようです。それを書いた文を紹介しておきます。

儺の国の星拾遺』(眞鍋大覺)より(一部書き換えています)

水城」は筑紫国造・磐井が雄略帝17(473)年から
継体帝17(523)年の間に、築堤工事を開始したと伝えられる。
この水が、現在の石堂川を中にして粕屋一体を灌漑して、百姓を潤す目的であった。

その頃、神功皇后の治世(201~269)の間に作った用水路の裂田溝(さくたのうなで)の勢いは新開の那珂・板付あたりにおよぶべき水勢が減少していた。

これを補給して、あの雄略帝17年(473)年の大洪水大氾濫よって、干潟が想像を絶して広がっていくのに対処すべく、水城が着工されたことになっている。

しかし、万民の期待を集めた水城は敏達帝2年(573)年夏、五月の大風で徹底的に壊滅した。
筥崎の砂浜の下に今も厚く堆積している博多の家屋、並びに調度の破片から推定すると、
最小限で2万戸、最大限で10万戸が大水の犠牲となって、玄界灘に漂没したものと推定される。

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