カテゴリ:斉明天皇(皇極)35.37代( 2 )

                                    【日本書紀】

斉明天皇(1)(皇極天皇)
生没(594~661)在位(655~661)

百済の使者が百済敗北を報告して、援軍を依頼した
 


 斉明天皇6年9月5日に、百済(くだら)は達卒(だちそちー官位)のなにがし(名前は不明)と沙弥(さみ)覚従(かくじゅ)たちを派遣して、ヤマト朝廷にて奏上しました。(ある本には、逃げて来て、国難を奏上したともいう)

「今年の7月に、新羅(しらぎ)が武力を頼み、勢いに任せて、隣国のと手を結びました。唐人を加担させて、百済を傾けて転覆させました。国王大臣たちをみな捕虜にして連れて行き、残っているものもいません。

(ある本には、今年の7月10日に大唐の蘇定方(そていほう)が船団を出して、尾資(びし)の津に進軍した。新羅の王・春秋智(しゅんしうち)は兵馬を引き連れて、ノズリ山に陣を敷いた。百済を挟み討ちして三日間戦った。我が百済の王城は陥落した。7月13日の事だった。ノズリ山は百済の東の堺にある。)

 そこで、西部恩卒(さいほうおんそちー官位)・鬼室福信(姓と名)は怒り発奮してニザギ山に布陣しました。達率(官位)・余自進(よじしんー姓と名―百済の王族)は中部のクマノリ城に布陣しました。それぞれ自分の陣営で、散り散りになった兵たちを集めました。

武器は百済滅亡の時に使いはたしていました。だから、棍棒で戦いました。新羅軍が敗れました。百済はその武器を奪いました。こうして百済軍は再び回復して、精鋭軍となりました。ですから、唐はあえて侵入しようとはしません。

福信たちは、ついに我が国の者たちを集めて、共に百済城を守っています。国の民は称えて佐平(最高官位)・福信、佐平・自進と呼びます。ただし、福進だけは神の恵みで戦って滅んだ国を再興しました。」と奏上しました。

冬10月に、百済は佐平・鬼室福信と佐平・貴智(くゐち)たちをヤマト朝廷に派遣して、唐の捕虜100人余りを連れて来て献上しました。今、美濃の国の不破(ふわ)・片県(かたあがた)の唐人がこの人たちです。

福信たちは、軍勢を出して百済国を助けるように頼みました。併せて、百済の王子・余豊璋(よほうしょうー人質として日本にいた)の帰国を願って言いました。

「唐人が、害虫のような新羅と手を結んで国境を侵し、我が国を滅ぼし、我が国王と群臣を捕虜にしてしまいました。
〔百済の王・義慈(ぎじ)と妻・恩古(おんこ)、その子・(りう)たち、大臣の佐平・千福国弁成(こくべんじょう)・孫登(そんとう)たち、合わせて50人余り。秋7月13日に、将軍に捕えられて唐国に送られた。〕

しかも、百済国は遥か遠いヤマトの天皇の御加護を頼んで、さらに離散したものたちを集めて国を回復しました。まさに、今、謹んで願うのは、百済国から貴国に遣わした王子・豊璋を迎えて、国王にしていただきたい事です。」などと奏上しました。

 斉明天皇が言いました。
「軍隊の派遣を求めて、救援を頼むような話は昔もあったと聞いている。国が危ないのを助け、絶えた王族の血統を継ぐ事は、古典にも書かれている。

百済国の人たちが困って我が国を頼っているのは、本国が滅亡して乱れ、頼る所もなく、相談する所もないという事情からである。再興を願って戈(ほこ)を枕にして、苦い肝を舐めて、敗戦の屈辱を忘れないようにしている。是非とも助けてくれと、遠い所から来て奏上している。その志(こころざし)をむげには出来ない。

将軍に命じて、あらゆる手段をこうじて、共に進軍しよう。雲のように会い、雷のように動いて、ともに新羅のサタクの地に集結して、悪人たちを切って、苦しみを緩和させよう。
有司(つかさ)よ、人質の王子たちを、礼節をもって遣わすように。」などと言いました。

〔王子・豊璋とその妻子と、叔父の忠勝たちを送還する。その出発は7年の記事にみえる。ある本には、天皇は余豊璋を立てて百済王として、塞上(さいじょう)を補佐とし、礼節を持って遣わしたという。〕

