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カテゴリ:武内宿禰(たけしうちのすくね)( 10 )


建内宿禰(1)
たけうちのすくね    (武内宿禰・竹内宿禰)
系図・香椎宮・気比宮
【古事記】

〔孝元天皇の巻〕

系図

建内宿禰の父ヒコフツオシの信(マコト)の命です。母は山下影姫です。
(山下影姫は木の国の造(みやつこ)の祖、ウヅヒコの妹)
父には別の妻・葛城のタカチナ姫がいて、子供にウマシウチの宿禰がいます。

この建内宿禰の子供は合わせて9人です。
男7人、女2人。
波多の八代の宿禰。(波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君の祖。)
次に許勢の小柄(おから)の宿禰。(許勢臣、雀部臣、軽部臣の祖。)
次に蘇賀の石河の宿禰。(蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣らの祖。)
次に平群の都久の宿禰。(平群臣、佐和良臣、馬御機連らの祖。)
次に木の角(つぬ)の宿禰。(木臣、都奴臣、坂本臣の祖。)
次に久米のマイト姫
次にノノイロ姫
次に葛城の長江のソツビコ。(玉手臣、的臣、生江臣、阿曇那臣らの祖。)
又、若子(わくご)の宿禰。(江野財臣の祖。)
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〔成務天皇〕

若タラシヒコ天皇(成務天皇)は近淡海の志賀の高穴穂の宮に住んで、天下を治めました。
この天皇は穂積の臣らの祖であるタケオシヤマタリネの娘、オトタカラの郎女(いらつめ)を妻として、生まれた御子はワカヌケの王といいます。(一柱)

建内宿禰を大臣(おおおみ)として、大国小国の国造(くにのみやつこ)を定めて、国々の堺や大縣(おおあがた)小縣の縣主(あがたぬし)を定めました。天皇の御年は95歳。乙卯の年の3月15日に崩御されました。御陵は沙紀(さき)のタタナミにあります。

〔仲哀天皇の巻〕

香椎宮

仲哀天皇は穴門の豊浦野宮、また筑紫の訶志比の宮で天下を治めました。
その大后オキナガタラシ姫の命は当時、神懸かりをされました。
そこで、天皇は筑紫の香椎の宮におわしまして、熊襲の国を討とうとされた時に、天皇が琴を弾いて、建内(たけうち)の宿禰(すくね)の大臣がサニワをして、神のみ言葉を請いました。(サニワとは降りた神が、どなたか、本物か偽物かなどを明らかにする人です。)

オキナガタラシ姫が神を招き寄せて、託宣をしました。
「西の方に国がある。金銀を始めとして、目にも輝くいろいろな珍しい宝が沢山その国にある。私が今その国を帰服させて与えよう。」と言われました。

そこで天皇が答えて申し上げました。
「高い所に登って西の方を見るけれども、国は見えません。ただ、大海があるだけです。」
と言って、
「偽りをいう神だ。」
と言って琴を押し退けて、それ以上お弾きにならず、黙って座ったままになりました。

すると、その神は大変お怒りになって、
「そもそも、この天の下はそなたの治める国ではない。そなたは人間が行かねばならぬ、一本道に向かうがよい。」
と言われました。(一本道とは死への道です。)

そこで、建内の宿禰の大臣が言いました。
「畏れ多いことです。我が天皇、やはりその琴をお弾き遊ばせ。」と。
そこで、そろそろと琴を取り寄せて、生半可(なまはんか)にお弾きになりました。すると、どれほどの時間も経たないで、琴の音が聞こえなくなりました。火をともして見ると、すでに崩御されていました。

そこで驚き懼(おそ)れて、殯宮(もがりのみや)に亡骸を安置しました。神の怒りを解くために、神へのお供え物を捧げ、国中の人々の犯した罪や穢れを払う大祓(おおはらえ)をしました。(罪、穢れとは、生きながら獣の皮を剥ぐ罪、尾の方から剥ぐ罪、田の畔(あぜ)を壊す罪、水路を埋める罪、他(略)です。)

この大祓を済ませると、再び建内の宿禰の大臣がサニワとなって、ご神託を請いました。今度も、神が教え諭す様子は、全く先日の通りで、
「そもそも、この国は、皇后のお腹の中に宿る御子が治める国である。」
と諭されました。

そこで、建内の宿禰の大臣が言うには
「畏れ多いことです。我が大神さま、今お懸かかりになっているお方のお腹に宿る御子は、男御子か女御子か、どちらでしょうか。」
「男御子ぞ。」
とお答えになりました。さらに詳しく尋ねました。

「今、このように教えられる大神のお名前を知りたいのですが。」
と求めると、すぐにお答えになりました。
「これは天照大神の御心ぞ。また、底筒男(そこつつお)、中筒男、上筒男の三柱の住吉大神ぞ。今まことにその国を求めようと思うならば、天の神や地の神、また、山の神、川や海の神々、ことごとく御幣を奉り、私(住吉大神)の御魂(みたま)を船の上に祀り、マキの木の灰をヒョウタンの器に入れ、また、箸と柏の葉で作った皿をたくさん作って、それを皆大海に散らして浮かべて、渡るがよい。」
と言われました。

 そこで、詳しく教えられた通りにして、軍勢を整えて、船を並べて、西の方の国に渡られると、海原の魚、大小を問わず、ことごとく御船を乗せて進みました。その上、追い風も大いに吹いて、御船は波が寄せるのに任せて行きました。その御船を乗せた波は新羅の国に押し上がって、完全に国土の半分まで達しました。

そこで、新羅の国王は恐れをなして、奏上しました。
「これからは天皇の命令に従って、御馬を飼育する者となって、毎年、貢物(みつぎもの)を載せた船を何艘も出して、船の底が乾く間もないようにします。棹(さお)や舵(かじ)が乾く間もないように、天地の運行がとどまることのないのと同じように、お仕えしましょう。」と申し上げました。

そう言う事で、新羅の国は御馬を飼育する部曲と定めて、百済の国は海外の直轄地と定めました。そして、御杖を占有権を表す印として、新羅王の門に突き立てて、住の江(すみのえ)の大神の荒御魂(あらみたま)を新羅を守護する神として祭り鎮めて、日本に戻られました。

 ところが、その政(まつりごと)が終わらない内に、腹の御子がお生まれになろうとしました。そこで、子供が生まれないようにと石を取って御裳の腰に巻いて、筑紫の国に渡って、その御子はお生まれになりました。
そこで、その御子がお生まれになった所を名づけて、「宇美」(うみ)といいます。

