<   2010年 06月 ( 7 )   > この月の画像一覧


筑紫の君・磐井と葛子
(いわい くずこ)


【古事記】

オホドの命(継体天皇)の御世に、
筑紫の君・石井(いわい)は天皇の命令に従わすに、無礼な事が多かったので、
物部の荒甲(もののべのあらかい)の大連(おおむらじ)と
大伴の金村(かなむら)の連二人を遣わして、石井を殺しました。

*古事記にはこれだけしか書いていなかったので、日本書紀も訳しました。

【日本書紀】

継体天皇21年の夏、6月の壬辰(みづのえたつ)の3日に近江の毛野(けな)の臣は6万の軍勢を率いて、任那(みまな)に行って、新羅に占領された南加羅(から)・トクコトンを取り返して任那に合併しようとしました。

この時、筑紫の国の造(みやつこ)磐井(いわい)は密かに背く計画を立て、協力せずに、ぐずぐずして年月が経ちました。実行が難しいので、つねにチャンスを伺っていました。

新羅はこれを知って、密かにワイロを磐井のもとに送って、勧めました。
「毛野(けな)の臣の軍勢を防ぎ止めてほしい。」と。

そこで、磐井は火の国、豊の国、二つの国に勢力を張りながら、朝廷の職務を遂行しませんでした。
外は海路を通って高麗(こま)・百済(くだら)・新羅・任那などの国からの、毎年の貢物(みつぎもの)を持ってくる船を自分の所に誘導し、内には任那に派遣した毛野臣の軍勢を遮って、無礼な言葉で、
「お前は、今は朝廷からの使者になっているが、昔は私の仲間として、肩を寄せ、肘をすり合わせて、同じ釜の飯を食ったではないか。どうして、急に使者になって、私にお前なんかに従えというのか。」
と言って、ついに戦って、受け入れませんでした。

磐井は奢り高ぶっていました。毛野の臣は前を遮られて、進軍できずに停滞しました。

継体天皇大伴の大連(おおむらじ)金村物部の大連アラカヒ
許勢(こせ)の大臣ヲヒトらに命じて言いました。
「筑紫の磐井が背いて、西の田舎の国を所有している。誰か将軍となって成敗する者は?」

大伴の大連らがみんなそろって言いました。
「まっすぐで勇敢で軍事に心得があるのは、物部のアラカヒの右に出る者はいません。」と。
天皇は「よかろう。」と言いました。

秋8月の辛卯の1日に命じました。
「大連(おおむらじ)よ、例の磐井が従わない。そなたが行って討て。」と。

物部のアラカヒの大連が、拝して言いました。
「そもそも磐井は西の田舎のずるくて悪賢いやつです。川が道を阻んでいるのを当てにして、朝廷に仕えず、
山が高いのを利用して、乱を起こしています。

臣下としての徳分がなく、道に背いています。あなどって、おごり高ぶり、自分は賢いと思っています。昔から、大伴家の祖の道臣(みちおみ)から、室屋(むろや)まで、帝を守って戦って来ました。民を苦しみから救う事は、祖先も私も同じです。天が助ける事をするのは、私めが重視する所です。謹んでお受けします。」
と言いました。

帝は言いました。
「優れた将軍が戦をするのは、民に恩恵を施して、思いやって治める事と同じだ。攻めては川が決壊するように破壊力があり、戦えば風が吹くように素早く敵をなぎたおすものだ。」と。

また、続けて言いました。
「大将軍は民の命だ。国や家が滅びないのは、そのお蔭だ。務めよ。謹んで天罰を行え。」と。

帝はみずから大将の印のマサカリを取って大連に授けて言いました。
長門(山口県)から東は私が取ろう。筑紫より西の方はそなたが治めよ。
賞罰を行って政をせよ。いちいち、奏上せずともよい。」と言いました。

22年の冬、11月の甲寅のついたち(11日)に、大将軍、物部の大連・アラカヒは自ら、賊軍の磐井と筑紫の三井郡で交戦しました。
軍旗や軍鼓が向き合い、軍兵のあげる砂ぼこりが入り乱れました。この戦いがすべてを決する事が分かっているので、両陣営は決死の戦いをしました。物部のアラカヒはついに、磐井を斬って、ついにその境を定めました。