12月24日に、斉明天皇は難波の宮に行かれました。天皇は福信の願いを聞き入れて、筑紫に行って、援軍を出そうと思い、まずはここに来て、もろもろの兵器の準備をしました。
                                           (つづく)

余豊璋…舒明3年3月、百済は人質として豊璋をヤマトに奉っていた。



c0213541_219724.gif



[PR]
                                    【日本書紀】

斉明天皇(2)(皇極天皇)
生没(594~661)在位(655~661)

筑紫の朝倉橘広庭の宮


この年(斉明6年)、百済の為に新羅を討とうと決定して、すぐに駿河(するが)の国に命じて船を造らせました。船が出来上がって、続麻郊(おみの)に曳航していった時、その船が夜中に何故か前後(へとトモ)が入れ替わってしまいました。それを見た人々は敗戦の予兆だと思いました。

信濃の国では「蠅が群がって西に向かって巨坂(おおさか)を飛び越えた。その大きさは十人の広げた手で囲むほど。高さは天に届いた。」と言いました。これも救援軍が負ける前兆ではないかと噂しました。

童謡が歌われました。(意味は分かりませんー綾杉)
  まひらくつのくれつれをのへたをらふくのりかりが
  みわたとのりかみをのへたをらふくのりかりが
  甲子とわよとみをのへたをらふくのりかりが

斉明天皇7年の春1月6日に、天皇が乗船された船が西に行って、初めて海路に出ました。
8日に御船は岡山県大伯(おおく)の海を通りました。その時、大田姫皇女(おおたのひめみー中大兄皇子の娘で大海人皇子の妃)が女の子を出産しました。そこでその地名をとって大伯皇女(おおくのひめみこ)と名付けました。

14日に御船は伊予の熟田津(にぎたつ)の石湯行宮(いわゆのかりみや)に停泊しました。
3月25日に御船は航路に戻って那の大津に着きました。磐瀬行宮(いわせのかりみや)に住みました。天皇は名を改めて長津の宮とされました。

夏4月に百済の福信が使者を派遣し、手紙をたてまつって、百済の王子・余豊璋を返してほしいと願いました。(ある本には4月に天皇は朝倉の宮に遷宮されたといいます。)

5月9日に天皇は朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に遷宮されました。この時に朝倉神社の木を切り払って広庭宮を作ったために、神の怒りにふれて雷が落ちて、御殿を壊してしまいました。

また、この宮の中に鬼火が現れました。このせいで大舎人(とねり)や色々な近侍たちが大勢病気になって死にました。
23日に耽羅(たむら)国(済州島)が初めて王子アハギたちを人質として差し出しました。
6月に伊勢王(いせのおおきみ)が亡くなりました。
秋7月の24日に斉明天皇は朝倉宮で崩御されました。(68歳)

8月1日に皇太子・中大兄皇子は天皇の御遺体を磐瀬宮に移しました。この夜、朝倉山の上に鬼が出て、大笠を付けて、喪儀を見ていました。人々は怪しみました。

冬10月7日に天皇の喪船は海路で帰って行きました。途中の湊で皇太子が天皇をしのんで歌を詠みました。
 あなたの目が恋しい。
 こうして舟泊まりしていると、こんなに恋しいとは。
 あなたの目をもう一度見たい。
23日に天皇の喪船は難波に戻って来ました。 
11月7日に天皇の御遺体を飛鳥川原でモガリしました。9日までモガリをしました。

(日本世紀の本には、11月に福信が捕らえた唐人・続守言(しょくしゅげん)たちが筑紫についたという。ある本には、この年に百済の佐平・福信が献上した唐の捕虜106人、近江の国の墾田(はりた)に住まわせたという。その前年にすでに福信は唐の捕虜を献上したとも言っている。ここに異説を書いておく。定めよ。)

c0213541_22443727.jpg

7世紀の地図です。   (高句麗+百済)VS(唐+新羅)
この二年後に白村江の戦いがあります。
百済の福信が日本に来た時期が当時すでに幾つもの説が出てしまって分からなくなっています。
橘広庭宮は三か所ほど候補地が挙がっています。町は須川に石碑を立てています。
磐瀬宮(長津宮)は福岡市の高宮八幡宮付近だと言われています。
            福岡県那珂郡安徳村梶原です。
朝倉でのモガリの宮は朝倉市の恵蘇八幡宮・木の丸殿です。詳細は『ひもろぎ逍遥』に書いています。



c0213541_219724.gif



[PR]
スペルボーン(Spellborn)