<   2009年 10月 ( 15 )   > この月の画像一覧

須勢理毘賣    出雲大社 
         
スセリ姫は根の堅洲国(ねのかたすくに)の大神であるスサノオの命の娘です。

 ある日、オオナムヂの神がスサノオの命を訪ねて、
根の堅洲国にやって来ました。
娘のスセリ姫が出て見て、一目ぼれをして、
二人はすぐに結ばれました。
そうして、宮殿に戻って来て、父神に言いました。
「とても、きれいな神が見えました。」と。

 それを聞いて、スサノオの命が出て行ってみて、
「これは、葦原の国のブサイク男と言う方だぞ。」
とおっしゃいながらも、すぐに宮殿に招いて、
蛇の部屋にお泊めになりました。

 妻のスセリ姫は「蛇の領巾」(ひれ)(スカーフ)を
オオナムヂの神に渡しながら、
「蛇が噛みつこうとしたら、この領巾を三回振って打ち払って下さい。」
と言いました。

そこで言われたとおりにすると、蛇は自然と静まりました。
こうして、ゆっくりと寝て、翌朝は無事に蛇の部屋から
出て来られました。

 また、次の日の夜はムカデと蜂の部屋に入れられました。
スセリ姫は「ムカデ蜂の領巾」を渡して、同じように教えたので、
やはりぐっすりと寝て、出て来られました。

 また次には、大きな音のでる矢を野原に射て、
その矢を取ってくるように言われました。
そこで、オオナムヂの神が野に出た時、
スサノオの命は火を付けて、野をぐるりと焼きました。

オオナムヂの神が逃げ出す方向が分からずにいたら、
ネズミが出て来て言いました。
「内はホラホラ。外はスブスブ。」
(土の中はほら穴だよ。外の目印はくぼんでいるよ。)

それを聞いて、足元を強く踏みつけると、
穴に落ち込んでしまいました。
その穴に隠れている間に、
火は焼けながら過ぎて行きました。

それから、ネズミが矢を加えて持って来ました。
その矢羽はネズミの子がみんな食べてしまっていました。

 何も知らないスセリ姫は夫は死んだと思い込んで、
葬式の道具を持って、泣きながら野原にやって来ました。
父神ももう死んだだろうと思って、野原に出て来ました。

 すると、オオナムヂの神がその矢を持って来たので、
スサノオの命は彼を宮殿に連れて帰り、
今度は大きな部屋に呼び入れて、
自分の頭のシラミを取らせました。

 その頭を見ると、ムカデがいっぱいいました。
スセリ姫はムクの木の実と赤土を持って来て、夫に渡しました。
そこでオオナムヂの命はムクノ木の実を食い破って、
赤土を含んで吐き出したので、
スサノオの命はムカデを食い破って吐き出していると思って、
可愛いやつだと思って寝てしまいました。

すると、オオナムヂの神はスサノオの命の長い髪を取って、
天井の横木に結びつけて、大きな岩で部屋の戸を塞いで、
スセリ姫を背負い、
スサノオの命の生太刀(いくたち)と生弓矢(いくゆみや)と、
天(あめ)の琴を取って逃げ出しました。
その時、その天の琴が木に触れて、
大地が揺れて鳴り響きました。

寝ていたスサノオの命が驚いて目を覚まして、
起きあがろうとして、結び付けられた髪で部屋を引き倒してしまいました。
髪をほどいている間に、お二人は遠くにお逃げになりました。

 スサノオの命が黄泉比良坂(よもつひらさか)まで追って行くと、
はるか向こうに逃げる二人を見て、オオナムヂの神に言いました。

「そなたが持っている生太刀・生弓矢で
そなたの異母兄弟たちを、坂の下に追い伏せ、川の瀬に追い払って、
おぬし、大国主の神と名乗って、現世の国の神となって、
私の娘のスセリ姫を正妻にして、
ウカノ山の麓で、大地深く宮殿の柱を立てて、
高天原に届くほどの高い柱を立てて、住め。こやつめ。」

 こうして、ブサイク男と呼んでいたのを、大国主の神と名付けました。

大国主の神はその太刀と弓矢で、自分の命を狙う異母兄弟を追い払い、
坂の下ごとに追い伏せて、川の瀬ごとに追い払って、
国造りをされました。


 さてさて。
実は大国主の命は根の堅洲国に来る前に、ヤガミ姫と結婚の約束をしていました。
異母兄弟達が求婚したのに、ヤガミ姫が大国主の命を選んだのです。
それで、兄弟たちから何度か殺されては復活しました。
それを心配したオオヤビコの神のアドバイスで
根の堅洲国に相談に行ったのです。

 ですから、大国主の命はスセリ姫を正妻として連れて帰りましたが、
その後、約束通りにヤガミ姫の所にも出かけて行って、妻にしました。
それから、彼女を宮に連れて帰ったのですが、
スセリ姫を恐れて、生まれた子供を木の股に挟んで残して、
実家に帰ってしまいました。

 そこで、この子の名前を木の股の神と言い、また御井の神とも言います。

 その後、大国主の命は、また別に、ヌナカワ姫とも結婚しました。

                               (Ⅱへつづく)
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須勢理毘賣  (Ⅱ) 



 スセリ姫は大変嫉妬されました。
そこで大国主の命は困って出雲から大和の国に行って住もうとして、
旅の支度をして出発される時に、
片方の手は馬の鞍にかけて、片足はアブミに載せて、お歌いになりました。

  ぬばたまの実のような、真黒な衣をすっきりと装って、
  沖の水鳥が首を曲げて胸を見るように、
  わが姿を見ると、似合っていない。
  浜辺の波がさっと引くように脱ぎ捨てよう。

  カワセミの羽根のように青い衣をすっきりと装って、
  沖の水鳥が首を曲げて胸を見るように
  わが姿を見るが、似合わない。
  浜辺の波がさっと引くように脱ぎ捨てよう。

  山の畑に蒔いて育てたアカネをついて
  作った汁で染めた赤い衣をすっきりと装って、
  沖の水鳥が首を曲げて胸を見るように、
  わが姿を見ると、これはいい。

  慣れ親しんだ妻のミコトよ。
  群鳥のように私が他の者たちと一緒に行ってしまうと、
  紐でつながれた鳥のように、みんなに引っ張られて行ってしまうと、

  泣きませんとそなたは言っても、
  山のあたりの一本のススキのように
  うなだれてそなたが泣く様子は
  朝の雨がいつのまにか霧になるように
  いつまでも涙に濡れて乾かないだろうよ。