12月に、筑紫の君、葛子(くずこ)は、父の罪に連座して殺される事を恐れて、糟屋(かすや)の屯倉(みやけー武器などの倉庫)を献上して、死罪を逃れるように願い出ました。

* *  *


磐井の乱」が起こったのは継体21年(527)です。

その頃、筑紫の君は自国の治水事業で忙しかったようです。それを書いた文を紹介しておきます。

儺の国の星拾遺』(眞鍋大覺)より(一部書き換えています)

水城」は筑紫国造・磐井が雄略帝17(473)年から
継体帝17(523)年の間に、築堤工事を開始したと伝えられる。
この水が、現在の石堂川を中にして粕屋一体を灌漑して、百姓を潤す目的であった。

その頃、神功皇后の治世(201~269)の間に作った用水路の裂田溝(さくたのうなで)の勢いは新開の那珂・板付あたりにおよぶべき水勢が減少していた。

これを補給して、あの雄略帝17年(473)年の大洪水大氾濫よって、干潟が想像を絶して広がっていくのに対処すべく、水城が着工されたことになっている。

しかし、万民の期待を集めた水城は敏達帝2年(573)年夏、五月の大風で徹底的に壊滅した。
筥崎の砂浜の下に今も厚く堆積している博多の家屋、並びに調度の破片から推定すると、
最小限で2万戸、最大限で10万戸が大水の犠牲となって、玄界灘に漂没したものと推定される。

[PR]
宗像三女神

タキリ姫・イチキシマ姫・タキツ姫


泣いてばかりいたスサノオの命はついに父神のイザナギの命
「もうこの国に住むな。」と言われて追放されてしまいました。

そこで、スサノオの命は
「それならば姉のアマテラス大御神に事情を話してから出て行きましょう。」
と言って、天に昇る時、山川がことごとく鳴り響き、国土がみな揺れました。

アマテラス大御神は弟がやって来ると聞いて驚いて言いました。
「私の弟の命が昇って来るのは、きっと善良な心からではあるまい。
私の国を奪おうとしているにちがいない。」

そう言うと、結っていた髪をほどいて、男の髪型のみずらに結って、
左右のみずらにも、それを留める髪飾りにも、また左右の手にも、
それぞれに八尺(やさか)の勾玉のたくさん連ねた珠を巻き付けて、
背中には千本入る靫(ゆぎ…矢入れ)を背負い、脇にも五百本入る靫をつけて、

また、手首にはイツの竹鞆(たかとも…音の鳴る手首ガード)をつけて、
弓を振り立てて、地面を股まで、めりこむように踏みならして、
土を淡雪のように蹴ちらして、勇ましい雄たけびをあげて待ち構えました。

アマテラス大御神は
「どうして、天に昇って来たのだ。」と尋ねました。

スサノオの命は
「わたしめは悪い考えは持っていません。
ただ、イザナギの大御神が私に泣きわめいている訳をお尋ねになりました。
そこで、『わたしめは亡き母の国に行きたいと思って泣いているのです。』
と答えました。
すると、大御神は『そなたはこの国に住んではならない。』と言われて、
私を追放されました。
だから、事情をお話しておこうと思って参上しました。
他意はありません。」と申し上げました。

すると、アマテラス大御神は
「それなら、そなたの心が清く正しいのがどうして分かる。」と言いました。
そこでスサノオの命は答えて、
「それぞれウケイ(うらない)をして子を生みましょう。」と言いました。

そこで、天の安の河(天の川)を中に置いて、ウケイをする時に、
アマテラス大御神が先に
スサノオの命の佩(は)いた十拳剣(とつかつるぎ)を貰い受けて、
三段に折ってユラユラと揺らして、天の真名井の水で振りすすいで、
噛みに噛んで、フッと吹き捨てた時、

息吹きの霧に生まれた神の名は、タキリビメの命
またの名は奥津島(おきつしま)ヒメの命と言います。
次に、イチキシマヒメの命。またの名はサヨリビメの命と言います。
次にタキツヒメの命。三柱です。

