カテゴリ:神功皇后(息長帯比賣命)( 17 )

                                    【日本書紀】

神功皇后(11)

忍熊王を攻撃

この時、昼なのにまるで夜のように暗い日々が何日も続きました。当時の人たちは「常夜になってしまった。」と言いました。
皇后は紀の直(あたい)の祖である豊耳
「昼でも暗い原因は何だろうか。」と尋ねました。

その時、一人の老父
「言い伝えでは、このような怪異をアザナヒの罪と言うそうです。」と答えました。
「それはどういう事だ。」と尋ねると、
「二つの社の祝物(はふり)を、一緒に葬ったのではないでしょうか。」
そこで邑や里に調べに行かせると、ある人が、
小竹の祝(はふり)と天野の祝が、仲の良い友だったのですが、小竹の祝が病気にかかって死んでしまいました。すると天野の祝が血の涙を流して、
『二人は生きている間、親しい友だった。死んでも同じ穴に葬られたい。』
と言って、遺体の傍で自害しました。それで合葬したのです。もしかしたら、この事でしょうか。」
と言いました。

それを聞いて墓を開いて確かめると事実でした。そこで棺を改めて、別々に埋葬しました。すると、太陽が輝きだして、昼と夜の区別がはっきりとするようになりました。

3月5日に、皇后は武内宿禰と和邇(わに)の臣の祖の武振熊(たけふるくま)に命じて、数万の軍勢を率いて、忍熊王(おしくまのみこ)を攻撃させました。そこで武内宿禰らは精兵を選んで、山背から出ました。ウヂについて、川の北に駐屯しました。

忍熊王は陣営を出て戦おうとしました。その時熊の凝(こり)という者が忍熊王の軍勢の先鋒となりました。その時、自分の軍勢を奮い立たせようと思って、声高に歌を詠みました。
  かなたの あれあれ、あの松原 
  あの松原に 進んで行って、
  槻弓(つくゆみ)に 音の出る鏑矢(かぶらや)をつがえて、
  貴人は貴人どうし、親友は親友どうし、さあ闘おう。
  我は 闘おう。 霊力が極まっているという 武内の朝臣と。
  腹の中は 小石だらけのやつさ。
  さあ、闘うぞ、我は。

その時、武内宿禰は大軍に命じて、全員に髪を椎(つち)のように結わせました。そして号令をかけて、
「おのおの、控えの弦(ゆづる)を髪の中に収めよ。また木刀を腰につけよ。」
と言いました。そうして、皇后の仰せだと言って、忍熊王をだまして言いました。

「私は天下を取ろうとは思っていません。ただ、幼い皇子を抱いて、君王(忍熊王)に従うだけです。どうして、戦おうなどと思うでしょうか。
願わくは、お互い一緒に弦を絶って武器を捨て、ともに連合して和睦しようではないですか。そうして、君王は皇位を継承して、その席に安心して座り、枕を高くして、よろずのまつりごとを専制なさるがよい。」と。

そう言うと、はっきりと分かるように軍勢に命じて、全員に弓の弦を断ち切らせて、太刀をはずして、川に投げ入れさせました。忍熊王はその偽りを信じて、自分の軍勢に命じて、武器をはずして川に投げ入れて、弓の弦を切らせました。

そうすると、武内宿禰は大軍に号令をかけて、髪に隠した弦を出して再び弓に張って、真剣を付けさせました。そうして、川を渡って進軍しました。

忍熊王は騙された事が分かって、倉見別(くらみわけ)・イサチの宿禰に言いました。
「謀られた。もう、代わりの武器はない。どうして戦えようか。」
といって、軍を連れて少し退却しました。

武内宿禰は精兵を出して、追いかけました。ついに逢阪で対戦して、討ち破りました。それで、その地を名づけて逢坂と言います。忍熊王の軍勢は逃げました。

武内宿禰はささなみの栗林で追いついて、大勢を斬りました。そこに血が流れて、栗林にあふれました。それで、縁起が悪いと言って、今に至るまで、この栗林の木の実は御所に献上しません。

忍熊王は逃げて隠れる所が無くなりました。そこでイサチの宿禰を呼んで、歌を詠みました。
  さあ、我が君、イサチの宿禰よ。
  霊力が極まった 内の朝臣の 
  頭槌(くぶつち)の太刀にやられて 痛手を負わないとするなら、
  ニホ鳥のように 水に潜るしかない。
こうして二人共に、瀬田の渡し場で身を投げて死にました。