  若草のようにしなやかな妻のミコトよ。
  私の語る事はこれだけだよ。


すると、スセリ姫は大きな杯を持って、
大国主の命の所へ行って、捧げてお歌いになりました。

  八千矛の名を持つ神の命である、私の大国主の命さま。
  あなたは男なので巡って行くどの島でも、
  廻って行くどの岬でも、行き先々に
  若草のように若々しい妻を持つのでしょうが、
  私は女なので
  あなた以外には男はいません。
  あなた以外には夫はいません。

  寝所の隔てのカーテンの下で、
  絹の布団の柔らかな肌触りの中で、
  タクの木で織った布の蒲団がさらさらとする中で、

  泡雪のように白く若々しい私の胸を
  タクの木で作った強い綱のように白い腕で、
  手で抱き締め、抱き締めては、ほどいて、

  玉のようなあなたの手と私の手を枕にし合って、
  足をからませて寝て下さい。
  さあ、豊御酒(とよみき)を召し上がれ。


それを聞いて、大国主の命は旅を取りやめて、
二人で永遠の愛を誓い、腕を組みあって、
今にいたるまで、ここに鎮まっていらっしゃいます。
これを神語(かみがたり)と言います。

          (古事記 大国主の神の巻より)

大国主の命の妻はいったい何人?
スセリ姫は嫉妬深いと言われるけど、
大国主の妻が多すぎると思いますねえ。
妻の数を数えようとしましたが、あきらめました。
子供は180人ほどだそうです。

大国主が舅(しゅうと)から奪った琴
「天の詔琴」(あめののりごと)と言います。
妻を背負って、太刀と弓矢に加えて、
さらに持って行ったのがこの琴です。
よほど大切なものなんだと思って調べました。

古代には、結婚する時に妻の実家から婿に琴を贈って、
夫婦の契りとしたそうです。

しかもこの天の詔琴は神懸かりをする時に使う特別の琴のようです。
これで思い出したのが、オキナガタラシ姫の神懸かりです。
この時も天皇が琴を弾いていました。(オキナガタラシ姫を見てね。)

ここでは、なにせスサノオの命の天の詔琴です。
大変な呪力があったのかもしれません。
これを持つ事が、支配者としての象徴にもなったのでしょうか。

スセリ姫の名前は星の名前?
「すせり」の意味が分かっていません。
すせりは「後ずさる」のすさるを思わせる響きです。

日本の星の名前を伝える家系があります。
その真鍋大覚氏の『灘の国の星』に
さそり座の赤い星、アンタレスではないかと言う説を
見つけました。
引用しますね。

「すせりは『しさり』即ち天頂の星座から離れて、
辺陬(へんすう)の地平線を彷徨する星のことでもあった。」
と書いてあります。
分かりやすく言い換えると、スセリの星は夜空の高い所には見られない。
低い所だけを通る、という意味です。


星座ソフトのステラ・シアターで調べてみると、
アンタレスは夏至の日には真夜中に南に輝いています。
星の出から入りまで見ると、南の空を低く移動して消えて行きます。
確かに地平線近くにいて、高く昇ることはありませんでした。

「すさる」という言葉のイメージに、なるほど、近い感じがします。


号外だよ
昔の中国人のレポート『魏志倭人伝』に日本人の夫婦の記事を発見。
『魏志倭人伝』にこんな事が書いてありましたよ。
「日本の身分の高い者は、みな4、5人の婦人がいる。
身分の低いものでも、2,3人いたりする。
婦人たちは浮気はせず、嫉妬もしない。」

母系社会であって、一夫多妻制の古代日本。
浮気も嫉妬もしない?
う~ん。
どうなってるの?
そうか、通い婚だったら、上手く行くか。
夫は日替わりで妻の家を訪問して行けば、別に喧嘩にもなりませんねえ。

でも、大国主の命の場合はスセリ姫を家に連れて帰って、
その後すぐにヤガミ姫を連れて来て、同居させたのでは、
嫉妬しないのはちょっと無理ですよね。

通い婚の事情はコノハナサクヤ姫サホ姫あたりでも伺えます。
こちらもカテゴリから入って読んでみてください。

『魏志倭人伝』に戻りますが、どうやら、中国の役人に報告した日本人は、
かっこつけて、都合のいいように言ったような気がしてきましたよ。


大国主の神とスセリ姫の歌。
いかがですか。
繰り返しのリズムがとても好きです。
その古代のリズムはなかなか訳せません (;一_一)
今回は特に意味を最優先しました。

大国主が視覚に訴えて、色彩豊かな歌を歌っていますが、
スセリ姫の方は、触覚に訴えて、勝負ありでした。

カワセミの羽根の色の美しさはインターネットで見てびっくりです。
ぜひ検索してご覧ください。
ヌバタマやアカネもきれいです。          綾杉るな 
 
 
 

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息長帯比賣命(Ⅰ)  (神功皇后)

 オキナガタラシ姫の命は仲哀天皇の大后(おおきさき)です。
オキナガタラシ姫の命は神を招き寄せる方でした。

 仲哀天皇が筑紫の香椎(かしい)に宮を作られて、
熊襲の国を討とうとされた時に、ご神託を聞くことになりました。

 天皇が琴を弾いて、オキナガタラシ姫が神懸かりをします。
建内(たけうち)の宿禰(すくね)の大臣がサニワをしました。
サニワとは降りた神が、どなたか、本物か偽物かなどを
明らかにする人です。

 オキナガタラシ姫が神を招き寄せて、託宣をしました。
「西の方に国がある。
金銀を始めとして、目にも輝くいろいろな珍しい宝が沢山その国にある。
私が今その国を帰服させて与えよう。」と。

そこで、天皇が答えて申し上げました。
「高い所に登って西の方を見るけれども、国は見えません。
ただ、大海があるだけです。」
と言って、
「偽りをいう神だ。」
と言いながら琴を押し退けて、
それ以上お弾きにならず、黙って座ったままになりました。

 すると、その神は大変お怒りになって
「そもそもこの天の下はそなたの治める国ではない。
そなたは人間が行かねばならぬ、一本道に向かうがよい。」
と言われました。
一本道とは死への道です。

そこで、建内の宿禰の大臣が言いました。
「畏れ多いことです。我が天皇、やはりその琴をお弾き遊ばせ。」と。
そこで、そろそろと琴を取り寄せると、生半可(なまはんか)に
お弾きになりました。