続けて、スサノオの命はアマテラス大御神の左のみずらに巻いている
八尺(やさか)の勾玉のたくさん連なった珠をもらって、
ユラユラと揺らして、天の真名井の水で振りすすいで、噛みに噛んで、
フッと吹き捨てた時、息吹きの霧に生まれた神の名は、
マサカツアカツカチハヤヒ天の忍穂耳の命

また、右のみずらに巻いている珠をもらって、噛みに噛んで、
フッと吹き捨てた時、息吹きの霧に生まれた神の名は天のホヒノ命
また、髪飾りに巻き付けていた珠をもらって、噛みに噛んで、
フッと吹き捨てた時、息吹きの霧で生まれた神の名は天津ヒコネの命

又、左の手に巻いていた珠をもらって、噛みに噛んで、フッと吹き捨てた時、
息吹きの霧に生まれた神の名はイクツヒコネの神
また右手に巻いていた珠をもらって、噛みに噛んで、フッと吹き捨てた時、
息吹きの霧に生まれた神の名は、熊野クスビの命
合せて五柱でした。

そこで、アマテラス大御神がスサノオの命に言いました。
「後の方で生まれた五柱の男子は、私の物から生まれたので、私の子だ。
先に生まれた三柱の女子は、そなたの物から生まれたので、そなたの子だ。」
と。

こうして、最初に生まれた神、タキリビメの命は宗像の奥津宮にまします。
次にイチキシマヒメの命は宗像の中津宮にまします。
次にタキツヒメの命は宗像の辺津宮にまします。

この三柱の神は宗像の君らが斎きまつる三柱の大神です。

こうして、スサノオの命がアマテラス大御神に言いました。
「私の心は清く、正しかった。
だから、私の生んだ子は手弱女(たおやめ)でした。
ウケイの結果から言うと、私の勝ちですね。」と言いました。

宗像の奥津宮にます神、タキリ姫の命大国主の命と結婚して、
生まれた子はアヂスキタカヒコネの神
次にイモタカヒメの神、亦の名はシタテル姫の命。
このアヂスキタカヒコネの神は今、カモの大御神といいます。
[PR]
ヤマトタケルの命(日本武尊)(1)

ヤマトタケルの命は皇太子だった


ヤマトタケルの命は別名を小碓の命、またの名をヤマトオグナの命と言います。
父は景行天皇、母は針間(はりま)のイナビノ大郎女(おおいらつめ)です。

二人の間の御子はクシツヌワケの王。次に大碓(おおうす)の命
次にヤマトタケルの命、次にヤマトネコの命。次にカムクシの命の五人です。
景行天皇の御子の数は全部で合せて八十人でした。

その中で、ワカタラシヒコの命とヤマトタケルの命とイホキノイリヒコの命の三人が
皇太子となっていました。
その他の77人はことごとく国々の国造(くにのみやつこ)、和気(わけ)、
稲置(いなぎ)、縣主(あがたぬし)として、他国に遣わされました。

三人の皇太子のうち、ワカタラシヒコの命がのちに天皇に即位されました。
ヤマトタケルの命は東西の荒ぶる神、また、まつろわぬ人たちを平定されました。

兄は父天皇の妾を横取りした

ある時、景行天皇が美濃の国の大根王の娘のエヒメ、オトヒメの二人の乙女が
とても容貌が麗しいとお聞きになって、大碓の命を遣わして、お召しになりました。
ところが、大碓の命は天皇の所には連れて行かず、
二人とも自分の妻にしてしまいました。
そして、代わりの女たちを探して、エヒメ、オトヒメだと偽らせて、奉りました。

しかし、景行天皇はこの二人は偽物だと気づいて、いつも見るだけで、共寝をされず、
二人をお苦しめになりました。

こうして、その大碓の命がエヒメを妻として生まれた子供はオシグロのエヒコの王。
又、オトヒメを妻として生まれた子供はオシグロのオトヒコの王です。

ヤマトタケルの命は兄を殺した

天皇がヤマトタケルの命に言いました。
「どうして、そなたの兄は朝夕の食事に出て来ないのだろうか。
お前から出てくるように、うまく諭してくれ。」と。
そう言われてから5日経ってもやはり、顔を出しませんでした。