その時武内宿禰は歌を詠んで言いました。
  淡海の 瀬田の渡し場に 潜る鳥
  目には見えないので 本当に身を投げたかどうか分からなくて、
  溜息がでる。
そう言って、その遺体を探させたけれども、見つかりませんでした。こうして数日して、ウヂ川に出ました。武内宿禰はまた歌を詠んで言いました。
  淡海の 瀬田の渡し場に 潜る鳥
  田上を過ぎて ウヂで捕まえた。

(つづく)

昼間もなお暗くなったという話は、初めは何の現象か分からなかったのですが、火山が噴火して灰が世界中に廻って冷害をもたらした経験をした今、これはどこかの火山噴火による現象だったのではないかと、想像できるようになりました。

二人を合葬するという習慣があって、祀る神が違う人たちを合葬するのは罪であるという文化思想があったのが読み取れます。神が違えば氏族、人種が違う可能性もありますね。たまたま『ひもろぎ逍遥』で祇園山古墳人丸古墳で男女の合葬などを見たので、墓制を知る上で興味深い話に思われました。



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神功皇后(12)

摂政時代

冬10月2日に、群臣神功皇后を尊んで、皇太后(おおきさき)と呼びました。この年、太歳を辛巳(かのとみ)に催行し、摂政元年としました。
神功摂政2年の冬11月8日に、仲哀天皇を河内の国の長野の陵に埋葬しました。

3年の春正月3日にホムダワケの皇子を皇太子としました。そうして磐余(いわれ)に都をつくりました。これを若桜の宮といいます。       

5年の春3月7日に、新羅の王ウレシホツ、モマリシチ、ホラモチたちを派遣して朝貢しました。それは先に人質となった、ミシコチ伐旱(ほつかんー新羅の官位)を返してほしいという心情からでした。

新羅の使者たちはミシコチ伐旱に謀り事を教えて、欺かせて言わせました。
「使者のウレシホツとモマリシチたちが私めに言いました。
『新羅の王は、私めが久しく還らないので、妻や子供たちを皆捕えて奴婢としてしまった。』と。願わくは、しばらく本土に還って、真偽を確認したいのですが。」と。

皇太后(神功皇后)は許可しました。葛城の襲津彦(そつびこ)を付けて派遣しました。共に対馬に着いて、鉏海(さひのうみー対馬から朝鮮までの海域・諸説あり)の湊に泊まりました。

その時、新羅の使者のモマリシチたちは、密かに船と水手(かこ)を手配して、ミシコチ旱岐(かんき)を乗せて新羅に逃がしました。その時、人形を作ってミシコチの布団の中に置いて、偽って病人のふりをさせて、襲津彦に言いました。
「ミチコチが急に病気になって死にそうです。」と。

襲津彦は人を送って病人を見に行かせました。そこで騙された事が分かって、新羅の使者三人を捕えて牢屋に入れて、火をつけて焼き殺しました。そして新羅に行って、蹈鞴津(たたらのつ)に行き、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰国しました。この時の捕虜たちは今の桑原、サビ、高宮、忍海(おしぬみ)たちの、四つの邑の漢人(あやひと)らの始祖です。

13年の春2月8日、神功皇太后は武内宿禰に、皇太子に従って角鹿(つぬが)の笥飯(けひ)の大神に参拝するように命じました。
17日に皇太子は角鹿から帰って来ました。この日に、皇太后は太子の為に大殿で宴をしました。皇太后は酒をなみなみと注いだ杯をささげて、皇太子を祝福しました。そして、歌を詠みました。

  この御酒は 私の作った御酒ではありません。
  神酒の司、常世の国にいます 
  少御神(すくなみかみ)が 豊かであるように祝福し、
  長寿であるように祝福し、
  神祝いをして 祝い狂って 出来上がった御酒です。
  残さず飲みたまえ。ささ。

武内宿禰は皇太子に代わって返歌をしました。
  この御酒を 醸した人は 
  その鼓を 臼のように立てて
  歌いながら 醸したんだなあ。
  この御酒の やたら 楽しさと言ったら。
  さあ。

