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                                    【日本書紀】

蘇我の稲目(1)
そがのいなめ
稲目は大臣となる。

宣化天皇元年、春1月に都を檜隈(ひのくま)の廬入野(いほりの)に遷しました。それを宮の名としました。

2月1日に大伴の金村大連を大連(おおむらじ)とし、物部のアラカヒ大連を大連と、前任同様にしました。また蘇我の稲目宿禰を大臣(おおおみ)としました。阿部の大麻呂臣を大夫(まえつきみ)としました。

5月1日に宣化天皇の詔(みことのり)がありました。
「食糧は天下の根本である。黄金が万貫あっても、飢えを癒す事はできない。白玉が千箱あっても寒さを助けることは出来ない。

筑紫の国は遠近の国々が朝貢してくる所で、往来の関門にあたる所である。海外の国は海流を観測して来朝して賓客となり、空の雲を観察して朝貢して来る。

胎中天皇である応神天皇の時から私に至るまでに、稲モミを収蔵して、余剰米を蓄えている。凶作の年にそなえ、賓客を手厚くもてなす事ができる。国を安泰にするのに、これより優れた方法はない。

だから、私は阿蘇の君を遣わして、河内の国の茨田(まむた)郡の屯倉の稲モミを運ばせようと思う。蘇我大臣稲目の宿禰は、尾張連(おわりのむらじ)を遣わして、尾張の国の屯倉の稲モミを運ばせよ。

物部の大連アラカヒは新家(にいのみ)の連を遣わして、新家屯倉の稲モミを運ばせよ。阿部の臣伊賀の臣を遣わして、伊賀の国の屯倉の稲モミを運ばせよ。

宮家(みやけ)を那の津のほとりに作らせよ。また、かの筑紫・肥・豊の三つの国の屯倉は分散して遠いところにある。運んで移すのに遥かに隔たっている。もし使おうとしても、急に備える事が出来ない。諸郡に命じて、一部を分けて那の津のほとりに集めて、非常時に備えて、ひたすら人民の命とするように。急いで郡県に命じて、私の心を伝えよ。」

秋7月に物部アラカヒ大連は亡くなりました。この年太歳がありました。

宣化天皇2年。冬10月1日に、天皇は、新羅任那を攻撃したことを知って、大伴の金村大連に命じて、その子の(いわ)と狭手彦(さでひこ)を遣わして、任那を助けました。その時に磐は筑紫に留まって、その国の政治を行い、三韓に備えました。狭手彦は行って、任那を鎮圧し、また百済を救いました。

宣化天皇4年の春2月10日に、天皇は檜隈の廬入野(いおりの)の宮で崩御しました。73歳でした。


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蘇我の稲目(2)

娘二人を天皇に嫁がせる。
三人の孫がのちに天皇になる。


欽明天皇元年。冬12月5日に天国排開広庭天皇(あめくに・おしはらき・ひろには・のすめらみこと)は即位しました。年は若干。先代の皇后を皇太后としました。

大伴の金村の大連物部の尾輿(おこし)の大連を大連(おおむらじ)として蘇我の稲目の宿禰の大臣を大臣(おおおみ)と、これまでどおりに任命しました。

欽明天皇2年の春3月に5人の妃を決めました。その中の一人に蘇我の大臣の稲目の宿禰の娘の堅塩(キタシ)姫がいました。7人の男子・6人の女子を生みました。子の名前。
大兄皇子(=橘豊日尊。のちの用明天皇)、
磐隈皇女(=夢皇女。伊勢の斎宮)、
アトリの皇子。
豊御食炊屋姫尊(とよみけ・かしきやひめのみこと。=額田部の皇女。のちの推古天皇
椀子(まろこ)の皇子
大宅皇女(おおやけのひめみこ)、
石上部皇子、山背皇子、大伴皇女、桜井皇子、肩野皇女、橘本稚皇子、舎人皇女。