 その御裳に巻きつけた石は筑紫の国の伊斗(いと)村にあります。また、筑紫の末羅縣(まつらのあがた)の玉島の里に着いて、その河のほとりでお食事をされました。

四月の上旬でした。そこでその河の中の石がごろごろした所で御裳の糸を抜き取って、飯粒を餌にして、その河のアユを釣りました。
 この故事から、四月の上旬になると、その土地の女の人たちは裳の糸を抜いて、飯粒を餌にしてアユを釣ることが今に至るまで、続いています。
            

皇位争い
 

さて、オキナガタラシ姫の命はに御帰還される時に、人々が忠誠心を持っているかどうか疑わしいので、喪船(もふね)を一艘仕立てて、御子をその喪船に載せて、先に「御子は既に亡くなられた」と言い洩らさせました。

 こうして倭に向かう途中、御子の異母兄弟に当たる香坂(かごさか)の王忍熊王(おしくま)の王が待ち受けて討ち取ろうと思って、斗賀野(とがの)に進み出て、ウケイ(占い)の狩をしました。

香坂の王がクヌギの木に上って座って見ると、大きな怒った猪が出て来て、そのクヌギの木の根を掘って倒し、その香坂の王を食い殺しました。しかし、その弟の忍熊の王はこのウケイの大凶の結果を畏れずに、軍勢を引き連れて、船を待ちました。

 先頭を行く喪船は空の船なので、まずそれを取ろうと攻めかかりました。すると、喪船から隠れていた兵士たちが出て来て、戦いになりました。

 この時、忍熊の王は難波の吉師部(きしべ)の祖先の伊佐比の宿禰を将軍とし、皇太子の軍勢は丸邇(わに)の臣(おみ)の祖先の難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)の命を将軍としていました。

 建振熊の命が忍熊の王の軍を追撃して山代まで行った時、忍熊の王の軍は態勢を立て直し、互いに退かずに、戦いになりました。

 そこで、建振熊の命がはかりごとをして、敵に伝えました。
「オキナガタラシ姫の命はすでに亡くなりました。だから、これ以上戦う理由が無い。」
と、伝令に言わせると、弓の弦を断ち切って、偽って服従しました。

 敵将軍はその嘘を真に受けて、弓の弦をはずし、武器を収めました。 
すると、建振熊の命は頭の上で束ねた髪の中から、仕込んでおいた弦を取り出し弓に張り、追撃をしました。

忍熊の王は逢坂に逃げ退いて、そこで応戦しました。
建振熊の命はさらに追い攻めて、沙沙那美で打ち破り、ついに軍勢に切り込みました。

忍熊の王と伊佐比の宿禰は共に追い攻められて、船に乗って海上に逃げて、歌を詠みました。
  さあ、お前。
  振熊のやつが痛手を負わないのなら、
  カイツブリが水に潜るように、
  我々が淡海の湖(琵琶湖)に潜ろうではないか。
と詠むと、そのまま湖に入って、共に死にました。
           
気比の大神

さて、建内の宿禰の命はその皇太子を連れて、みそぎをしようとして、淡海や若狭の国へ行った時、越前の国の角鹿(つぬが)に仮宮を造って滞在されました。

すると、その地の神イザサワケの大神の命が夢に出て来て、言われました。
「我が名を、御子の御名と交換したいと思う。」
そこで、建内の宿禰は言祝いで(ことほいで)言いました。

「畏れ多いことでございます。お言葉の通りに変え奉ります。」
と申すと、さらに大神が言われました。
「明日の朝、浜辺に行きなさい。名を交換したしるしの贈り物をしよう。」
そこで、翌朝、浜に御子が行かれると、
鼻が傷ついたイルカが浜辺全体に打ち上げられていました。

 御子が言われました。
「私に大神の食べ物の魚をくださった。」と。
こうして、大神の御名を称えて、ミケツの大神と名をお付けになりました。これから、今でも気比(けひ)の大神と言います。また、そのイルカの鼻の血の匂いが大変臭かったので、そこを血浦(ちうら)と言います。今は都奴賀と言います。

それから、再び都にお戻りになった時に、母君のオキナガタラシ姫の命は無事を祈って作る待酒(まちざけ)を造って献上しました。そして、歌を詠んでいわく、
  この御酒は私の作った御酒ではありません。
  酒でも極上の酒です。
  常世の国にいらっしゃるスクナビコナの神が
  祝福して、狂わんばかりに祝福し、
  豊かであるように祝福し、祝福し尽くして、
  出来上がった御酒ですよ。
  盃を空にせずに、お飲みなさい。
  ささ。
とお歌いになりました。こうして、大御酒をたてまつりました。

そこで、建内の宿禰の命が御子の代わりに答えて歌いました。
  この御酒を造った人は
  その鼓を臼の横に立てて歌いながら、造ったんだなあ。
  舞いながら造ったんだなあ。
  この御酒の、御酒のやたら楽しい事よ。
  ささ。
これは「酒楽」(さかくら)の歌といいます。オキナガタラシ姫は御年、百歳でお亡くなりになり、狭城の楯列(たたなみ)の陵(みささぎ)に埋葬されました。      


「神功皇后」の方では一部、不自然なところは日本書紀を参考にして、書き換えましたが、この「建内宿禰」では、出来るだけ、原文に添って訳しました。
主に違う所は、喪船の時に死んだのは皇太子と古事記ではなっていますが、日本書紀では天皇と成っています。
(つづく)


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建内宿禰(2) 
 
髪長姫


〔応神天皇の巻〕

応神天皇は日向の国の諸県(もろがた)の君の娘、髪長姫の容貌が
美しいとお聞きになって、そばで使おうとお召しになった時に、
その皇太子の大雀(おおさざき)の命が、
その乙女を乗せた船が難波津に泊まっていた時にご覧になって、
その美しさに心動かされて、建内宿禰の大臣にあえて言いました。
「この日向から召しあげた髪長姫は、天皇にお願いして、
私に下さるようにしてくれ。」
と。
そこで建内宿禰の大臣は天皇にお許しを願い出ると、
天皇は即座に髪長姫を皇太子にお与えになりました。

その時のようすは、天皇が宴をされる日に、
髪長姫に杯の代わりの柏葉を持たせて、その皇太子に授けました。

その時、歌を詠まれました。

  さあ、お前たち、ノビルを摘みに行こう。
  ノビルを摘みに行く我が道はミカンの花の香のなんとかぐわしい事よ。
  ミカンの花は上の枝は鳥がとまって食いつまんでしまい、
  下の枝は人が取ってしまった。
  残った中の枝の花のめしべがほんのりとふくらんで色付いて行くように、
  ほんのり赤くなった肌の乙女を、
  さあ、私の酒を受け取ったら、そなたに与えてよろしい。