神功摂政39年。この年、太歳を己未(つちのとひつい)に催行しました。
「魏志」に曰く、明帝の景初の3年の6月、倭の女王が大夫・難斗米たちを派遣して、帯方郡に至り、天子に謁見を求めました。太守の鄧夏は役人を派遣して、魏の都洛陽に一行を行かせました。

40年。「魏志」に曰く、正始元年に建忠校尉・梯携たちを派遣して詔書と印綬を倭国に賜りました。

43年.「魏志」に曰く、正始4年、倭王は再び大夫の伊声者掖耶たちを派遣して朝貢しました。

46年の春3月1日に、斯摩(しま)の宿禰卓淳(とくじゅん)国に派遣しました。卓淳の国王・マキム旱岐(かんき)が斯摩宿禰に話しました。
「甲子(きのえね)の年の7月20日に、百済人(くだらびと)クテイ、ミツル、マクコの三人が我が国に来て言いました。

『百済の王が東の方に日本という貴い国がある事を聞いて、臣下を派遣して、その貴い国に朝貢させました。道を探し求めて、その国に着きました。もし、貴殿の国の臣下にも道を教えて通わせるなら、我が国王も深く貴殿をよろこばしく思います。』と。

それを聞いて、私(卓淳国王)はクテイたちに言いました。
「前から、東の国に貴い国がある事は聞いていた。しかし、通ったことがないので、道も分からない。ただ、海のかなた遠くにあって波が険しい。大船に乗るなら、何とか通う事が出来るだろう。もし湊があるとしても、船がなければどうして行く事ができようか。」と。

すると、クテイたちが言いました。
『それならば、すぐ今は通う事は出来ないでしょう。また帰国して船を準備しますから、その後に(便乗して)通うと良いでしょう。』
また念を押して言いました。
『もし、貴い国の使者が来る事があれば、必ず我が国に伝えたまえ。』とも。
そう言って帰国しました。」

その話を聞いて、斯摩宿禰は従者のニハヤと卓淳国の人、ワコの二人を百済国に派遣して、その王を慰労しました。時の王・百済の肖古(しょうこ)王は深く喜んで、手厚く待遇しました。

その時、五色の綾織の絹をそれぞれ一匹、また牛の角を張りつけた弓矢、合わせて鉄ののべ板40枚をニハヤに預けました。またすぐに宝の蔵を開けて、いろいろ珍しいものを見せて、
「我が国には献上物にしたい珍宝があります。貴国に献上しようと思っていても、道が分からない。志はあっても、かないませんでした。しかし、今、使者に預けて、献上します。」と言いました。

そこで、ニハヤはそれを受け取って、還って来て斯摩宿禰に話を伝えました。こうして、斯摩宿禰は卓淳国から帰国しました。

(注…百済人は日本へ朝貢したと、卓淳国では言っていましたが、自国では、ニハヤには道が分からなかったと言っています。矛盾しますがそのまま訳します。)

ひとりごと
この部分には有名な魏志倭人伝の記事に該当する文が挿入されています。
この事から、神功皇后=卑弥呼と解釈する人もいます。
卑弥呼の人生と神功皇后の人生を並べて比較すると全く別人物である事が分かります。
この挿入部分は、日本書紀の編者が神功皇后=卑弥呼としたかったからで、その為に
神功皇后の寿命を100歳にしたという説もあります。


韓国の弾琴台土城で鉄鋌が40枚出土した記事が新聞に載っていました。
時代は少し違いますが、40枚という数字が日本書紀のこの部分と一致することで、
興味深いものとなっています。
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(2011年3月24日 西日本新聞 写真・文は福岡大学教授 武末純一氏による)
記事は『ひもろぎ逍遥』「弾琴台土城」にて掲載
http://lunabura.exblog.jp/16245067/
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神功皇后(13)

百済と連合して新羅に勝利す
 
 
神功摂政47年の夏4月に、百済の王クテイ、ミツル、マクコを日本に派遣して朝貢しました。その時、新羅国の朝貢の使者もクテイと共に参りました。皇太后と太子・誉田別尊(ほむたわけのみこと)は大いに喜んで言いました。

先の王の所望された国の人が今、来朝した。痛ましい事よ、天皇は亡くなってしまって、間に合わなかった。」と。群臣たちは皆涙を流しました。

このあと二つの国の貢物(みつぎもの)を調べました。すると、新羅の貢物には珍しいものが沢山ありました。百済の貢物は少なくて、賤しくてよくありませんでした。そこで百済のクテイたちに尋ねました。
「百済の貢物は新羅に劣っているが、どうしてだろうか。」
答えて言いました。