 すると、どれほどの時間も経たないで、琴の音が聞こえなくなりました。
火をともして見ると、すでに崩御されていました。

そこで驚き懼(おそ)れて、殯宮(もがりのみや)に亡骸を安置しました。

 神の怒りを解くために、神へのお供え物を捧げ、
国中の人々の犯した罪や穢れを払う大祓(おおはらえ)をしました。
罪、穢れとは、生きながら獣の皮を剥ぐ罪、尾の方から剥ぐ罪、
田の畔(あぜ)を壊す罪、水路を埋める罪、他(略)です。

             *

 この大祓を済ませると、再び建内の宿禰の大臣がサニワとなって、
ご神託を求めました。

今度も、神が教え諭す様子は、全く先日の通りで、
「そもそも、この国は、皇后のお腹の中に宿る御子が治める国である。」
と諭されました。

そこで、建内の宿禰の大臣が言うには
「畏れ多いことです。
我が大神さま、今お懸かかりになっているお方のお腹に宿る御子は
男御子か女御子か、どちらでしょうか。」
「男御子ぞ。」
とお答えになりました。

さらに詳しく尋ねました。
「今、このように教えられる大神のお名前を知りたいのですが。」
と求めると、すぐにお答えになりました。

「これは天照大神の御心ぞ。
また、底筒男(そこつつお)、中筒男、上筒男の三柱の住吉大神ぞ。
今まことにその国を求めようと思うならば、
天の神や国の神、また、山の神、川や海の神に、ことごとく御幣を奉り、
住吉大神の御魂(みたま)を船の上に祀り、
マキの木の灰をヒョウタンの器に入れ、
また、箸と柏の葉で作った皿をたくさん作って、
それを皆大海に散らして浮かべて、渡るがよい。」
と言われました。

             *

 そこで、詳しく教えられた通りにして、軍勢を整えて、
船を並べて、西の方の国に渡られると、
海原の魚、大小を問わず、ことごとく御船を乗せて進みました。
その上、追い風も吹いて、御船は波が寄せるのに任せて行きました。

その御船を乗せた波は新羅の国に押し上がって、
完全に国土の半分まで達しました。

そこで、新羅の国王は恐れをなして、奏上しました。
「これからは天皇の命令に従って、御馬を飼育する者となって
毎年、貢物(みつぎもの)を載せた船を何艘も出して、
船の底が乾く間もないようにします。
棹(さお)や舵(かじ)が乾く間もないように、
天地の運行がとどまることのないのと同じように、
お仕えしましょう。」と申し上げました。

そう言う事で、新羅の国は御馬を飼育する部曲と定めて、
百済の国は海外の直轄地と定めました。
そして、御杖を占有権を表す印として、新羅王の門に突き立てて、
住の江(すみのえ)の大神の荒御魂(あらみたま)を
守護する神として祭り鎮めて、日本に戻られました。

           *

 ところが、その政(まつりごと)が終わらない内に
お腹の御子がお生まれになろうとしました。
そこで、子供が生まれないようにと石を取って御裳の腰に巻いて、
筑紫の国に渡って、その御子はお生まれになりました。

その御子がお生まれになった所を名づけて、
「宇美」(うみ)といいます。

 その御裳に巻きつけた石は筑紫の国の伊斗(いと)村にあります。
また、筑紫の末羅縣(まつらのあがた)の玉島の里に着いて、
その河のほとりでお食事をされました。四月の上旬でした。

そこでその河の中の石がごろごろした所で御裳の糸を抜き取って、
飯粒を餌にして、その河のアユを釣りました。

 この故事から、四月の上旬になると、
その土地の女の人たちは裳の糸を抜いて、
飯粒を餌にしてアユを釣ることが今に至るまで、続いています。

            *

 さて、オキナガタラシ姫の命は大和の国に御帰還される時に、
人々が忠誠心を持っているかどうか疑わしいので、
喪船(もふね)を一艘仕立てて、天皇の棺をその喪船に載せて、
先に「天皇は既に亡くなられた」と言い洩らさせました。

 こうして大和に向かう途中、御子の異母兄弟に当たる
香坂(かごさか)の王と忍熊王(おしくま)の王が
「オキナガタラシ姫が御子を連れて、大和の国にご帰還される。」と聞いて、
待ち受けて討ち取ろうと思って、
斗賀野(とがの)に進み出て、ウケイの狩をしました。

香坂の王がクヌギの木に上って座って見ると、
大きな怒った猪が出て来て、そのクヌギの木の根を掘って倒し、
その香坂の王を食い殺しました。

しかし、その弟の忍熊の王はこのウケイの大凶の結果を畏れずに、
軍勢を引き連れて、オキナガタラシ姫の船を待ちました。

 先頭を行く喪船は空の船なので、まずそれを奪い取ろうと攻めかかりました。
すると、喪船に隠れていた兵士たちが出て来て、戦いになりました。

 この時、忍熊の王は難波の吉師部(きしべ)の祖先の
伊佐比の宿禰を将軍とし、
オキナガタラシ姫の軍勢は丸邇(わに)の臣(おみ)の祖先の
難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)の命を将軍としていました。

 建振熊の命が忍熊の王の軍を追撃して山代まで行った時、
忍熊の王の軍は態勢を立て直し、互いに退かずに、戦いになりました。

 そこで、建振熊の命がはかりごとをして、敵に伝えました。
「オキナガタラシ姫の命はすでに亡くなりました。
だから、これ以上戦う理由が無い。」
そう伝令に言わせると、弓の弦を断ち切って、偽って服従しました。

 敵将軍はその嘘を真に受けて、弓の弦をはずし、
武器を収めました。
 すると、建振熊の命は頭の上で束ねた髪の中から、
仕込んでおいた弦を取り出し弓に張り、追撃をしました。

忍熊の王は逢坂に逃げ退いて、そこで応戦しました。
建振熊の命はさらに追い攻めて、沙沙那美で打ち破り、
ついに軍勢に切り込みました。

忍熊の王と伊佐比の宿禰は共に追い攻められて、
船に乗って海上に逃げて、歌を詠みました。

  さあ、お前。
  振熊のやつが痛手を負わないのなら、
  カイツブリが水に潜るように、
  我々が淡海の湖(琵琶湖)に潜ろうではないか。

と詠むと、そのまま湖に入って、共に死にました。
  (Ⅱへつづく)
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息長帯比賣命(Ⅱ)   (神功皇后) 