もう一人、堅塩姫の同母妹、小姉君(おあねのきみ)も后となりました。子供は4人の男子、1人の女子。
茨城(うまらき)皇子、
葛城皇子、
泥部穴穂部(はしひとのあなほべ)の皇女、
泥部穴穂部皇子(=天香子皇子)、
泊瀬部(はつせべ)皇子
(のちの崇峻天皇)。

(つづく)


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蘇我の稲目(3)

百済伝来の仏像を礼拝する

欽明天皇13年、冬10月に、百済の聖明王は西部・姫氏(きし)達率(だちそち・官名)ヌリシチケイたちを派遣して、釈迦仏の金銅像一柱と幡蓋を(はたきぬがさ)若干、経論を若干巻献上しました。

仏の教えが流通して礼拝する功徳を称賛して、
「この法は諸法の中で最も優れています。解り難く、入るのにも難しく、中国の周公も孔子も知る事が出来ないような内容です。この法は無限で、福徳果報があって、この上もない菩提の境地を得られます。

例えば、願いを叶える宝珠を持って用いると、ことごとく意のままになるように、この妙法の宝も祈り願えば思いのままで、足りないことはありません。

遠くはインドから三韓に至るまでに、この教えに従い捧げ持ち、尊んで敬わないものはいません。

そこで、百済の王臣の明(めい)が謹んで、陪臣ヌリシチケイを遣わして帝国にお伝えして、国内に流通するようにと献上します。釈迦仏が、『私の法は東に伝わるだろうと』と言われた言葉を果たす事になります。」

この日、天皇は聞き終えると大変喜んで、使者に
「私は昔から今に至るまで、このような精妙な法を聞いたことがない。しかし、私自身では決定はすまい。」と言いました。そして、群臣に一人ずつ尋ねました。
「西の国が献上した仏の顔は端厳である。こんなものを見たことがない。敬うべきかどうか。」
蘇我の大臣の稲目の宿禰は、
「西の方の国々はみんなこれを礼拝しているのなら、豊秋つ日本だけが背くのはどうでしょうか。」と奏上しました。

物部の大連尾輿(おこし)と中臣の連鎌子(かまこ)は、
「我が国家で、天下に王として君臨される所以は、天地の社に常におられます180の神を、春夏秋冬に祭礼されるからです。

今あらためて他国の神を拝むようなことをされたら、国つ神の怒りを招く恐ろしい事になるでしょう。」と同じ意見を奏上しました。

天皇は
「それでは賛成している稲目の宿禰に授けて、試みに礼拝させよう。」と言いました。

稲目の大臣はひざまずいて受け取って喜びました。そして小墾田(おわりだ)の家に安置しました。丁重に出家の業を修養して、依り所としました。向原(むくはら)の家を清め払って寺としました。

後に国に疫病が起こって、多くの民が死にました。それは長く続き、大勢の人が亡くなりました。防いで治療する事が出来ませんでした。

物部の大連尾輿と中臣の連鎌子は共に天皇に、
「以前、私たちの意見をお聞き入れにならなかったので、この疫病が起こったのです。すぐに元通りにすれば、必ず恵みがあるでしょう。早く異国のものを投げ捨てて、日本の神々に幸いを求めてください。」と奏上しました。
天皇は、「その通りにせよ。」と言いました。

有司(つかさ)はすぐに蘇我の稲目の家の仏像を取って、難波の堀江に流し捨てました。また伽藍に火をつけました。燃え尽きて、跡形も無くなりました。その時、風も雲もないのに突然、磯城島宮の大殿が燃え上がりました。
(つづく)


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蘇我の稲目(4)

百済王子・余昌と亡き王について語る

欽明天皇14年、秋7月4日、天皇は樟勾宮(くすのまがりのみや)に行幸しました。

蘇我の大臣の稲目の宿禰は勅命を受けて、王辰爾(おうじんに)を遣わして、船の関税を調べて記録させました。そして、王辰爾を船長(ふねのつかさ)とし、姓(かばね)を与えて船史(ふねのふびと)としました。今の船連(ふねのむらじ)の祖先です。