「私たちは道に迷って、沙比(さひ)の新羅に着きました。すると新羅人は私たちを捕えて牢獄に入れました。三か月すると、殺そうとしました。その時、私たちは天に向かって呪詛(じゅそ)しました。新羅人はその呪詛を恐れて殺せませんでした。

しかし、私たちの持っていた貢物を奪って、自国の貢物としました。新羅の賤しいものを百済国の貢物とした上で、私たちに言いました。

『もし、これを取り違えてしまったら、帰国した時にお前たちを殺す。』と。私たちは恐れて従うのみです。こうして、なんとか生きて日本の朝廷に来る事が出来ました。」と。

それを聞いて皇太后とホムタワケの命は新羅の使者を責めて、天神に祈って言いました。
「誰を百済に派遣して、この話の真偽を確かめさせたらいいでしょうか。誰を新羅に派遣して、その罪を問えばいいでしょうか。」と。

そこで、天神が教えて言いました。
武内宿禰に計画させよ。そして、千熊長彦(ちくまながひこ)を使者にすれば、まさに願いの通りになるだろう。」と。こうして、千熊長彦を新羅に派遣して責めると、百済の献上物を横取りしたのが明らかになりました。     

49年の春3月に、荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)を将軍に任命しました。クテイたちと共に軍備を整えて、海を渡って卓淳国(とくじゅん)に行って、新羅を攻撃しようとしました。

その時、ある者が言いました。
「兵士が少なくては新羅を破ることはできません。サハクカフロに援軍を頼むのがよろしいかと。」
進言を受けて援軍を頼むと、百済のモクラコンシササナコは精兵を率いて、サハクとカフロと共に卓淳に集合して、新羅を攻撃して討ち破りました。

こうして、ヒシホ・南加羅・トクの国・安羅(あら)・多羅・卓淳(とくじゅん)・加羅、七つの国を平定しました。それから西の方に兵を移動させて、コケイの津に至って、南蛮のトムタレ(済州島)を討って百済に授けました。

それを受けて、百済王の肖古(しょうこ)とクウィス王子が軍勢を率いてやって来ました。その途中、ヒリ・ヘチュウ・ホムキ・ハンコの四つの邑は戦わずに降伏しました。

百済の王と王子は、荒田別・モクラコンシたちにオル村(ツルスキ)で会いました。互いに喜んで厚く礼を交わしました。

四人の中で千熊長彦と百済の王だけが百済国に行って、ヘキ山に登って誓いました。

またコサ山に登って一緒に岩の上に座りました。そして百済の王は、
「もし草を敷いて敷物としたら、火に焼かれる事もありましょう。
また木を組んで敷物としたら、水に流される事もありましょう。
こうして岩の上に座って誓うのは、永遠に朽ちることはないという事を示しています。

だからこの誓いは今からのち、千秋万歳に絶えることなく、終わることもないのです。
常に貴国の西蕃と称して、春秋に朝貢します。」
と言って誓いました。

それから千熊長彦を都に連れて行って、手厚く待遇しました。その後クテイたちを添えて千熊長彦を日本に送り届けました。

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神功皇后(14)

百済は七支刀と谷那の鉄を献上する
 
50年の春2月に荒田別たちは帰国しました。

夏5月に、千熊長彦クテイたちも百済から戻って来ました。皇太后は喜びながらも、クテイに、
「海の西のもろもろの韓をすでにそなたの国に与えた。それなのに、またこうして何度もやってくるのはどうしてなのか。」と尋ねました。

クテイたちは、
「天朝の恵みは、遠くて卑しい我が国にまで及んでおります。我が王も喜んで踊り出さんばかりです。そこで真心を示すためにこうして再び参りました。万世に渡るまで必ずお仕えする心を示すためです。」
と奏上しました。

皇太后は
「嬉しいことを言ってくれる。それは私の望むところだ。」
と言って多沙城(たさのさし)を追加して与えて、通い路の駅舎(うまや)としました。

51年春3月に、百済王はまたクテイを派遣して朝貢しました。
皇太后は皇太子武内宿禰に、
「親しくする百済国は、人ではなく天が与えたような国ですね。貢いで来る物は珍しいものばかかりで、見たこともないものばかり。時を置かず常に朝貢して来て、大変喜ばしいことです。(私が死んだあとも)変わらず、厚く恩恵を与えるように。」
と言いました。