御子と気比の大神

さて、建内の宿禰の命はその御子を連れて、
みそぎをしようとして、淡海から若狭の国へ行った時、
越前の国の角鹿(つぬが)に仮宮を造って滞在されました。

すると、その地の神イザサワケの大神の命が夢に出て来て、
言われました。
「我が名を、御子の御名と交換したいと思う。」

そこで、建内の宿禰は言祝いで(ことほいで)言いました。
「畏れ多いことでございます。お言葉の通りに変え奉ります。」
と申すと、さらに大神が言われました。
「明日の朝、浜辺に行きなさい。
名を交換したしるしの贈り物をしよう。」

そこで、翌朝、浜に御子が行かれると、
鼻が傷ついたイルカが浜辺全体に打ち上げられていました。

 御子が言われました。
「私に大神の食べ物の魚をくださった。」と。

こうして、大神の御名を称えて、ミケツの大神と
名をお付けになりました。
これから、今でも気比(けひ)の大神と言います。
また、そのイルカの鼻の血の匂いが大変臭かったので、
そこを血浦(ちうら)と言います。
今は都奴賀と言います。

それから、再び大和にお戻りになった時に、
母君のオキナガタラシ姫の命は無事を祈って作る
待酒(まちざけ)を造って献上しました。
そして、歌を詠んでいわく、

  この御酒は私の作った御酒ではありません。
  酒でも極上の酒です。
  常世の国にいらっしゃるスクナビコの神が
  祝福して、狂わんばかりに祝福し、
  豊かであるように祝福し、祝福し尽くして、
  出来上がった御酒ですよ。
  盃を残さずお飲みなさい。
  ささ。

とお歌いになりました。
こうして、大御酒をたてまつりました。
そこで、建内の宿禰の命が御子の代わりに答えて歌いました。

  この御酒を造った人は
  その鼓を臼のように立てて歌いながら、醸したんだなあ。
  舞いながら造ったんだなあ。
  この御酒の、御酒のやたら楽しい事よ。
  ささ。

これは「酒楽」(さかくら)の歌といいます。

オキナガタラシ姫は御年、百歳でお亡くなりになり、
狭城の楯列(たたなみ)の陵(みささぎ)に埋葬されました。



(古事記 仲哀天皇の巻より)
一部、不自然なところは日本書紀を参考にしました。



新羅の国とオキナガタラシ姫 

いきなり新羅や百済の国が出て来ました。
話が唐突に思えるのですが、アカル姫の所を見て下さい。
新羅の王子、アメノヒボコが日本人の妻アカル姫を追って
日本にやって来ています。
彼は日本で新たに妻を娶って、子供を作っています。
その子孫にオキナガタラシ姫の名前が出て来ます。

アメノヒボコは長男なので、本来、次の国王になるところを、
弟に譲っています。
これから考えると、オキナガタラシ姫は
母方が新羅国の王族の血を正統にひく、末裔という事になります。
父方は開化天皇のひ孫です。
彼女は新羅国王と大和国王の両方の血筋を併せ持つ名門の女性でした。

そんな彼女を、大和の国の天皇は大后として迎えたのです。
この婚姻から、新羅との交流は何か大事な趣を持っていた事が
推測できます。

その天皇が本来熊襲を討ちに行ったのに、途中で新羅征伐に変わったのも、
本には書いていない何らかの事情がありそうですね。

『太王四神記』のラストシーンを覚えていますか?

ぺ・ヨンジュンが主演した『太王四神記』のラストシーンで
高句麗王のタムドクが光の中に消えていく先に
大きな石碑がありました。
あれが歴史の教科書に出てくる広開土王の石碑です。

その石碑には日本から后が来たように書かれているそうです。
オキナガタラシ姫の事かもしれません。


香坂王(かごさかのおう)と忍熊王(おしくまのおう)は
何故、オキナガタラシ姫の一行を攻撃したの?


仲哀天皇の王位継承者だったからです。
仲哀天皇には、先に二人の后がいました。
オオナカツ姫との間に、香坂王と忍熊王が生まれ、
オト姫との間にホムヤワケの皇子が生まれました。

香坂王と忍熊王のどちらかが、いずれは天皇になるはずでした。
ところが、新しく大后としてオキナガタラシ姫が選ばれました。
しかも52歳になった天皇に男の子が生まれてしまいました。

古代は末子相続と言って、一番下の子どもが相続する習慣がありました。
オキナガタラシ姫は今度の戦勝で人気を得た上に、
御子が大后の子という事で、
香坂王と忍熊王の立場が、不利になったのです。
そこで武力を使って、新しい王位継承者を抹殺しようとしました。

オキナガタラシ姫が腰に石を巻いたのは御まじない?

オキナガタラシ姫の出産が大幅に遅れました。
石を巻いたくらいで出産を遅らすことは不可能です。

そこで、仲哀天皇の死後に妊娠したのではないかという話が
昔から取り沙汰されています。
石を巻いたのは、そんな事情隠を隠すためかも知れません。
今でも父親探しの歴史本が結構見られます。


殯(もがり)の風習

貴人が亡くなって、古墳に埋葬するまで、棺を納める建物を建てて、
弔いました。
ずっと燈明を灯してお守りするのですが、
仲哀天皇の死を隠すために、燈明は灯されなかったそうです。

うけい(誓約)

古代日本では大事な事を決定する時には、神に祈って
成否を尋ねたり、吉凶を尋ねたりしました。
香坂王と忍熊王も狩りの獲物で占おうとしたのでしょうが、
香坂王が殺されるという大凶でした。

木花咲耶姫の結婚の時も、父親の神がウケイをした結果、
二人の娘を差し出しています。


伝承の伝わる神社

 香椎宮 福岡県東区

仲哀天皇がここに遷都をしました。そして、ここで亡くなりました。
新羅へ攻めるための軍事拠点ともなった所です。
今でも、オキナガタラシ姫と共に、ご神託を伺った場所が遺されています。
天皇の死後、オキナガタラシ姫が一番頼りにした、
建内宿禰の命も祀られています。    
          