欽明天皇16年、春2月、百済の王子・余昌(よしょう)は弟の王子・恵(けい)を倭国に派遣して、
聖明王は敵に殺されました。」と奏上しました。(15年に新羅によって殺される。)
天皇はそれを聞いて悼みました。すぐに恵王子のいる津に使者を出して、慰労して許勢の臣に尋ねさせました。
「日本に留まられるか。または本国に戻られるおつもりか。」と。
恵王子は
「天皇の御徳を頂いて、願わくは、亡き父王の仇を討ちたいと思っています。もし憐れんで、兵器を沢山戴けるならば、恥をすすぎ、仇を討つのが私の願いです。私が日本に留まるかどうかは、仰せに従います。」答えました。

しばらくして、蘇我の臣が訪ねて来て、言いました。
「そなたの父、聖王は天の道、地のことわりを悟っていて、その名は四方八方に知れ渡っていた。思い起こせば、国の安定を保ち、日本の隣国を統治して、千年も万年も天皇にお仕えしようと思った人だった。

思ってもいなかった。こうして急に天に昇り、水のように流れ去って戻らず、暗い玄室に永遠の休みにつかれようとは。心が痛くてしかたがない。悲しくてしかたがない。心ある者なら皆悼まずにはいられない。

もしかしたら何かの咎(とが)があって、こんな災いを招いたのだろうか。今からどんな手段で国家を鎮めたらいいのだ。」

王子の恵が答えました。
「わたしめは知恵が足らず、神の大計も分かりません。ましてや、禍福の成り立ちや国家の存亡の事など。」と。

蘇我の卿(まえつきみ)は、
「むかし大泊瀬天皇(雄略天皇)の御世に、そなたの国、百済は高句麗に攻められて(南方に遷都し)、まるで積み重なった卵のように危うかった。

そこで、我が天皇は神祇官の長官に命じて、天地の神を敬って策を授けていただいた。
祝者(はふり)が神託を受けて報告したのは、『国を建てた神を謹んで勧請して、滅ぼうとする百済国王を救えば、必ず国家は治まって、人民は安らかになるであろう。』という事であった。

そこで天皇は神を勧請して、そちらに持って行かせて救われた。だから国は安泰になったのだ。その国を建てた神とは、天地が開けて別れた時、草木が物を言う時代に、天から降って国家を作った神だ。

この頃はそなたの国はうち捨てて祭っていないと聞く。まさに今、その過ちを悔い改めて、神の宮を修理して、神の御霊(みたま)をお祭りすればば、国は栄えるであろう。そなた、この事を忘れてはならないぞ。」と言いました。
(つづく)


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蘇我の稲目(5)

高句麗の捕虜の姫らを妻に貰い受ける

欽明天皇16年、秋7月4日、天皇蘇我の大臣稲目の宿禰穂積の磐弓の臣らを派遣して、吉備の五つの郡(こおり)に白猪屯倉(しらいのみやけ)を設置させました。

欽明天皇17年、春1月に、百済の恵王子は帰国を願い出ました。そこで、天皇は兵器と良馬を沢山授けました。また多くの褒美を与え、人々は感嘆しました。

阿倍の臣、佐伯の連、播磨の直(あたい)を派遣して、筑紫の国の舟師(ふないくさ)を率いて、守りながら百済に送りました。

その時、特別に筑紫の火の君筑紫の君の子、火の中の君の弟)を派遣して、勇士1000人を率いて守らせて、ミテの津に送らせ、海路の要害の地を守らせました。

秋7月6日、蘇我の大臣稲目の宿禰らを備前の児島郡に派遣して、屯倉を設置させました。葛城の山田の直瑞子(みつこ)を監査役にしました。

冬10月に、蘇我の大臣稲目の宿禰を倭の国の武市の郡に派遣して、百済人の大身狭(おおむさ)の屯倉を、高句麗人の小身狭(おむさ)の屯倉を設置させました。紀の国には海部(あま)の屯倉を置きました。