と詠まれました。また、

  水がたまった依網(よさみ)の池で、
  杭打ちの者がすでに杭を挿しこんだのも知らないで。
  きれいな沼に生えるジュンサイをたぐりよせて、
  手を伸ばしたのも知らないで。
  子どもの気持ちも気付かないほど、いやあ、私が愚かだったのが残念だ。

と歌われました。そう歌を詠みながら、乙女を皇子に授けました。

こうして、乙女を頂いたあと、皇太子は歌いました。

  遠い国のコハダの乙女の、
  その美しさは雷が鳴りひびくように、評判が聞こえていたが、
  こうして、枕を交わして共に寝る事ができるとは。

と詠みました。また、歌いました。

  遠い国のコハダ乙女は
  父と争わずに寝る事が出来るのは、
  なんと愛しいことよ。

と歌いました。

                                       (つづく)

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建内宿禰(3)

雁の卵の本岐歌 
 
〔仁徳天皇〕

ある時、仁徳天皇が豊楽(とよのあかりー酒宴)をしようとして、
ヒメ島に出かけられた時、その島で雁(かり)が卵を産みました。

そこで建内宿禰を召して、歌を詠んで、
雁が卵を産んだ事についてお尋ねになりました。
   内(ウチ)の出身の朝臣(あそん)よ。 
   あなたこそ 世の長生きの人です。
   ヤマトの国に 雁が卵を産むなんて 聞いた事がありますか。

そこで建内宿禰は返歌で語りました。
   空高く光る 日の御子よ。
   なるほど、お尋ねになるのもごもっともです。
   まことに よくお尋ねになりました。
   私こそは 世の長生きの人です。
   ヤマトの国で 雁が卵を産んだことは まだ聞いた事がありません。

と申し上げました。それから、御琴を受け取って(神招きして神託を受けて)歌を詠みました。
   あなたの御子が 跡を継いで末永く天下を治めるであろう
   と、(瑞祥として)雁が卵を産んだようです。
と歌いました。これは本岐歌(ほきうたー寿歌)の片歌です。


建内宿禰のあらまし (古事記)

孝元天皇   建内宿禰の祖父に当たる。
開化天皇   建内宿禰の叔父に当たる。
崇神天皇
垂仁天皇
景行天皇
成務天皇   大臣になる。
仲哀天皇   筑紫・香椎宮にて審神者をする。天皇の崩御に立ちあう。
応神天皇   幼時に補佐する。禊のために気比へ連れて行く。
         仁徳天皇が皇太子の時に、髪長姫との仲を取り持つ。大臣。
仁徳天皇   日女島にて琴を弾いて本岐歌を詠む。


〔系図〕 
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ウチシコオウチシコメは兄妹です。
孝元天皇ウチシコメとその姪のイカガシコメを妻にしています。
そのため、天皇家も建内宿禰も同じウチの系統になります。

建内宿禰の年齢はどうでしょうか。
古事記だけを見ると、長生きではあっても、
300歳を数える事はないように見えます。

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                    ★日本書紀版です。読み方は「たけしうち}です。

武内宿禰(4)
たけしうちのすくね
孝元天皇から仲哀天皇崩御まで


【日本書紀】

〔孝元天皇〕

7年の春二月の丙寅(ひのえとら)の朔丁卯(ひのとうのひー2日)に、
孝元天皇ウツシコメの命を立てて皇后としました。
后(きさき)は二人の男、一人の女を生みました。
第一をオオビコの命と言います。
第二をワカヤマトネコヒコオオヒヒの天皇と言います。
第三をヤマトトト姫の命と言います。
(ある本にはこの姫の父は天皇の同母弟スクナヒコオの命と言います。)

妃(みめ)イカガシコメの命ヒコフツオシノマコトの命を生みました。
次の妃(みめ)河内のアオタマカケの娘の埴安姫
タケハニヤスビコの命を生みました。
兄のオオビコの命は阿倍(あべ)の臣・膳(かしわで)の臣、アへの臣、ササキの山の君、筑紫の国の造・越の国の造・伊賀の臣、すべて七族の始祖です。
ヒコフツオシノマコトの命は、武内宿禰の祖父です。

〔景行天皇〕


3年の春二月の庚寅(かのえとら)の朔(ついたち)に、景行天皇
紀伊の国に出かけて、もろもろの神祇を祝い祀ろうとして、占いましたが、
吉ではありませんでした。そこで、行幸は中止になりました。

ヤヌシオシオタケオココロの命を代わりに遣わして祭祀させました。
ヤヌシオシオタケオココロの命が詣でて、阿備(あび)の柏原に行って、
神祇を祝い祀りました。そこに9年間住みました。
その時、紀の直(あたい)の遠祖ウヂヒコの娘の影姫を娶って、
武内宿禰が生まれました。

25年の秋、7月の庚辰(かのえたつ)の朔壬午(みずのえうま―3日)に、
武内宿禰を遣わして、北陸および、東方の国々の地形、また人民の消息を
視察させました。

27年の春2月の辛丑(かのとうし)の朔壬子(みずのえのねー12日)に、
武内宿禰は東国から帰って来て奏上しました。
「東(あづま)の田舎の中に、日高見の国があります。
その国の人は、男女とも髪を椎(つち)のような形に結って、
からだに入れ墨を入れて、ひととなりは勇ましく、たくましく見えます。
これをみな蝦夷(えみし)と言います。また土地が肥沃で広いです。
攻撃して取るのがよろしい。」と言いました。

秋8月に熊襲がまた背いて、辺境を侵しました。

冬10月の丁酉(ひのととり)の朔己酉(つちのととりー13日)に、
日本武尊(やまとたけるのみこと)を遣わして、熊襲を撃たせました。
その年16歳。

51年の春正月の壬午(みずのえうま)の朔戊子(つちのえね―7日)に、
景行天皇は群臣たちを召して宴(とよのあかり)を数日されました。
その時、皇子のワカタラシヒコの尊と武内宿禰は宴の庭に参内しませんでした。
天皇は召してその訳を尋ねました。
そこで奏上したのは、
「このような宴楽の日には、群臣百寮はきっと心が遊びごとでいっぱいで、
国家の事が疎かになります。もし、狂った人がいて、警備の隙を突く事が
あったらいけないと、門の所に伺候して、非常の事態に備えていました。」
と。
その時、天皇が言いました。
「これはあっぱれ。」と。そう言う事で武内宿禰を寵愛しました。