            香椎宮(Ⅰ)古宮はこちら
            『ひもろぎ逍遥』からでもリンクしてます。

宇美八幡神社 福岡県粕屋郡宇美町 

神功皇后が御子を出産された所として伝えられています。
今でも、安産を祈願し、またお礼にお参りする人々が絶えません。

 オキナガタラシ姫が移動した先々には、数十以上の神社が伝わっています。
ここでは書き留める事が出来ない数です。
『ひもろぎ逍遥』で、少しずつ紹介して行きます。


神懸かりしたという小山田斎宮に行って来ました。
レポートは⇒カテゴリの『ひもろぎ逍遥』⇒「小山田斎宮」

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 夢に出て来た女性です。神功皇后かな。


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玉依姫            宝満神社 

 玉依姫は海の神さま大綿津見(おおわたつみ)の神の娘です。
姉の豊玉姫(とよたまひめ)と共に綿津見の宮に住んでいました。
姉の豊玉姫が日の御子のホオリノミコトと結婚してから、
三年でホオリノミコトが地上に戻りました。

姉の豊玉姫も後を追って綿津見の宮を離れました。
子供を出産するためです。

ところが、子供を生み終えると、姉上は一人で
綿津見の宮に戻って来ました。
出産するときに本来の姿を見られてしまったために、
帰って来てしまったのです。

姉上はこちらに帰って来たものの、夫が恋しく、
また残して来た子供が気がかりです。
そこで、妹の玉依姫が子供の養育係として、行く事になりました。

 こうして葦原の国に行った玉依姫は
姉の子のウガヤフキアエズノミコトを育てました。
そして、この子が成人すると、二人は結婚をしました。
二人は伯母と甥にあたります。

二人の間には四人の子供が生まれました。
子の名は五瀬命(いつせのみこと)。
稲氷命(いなひのみこと)。
御毛沼命(みけぬのみこと)。
若御沼命(わかみけぬのみこと)です。

長男のイツセノミコトは一番下のワカミヌノミコトと共に、
この国を出て、東に新たな国を作るために出かけて、途中で戦死しました。

二番目の子、イナヒノミコトは亡き母の国へと海原にお入りになりました。

三番目の子、ミケヌノミコトは波頭を踏んで常世(とこよ)の国に行きました。
そこは不老長寿の国と言われています。

一番下のワカミケヌノミコトは別名、トヨミケヌノミコト、また
カムヤマトイワレビコノミコトとも言います。

イワレビコノミコトは兄のイツセノミコトと共に日向を出て、
東に向い、大和を平定して、
初代の天皇になりました。神武天皇と言います。

           (古事記 ウガヤフキアエズの命の巻より)

こうして、玉依姫は初代天皇の母として敬愛を受ける事になりました。
ここまでが神の代となります。

ウガヤフキアエズの命が生まれた時の様子は豊玉姫を見て下さいね。
また、神武天皇の結婚はイスケヨリ姫を見て下さい。

伝承を訪ねて 
竈門神社(かまどじんじゃ)福岡県太宰府市宝満山
玉依姫はここで我が子の東征の成功を祈ったと伝えられます。
縁結びの神様として親しまれています。

宝満神社 (通称『宝満宮』)   福岡県大野城市山田
玉依姫は旧中村という所で亡くなられました。
墓所もここにあると伝えられます。
この地を今でも御陵と言い、御陵中学校の名の由来になっています。
しかし、 度重なる洪水のために現在地の山田に移転しました。
玉依姫命は、宝満山の頂に坐して水分神(みくまりのかみ)となり、
この地方一帯の水を支配されたという事です。

天皇家の母としての玉依姫
ずっと後の世に景行天皇がクマソ征伐に来た時に、
ここに来てお参りをしています。

また、それから時代が下がって、再びクマソが反抗するので、
神功皇后が九州に来ました。
しかし急きょ新羅を攻める事になったので、
神功皇后はこの玉依姫の神廟に来て戦勝を祈りました。
この時、玉依姫命が現れて
「そなたと姉妹の契りを交わしましょう。」
と、神功皇后に約束したそうです。

こういう事で、神宮皇后と玉依姫命が一緒に祀られている神社もあります。
後の世までこうして慕われました。

またさらに後の世、心蓮上人(しんれんしょうにん)が宝満山に籠もって
修業している時にも玉依姫命が現れたという事です。


宝満山の頂上に山の神でなく、海神の女神が祀られているのが
ずっと不思議だったのですが、水分の女神として、
人々に恵みを与えていたのですね。
この頂上からは玉依姫の故郷の海が見えます。
あれっ、すると、神武天皇はここで育った?

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木花之佐久夜毘賣       

 ニニギノ命は笠沙の御崎(かささのみさき)で、
美しい乙女にたまたま出会いました。
「そなたは誰の娘か?」
と尋ねるので、
「大山津見の神の娘です。名前はカムアタツヒメ。
またの名をコノハナノサクヤビメと言います。」
と答えました。

ニニギノ命はさらに尋ねました。
「そなたには兄弟がいるのか。」
「姉のイワナガヒメがいます。」
と答えました。
「私はそなたと共寝をしたいのだが、そなたはどうだ。」
とおっしゃったので、
「私は答えられません。父上の大山津見の神が返事を申し上げるでしょう。」
と乙女は答えました。

 そこでそのニニギノ命の人は結婚の申し出をするために、
供の者を遣わしました。
大山津見の神は大変喜んで、姉のイワナガヒメを添えて、
数多くの持参品を持たせて、二人の娘を差し出しました。

その姉のイワナガヒメは醜かったので、ニニギノ命は恐れをなして、
親元に送り返しました。
その妹のコノハナサクヤヒメだけを留めて、一夜共寝をしました。

 一方大山津見の神はイワナガヒメが送り返されたのを恥じて、
ニニギノ命に申し送りました。
「わが娘二人を一緒に差し出したのは
イワナガヒメをお側に仕えさせたら、これから天孫代々の御子さまたちの命は、
雪が降っても、風が吹いても、常に岩のように永遠にどっしりと動かずに
おられますようにとの事です。

また、コノハナサクヤヒメを仕えさせれば、木の花が咲き誇るように
栄えて戴きたく、神の占いをして差し出しました。
ところがこのようにイワナガヒメだけを返して、
コノハナサクヤヒメ一人留められました。

だから、天つ神の御子のお命は、木の花がはかないのと同じようになるでしょう。」
と。
これが原因で、今に至るまで、天皇家の方々のお命は
神代のようには長くはならなくなりました。