欽明天皇23年8月に、天皇は大将軍大伴の連狭手彦(さでひこ)を派遣して、兵数万を率いて高句麗を討たせました。狭手彦は百済の計略を用いて、高句麗を打ち破りました。

その王は垣を越えて逃げました。狭手彦はついに勝って、宮殿に入り、珍しい宝物の数々と・七織物のカーテンと鉄屋(くろがねのいえー内容不明)を手に入れて帰還しました。(鉄屋は高句麗の西の高殿の上にあったもので、織物のカーテンは王の奥の部屋のものという)七織物のカーテンは天皇に献上しました。

甲二領、金細工の太刀二振り、彫刻を施した銅の鐘三つ、五色の幡二棹、美女姫(おみなひめ)に侍女の吾田子(あたこ)を付けて、蘇我の稲目の宿禰の大臣に送りました。大臣はその二人を召し入れて妻にして、軽の曲殿(まがりどの)に住まわせました。
(鉄屋は長安寺にあるが、どこの国にあるのかは分からない。)

欽明天皇31年の春3月の1日に、蘇我の大臣稲目の宿禰は亡くなりました。

ひとりごと
崇仏論争がどんなものか知りたくて、訳してみましたが、日本書紀には載ってないようです。何か他に史料があるのでしょうね。
稲目は仏教に帰依しながらも、日本の神への信仰も捨ててはいないように見受けられます。

彼の仕事は屯倉の設置や収税などがメインのようです。
稲目だけを拾ったのですが、途中、任那や新羅などの戦いが沢山描かれています。高句麗からの戦利品が天皇と稲目に送られた事から、彼はよほどの実力者だったんですね。孫たちが天皇になるのはもう少し先の事です。

鉄屋は何か分からないそうですが、簡単に移動できるものだという事が伺えます。長安寺の場所が分からなくなっていると、書いてありましたが、朝倉市に長安寺がありますが…。斉明天皇の朝倉広庭宮の跡地の候補地のそばだけど、関係ないかな…。お寺だから同じ名前があちこちにあるのでしょうね。



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大国主神(1)
(大穴牟遅神・葦原色許男神・八千矛神・宇都志国玉神)

稲羽のシロウサギ

天の冬衣(ふゆきぬ)の神刺国(さしくに)大神の娘、刺国若ヒメを妻として生まれた子は大国主神です。またの名を大穴牟遅(おおなむぢ)神・葦原色許男(あしはらしこお)神・八千矛(やちほこ)神・宇都志国玉(うつしくにたま)神と言い、合わせて5つの名前があります。

大国主神の異母兄弟八十神(大勢)いました。けれども、みんな、国を大国主神に譲りました。その理由はこういう事です。

八十(やそ)神はそれぞれ稲羽(いなば)の八上(やがみ)姫を妻にしたいという気持ちがあって、一緒に稲羽に行った時、大穴牟遅神に袋を負わせて従者として連れて行きました。

気多の前(さき)に着いたとき、裸のウサギが伏せていました。そこで、八十神がウサギに言いました。
「海水で水浴びして、風に当たって、高い山の頂に伏せるがよい。」
そこで、ウサギは八十神の教え通りにして伏せました。塩が乾くにつれて、身体の皮が裂けました。その痛さに苦しんで泣いて伏せていると、最後にやってきた大穴牟遅神はそのウサギを見て、
「どうして泣いて伏せている。」
と尋ねると、ウサギが答えました。

「私めはオキの島にいて、こっち渡りたかったのですが、手段がありませんでした。だから海のワニ(サメ?カメ?)を騙して、
「君の一族と私の一族とどっちが多いか比べないか。君は一族を集めてこの島から気多の前まで並んでごらん。私が上を踏んで、走りながら数えていくから。そうやって、どっちの一族が多いか調べよう。」
と言いました。こう言うと、海のワニたちは騙されて並んだので、その上を数えながら渡ってこっちに着こうとする時に私は言いました。
「やあ、騙されたね。」
すると、一番端っこにいたワニが私をつかまえて毛皮を剥ぎました。