秋8月の己酉(つちのととり)の朔壬子(みずのえねー4日)に、
ワカタラシヒコの尊を立てて、皇太子となさいました。
この日に、武内宿禰を棟梁の臣(むねはりのまえつきみ)とされました。

〔成務天皇〕


3年の春正月の朔癸酉(みずのとりー7日)に、
武内宿禰を大臣(おおおみ)とされました。
もともと成務天皇と武内宿禰とは同じ日に生まれました。
それで特に寵愛されました。

〔仲哀天皇〕


9年の春2月の癸卯(みずのとのう)の朔丁未(ひのとのひつじー5日)に、
仲哀天皇は急に病に倒れて、翌日崩御されました。
その時52歳。神の言葉を受け入れなかったために早く亡くなったのでした。
ある本には仲哀天皇がみずから熊襲を討って、敵の矢に当たって
崩御されたといいます。
神功皇后と大臣武内宿禰は仲哀天皇の喪を隠して、天下に知らせませんでした。
そうして、皇后は大臣と中臣の烏賊津の連(むらじ)、大三輪の大友主の君
物部のイクヒの連、大友のタケモツの連に、
「今、天下はまだ天皇が崩御された事を知らない。
もし群臣・人民が知ったら、戦意を喪失するであろう。」
と言われました。
そこで四人の大夫に命じて、百寮を率いて宮中を守らせました。

ひそかに天皇の屍(しかばね)を収めて、武内宿禰に命じて
海路で穴門の宮に遷しました。
こうして豊浦の宮で殯(もがり)をして、灯火を付けずに
御霊をあげる儀式をしました。
甲子(きのえねー22日)に大臣武内宿禰は穴門から戻ってきて、
皇后に帰還を報告しました。
この年は新羅の役のために、仲哀天皇の葬儀が出来ませんでした。
                               (つづく)


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武内宿禰(5)
たけしうちのすくね

小山田斎宮と裂田溝


〔神功皇后〕

小山田斎宮

仲哀9年の春2月に、仲哀天皇が筑紫の橿日(かしひ)宮で崩御されました。
この時、神功皇后は、天皇がご神託に従わなかったために早く崩御された事に
心を痛めて、考えました。
祟っている神を明らかにして、神の勧める財宝の国を求めようと。
そこで、群臣と百寮(つかさつかさ)に命じて、国中の罪を払い清め、
過ちを改めて、さらに斎宮を小山田の邑に作らせました。

3月の壬申(みずのえさる)の1日に、皇后は吉日を選んで、斎宮に入って、
自ら神主となりました。そして、武内宿禰に命じて御琴を弾かせました。
中臣(なかとみ)の烏賊津(いかつ)の使主(おみ)を召して
審神者(さにわ)としました。そうして、織り物をたくさん、
御琴の頭と尾のところに供えて、申し上げました。

「先の日に天皇に教えられたのはどちらの神でしょうか。
願わくは、その御名を教えて下さい。」と。
七日七夜経って、ようやくお答えになりました。

「神風の伊勢の国の度逢県(わたらいのあがた)の五十鈴の宮にまします神、
名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつ
ひめのみこと)。」と。
烏賊津の使主がまた尋ねました。
「この神以外に他に神はいらっしゃいますか。」
お答えがありました。
「旗のように靡くススキの穂が出るように出た吾は
尾田の吾田節(あがたふし)の淡郡(あはのこほり)にいる神である。」と。
「他におられますか。」
天事代虚事代玉櫛入彦厳之事代神
(あめにことしろ、そらにことしろ、たまくしいりびこ、いつのことしろのかみ)有り。」
「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
そこで、審神者が言うには、
「今答えずに、また後に出て来られることが有りますでしょうか。」
すると答えがあった。
「日向国の橘の小門の水底に居て、海草のようにわかやかに出てくる神、名は
表筒男(うわつつのを)、中筒男(なかつつのを)、底筒男(そこつつのを)
の神がおる。」と。
「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
ついに他に神がいるとはおっしゃいませんでした。
その時に神の言葉を得て、教えの通りにお祭りをしました。
(略)

裂田溝(さくたのうなで〕

すでに皇后は神の教えの霊験がある事を知って、さらに神祇を祝い祀って、
みずから西の方を討とうと思いました。
そこで神田を定めて作りました。

その時、儺(な)の川(那珂川)の水を引いて、神田を潤そうと思って、
溝(うなで)を掘りました。
迹驚岡(とどろきのおか)に至った時、大岩が塞がって、
溝を通す事が出来ませんでした。皇后は武内宿禰を召して、
剣と鏡を捧げて神祇に祈って溝を通すように言いました。
すると、すぐに雷が落ちてその岩を踏み裂いて、水が通りました。
こうして時の人は、その溝を名づけて、裂田溝(さくたのうなで)と言いました。


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武内宿禰(6) 
日本書紀版
香坂王と忍熊王  

かごさか王とおしくま王


新羅を討った翌年の春2月に、神功皇后は群臣・百寮を率いて、穴門の豊浦の宮に遷りました。そこで仲哀天皇の亡骸を収めて、海路で京に出ました。

その時、香坂王忍熊王
「天皇が崩御された。また皇后が西を討って、あわせて皇子が新たに誕生された。」
と聞いて、密かに話し合って、
「今、皇后には御子がいる。群臣はみな従っている。必ず共に謀って、若き御子を天皇に立てるだろう。吾らは兄なのにどうして弟に従えるか。」と言いました。

そこで偽って、天皇の為に御陵を作るふりをして、播磨に行って、御稜を明石に興しました。こうして、船団を編んで、淡路島に渡して、その島の石を運んで造りました。

その時、人毎に武器を持たせて皇后を待ちました。犬上の君の祖、倉見別(くらみわけ)と吉師の祖のイサチの宿禰は共に香坂王に付きました。そこで将軍として東国の兵を興させました。

時に、香坂王と忍熊王は一緒にトガノに出て、うけひ狩り(占いの狩)をして言いました。
「もし、事が成就するならば、必ず良い獲物が手に入る」
と言いました。二人の王はおのおの仮の桟敷にいました。赤いイノシシが急に出て来て、桟敷に登って、香坂王を食い殺しました。軍勢はみな恐れました。