 さて、この後、コノハナサクヤヒメがニニギノ命の宮に出かけて行って
申し上げました。
「私は妊娠しました。もう、出産まぢかです。
この天つ神の御子は、こっそりと生むわけにはいきません。
それで、こうやって申し出ました。」

それを聞いて、ニニギノ命は
「サクヤヒメよ。一晩で身籠ったというのか。それは私の子ではあるまい。
だれか、国つ神の子にちがいあるまい。」
とおっしゃいました。

コノハナサクヤヒメは、そう言われて、
「私が身籠った子がもし国つ神の子ならば、生んでも無事ではないでしょう。
もし、天つ神の御子ならば、無事でしょう。」
と言って、すぐに出入り口のない八尋殿を作って、中に入り、土で塗り塞ぎました。

 いよいよ生む時になって、火を付けて生みました。
その、火が盛んに燃える時に生んだ子の名は火照命(ほでりのみこと)。
次に生んだ子の名は火須勢理命(ほすせりのみこと)。
次に生んだ子の名は火遠理命(ほをりのみこと)。
またの名を天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)と言います。

(古事記 木花佐久夜毘売の巻)

この最後に生まれたホヲリノミコトが後に豊玉姫と出会う事になります。
つづきはサイドパーのカテゴリの「豊玉姫」からどうぞ。


ニニギノ命は何故妻を疑った?

古代の夫婦は別居からスタートしていました。

当時は妻問い婚といって、夫が妻の家に夜になって通っていました。
朝になると、自分の家に帰ります。
ですから、夫が妻の所に通わなくなって、他の男が通うようになっても
夫には分かりません。

また、妻の方から見ても、夫が自分以外の女の所に通っても
妻にはわかりませんでした。

このお話では、コノハナサクヤ姫とイワナガ姫の二人は一緒に
ニニギノ命の宮に参内しました。
ニニギノ命はイワナガ姫をすぐに返されて、
木花佐久夜姫だけを残したのですが、それも一夜だけの契りでした。
その後は実家に戻ったのでしょう。
それから10か月経って姫自身が、妊娠を告げるために
出かけていったのです。

このような事情から、ニニギノ命はコノハナサクヤ姫の懐妊の相手を
疑ったのでしょう。

 それにしても、夫から「他の国つ神の子だろう」と言われれば、大問題です。
それをコノハナサクヤ姫は産屋に火を放つという、
女神にしか出来ない激しい方法で証明してみせます。


何故、親は二人の娘を差し出したの?

当時は姉妹が一緒に嫁ぐ風習がありました。

古代は一夫一婦制ではありませんでした。
この二人のように貴人に姉妹を差し出すケースはいくつもみられます。
女性が子供を産んで亡くなるケースもあるし、
子供が小さいうちになくなることも多かった筈です。
共に育ててくれる姉妹を差し出すのも、子孫を残すための知恵だったのかもしれませんね。

兄弟と姉妹とダブルで結婚することもありました。

アジアに残る二夫一婦制

アジアに二夫一婦制の暮らしがあるのをテレビで見ました。
一人の妻に夫が二人です。
二人の夫は兄弟でした。
兄が遠くに羊を売りに行く間、弟と妻が留守を守っていました。

山の中の人口の少ない中で、妻を残して長い旅をする間に、
妻と家畜を守る男が必要です。
それが弟なら一番安心です。

このケースは日本の古代社会を理解する上で大いに役立ちました。

結婚は何歳ぐらいでしたの?

奈良時代の史料では結婚適齢期は男子17~8歳。女子13歳ごろです。
今なら中学生の女の子と高校生の男の子が結婚するくらいの年です。
出産は20歳頃が中心だそうです。


伝承のある神社
此花咲耶姫神社   佐賀県基山町大字園部字古屋敷

ニニギノ命とコノハナサクヤ姫が結婚したという契山(ちぎりやま)があります。

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沙本毘賣 

 サホ姫が垂仁天皇(イクメイリビコイサチの命)のお后となってから
三年がたった時の話です。

同母兄弟のサホビコの王がサホ姫に言いました。
「夫である帝と兄の私とどちらが愛しいかな。」
「お兄さんよ。」
とサホ姫は答えました。

すると、兄のサホヒコは謀り事をして言いました。
「そなたが本当に私を愛しいと思うなら、私とそなたで天下を取ろう。」
と言って、何度も鍛えて鋭利になった紐小刀(ひもこがたな)を、
妹に持たせて言いました。
「この小刀で、帝が寝ていらっしゃる時に刺して殺しなさい。」と。

 さて、帝はこの暗殺計画を知らないで、サホ姫の膝枕で寝ていました。
そこで、サホ姫は紐小刀を取り出して、首を刺そうとして、
三度も振り上げたけれども、悲しすぎて、刺す事が出来ませんでした。
涙があふれて来て、帝のお顔に落ちました。

すると、帝はびっくりして起き上がって、サホ姫に言いました。
  「変な夢を見たよ。沙本(さほ)の方から激しい雨が降って来て、
  急に私の顔にも降り注いだ。
  それから、錦色の小さな蛇が私の首にまとわりついた。
  こんな夢は何かの前兆かもしれないな。」

これを聞いてサホ姫は隠し立ては出来ないと思って、帝に告白しました。
  「私の兄のサホビコの王が私に言いました。
  『夫と私とどちらが愛しいか。』と。

  面と向かって聞かれたので、気おくれがして、
  私は『兄の方が愛しい』と答えてしまったのです。
  そして、私を誘いこんで、言いました。
  『私とそなたと共に天下を治めよう。だから帝を殺せ。』と。

  そしてこの紐小刀を渡したのです。
  私は帝のお首を刺そうと思って、三度も振り上げたのですが、
  かなしくて、そんな事は出来ません。
  涙が帝のお顔に落ちてしまいました。
  帝の夢はきっとこの事でしょう。」と言いました。
帝は「私はすんでの所で裏切られる所だったのか。」と驚きました。

 帝はただちに軍勢に命じて、サホビコの王を攻撃しました。
サホビコの王の方は、備蓄用の稲を積み上げて、
防塁として対戦しました。
その時、サホ姫は兄の心を思うと、耐えられず、
御所の後ろの門から逃げ出して、兄の陣営に入りました。