そこで、天皇はヤマトタケルの命に尋ねました。
「どうして、そなたの兄は長らく食事に顔を出さないのか。
もしかしたら、そなたはまだ話していないのか。」
とお尋ねになったので、ヤマトタケルの命は、
「とっくに言いました。」と答えました。

そこで、
「どうやって諭したのか。」と言われると、
「あけがた兄が便所に入った時に、待ち構えて捕まえて、掴みつぶして、
手足を引きちぎって、ムシロに包んで投げ捨てました。」
と答えました。

天皇はヤマトタケルの命の猛々しく、荒々しい心に恐れをなして、言われました。
「西の方に熊曾建(くまそたける)が二人いる。
これらは、まつろわない、無礼な者たちだ。
だから、そなたが行って殺してくるように。」
とお命じになりました。

ヤマトタケルの命は出立の時に、その髪を額のところで結いました。
(これは15,6歳の少年の髪形です。)
そして、叔母にあたるヤマトヒメの御衣裳を頂いて、
剣を懐に入れて出発して行かれました。
                         (つづく)
[PR]
ヤマトタケルの命(日本武尊)(2)

熊襲建(クマソタケル)と出雲建(イズモタケル)


熊曾建の兄弟たち

 こうしてヤマトタケルの命が熊襲建(くまそたける)の家に着いて様子を伺うと、
その家の周囲を軍勢が三重に囲んで、室(土蔵の家)を作っていました。
室が完成したら、落成の祝宴をしようと騒いでいて、
御馳走をつくる準備をしていました。
そこで、ヤマトタケルの命はそのあたりをブラブラとして、祝宴の日を待ちました。

 ついに、その祝宴の日になると、これまで結っていた少年の髪型をほどいて、
乙女の髪のようにけずって垂らし、叔母のヤマトヒメからもらった
上着と裳に着替えて、すっかり乙女の姿になって、
女の人たちの中に紛れ込んで、その室の中に入りました。

すると、熊襲建の兄弟が二人ともヤマトタケルの命を見染めて、
二人の間に座らせて、盛り上がって宴会をしました。
そして、宴がたけなわになった時に、ヤマトタケルの命は懐から剣を出して、
兄の熊襲建の衣の襟首を掴んで剣で胸を刺し通しました。

弟の熊襲建が恐れて逃げ出しました。
それを追いかけてその室の階段の下に追い込むと、
背中を掴んで剣を尻から刺し通しました。
すると、その熊襲建が言いました。
「その太刀を動かさないで下さい。(動かすと、死んでしまうので)
言いたい事があります。」
そこで、しばらく聞き入れる事にして、押し伏せました。

「あなた様はどなたですか。」と熊襲建が尋ねたので、
「私は巻向(まきむく)の日代宮(ひしろのみや)で大八島国を治めていらっしゃる、
オオタラシヒコオシロワケの天皇の御子、名はヤマトオグナだ。
おのれ熊襲建兄弟二人、まつろわず、無礼だとお聞きになって、
おのれらを討ち取れと、みことのりされて、遣わされたのだ。」と言いました。

すると、熊襲建が言いました。
「まことにその通りでしょう。西の方に私たち二人を除いて、
勇猛で強い人はいません。
しかし、オオヤマトの国には我ら二人より勇猛な人がいたんですね。
私がお名前を差し上げましょう。これからはヤマトタケルの御子と称えます。」

熊曾建がこう言い終えると、ヤマトタケルの命は
熟れた瓜を絶ち切るように殺しました。
こうして称えられて、名前をヤマトタケルの命と言うようになりました。
ヤマトタケルの命は都へ還りながら、山の神、川の神、また穴戸の神を
みな平定して行かれました。

出雲建

 その途中、ヤマトタケルの命は出雲の国に入ると、
出雲建(いずもたける)を殺そうと思って、友達になりました。
こっそりとイチヒの木で木刀を作り、貴人用の太刀に仕立てて、
出雲建と二人で肥の川で沐浴(身体を洗う事)しました。