忍熊王は倉見別に言いました。
「この事は重要な験だ。ここで敵を待ってはならない。」と。
そこで軍勢を引いてさらに帰って、住吉に駐屯しました。

この時、神功皇后は忍熊王が軍勢を起こして、待っていると聞いて、武内宿禰に命じて、皇子を抱かせて、迂回して南海から出て、紀伊水門に停泊させました。皇后の船はまっすぐ難波を目指しました。

その時、皇后の船が海中でぐるぐる廻って、進めなくなりました。そこで務古水門に戻って占いをしました。すると、天照大神が教えました。
「我が荒魂を皇后に近づけてはならない。広田の国に祀りなさい。」と。
そこで山背の根子の娘、葉山姫に祀らせました。
またワカヒルメの尊が教えて言いました。
「吾は活田の長峡(いくたのながお)の国にいよう。」と。
そこで海上(うながみ)のイサチに祀らせました。

また事代主の尊が教えて言いました。
「私を長田の国に祀りなさい。」と。
そこで葉山姫の妹の長姫に祀らせました。
また、表筒男・中筒男・底筒男の三柱の神が教えて、
「吾が和魂(にぎみたま)を大津のヌナクラの長峡(ながお)に祀りなさい。
そこで往来する船を見守ろう。」と言いました。
こうして神の教えのままに鎮めて、無事に海を渡る事が出来ました。

忍熊王はまた軍勢を退却させて、ウヂに行って、軍勢を立て直しました。
皇后は南の紀伊の国に行って、皇子に日高で会いました。群臣と協議して、ついに忍熊王を攻撃するために、さらに小竹宮(しののみや)に遷りました。
                                      (略)


3月の丙申(ひのえさる)の朔庚子(かのえねー5日)に、武内宿禰と和邇(わに)の臣の祖・武振熊(たけふるくま)に命じて、数万の軍勢を率いて、忍熊王を討たせました。

そこで武内宿禰らは精兵を選んで、山背から出ました。ウヂについて、川の北に駐屯しました。忍熊王は陣営を出て戦おうとしました。その時熊の凝(こり)という者が忍熊王の軍勢の先鋒となりました。その時、自分の軍勢を奮い立たせようと思って、声高に歌を詠みました。

  かなたの あれ、あの松原 
  あの松原に 進んで行って、
  槻弓(つくゆみ)に 音の出る鏑矢(かぶらや)をつがえて、
  貴人は貴人どうし、 親友は親友どうし、さあ闘おう。
  我は 闘おう。 霊力が極まっているという 武内の朝臣と。
  腹の中は 小石だらけのやつさ。さあ、闘うぞ、我は。

その時、武内宿禰は大軍に命じて、全員に髪を椎(つち)のように結わせました。そして号令をかけて、
「おのおの、控えの弦を髪の中に収めて、また木刀を腰につけよ。」
と言いました。

そうして、皇后の仰せだ言って、忍熊王をだまして言いました。
「吾は天下を取ろうとは思っていません。ただ、幼い皇子を抱いて、君王(忍熊王)に従うだけです。どうして、戦おうなどと思うでしょうか。
願わくは、共に弦を絶って、武器を捨てて、ともに連合して和睦しようではないですか。
そうして、君王は皇位を継承して、その席に安心して座り、枕を高くして安んじて、よろずのまつりごとを専制なさるがよい。」と。

そう言うと、はっきりと分かるように、軍勢に命じて、全員に弓の弦を断ち切らせて、太刀をはずして、川に投げ入れさせました。
忍熊王はその偽りを信じて、自分の軍勢に命じて、武器をはずして川に投げ入れて、弓の弦を切らせました。

そうすると、武内宿禰は大軍に号令をかけて、髪に隠した弦を出して、再び弓に張って、真剣を付けさせました。そうして、川を渡って進軍しました。

忍熊王は騙された事が分かって、倉見別(くらみわけ)・イサチの宿禰に言いました。
「謀られた。もう、代わりの武器はない。どうして戦えようか。」
といって、軍を連れて少し退却しました。

武内宿禰は精兵を出して、追いかけました。ついに逢阪で対戦して、討ち破りました。それで、その地を名づけて逢坂と言います。
忍熊王の軍勢は逃げました。武内宿禰はささなみの栗林で追いついて、大勢を斬りました。
そこに血が流れて、栗林にあふれました。それで、縁起が悪いと言って、今に至るまで、この栗林の木の実は御所に献上しません。

忍熊王は逃げて隠れる所が無くなりました。そこでイサチの宿禰を呼んで、歌を詠みました。
  さあ、我が君、イサチの宿禰よ。
  霊力が極まった 内の朝臣の 
  頭槌(くぶつち)の太刀にやられて 痛手を負わないとするなら、
  ニホ鳥のように 水に潜るしかない。

こうして二人共に、瀬田の渡し場で身を投げて死にました。その時武内宿禰は歌を詠んで言いました。
  淡海の 瀬田の渡し場に 潜る鳥
  目には見えないので 本当に身を投げたかどうか分からなくて、
  溜息がでる。
そう言って、その遺体を探させたけれども、見つかりませんでした。こうして数日して、ウヂ川に出ました。武内宿禰はまた歌を詠んで言いました。
  淡海の 瀬田の渡し場に 潜る鳥
  田上を過ぎて ウヂで捕まえた。

冬10月の癸亥(みずのとゐ)の朔甲子(きのえねー2日)に、群臣は皇后を尊んで、
皇太后(おおきさき)と呼びました。この年、太歳辛巳(かのとみ)。摂政元年としました。

2年の冬11月の丁亥(ひのとゐ)の朔甲午(きのえうまー8日)に、仲哀天皇を河内の国の長野の陵に埋葬しました。

3年の春正月の丙戌(ひのえいぬ)の朔戊子(つちのえねー3日)にホムダワケの皇子を立てて、皇太子としました。そうして、磐余(いわれ)に都をつくりました。これを若桜の宮といいます。
                                           (略) 
                                          (つづく)

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武内宿禰(7)
たけしうちのすくね

角鹿の笥飯の大神、新羅国、卓淳国、百済国
つぬがのけひの大神、しらぎ国、とくじゅん国、くだら国



神功摂政5年の春3月の癸卯(みずのとう)の朔己酉(つちのととりー7日)に、新羅の王ウレシホツ、モマリシチ、ホラモチたちを派遣して朝貢(ちょうこうー貢ぎ物をすること)しました。それは先に人質となった、ミシコチ伐旱(ほつかんー新羅の官位)を返してほしいという心情からでした。