 この時、サホ姫はすでに妊娠していました。
帝はサホ姫が身重で心配な上に、三年も愛し合ったので、
サホ姫を失う訳にはいきません。

 そこで、軍勢にはサホビコの王の家を取り囲ませるだけで、
急襲しないように命じました。
こうして、戦が長引いている間に、サホ姫の子供が生まれました。

そこで、サホ姫は子供を防塁から外に出して置いて、帝に伝言を頼みました。
  「もし、この子を帝の御子だと思われるなら、育てて下さい。」と。

帝はそれを聞いて、
  「その兄を恨んではいるが、今でもサホ姫への思いを断ち切る事は出来ない。」
と言われました。そうして、お后を取り返そうと思われました。

そこで、兵士の中で力があって、軽快に動く者を選び抜いて、
集めて言われました。
  「御子を受け取る時に、一緒にその母上も奪い取るように。
  髪でも手でも何でもいいから、掴んで引っ張って連れて来るように。」と。

 しかし、お后のサホ姫は帝のお気持ちを察して、髪を剃って、
その髪でかつらを作って、かぶり、また玉の腕輪は糸を弱るように腐らせて
三重にまきました。
また、酒で衣(ころも)を腐らせて、見かけは普通の衣のようにしました。
こうして、準備をして、御子を抱いて、防塁の外に差し出しました。

 その時、選りすぐりの兵士たちが、御子を受け取ると、
お后も掴んで引っ張りだそうとしました。
しかし、髪を掴むとひとりでに落ち、手を取ると腕輪がちぎれ、
衣を掴むと、破れてしまいました。
こうして、御子は取り戻せても、お后は取り戻せませんでした。

兵士たちは帰って来ると、
  「お后さまのみぐしは抜け落ち、お衣はすぐに破れ、
  み手に巻かれた腕輪もすぐにちぎれました。
  ですから、お后さまは連れて来れず、御子だけをお連れしました。」
と報告しました。

 帝は、お后を失った事を後悔し、腕環に細工をした者たちを恨んで、
その私有地を没収されました。
こうして、「所を得ぬ玉造り」(褒美を貰おうとして、逆に持っている物を失う)
ということわざが生まれました。

帝はなおもサホ姫に言いました。
  「大体、子供の名前は必ず母親が付けるものなのに。
  なんとかこの子の名前を言ってくれ。」と。

そこでサホ姫は答えました。
  「稲で作った防塁が焼かれる時に、火の中でお生まれになりました。
  ですから、お名前はホムチワケの御子と付けて下さい。」と。

帝はさらに言いました。
  「どうやってこの子を育てたらいいと言うのか。」と。
  「乳母(うば)を付けて、湯浴みをさせる大湯座(おおゆえ)、
  若湯座(わかゆえ)を決めて、お育て下さい。」
帝はサホ姫の申し上げた通りにお育てになりました。

帝はまた、尋ねました。
  「そなたが愛を誓って、結んでくれた下着の紐は
  いったい誰が解くと言うのか。そなたしかいないのに。」
と言われると、こう答えました。
  「丹波のヒコタタスミチノウシノ王の娘にエヒメ、オトヒメという
  お二人のヒメみこが、心清らかな人たちです。
  その二人をお召し下さい。」と。

 この後、ついに、帝はサホヒコの王を攻めて殺されたので、
妹のサホ姫も後を追いました。

 帝は忘れ形見のホムチワケの命を可愛がり、
尾張の国の会津の二股杉で二股の小船を作らせて大和に運ばせ、
イチシノ池、カルノ池に浮かべて、二人で乗って遊んだそうです。

また、言われた通りに丹波の姉妹をお召しになりました。


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何故サホ姫は兄の言いなりになったのでしょうか?

これを解くカギは古代の結婚制度にあります。
当時は母系社会で、妻問い婚でした。
夜になると、夫は妻の元に出かけ、朝になると自分の家に戻りました。

垂仁天皇の場合、サホ姫は天皇のお側に召されていますが、
サホ姫亡き後の后の数は6人です。御子の数は16人。。
この時代に天皇家でこれだけの后を同居させた訳ではないと思います。

后たちはそれぞれ実家と宮を行き来したと考えられます。

子供の名前は実家で付けていたという事情が、
帝の「大体、子供の名前は必ず母親が付けるのに。」という言葉で分かります。

こんな母系社会の時代ですから、
サホ姫の場合も、気持ち的には実家の人間だったと思うのです。

次の時代の平安時代になっても、まだ通い婚が基本です。
しばらくしてから、婿取りという形式が出てきます。
「舅(しゅうと)に気に入られる婿(むこ)はまずいない」という話も残っています。

女性が夫の家に嫁ぐ(とつぐ)という風習は江戸時代になってからです。
今の常識から古代を見ると、不思議な感じですね。

話を戻しましょう。

サホ姫も月のものが来ると、実家に戻ったことでしょう。
そうすると、実家の親や兄と顔を合わせます。

クーデターを起こせば、政権を取れる時代です。
実家がそれを狙えば、サホ姫は拒否出来ない立場でした。

サホ姫は政略結婚で嫁いだのかも知れませんが、帝と純粋に愛し合って、
板挟みになったと思われます。
その苦しみが、流す涙になりました。

しかし、実家の謀反を明かした以上、運命は兄と共にある事を、
サホ姫は誰よりも知っていました。
そんなサホ姫を救いたくて、あれこれと尋ねる帝の純情が読む人の心を打ちます。

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伊須気余理比賣 

 神武天皇の名前はカムヤマトイワレビコノ命と言われます。

このイワレビコノ命が、まだ日向(ひむか)に居られた時に、
アタのオバシの君(きみ)の妹、アヒラ姫を妻としました。
その二人の間に生まれた御子はタギシミミノ命とキスミミノ命です。

しかし、更に大后(おおきさき)にふさわしい美人を捜す事になりました。
その時、大久米命(おおくめの命)が申し上げました。

「この近くに良い娘がいます。この娘は神の子と言います。
三島のミゾクイの娘でセヤダタラ姫という人がとても美しい方で、
三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)が見染めたそうです。

その姫が川の上に作った厠(かわや)に行って、用を足していると、
大物主神は、赤く塗った丹塗りの矢になって、川から流れて来て、
その人のホト(女陰)を突きました。
その姫は驚いて、逃げてイススキ(狼狽)しました。

その矢を床の所に置くと、たちまちに麗しい男になって、
セヤダタラ姫を妻にしました。
こうして生まれたた子供の名前はホトタタライススキヒメの命と言い、
また、ヒメタタライスケヨリ姫とも言います。
(これはホトという言葉を嫌って後に名前を改めました。)
こう言う事で神の御子と言うのです。」