その年、帰国するクテイを千熊長彦に送らせました。百済に着くと皇太后の言葉を伝えました。
「われは神の示しに従って初めてここに道を開いた。海の西を平定して百済に与えた。今また友好の縁をしっかりと結び、永遠に慈しむものである。」

百済の王の父子は並んで額を地につけ、
「貴国の恩恵は天地より重いものです。いついかなる時にも決して忘れません。聖王は天上にあって、月や太陽のように輝いておられます。私めは下に侍って、忠誠の心は山のように不動です。永遠に西蕃となって、二心(ふたごころ)は持ちません。」と言いました。

52年の秋、9月10日にクテイたちは千熊長彦に従って来朝しました。その時、七支刀一口、七子(ななつこ)の鏡一面、および種々の宝を献上しました。そして、
「臣下である我が国の西に川があり、水源は谷那(こくな)の鉄山から出ています。

大変遠いところで、七日では着きません。そこに行き、その山の鉄を採って、永遠に聖朝に献上します。」
と言いました。

そうして、肖古王は孫のトムル王に、
「今わたしが使者を通わせている海の東の貴い国は天がひらいた国です。その国が天の恩を我が国にも与えて、海の西側を分けて与えてくれた。だから、この国の基盤は永遠に固いのです。

そなたも、この友好関係を大切にして、国中から集めたものを献上し続けてくれるなら、私は死んでも恨むことはない。」と言いました。これより後、毎年朝貢し続けました。

55年に百済の肖古王は亡くなりました。
56年に百済のクウィス王子が王となりました。
62年に新羅は日本に朝貢しませんでした。その年、葛城襲津彦を派遣して新羅を攻撃しました。
64年に百済国のクウィス王が亡くなり、トムル王子が王に即位しました。
65年に百済のトムル王が亡くなりました。アクヱ王子は年少でした。その叔父の辰斯(しんし)が王位を奪って即位しました。

(66年。この年は晋の武帝の泰初2年である。晋の起居の注に武帝の泰初2年10月に倭の女王が通訳を何人も通して、朝貢したと書いてある。)

69年の夏、4月17日に、皇太后は稚桜(わかさくら)宮で崩御しました。100歳でした。
冬10月15日に狭城盾列陵(さきのたたなみ)に埋葬しました。この日、皇太后に気長足(おきながたらし)姫尊(ひめのみこと)と追号しました。

                                          (終わり)



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息長帯比賣命(Ⅰ)  (神功皇后)

 オキナガタラシ姫の命は仲哀天皇の大后(おおきさき)です。
オキナガタラシ姫の命は神を招き寄せる方でした。

 仲哀天皇が筑紫の香椎(かしい)に宮を作られて、
熊襲の国を討とうとされた時に、ご神託を聞くことになりました。

 天皇が琴を弾いて、オキナガタラシ姫が神懸かりをします。
建内(たけうち)の宿禰(すくね)の大臣がサニワをしました。
サニワとは降りた神が、どなたか、本物か偽物かなどを
明らかにする人です。

 オキナガタラシ姫が神を招き寄せて、託宣をしました。
「西の方に国がある。
金銀を始めとして、目にも輝くいろいろな珍しい宝が沢山その国にある。
私が今その国を帰服させて与えよう。」と。

そこで、天皇が答えて申し上げました。
「高い所に登って西の方を見るけれども、国は見えません。
ただ、大海があるだけです。」
と言って、
「偽りをいう神だ。」
と言いながら琴を押し退けて、
それ以上お弾きにならず、黙って座ったままになりました。

 すると、その神は大変お怒りになって
「そもそもこの天の下はそなたの治める国ではない。
そなたは人間が行かねばならぬ、一本道に向かうがよい。」
と言われました。
一本道とは死への道です。

そこで、建内の宿禰の大臣が言いました。
「畏れ多いことです。我が天皇、やはりその琴をお弾き遊ばせ。」と。
そこで、そろそろと琴を取り寄せると、生半可(なまはんか)に
お弾きになりました。