 ヤマトタケルの命は先に川から上がると、出雲建が置いていた太刀を手に取って、
「刀を交換しないか。」と言いました。
出雲建は後から川から上がると、ヤマトタケルの命の偽太刀を腰に付けました。

そうすると、ヤマトタケルの命は「なあ、太刀を合わせてみないか。」と誘いました。

そこで、互いに太刀を抜いたとき、出雲建は偽太刀を抜けませんでした。
すると、ヤマトタケルの命は太刀を抜いて、出雲建を討ち殺してしまいました。
そうして歌を詠みました。
  出雲建の腰につけた太刀は 黒いカズラを沢山巻いているのに 
刀身が無いのがあわれだったなあ

こうして、平定して都に戻って、帝に報告しました。
                           (つづく)
[PR]
ヤマトタケルの命(日本武尊)(3)

東征ーミヤズ姫とオトタチバナ姫


東征
そこで、景行天皇はまた重ねてヤマトタケルの命に言いました。
「東の方12道の荒ぶる神、また、まつろわぬ人どもを平定せよ。」
そう言うと、吉備の臣らの祖先の、ミスキトモミミタケヒコをお伴につけて、
ヒヒラ木で作った八尋矛(やひろほこ)を授けられました。

こうして、ヤマトタケルの命は勅命を受けて、退出しました。
伊勢の大神宮に立ち寄って、神のまします所を参拝して、
斎宮をしていた叔母のヤマト姫に言いました。

「天皇は私に死ねと思っていらっしゃるのか。
西の方の悪いやつらを討ちに行かせて、戻って来てから、
まだ、それほどの時間も経っていないのに、どうして軍勢もつけないで、
またさらに東の方12道の悪いやつらを平定せよと命ぜられるのか。
こうして考えると、やっぱり私に死ねと思っていらっしゃるんだ。」

と嘆いて、泣きながら言うと、ヤマト姫は草薙の太刀を授けて、
「もし、火急の事が有ったら、この袋の口を開けなさいませ。」
と言って袋を与えました。

ミヤズ姫

こうして、尾張の国に着いて、尾張の国造(くにつくり)の祖先の
ミヤズ姫の家に行きました。
そこで、姫と契りを交わそうと思いましたが、
また戻って来た時にそうしようと思って、約束をして、
東(あずま)の国に行って、山河の荒ぶる神、また、まつろわぬ人どもを
ことごとく平定しました。

こうして相模の国に着いた時、その国造が偽って言いました。
「この野の中に大沼があります。
その沼の中にすむ神はひどく荒れすさぶ神です。」と。
そこでヤマトタケルの命は見てみようと野に入って行きました。

すると、その国造はその野に火を点けました。
こうして、騙されたのに気づいて、叔母のヤマト姫がくれた袋の口を
開いて見ると、火打ち石がその中に入っていました。

そこで、まず太刀で草を刈り取って、その火打ち石を打って、向かえ火を点けて、
こちらからも焼いて火を退けさせて、生還しました。
それから、その国造どもを切り滅ぼして、火をつけて焼きました。
こういう事から、そこを焼津といいます。

弟橘姫

そこから走水(はしりみず―浦賀水道)の海を渡る時に、
その渡りの神が波を起こして船をぐるぐると廻して、進む事が出来ませんでした。

すると后(きさき)の弟橘姫(おとたちばなひめ)が言いました
「私めが、御子に代わって海の中に入りましょう。
御子は派遣された勅命を成し遂げて、帝にご報告をなさいませ。」

と言って海に入ろうとする時に、菅で編んだ敷物を八重、
皮の敷物を八重、絹の敷物を八重、波の上に敷いて、その上に下りました。

すると、その荒波は自然と静まって、船が進む事が出来ました。
その時、弟橘姫が歌った歌。
「相模の小野で 燃える火の 火中に立って 私を思って下さったあなた」

それから七日後に、弟橘姫の櫛が浜辺に打ち寄せられました。
そこでその櫛を拾って、お墓を作って納めました。                (つづく)
[PR]
ヤマトタケル(日本武尊)(4)