新羅の使者たちはミシコチ伐旱に謀り事を教えて、欺かせて言わせました。
「使者のウレシホツとモマリシチたちが私めに言いました。
『新羅の王は、私めが久しく還らないので、妻や子供たちを皆捕えて奴婢としてしまった。』と。願わくば、しばらく本土に還って、真偽を確認したいのですが。」と。

皇太后(神功皇后)は許可しました。葛城の襲津彦(そつびこ)を付けて派遣しました。共に対馬に着いて、鉏海(さひのうみー対馬から朝鮮までの海域・諸説あり)の湊に泊まりました。

その時、新羅の使者のモマリシチたちが密かに船と水手(かこ)を手配して、ミシコチ旱岐(かんき)を乗せて新羅に逃がしました。その時、人形を作ってミシコチの布団の中に置いて、偽って病人のふりをさせて、襲津彦に言いました。
「ミチコチが急に病気になって死にそうです。」と。

襲津彦は人を送って病人を見に行かせました。そこで騙された事が分かって、新羅の使者三人を捕えて牢屋に入れて、火をつけて焼き殺しました。

そして、新羅に行って、蹈鞴津(たたらのつ)に行き、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰国しました。この時の捕虜たちは今の桑原、サビ、高宮、忍海(おしぬみ)たちの、四つの邑の漢人(あやひと)らの始祖です。

神功摂政13年の春2月の丁巳(ひのとみ)の朔甲子(きのえねー8日)に、神功皇太后は武内宿禰に命じて、太子に従って、角鹿(つぬが)の笥飯(けひ)の大神に参拝させました。

癸酉(みずのととりー17日)に太子は角鹿から帰って来ました。この日に、皇太后は太子の為に大殿で宴をしました。皇太后は酒をなみなみと注いだ杯をささげて、太子を祝福しました。そして、歌を詠みました。
  この御酒は 私の作った御酒ではありません。
  神酒の司、常世の国にいます 
  少御神(すくなみかみ)が 豊かであるように祝福し、
  祝って踊りまわって、神祝いをして 
  祝い狂って 出来上がった御酒です。
  残さず飲みたまえ。ささ。
武内宿禰は太子のために返歌をしました。
  この御酒を 醸した人は その鼓を 臼のように立てて
  歌いながら 醸したんだなあ。
  この御酒の やたら 楽しさと言ったら。
  さあ。

神功摂政46年の春3月の乙亥(きのとゐ)の朔(ついたち)の日に、斯摩(しま)の宿禰を卓淳(とくじゅん)国に派遣しました。卓淳の国王・マキム旱岐(かんき)が斯摩宿禰に話しました。

「甲子(きのえね)の年の7月の20日に、百済人(くだらびと)クテイ、ミツル、マクコの三人が我が国に来て言いました。
百済の王が東の方に日本の貴い国がある事を聞いて、臣下を派遣して、その貴い国に朝貢させました。道を探し求めて、その国に着きました。もし、貴殿の国の臣下にも道を教えて通わせるなら、我が国王も深く貴殿をよろこばしく思います。』と。

それを聞いて、私(卓淳国王)はクテイたちに言いました。
「前から、東の国に貴い国がある事は聞いていた。しかし、通ったことがないので、道も分からない。ただ、海のかなた遠くで、波が険しい。大船に乗って、ようやく通う事が出来るだろう。もし湊があるとしても、船がなければどうして行く事ができようか。」と。

すると、クテイたちが言いました。
『それならば、すぐ今は通う事は出来ないでしょう。また帰国して船を準備しますから、その後に(便乗して)通うと良いでしょう。』
また念を押して言いました。
『もし、貴い国の使者が来る事があれば、必ず我が国に伝えたまえ。』とも。
そう言って帰国しました。」

その話を聞いて、斯摩宿禰は従者のニハヤと卓淳国の人、ワコの二人を百済国に派遣して、その王を慰労しました。時の王・百済の肖古(しょうこ)王は深く喜んで、手厚く待遇しました。

その時、五色の綾織の絹をそれぞれ一匹、また牛の角を張りつけた弓矢、合わせて鉄ののべ板40枚をニハヤに預けました。またすぐに宝の蔵を開けて、いろいろ珍しいものを見せて、
「我が国には献上物にしたい珍宝があります。貴国に献上しようと思っていても、道が分からない。志はあっても、かないませんでした。しかし、今、使者に預けて、献上します。」と言いました。

そこで、ニハヤがそれを受け取って、還って来て斯摩宿禰に話を伝えました。こうして、斯摩宿禰は卓淳国から帰国しました。
(注…百済人は日本へ朝貢したと、卓淳国では言っていましたが、自国では、ニハヤには道が分からなかったと言っています。矛盾しますがそのまま訳します。)

神功摂政47年の夏4月に、百済の王はクテイ、ミツル、マクコを日本に派遣して、朝貢しました。その時、新羅国の貢ぎ物の使者もクテイと共に参りました。

皇太后と太子・誉田別尊(ほむたわけのみこと)は大いに喜んで言いました。
「先の王の所望された国の人が今、来朝した。痛ましい事よ、天皇は亡くなってしまって、間に合わなかった。」と。群臣たちは皆涙を流しました。

このあと二つの国の貢物(みつぎもの)を調べました。すると、新羅の貢物には珍しいものが沢山ありました。百済の貢物は少なくて、賤しくてよくありませんでした。
そこで百済のクテイたちに尋ねました。
「百済の貢物は新羅に劣っているが、どうしてだろうか。」
答えて言いました。
「私たちは道に迷って、沙比(さひ)の新羅に着きました。すると新羅人は私たちを捕えて牢獄に入れました。三か月すると、殺そうとしました。

その時、私たちは天に向かって呪詛(じゅそ)しました。新羅人はその呪詛を恐れて殺せませんでした。しかし、私たちの持っていた貢物を奪って、自国の貢物としました。新羅の賤しいものを百済国の貢物とした上で、私たちに言いました。
『もし、これを取り違えてしまったら、帰国した時にお前たちを殺す。』と。
私たちは恐れて従うのみです。こうして、なんとか生きて日本の朝廷に来る事が出来ました。」と。