 すると、どれほどの時間も経たないで、琴の音が聞こえなくなりました。
火をともして見ると、すでに崩御されていました。

そこで驚き懼(おそ)れて、殯宮(もがりのみや)に亡骸を安置しました。

 神の怒りを解くために、神へのお供え物を捧げ、
国中の人々の犯した罪や穢れを払う大祓(おおはらえ)をしました。
罪、穢れとは、生きながら獣の皮を剥ぐ罪、尾の方から剥ぐ罪、
田の畔(あぜ)を壊す罪、水路を埋める罪、他(略)です。

             *

 この大祓を済ませると、再び建内の宿禰の大臣がサニワとなって、
ご神託を求めました。

今度も、神が教え諭す様子は、全く先日の通りで、
「そもそも、この国は、皇后のお腹の中に宿る御子が治める国である。」
と諭されました。

そこで、建内の宿禰の大臣が言うには
「畏れ多いことです。
我が大神さま、今お懸かかりになっているお方のお腹に宿る御子は
男御子か女御子か、どちらでしょうか。」
「男御子ぞ。」
とお答えになりました。

さらに詳しく尋ねました。
「今、このように教えられる大神のお名前を知りたいのですが。」
と求めると、すぐにお答えになりました。

「これは天照大神の御心ぞ。
また、底筒男(そこつつお)、中筒男、上筒男の三柱の住吉大神ぞ。
今まことにその国を求めようと思うならば、
天の神や国の神、また、山の神、川や海の神に、ことごとく御幣を奉り、
住吉大神の御魂(みたま)を船の上に祀り、
マキの木の灰をヒョウタンの器に入れ、
また、箸と柏の葉で作った皿をたくさん作って、
それを皆大海に散らして浮かべて、渡るがよい。」
と言われました。

             *

 そこで、詳しく教えられた通りにして、軍勢を整えて、
船を並べて、西の方の国に渡られると、
海原の魚、大小を問わず、ことごとく御船を乗せて進みました。
その上、追い風も吹いて、御船は波が寄せるのに任せて行きました。

その御船を乗せた波は新羅の国に押し上がって、
完全に国土の半分まで達しました。

そこで、新羅の国王は恐れをなして、奏上しました。
「これからは天皇の命令に従って、御馬を飼育する者となって
毎年、貢物(みつぎもの)を載せた船を何艘も出して、
船の底が乾く間もないようにします。
棹(さお)や舵(かじ)が乾く間もないように、
天地の運行がとどまることのないのと同じように、
お仕えしましょう。」と申し上げました。

そう言う事で、新羅の国は御馬を飼育する部曲と定めて、
百済の国は海外の直轄地と定めました。
そして、御杖を占有権を表す印として、新羅王の門に突き立てて、
住の江(すみのえ)の大神の荒御魂(あらみたま)を
守護する神として祭り鎮めて、日本に戻られました。

           *

 ところが、その政(まつりごと)が終わらない内に
お腹の御子がお生まれになろうとしました。
そこで、子供が生まれないようにと石を取って御裳の腰に巻いて、
筑紫の国に渡って、その御子はお生まれになりました。

その御子がお生まれになった所を名づけて、
「宇美」(うみ)といいます。

 その御裳に巻きつけた石は筑紫の国の伊斗(いと)村にあります。
また、筑紫の末羅縣(まつらのあがた)の玉島の里に着いて、
その河のほとりでお食事をされました。四月の上旬でした。

そこでその河の中の石がごろごろした所で御裳の糸を抜き取って、
飯粒を餌にして、その河のアユを釣りました。

 この故事から、四月の上旬になると、
その土地の女の人たちは裳の糸を抜いて、
飯粒を餌にしてアユを釣ることが今に至るまで、続いています。

            *

 さて、オキナガタラシ姫の命は大和の国に御帰還される時に、
人々が忠誠心を持っているかどうか疑わしいので、
喪船(もふね)を一艘仕立てて、天皇の棺をその喪船に載せて、
先に「天皇は既に亡くなられた」と言い洩らさせました。

 こうして大和に向かう途中、御子の異母兄弟に当たる
香坂(かごさか)の王と忍熊王(おしくま)の王が
「オキナガタラシ姫が御子を連れて、大和の国にご帰還される。」と聞いて、
待ち受けて討ち取ろうと思って、
斗賀野(とがの)に進み出て、ウケイの狩をしました。