それで泣いていたら、先に通った八十神が「海に浸かって、風に当たって寝ておきなさい。」と教えてくれたのでその通りにしたら、身体が傷だらけになってしまいました。」
それを聞いて大穴牟遅神はそのウサギに言いました。
「今すぐに河口に行って、真水で身体を洗って、そこに生えている、花粉のついたガマの穂を取って、敷き散らして、その上で転がれば、お前の肌はもとのようにきっと治る。」と言いました。

そこで、教えのようにすると、元のように治りました。これが稲羽のシロウサギです。今はウサギの神と言います。
そのウサギは大穴牟遅神に、
「この八十神は八上姫を手に入れる事は出来ません。袋を背負って卑しい身分のようにしていますが、あなた様が手に入れるでしょう。」と言いました。


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大国主神(2)

八十神

こうして、八上姫八十神に答えて、
「わたしは、みなさんの求婚には応えられません。大穴牟遅神と結婚します。」と言いました。八十神は怒って、大穴牟遅神を殺そうと話し合って、伯伎(ははき)の国手間(てま)の山の麓に着いて言いました。
「赤いイノシシがこの山にいる。私たちが追い落とすから、お前は下で待って受け止めろ。ちゃんと受け止めなければお前を殺すぞ。」
と言って、イノシシに似た大石を火で焼いて、転がして落としました。

大穴牟遅神は八十神が落とした焼け石を受け止めて、やけどをして死にました。
それを知った母神は泣き憂い、天に上って神ムスヒの命に訴えると、すぐにキサ貝姫(赤貝)とウムギ姫(はまぐり)を遣わして、治療して生き返らせました。その時、キサ貝姫は赤貝を削った粉を集めて、ウムギ姫はハマグリの汁で練って塗りこむと、大穴牟遅神は麗しい男に蘇って出歩くようになりました。

それを見た八十神はまた大穴牟遅神をだまして山に連れて行って、大木を切り倒してクサビを打ち込み、その隙間に入らせると、クサビを外して打ち殺しました。

それを知った母神は泣きながら我が子を探し求めて見つけると、すぐにその木を折って、大穴牟遅神を引っ張り出して生き返らせて言いました。
「そなたがここにいたら、最後には八十神に殺されてしまう。」
と言って、すぐに木の国オオヤビコ神の所にこっそりと行かせました。

八十神は大穴牟遅神を探し求めて、ついに見つけると矢をつがえて、こちらに渡すように求めると、オオヤビコ神は(住処の)木の股からこっそりと逃がしながら言いました。
スサノオの命のいらっしゃる根の堅洲国(かたすくに)に行きなさい。きっと大神が力になってくれるでしょう。」と。


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大国主神(3)

スセリ姫と八上姫

         
 こうして大穴牟遅(おおなむぢ)の神オオヤビコの神の言葉に従って、スサノオの命を訪ねて、根の堅洲国にやって来ました。娘のスセリ姫が出て来て一目ぼれをすると、二人はすぐに結ばれました。そうして宮殿に戻って来て、父神に言いました。
「とても、きれいな神が見えました。」と。
 それを聞いて、スサノオの命が出て行ってみて、
「これは葦原の国のブサイク男と言う方だぞ。」
と言いながらも、すぐに宮殿に招いて、蛇の部屋に泊めました。

 妻のスセリ姫は「蛇の領巾」(ひれ)(スカーフ)を大穴牟遅の神に渡しながら、
「蛇が噛みつこうとしたら、この領巾を三回振って打ち払って下さい。」
と言いました。
そこで言われたとおりにすると、蛇は自然と静まりました。こうして、ゆっくりと寝て、翌朝は無事に蛇の部屋から出て来ました。