それを聞いて皇太后とホムタワケの尊は新羅の使者を責めて、天神に祈って言いました。
「誰を百済に派遣して、この話の真偽を確かめさせたらいいでしょうか。誰を新羅に派遣して、その罪を問えばいいでしょうか。」と。
そこで、天神が教えて言いました。
「武内宿禰に計画させよ。そして、千熊長彦(ちくまながひこ)を使者にすれば、まさに願いの通りになるだろう。」と。
こうして、千熊長彦を新羅に派遣して、責めると、百済の献上物を横取りしたのが分かりました。
                                            (略)
神功摂政51年春3月に百済王はまたクテイを派遣して朝貢してきました。皇太后は皇太子と武内宿禰に、
「親しく何度もやって来る百済国は、人ではなく天が与えたような国です。貢いで来る物は珍しいものばかかりで、見たこともないものばかり。時を置かず、常に朝貢して来て大変喜ばしいことです。(私が死んだあとも)変わらず、厚く恩恵を与えるように。」
と言いました。
                                       (略)(つづく)

(注…新羅からの朝貢も、二度目なのに仲哀天皇が所望した国が今やって来たと言っていて、矛盾があります。天皇の死後47年目という事です。)

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武内宿禰(8)

たけしうちのすくね
韓人の池・壱岐の真根子・名前の交換 

〔応神天皇〕
応神天皇7年の秋9月に高麗人(こまびと)、百済人(くだらびと)、任那人(みまなびと)・新羅人が並んで来朝しました。その時、武内宿禰(すくね)に命じて、この韓人(からひと)たちを率いて、池を作らせました。その池は韓人の池と呼びます。
(略)
応神天皇9年の夏、4月に武内宿禰を筑紫に派遣して、百姓(豪族・人民たち)を監察させました。その留守の間、武内宿禰の異母弟の甘美内(うましうち)宿禰が、この兄を落とそうとして、天皇に讒言(ざんげん)しました。

「武内の宿禰は常に天下を取ろうと思っています。今聞いたのですが、筑紫に行って、密かにはかりごとをして、『筑紫を分裂させて、三韓の王を呼んで自分に従わせて、天下を取ろう』と言っているそうです。」と申し上げました。すると、応神天皇はすぐに使者を使わして、武内の宿禰を殺すように命じました。

武内の宿禰は嘆いて言いました。「私はもとより、二心(ふたごころ)は無く、忠義をつくして天皇にお仕えしていた。いったい何のわざわいなのか、罪もないのに死ねというのか。」と。

そこに壱岐直(いきのあたい)の祖の真根子(まねこ)という人がいました。その人は武内宿禰と見た目がそっくりでした。武内宿禰が罪もないのに空しく死ぬのを惜しんで、言いました。

「まさに、大臣は忠義の心で天皇に仕えています。はかりごとなど悪い考えがないのは、天下のすべてが知っています。願わくは、密かにここを去って、朝廷に参内して、自ら罪の無き事を弁明して、それから死んでも遅くはないでしょう。

また、誰からも『私めの姿かたちが大臣そっくりだ。』と言われます。だから、私めが大臣に代わって死んで、大臣の清らかな心を明かしましょう。」
と言って、即座に剣で自分を刺して亡くなりました。

武内宿禰はひとり大変悲しんで、密かに筑紫を去って、船に乗って、南海を廻って、紀水門(きのみなと)に泊まりました。ようやく帝に面会を許されて、罪のない事を弁明しました。

応神天皇は武内宿禰と甘美内宿禰の言い分の食い違いを尋ねました。すると、二人は自分の言い分を変えずに争いました。どちらが正しいのか決められませんでした。

そこで応神天皇は天地の神に誓わせて、探湯(くがたち)をさせました。(探湯とは熱湯に手を入れて、ただれた方を邪とする審判法)こうして、武内宿禰と甘美内宿禰は磯城(しき)川のほとりで、探湯をしました。武内宿禰が勝ちました。

すると、すぐに太刀を取って、甘美内の宿禰殴り倒して、ついには殺そうとしました。応神天皇は勅命を出して、許させて、武内宿禰の母方の紀の直(あたい)の奴婢にしました

〔仁徳天皇〕

武内宿禰の子供と仁徳天皇は同じ日に生まれたので名前を交換した。


仁徳天皇元年の春正月の丁丑(ひのとうし)の朔己卯(つちのとう―3日)に、オオサザキの尊が天皇に即位しました。応神天皇の皇后を尊んで、皇太后としました。仁徳天皇は難波に都を作りました。これを高津の宮といいます。

仁徳天皇は宮垣、室屋に漆喰を塗りませんでした。柱や梁などにも色を塗って飾らせませんでした。屋根にカヤを葺く時も、切り揃える事はありませんでした。それは、天皇個人の事で、人民が耕作したり、機織りをする時間を奪わないようにという配慮からでした。

始め、仁徳天皇が生れる日には、ミミズクが産殿に飛び込んできました。その翌朝、応神天皇は大臣・武内宿禰を召して「これは何のしるしだろうか。」と尋ねました。

大臣は「吉祥です。たまたま、私の妻が出産したのですが、ミソサザイが産屋に飛び込んできました。これまた不思議な事です。」と言いました。

この時天皇は言いました。
「今、我が子と大臣の子と、同じ日に生まれたとは。どちらも吉瑞があった。これは天の表(しるし)だ。思うに、その鳥の名を取り換えて、お互いの子に名付けて、後の世の契りとしよう。」と。

そこでミソサザイ(サザキ)の名前を太子(仁徳天皇)に付けて、オオサザキの皇子としました。ミミズクの名を大臣の子に付けて、ツクの宿禰としました。これは平群臣の始祖です。この年、太歳がありました。

雁の産卵
仁徳天皇50年の春3月の壬辰(みずのえたつ)の朔丙申(ひのえさるー5日)に、河内の人が奏上しました。
「茨田(まむた)の堤に雁が産卵しました。」と。

即日、使いをやって、確認させました。使者は「事実です。」と奏上しました。天皇は歌を詠んで武内宿禰に尋ねました。
  霊力が極まるという 武内宿禰よ
  そなたこそ世の長生き人 そなたこそは国の長生き人
  秋津島 倭(やまと)の国に 雁が産卵すると そなたは聞いた事がありますか。

武内宿禰が返歌をしました。
  国を治める わが大君よ。 なるほど なるほど 私にお尋ねになるのですね。
  秋津島 倭の国に 雁が産卵するとは 聞いた事がありません。


   日本書紀は以上です。   次回系図を出します。


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武内宿禰(9)

武内宿禰・300歳のミステリーは
計算ミスと解釈ミスが重なった?