香坂の王がクヌギの木に上って座って見ると、
大きな怒った猪が出て来て、そのクヌギの木の根を掘って倒し、
その香坂の王を食い殺しました。

しかし、その弟の忍熊の王はこのウケイの大凶の結果を畏れずに、
軍勢を引き連れて、オキナガタラシ姫の船を待ちました。

 先頭を行く喪船は空の船なので、まずそれを奪い取ろうと攻めかかりました。
すると、喪船に隠れていた兵士たちが出て来て、戦いになりました。

 この時、忍熊の王は難波の吉師部(きしべ)の祖先の
伊佐比の宿禰を将軍とし、
オキナガタラシ姫の軍勢は丸邇(わに)の臣(おみ)の祖先の
難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)の命を将軍としていました。

 建振熊の命が忍熊の王の軍を追撃して山代まで行った時、
忍熊の王の軍は態勢を立て直し、互いに退かずに、戦いになりました。

 そこで、建振熊の命がはかりごとをして、敵に伝えました。
「オキナガタラシ姫の命はすでに亡くなりました。
だから、これ以上戦う理由が無い。」
そう伝令に言わせると、弓の弦を断ち切って、偽って服従しました。

 敵将軍はその嘘を真に受けて、弓の弦をはずし、
武器を収めました。
 すると、建振熊の命は頭の上で束ねた髪の中から、
仕込んでおいた弦を取り出し弓に張り、追撃をしました。

忍熊の王は逢坂に逃げ退いて、そこで応戦しました。
建振熊の命はさらに追い攻めて、沙沙那美で打ち破り、
ついに軍勢に切り込みました。

忍熊の王と伊佐比の宿禰は共に追い攻められて、
船に乗って海上に逃げて、歌を詠みました。

  さあ、お前。
  振熊のやつが痛手を負わないのなら、
  カイツブリが水に潜るように、
  我々が淡海の湖(琵琶湖)に潜ろうではないか。

と詠むと、そのまま湖に入って、共に死にました。
  (Ⅱへつづく)
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息長帯比賣命(Ⅱ)   (神功皇后) 


御子と気比の大神

さて、建内の宿禰の命はその御子を連れて、
みそぎをしようとして、淡海から若狭の国へ行った時、
越前の国の角鹿(つぬが)に仮宮を造って滞在されました。

すると、その地の神イザサワケの大神の命が夢に出て来て、
言われました。
「我が名を、御子の御名と交換したいと思う。」

そこで、建内の宿禰は言祝いで(ことほいで)言いました。
「畏れ多いことでございます。お言葉の通りに変え奉ります。」
と申すと、さらに大神が言われました。
「明日の朝、浜辺に行きなさい。
名を交換したしるしの贈り物をしよう。」

そこで、翌朝、浜に御子が行かれると、
鼻が傷ついたイルカが浜辺全体に打ち上げられていました。

 御子が言われました。
「私に大神の食べ物の魚をくださった。」と。

こうして、大神の御名を称えて、ミケツの大神と
名をお付けになりました。
これから、今でも気比(けひ)の大神と言います。
また、そのイルカの鼻の血の匂いが大変臭かったので、
そこを血浦(ちうら)と言います。
今は都奴賀と言います。

それから、再び大和にお戻りになった時に、
母君のオキナガタラシ姫の命は無事を祈って作る
待酒(まちざけ)を造って献上しました。
そして、歌を詠んでいわく、

  この御酒は私の作った御酒ではありません。
  酒でも極上の酒です。
  常世の国にいらっしゃるスクナビコの神が
  祝福して、狂わんばかりに祝福し、
  豊かであるように祝福し、祝福し尽くして、
  出来上がった御酒ですよ。
  盃を残さずお飲みなさい。
  ささ。

とお歌いになりました。
こうして、大御酒をたてまつりました。
そこで、建内の宿禰の命が御子の代わりに答えて歌いました。

  この御酒を造った人は
  その鼓を臼のように立てて歌いながら、醸したんだなあ。
  舞いながら造ったんだなあ。
  この御酒の、御酒のやたら楽しい事よ。
  ささ。

これは「酒楽」(さかくら)の歌といいます。

オキナガタラシ姫は御年、百歳でお亡くなりになり、
狭城の楯列(たたなみ)の陵(みささぎ)に埋葬されました。



(古事記 仲哀天皇の巻より)
一部、不自然なところは日本書紀を参考にしました。



新羅の国とオキナガタラシ姫 

いきなり新羅や百済の国が出て来ました。
話が唐突に思えるのですが、アカル姫の所を見て下さい。
新羅の王子、アメノヒボコが日本人の妻アカル姫を追って
日本にやって来ています。
彼は日本で新たに妻を娶って、子供を作っています。
その子孫にオキナガタラシ姫の名前が出て来ます。