                 * * *

ある日、七人の乙女たちが高佐士野(たかさじの)で、
野遊びをしている中に、イスケヨリ姫がいました。

大久米の命が、イスケヨリ姫を見つけて、
歌を作って、イワレビコの命に言いました。

  「倭(やまと)の高佐士野を 七人の乙女たちが通って行きます。
  あなたはいったい誰と共寝をしますか。」

その時、イスケヨリ姫は一番前に立っていました。
イワレビコノ命はその乙女たちをご覧になって、
  (イスケヨリ姫は一番前に立っている人だろう)と思って、
歌で返事をされました。

 「まあそうだな。一番前に立っている可愛い人と共寝をしよう。」

そこで、大久米の命はイワレビコノ命のお気持ちを
イスケヨリ姫に伝えました。

イスケヨリ姫はその大久米の命が目の周りに入れ墨をして
鋭い目に見えるのを見て、変わってるなあと思って、
歌にして、返事をしました。

  「つばめ、せきれい、ちどり、ほおじろ。それにあなた。
   どうしてそんなに縁取りのくっきりとした目なの。」

それを聞いて、大久米命も歌を返しました。

  「ただ、あなたに会いたいと、探し求めて大きな目になりました。」

その歌の意を汲み取った乙女は「お仕えしましょう。」と言って、
お后になる事を承知しました。
イスケヨリ姫の家は狭韋河(さいがわ)のほとりにありました。

イワレビコノ命はイスケヨリ姫の元にお出ましになって、
一夜、共寝をなさいました。

その川を狭韋河と言う訳は、その川辺に山百合の花が
たくさん咲いていたからです。
サイとは山百合の花の事です。

のちに、イスケヨリ姫が入内された時に、
イワレビコノ命が歌を詠まれました。

「葦がいっぱい生えている所の、粗末な小屋で、
菅で編んだ敷物を清らかに敷いて、私とそなたと一緒に寝たなあ。」

そうして、生まれた御子の名前は
日子八井命(ヒコヤイノ命)。
次に神八井耳命(カムヤイミミノ命)、
次に神沼河耳命(カムヌナカワミミノ命)の三人でした。
 
* * *

 月日が経って、イワレビコノ命がお亡くなりになりました。
亡くなってからの名前を神武天皇といいます。

すると、その長男のタギシミミノ命(アヒラ姫の御子)が、
遺された大后のイスケヨリ姫を、妻にしました。
自分の父親の妻を自分の妻にしたのです。

 その後、腹違いの弟に当たる、イスケヨリ姫の三人の御子たちを
殺そうと計画しました。
それを知った、イスケヨリ姫は苦しんで、
歌を送って何とか知らせようとしました。

  「狭井河よ。雲が湧き起こっています。
  畝傍山(うねびやま)の木の葉がざわざわと騒いでいます。
  風が吹こうとしています。」
    (狭井河のほとりで育った私の子供たちよ。
    怪しい雲が湧き起こっています。
    畝傍山を象徴するお方の周りの木々が
    ざわざわと騒いでいます。
    風が吹こうとしています。気を付けて下さい。)

そう歌を作ると、もう一つ付け加えました。

 「畝傍山は昼間は雲が湧き起こっています。
 夜になると、風が吹くでしょう。
 木の葉がざわざわと騒いでいます」
     (畝傍山を象徴するお方は昼間は雲が湧いているだけですが、
      夜になると、風が吹きます。
      その前兆で木の葉がざわざわと騒いでいます。)

 母のイスケヨリ姫の歌を受け取って、
その意味を理解した三人の子供たちは驚きました。
「異母兄弟のタギシミミノ命は、母上と結婚した上に、
お世継の継承権がある、自分たちを殺そうとしている。
それなら殺される前に、殺してしまおう。」
と三人は相談しました。

 末っ子の神沼河耳の命が、二男の神八井耳の命に言いました。
「なあ、兄上。兵士たちを連れて、タギシミミノ命を殺して下さい。」

そこで、神八井耳の命は武器を持って押し入り、タギシミミノ命を
殺そうとした時に、手足がわなわなと震えて、殺す事が出来ませんでした。
すると、弟の神沼河耳の命が、兄の武器を「わたしに下さい。」と言って、
取って、中に入って殺しました。

 それから、弟の神沼河耳の命の武勇を称えて、建沼河耳の命
(たけぬなかわの命)と呼び名が変わりました。

 その後、神八井耳の命が、弟の建沼河耳の命に、
世継の地位を譲って言いました。

「私は仇(かたき)を殺す事が出来なかった。そなたはそれが出来た。
だから、私は兄ではあるが、天皇になるわけにはいかない。
そなたが天皇となって、天下を治めて下さい。
私はそなたをたすけて、神を祀る忌人(いわいびと)となって
お仕えしましょう。」

こうして、建沼河耳の命が天下を治めるようになりました。

(古事記 神武天皇の巻より)

大久米の命の目の入れ墨
さて、大久米の命の目が入れ墨をしていた事から、
彼は安曇族(あずみぞく)ではないかと思っています。
古代の日本人には入れ墨をしている氏族がいて、
氏族ごとに入れ墨の場所が違いました。

安曇族の入れ墨は目元にしていたそうです。
かれらは福岡県の玄界灘を中心に活躍していました。
航海術に長けていたので、神武天皇が東征する時に、
船団や兵卒、武器などの軍備で支えた者と思われます。

イスケヨリ姫は初めて入れ墨をした目を見たので、
無邪気に尋ねたのですね。 
 
タタラって何?
セヤダタラヒメのタタラとは古代の砂鉄を使った製鉄法です。
また、その時に風を送るフイゴをさします。
上代の神話をひも解いて行くと、鉄や銅などの知識が込められているのが
見えてきます。
姫さまの名前にこんな言葉を付けるのは、ちょっと驚きですが、
それだけ、後世に伝えたかった大事なことなのでしょうね。

三輪山の大物主神
三輪山は奈良県と福岡県にあります。
大物主の神は蛇の姿がシンボルです。
麗しい男の姿をとって人間の女性の所に通う話がいくつか残っています。
三輪山は出雲系で、これも古代の製鉄で有名です。

セヤダタラヒメと大物主神はどうやら製鉄の縁で結ばれているようです。
 

イスケヨリ姫の母と実家については、『ひもろぎ逍遥』の日若神社で、詳しく書いています。

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スペルボーン(Spellborn)