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ミステリー1. 仲哀天皇は父が死んで36年目に生まれた!?
岩波文庫の日本書紀を現代語訳して来ましたが、〈注〉を見ると、仲哀天皇は父の日本武尊が死んでから36年目に生まれた事になると書いてありました。
「おっ、舎人親王たちは計算違いをしたな」と思いながら訳しました。西暦のような絶対年数がないので、かなり計算が難しそう。

ミステリー2. 神功皇后の妊娠期間がおかしい。
 
計算ミスに関しては、他にもあって、神功皇后の妊娠期間の十月十日(とつきとおか)について、1か月を30日で計算しているらしいです。
現代では妊娠期間は280日と基準が決められているそうです。日本書紀の計算で行くと、30日×10月=300日。プラス10日で310日になります。すると、40日の差が出ます。この辺りの計算ミスが、応神天皇の父は仲哀天皇ではないという噂の原因にもなっています。

ミステリー3
事実を想像すると、皇太子が16歳頃に応神天皇として即位し、神功皇后はそのまま摂政として残って、まつりごとをした。その二人に武内宿禰がぴったりと付いて補佐をした。それがナチュラルな解釈じゃないかなと思ったのですが。それにしても、ずっと武内宿禰と三人で出てくるのも不思議な感じがしました。

長生きしたのは武内宿禰だけではなかったよ。

 武内宿禰が300歳って何でだろうと思って訳したのですが、みんな100歳以上でした。(な~んだ。そうだったのか。)どうして、この辺りの編年が変なのか?訳をしながらの印象ですが、まずは神功皇后の年が100歳に無理に引き上げられて、全体が矛盾して行ったんじゃないかなと思いました。単なる勘です。

日本書紀は正史なので、中国にならって、年号をきちんと書かないといけないけど、ヤマトタケルとか、神功皇后とか、武内宿禰とか、この時代の人たちは伝説だけで、年号は伝わっていない。舎人親王たちは、それをなんとか辻妻合せをしたけど、うまく行かなかった。

と言う事で、日本書紀を編纂した舎人親王たちの計算ミスと、神功皇后と建内宿禰を長命にしようとした作為が重なった結果、年代がゴチャゴチャになっているなと想像しました。また、まさか、後世の人が天皇の即位期間と神功皇后の摂政期間を単純に足し算するとは思わなくて、人物順に記事を書いた。それを現代人が足し算してしまって、300歳という数字が出てしまったのではないかとも思いました。

年齢を延ばした意図と計算ミスと現代人の解釈ミスの三重の問題があるようです。このあたりを検証するには、朝鮮半島の歴史が分からないと、無理だなあ。

武内宿禰の伝承は筑紫にある。
ただ、「武内宿禰の死についての伝承がない」と岩波文庫には書いてありますが、福岡県の織幡神社にちゃんとありました。(『ひもろぎ逍遥』⇒織幡神社
武内宿禰が「風土記」に書いてないからといって、空想の人物と断定するのは、無理です。
香椎宮の近くには武内宿禰屋敷というのが伝わっています。また、宮地嶽神社付近にもその子孫の人の伝承が残っています。他にもまだ述べてない伝承もありますが、玄海灘を中心とする伝承を総合すると、武内宿禰はかなり大きな勢力を持った大王クラスの人だと思われて来ました。

対新羅について

韓半島との関係の記事もいろいろ出て来てびっくりしました。(ルナは何にも知りませんでした。)新羅とは交戦し、百済には援助という構図が分かりました。今回は武内宿禰に絞ったので、対韓半島に関わる他の記事は省略しましたが、神功皇后の所にはバンバン出て来ています。いつか全体の訳を試みようと思います。ここを押さえると、歴史家たちの言っている事が分かるようになるけどなあ。と思いながら…。

謎の名前交換

応神天皇は「気比の大神」と名前の交換をしています。気比の大神は、武内宿禰と関わりのある所です。(⇒織幡神社)応神天皇はそれに加えて自分の子供が生まれると、これまた武内宿禰の子供と名前を交換しています。二人の子は同じ日に生まれたとか。名前の交換は重量な出来事ですが、理由は分かりません。彼の霊力に預かりたい親心のような…。あるいは倭の支配者の交換か。とにかく、武内宿禰がかなりのヒーローだったのが見えて来ました。これからも、目が離せません。彼の本貫地もうっすらと見えて来ました。コツコツと調べて行きます。


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武内宿禰(10)

武内宿禰と神功皇后の系図
二人は遠い親戚だった

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記紀から分かったのは、神功皇后武内宿禰は、香椎宮以来、ずっと一緒にいるらしいという事です。1800年たった今でも、二人の仲が噂されています。これに関しては別に意見はないのですが、系図を描いていて、同じ孝元天皇の名前が出てきたので、「あれ、二人は同じ先祖?」と思って、二人の系図を並べてみました。

孝元天皇はウチシコオの妹と娘を娶っています。この婚姻のパターンはこれまでも、いくつも出て来たので驚く事ではないけど、ウチ家天皇家が強く結ばれているに驚きました。
神功皇后の母方はアメノヒボコなので、彼女は新羅の王家天皇家の両方の血筋を持っています。そんな彼女が新羅と戦うのだから、これまた面白い。

ルナの妄想ですが、神功皇后は新羅の王家の末裔でもあるので、まだ新羅の王位継承権を持っていて、それを主張しているのではないかと考えました。新羅の役というのは、彼女が新羅の王であるという事を確認させた戦いではないか。だから、いとも簡単に勝つ事が出来た。彼女の他での戦い方のパターンを見ると、そんな気がしてなりません。

系図は見るより、書いている時が楽しい。その時に発見が沢山あります。今回、知ったのは天皇家はウチ家そのものだったという事。そして、ウチ家の代表となる人物が武内宿禰でした。古代日本は武内宿禰の研究があってこそ、明らかになるのが分かりました。

「ウチ家と天皇家」の「武と祭祀」が強力に組み合わさったのが、「武内宿禰と神功皇后」。この二人を正史としてどう組み込むかを舎人親王らは苦心しています。無理を重ねて矛盾だらけにしてしまいましたが、彼らの目的は一応達成されました。

武内宿禰を白髯のおじいさんという古い人物像で惑わされてはいけない。壮年の生き生きと倭を生きる人物として捉える事が、古代史の真実を明らかにする事になります。

この時代を把握するには、環日本海の視点で捉える必要があります。地図を逆さまにして見て、固定観念をはずして、はじめて真実に近づく事が出来ます。

まだまだ、パズルのピースは不足していますが、どこに行けばそのピースが手に入るのか、少しずつ見え始めました。


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