 また、次の日の夜はムカデと蜂の部屋に入れられました。スセリ姫は「ムカデ蜂の領巾」を渡して、同じように教えたので、やはりぐっすりと寝て、出て来ました。

 また次には、スサノオの命は大きな音のでる鳴鏑(なりかぶら)の矢を野原に射て、その矢を取ってくるように言いました。そこで、大穴牟遅の神が野に出た時、スサノオの命は火を付けて、野をぐるりと焼きました。

大穴牟遅の神が逃げ出す方向が分からずにいたら、ネズミが出て来て言いました。
「内はホラホラ。外はスブスブ。」
(土の中はほら穴だよ。外の目印はくぼんでいるよ。)
それを聞いて、足元を強く踏みつけると、穴に落ち込んでしまいました。その穴に隠れている間に、火は焼けながら過ぎて行きました。

それから、ネズミが鳴鏑(なりかぶら)の矢をくわえて持って来ました。その矢羽はネズミの子がみんな食べてしまっていました。

 何も知らないスセリ姫は、夫は死んだと思い込んで、葬式の道具を持って、泣きながら野原にやって来ました。父神ももう死んだだろうと思って、野原に出て来ました。
 すると、大穴牟遅の神がその矢を持って来たので、スサノオの命は彼を宮殿に連れて帰り、今度は大きな部屋に呼び入れて、自分の頭のシラミを取らせました。

 その頭を見ると、ムカデがいっぱいいました。スセリ姫はムクの木の実と赤土を持って来て、夫に渡しました。そこでオオナムヂの神はムクの木の実を食い破って、赤土を含んで吐き出したので、スサノオの命はムカデを食い破って吐き出していると思って、可愛いやつだと思って寝てしまいました。

すると大穴牟遅の神はスサノオの命の長い髪を取って、天井の横木に結びつけて、大きな岩で部屋の戸を塞いで、スセリ姫を背負い、スサノオの命の生太刀(いくたち)と生弓矢(いくゆみや)と、天(あめ)の詔琴(のりごと)を取って逃げ出しました。

その時、その天の詔琴が木に触れて、大地が揺れて鳴り響きました。寝ていたスサノオの命が驚いて目を覚まして、起きあがろうとして、結び付けられた髪で部屋を引き倒してしまいました。髪をほどいている間に、二人は遠くに逃げました。

 スサノオの命が黄泉比良坂(よもつひらさか)まで追って行くと、はるか向こうに逃げる二人を見て、大穴牟遅の神に言いました。
「そなたが持っている生太刀・生弓矢でそなたの異母兄弟たちを、坂の下に追い伏せ、川の瀬に追い払って、おぬし、大国主の神と名乗って、またウツシ国玉の神となって、私の娘のスセリ姫を正妻にして、ウカの山の麓で、大地深く宮殿の柱を立てて、高天原に届くほどの高い柱を立てて、住め。こやつめ。」

 こうして、大国主の神はその太刀と弓矢で、自分の命を狙う八十神を追い払い、坂の下ごとに追い伏せて、川の瀬ごとに追い払って、国造りをしました。

その後、八上(やがみ)姫は以前の約束通りに、大穴牟遅の神と寝所を共にしました。大穴牟遅の神は八上姫を連れて帰ったのですが、八上姫は正妻のスセリ姫を恐れて、生まれた子供を木の股に挟んで残して、実家に帰ってしまいました。 そこで、この子の名前を木の股の神と言い、また御井(みい)の神とも言います。
                              (つづく)


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大国主神(4)
(八千矛神)
ヌナカワ姫

この八千矛(やちほこ)の神高志(こし)の国ヌナカワ姫を妻にしようと出掛けた時、そのヌナカワ姫の家に辿りついて歌を歌いました。

   八千矛の神の命は
   八島国では妻をめとる事ができないで、
   はるか遠い高志の国に 
   賢い女がいると聞いて、
   美しい女がいると聞いて、
   求婚しに出立して
   求婚して通い続け、
   太刀の紐もまだ解かず、
   上着もまだ脱がないでいます。
   乙女の寝ている板戸を 
   強く押しても、立ったまま
   何度引いても、立ったままなので
   青山の ヌエ鳥は鳴くし
   野の鳥 キジも 鳴く。
   庭の鳥 ニワトリも鳴き始めました。
   心痛くも 夜明けを知らせて鳴いている。
   この鳥たちを 鳴かないようにしたいものです。
   お慕いする天の使いよ。
   話す事はこの通りです。