アメノヒボコは長男なので、本来、次の国王になるところを、
弟に譲っています。
これから考えると、オキナガタラシ姫は
母方が新羅国の王族の血を正統にひく、末裔という事になります。
父方は開化天皇のひ孫です。
彼女は新羅国王と大和国王の両方の血筋を併せ持つ名門の女性でした。

そんな彼女を、大和の国の天皇は大后として迎えたのです。
この婚姻から、新羅との交流は何か大事な趣を持っていた事が
推測できます。

その天皇が本来熊襲を討ちに行ったのに、途中で新羅征伐に変わったのも、
本には書いていない何らかの事情がありそうですね。

『太王四神記』のラストシーンを覚えていますか?

ぺ・ヨンジュンが主演した『太王四神記』のラストシーンで
高句麗王のタムドクが光の中に消えていく先に
大きな石碑がありました。
あれが歴史の教科書に出てくる広開土王の石碑です。

その石碑には日本から后が来たように書かれているそうです。
オキナガタラシ姫の事かもしれません。


香坂王(かごさかのおう)と忍熊王(おしくまのおう)は
何故、オキナガタラシ姫の一行を攻撃したの?


仲哀天皇の王位継承者だったからです。
仲哀天皇には、先に二人の后がいました。
オオナカツ姫との間に、香坂王と忍熊王が生まれ、
オト姫との間にホムヤワケの皇子が生まれました。

香坂王と忍熊王のどちらかが、いずれは天皇になるはずでした。
ところが、新しく大后としてオキナガタラシ姫が選ばれました。
しかも52歳になった天皇に男の子が生まれてしまいました。

古代は末子相続と言って、一番下の子どもが相続する習慣がありました。
オキナガタラシ姫は今度の戦勝で人気を得た上に、
御子が大后の子という事で、
香坂王と忍熊王の立場が、不利になったのです。
そこで武力を使って、新しい王位継承者を抹殺しようとしました。

オキナガタラシ姫が腰に石を巻いたのは御まじない?

オキナガタラシ姫の出産が大幅に遅れました。
石を巻いたくらいで出産を遅らすことは不可能です。

そこで、仲哀天皇の死後に妊娠したのではないかという話が
昔から取り沙汰されています。
石を巻いたのは、そんな事情隠を隠すためかも知れません。
今でも父親探しの歴史本が結構見られます。


殯(もがり)の風習

貴人が亡くなって、古墳に埋葬するまで、棺を納める建物を建てて、
弔いました。
ずっと燈明を灯してお守りするのですが、
仲哀天皇の死を隠すために、燈明は灯されなかったそうです。

うけい(誓約)

古代日本では大事な事を決定する時には、神に祈って
成否を尋ねたり、吉凶を尋ねたりしました。
香坂王と忍熊王も狩りの獲物で占おうとしたのでしょうが、
香坂王が殺されるという大凶でした。

木花咲耶姫の結婚の時も、父親の神がウケイをした結果、
二人の娘を差し出しています。


伝承の伝わる神社

 香椎宮 福岡県東区

仲哀天皇がここに遷都をしました。そして、ここで亡くなりました。
新羅へ攻めるための軍事拠点ともなった所です。
今でも、オキナガタラシ姫と共に、ご神託を伺った場所が遺されています。
天皇の死後、オキナガタラシ姫が一番頼りにした、
建内宿禰の命も祀られています。    
          
            香椎宮(Ⅰ)古宮はこちら
            『ひもろぎ逍遥』からでもリンクしてます。

宇美八幡神社 福岡県粕屋郡宇美町 

神功皇后が御子を出産された所として伝えられています。
今でも、安産を祈願し、またお礼にお参りする人々が絶えません。

 オキナガタラシ姫が移動した先々には、数十以上の神社が伝わっています。
ここでは書き留める事が出来ない数です。
『ひもろぎ逍遥』で、少しずつ紹介して行きます。


神懸かりしたという小山田斎宮に行って来ました。
レポートは⇒カテゴリの『ひもろぎ逍遥』⇒「小山田斎宮」

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 夢に出て来た女性です。神功皇后かな。


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