あづまはや・ミヤズ姫・伊吹の神


あづまはや

 ヤマトタケルの命が、そこからさらに奥に入って、
荒ぶる蝦夷(えみし)どもをことごとく平定し、
また山河の荒ぶる神どもを平定して、都へ戻って来る途中、
足柄の坂の麓に着きました。
干し飯(かれひ)を食べている時に、
その坂の神が白い鹿に化けて、現れ出ました。

そこで、食べ残したノビル(野草)の片端を持って、待ち受けて打ち付けると、
その眼に当たって殺してしまいました。
その後、その坂に登って頂きに立つと、亡くなった弟橘姫が思い出されて、
三回「我が妻よ。」と嘆きました。
この事から、その国をアヅマと言うようになりました。

その国を越えて甲斐に出て、酒折(さかおり)の宮に居る時に歌を詠みました。
  新治(にいばり) 筑波を過ぎて 何日寝ただろうか。
と詠みました。

すると、かがり火の番をする老人が、その歌に続けて歌いました。
  日々を数えて 夜は9夜 日は10日過ぎました。
それを聞いたヤマトタケルの命は老人をほめて、
即座にアヅマの国造(くにのみやつこ)に任命しました。

ミヤズ姫

 その国から科野(しなの)の国を越えて、科野の坂の神を平定して、
尾張の国に戻って来て、前に約束していたミヤズ姫のもとに行きました。

そこで、大宴会が行われた時、ミヤズ姫が大きな杯を捧げ持って来ました。
その時、ミヤズ姫の重ね着の衣の裾に、月のものの血が付いていました。
それを見て、ヤマトタケルの命は歌を詠みました。

  ひさかたの 天の香具山の上を 
  鋭い鎌(かま)のように 首を伸ばして飛んで行く 
  白鳥の首のように か細くて しなやかなあなたの腕を 
  枕にしようと 私は思うのだけど
  そんなふうに共寝をしようと 思うのだけど
  あなたの着ている 衣の裾に 月が立っているよ。

ミヤズ姫が歌で返しました。

  高い空で光輝く 日の御子よ
  天下を治める 我が君よ
  年が経ってしまったので、
  その間、月は何度も来ては過ぎ去って行きました。
  ほんと、ほんと、ほんと
  あなたを待ち切れないで、私の衣の裾に 月が立ってしまいました。

こう詠み交わしながら、二人は結婚して、
ヤマトタケルの命は身につけていた草薙の剣をミヤズ姫の所に置いて、
伊吹山の神を討ち取りに出かけました。

伊吹山の神

ヤマトタケルの命が
「この山の神は 素手で真正面から討ち取ってやるさ。」
と言って、その山に登った時、白いイノシシに出くわしました。
その大きさは、牛のようでした。
その時、
「この白いイノシシに化けたのは、神の使いだな。
今殺さなくても、戻って来る時に殺そう。」
と、言挙(ことあげ)をして、登って行きました。
(言挙とは自分の意志を言い立てる事で、タブーでした。)

そのために、ひどい雹(ひょう)が降って来て、
ヤマトタケルの命は意識がもうろうとなってしまいました。
この白いイノシシに化けたのは、神の使いではなく、神そのものだったので、
言挙をしてしまったために、意識をもうろうとさせられたのでした。

そうしながらも何とか戻って来て、玉倉部(たまくらべ)の清水について、
一息つくと、次第に意識がはっきりとして来ました。
そこで、その清水を居寤(いさめーそこに居るうちに覚めた)の清水と言います。
(つづく)
[PR]
ヤマトタケル(日本武尊)(5)


天翔(あまか)ける白鳥

そこを出立して、タギノのあたりに着いたとき、ヤマトタケルの命は、
「私の心はいつも空をも翔けて行こうと、前向きなのに、今日は足が進まない。
たぎたぎしく(たどたどしく)なってしまった。」
と言いました。それで、この地をタギと言います。