そのヌナカワ姫はまだ戸を開かないで、内側から歌いました。

   八千矛の神の命さま。
   ぬえ草のようになよなよとした女なので、
   私の心は 海辺の鳥のように落着きがありません。
   今はまだ 我が思うままに振る舞う鳥ですが、
   後には あなたの自由になる鳥です。
   どうぞ夜明けを告げる鳥たちを殺さないで下さい。
   お慕いする天の使いと言って下さる私が話す事はこの通りです。
  
   青山に 日が隠れてから
   真っ暗な夜においで下さい。
   朝日が輝くように華やかな笑顔でおいで下さい。
   タクの木で作った綱のように白い腕で
   泡雪のような 若々しい私の胸を
   手で抱き締め、抱き締めては、ほどいて、
   玉のようなあなたの手と私の手を枕にし合って、
   足をからませて寝ようと思います。
   お慕いする八千矛の神の命さま。話す事はこの通りです。

こうしてその夜は逢わないで、次の日の夜、二人は結ばれました。
                      (つづく)


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大国主神(5)

スセリ姫

 また、大国主神の大后・スセリ姫は大変嫉妬しました。
そこで大国主の命は困って出雲から、倭国(やまとのくに)に上って住もうとして、旅の支度をして出発する時に、片方の手は馬の鞍にかけて、片足はアブミに載せて、歌いました。

  ぬばたまの実のような、真黒な衣をすっきりと装って、
  沖の水鳥が首を曲げて胸を見るように、
  わが姿を見ると、似合っていない。
  浜辺の波がさっと引くように脱ぎ捨てよう。

  カワセミの羽根のように青い衣をすっきりと装って、
  沖の水鳥が首を曲げて胸を見るように
  わが姿を見るが、似合わない。
  浜辺の波がさっと引くように脱ぎ捨てよう。

  山の畑に蒔いて育てたアカネをついて
  作った汁で染めた赤い衣をすっきりと装って、
  沖の水鳥が首を曲げて胸を見るように、
  わが姿を見ると、これはいい。

  慣れ親しんだ妻のミコトよ。
  群鳥のように私が他の者たちと一緒に行ってしまうと、
  紐でつながれた鳥のように、みんなに引っ張られて行ってしまうと、
  泣きませんとそなたは言っても、
  山のあたりの一本のススキのように
  うなだれてそなたが泣く様子は
  朝の雨がいつのまにか霧になるように
  いつまでも涙に濡れて乾かないだろうよ。

  若草のようにしなやかな妻のミコトよ。
  私の語る事はこれだけだよ。

すると、スセリ姫は大きな杯を持って、大国主の命の所へ行って、捧げて歌いました。

  八千矛の名を持つ神の命である、私の大国主の命さま。
  あなたは男なので、巡って行くどの島の岬でも、
  廻って行く磯の崎でも、行き先々に
  若草のように若々しい妻を持つのでしょうが、
  私は女なので
  あなた以外には男はいません。
  あなた以外には夫はいません。

  寝所の綾織のカーテンの下で、
  絹のような繊維で作った布団の柔らかな肌触りの中で、
  タクの木で織った布の布団がさらさらとする中で、
  泡雪のように白く若々しい私の胸を
  タクの木で作った強い綱のように白い腕で、
  手で抱き締め、抱き締めては、ほどいて、
  玉のようなあなたの手と私の手を枕にし合って、
  足をからませて寝て下さい。
  さあ、豊御酒(とよみき)を召し上がれ。

それを聞いて、大国主の命は旅を取りやめて、二人で永遠の愛を誓って酒を酌み交わし、腕を組みあって、今にいたるまで、ここに鎮まっています。これを神語(かむがたり)と言います。          


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