そこからほんの少し進んだのですが、とても疲れたので、
杖をついて、ようやく歩きました。
それで、そこを杖つき坂と言います。

尾津の岬の一本松の元に来て座った時に、
以前、食事をした時に忘れていた太刀が無くならずに、そのまま残っていました。
そこで、歌を詠みました。
  尾張に まっすぐ向かった 尾津の岬の 一本松よ、お前さん。
  一本松が 人間だったなら、太刀をはかせたのに、
  衣を着せてやったのに。一本松よ、お前さん。

そこからさらに進んで、三重の村に着いたとき、また言いました。
「私の足は、三重に折れ曲がったようで、とても疲れた。」と。
それで、そこを名づけて、三重と言うようになりました。

そこからさらに行って、能煩野(のぼの)に着いたとき、
国をしのんで詠みました。
  ヤマトは 国の中心の 素晴らしい所。
  重なり合う 青い垣根のような 山々の懐に 
  抱かれている ヤマトはなんとうるわしい。

又、歌を詠みました。
  命があって 元気な若者は
  畳んだムシロのように、重なりあった 
  平群(へぐり)の山の 大きな樫の葉を手折って、髪飾りに挿せ。
  若者たちよ。

この歌は国をしのぶ歌です。又、詠みました。
  ああ、いとしい私の家の方に 雲が湧いて来る。
これは片歌です。

この時、病が急に重くなりました。そこで、歌を詠みました。
  乙女の 床の所に 私が置いた つるぎの太刀。 
  その太刀はどうなっただろう。

そう、歌い終わると、そのままお亡くなりになりました。
その知らせは早馬で帝に伝えられました。

それを聞いたヤマトの后たちや御子たちは、一緒に下って行って、
御陵を作って、そこのナヅキ田に腹這い、身をよじって、
大声で泣いて、歌を詠みました。
  なづきの田の 稲の茎に
  稲の茎に 腹這って、身をよじっている 山芋よ。
  (まるで、私たちのようだ)

その時、ヤマトタケルの命は大きな白い鳥になって、
天を飛翔して、浜の方に飛んで行きました。

それを見て、后や御子たちは小竹の切り株で足を切ってしまっても、
その痛さを忘れて、泣きながら追いかけました。
その時の歌。
  丈の低い小竹原(しのはら)で 
  腰まで小竹がまつわり付いて進めない。
  空は飛べない。 歩いて行かなきゃ。

又、白鳥を追って海に入って、難渋しながら行った時に、詠んだ歌。
  海を行けば 腰まで浸かって 難渋する。
  まるで大きな川の 浮草のようで、
  海はためらってしまう。

白鳥はさらに飛んで、岩の多い磯に止まった時に、詠んだ歌。
  浜の千鳥よ 砂浜には行かずに、
岩ばかりの磯を伝って行くなんて。

この四つの歌は、みな、その葬儀の時に歌われました。
それから後、今に至るまで、その歌は
天皇の大葬の時に歌われるようになりました。  

白鳥はその国から飛翔して、河内の国の志幾に留まりました。
そこで、そこに御陵を作って、御霊を鎮めました。
その御陵に、白鳥の御陵と名付けました。
ところが、白鳥はそこから更に天に飛翔してしまいました。

このヤマトタケルの命が国を平定しに出征して回った時、
久米の直(あたえ)の祖である、ナナツカハギという者が
常に膳夫(かしわでー料理人)として、お仕えしました。


このヤマトタケルの命がイクメの天皇の娘、フタヂノイリビメの命を妻として、
生まれた御子はタラシナカツヒコの命。
又、あの、海に入ったオトタチバナのヒメの命を妻として、
生まれた御子はワカタケルの王。
又、近淡海の安の国の造の祖、オホタムワケの娘、フタヂヒメを妻として、
生まれた御子はイナヨリワケの命。

又、吉備の臣タケヒコの妹、大吉備タケヒメを妻として、
生まれた御子はタケカヒコの王。
又、山代のククマモリヒメを妻として、生まれた御子はアシカガミワケの王。
又、ある妻の子、オキナガタワケの王。
ヤマトタケルの命の御子の数は合せて六柱です。

この中で、タラシナカツヒコの命は天下を治めました。
(この方が仲哀天皇です。)
[PR]
スペルボーン(Spellborn)