【日本書紀】

神功皇后(1)
オキナガタラシ姫
結婚・熊襲討伐へ

気長足姫尊(おきながたらしひめ)はワカヤマト・ネコヒコ・オオヒヒの天皇(開化天皇)のひ孫気長宿禰の王の娘です。母は葛城タカヌカ姫と言います。

仲哀天皇の2年に皇后になりました。幼い時から聡明で叡智にとんでいました。容貌も美しく、父の王は並外れていると思いました。

仲哀天皇(タラシナカヒコ)は日本武尊(ヤマトタケル)の第二子です。母はフタヂノイリ姫の命です。仲哀天皇の容貌は端正で、身長は1.7メートル。
成務48年成務天皇に男御子がいなかったので、皇太子となりました。その時の御年31歳。
成務60年に成務天皇(ワカタラシヒコ)が崩御しました。

仲哀元年春、正月の11日に仲哀天皇は即位しました。秋9月の1日に実母は皇太后となりました。

仲哀2年の春、正月11日にオキナガタラシ姫の尊を立てて皇后としました。(神功皇后)
これより先に、叔父の彦人大兄(ひこひとのおおえ)の娘の大中姫(おおなかつひめ)を娶って妃としていました。香坂の皇子(かごさかのみこ)と忍熊の皇子(おしくまのみこ)が生まれました。
次に、弟姫(おとひめ)を娶って、ホムヤワケの皇子が生まれました。

2月6日、仲哀天皇は角鹿(つぬが)に行幸しました。そこに行宮(かりみや)を立ててお住みました。これをケヒの宮と言います。その月に淡路の屯倉を定めました。

3月15日に天皇は南国を巡回しました。この時は皇后や百寮(つかさつかさ)は残して、お伴には二、三人の臣下と官人、数百人で気軽に出かけました。

紀伊の国に着いて、徳勒津宮(ところつのみや)に居ました。この時、熊襲が叛(そむ)いて貢ぎ物を献上しませんでした。天皇はそこで、熊襲の国を討とうと決意しました。

すぐに徳勒津宮を出立して、船で山口県の豊浦郡の穴門(あなと)に向かいました。
その日のうちに、角鹿に使者を立てて、皇后に、
「すぐに、その湊から出発なさいませ。穴門で逢いましょう。」と伝えました。

夏、6月10日に、天皇は豊浦の津に泊まりました。
一方、皇后も角鹿を発って、ヌタの門に着いて、船の上で食事をしました。その時、鯛が沢山船のそばに集まりました。
皇后は酒を鯛に注ぎました。すると鯛は酔っ払って浮かびました。それで海人(あま)は魚をたくさん獲って喜んで「聖王の与えられた魚だ」と言いました。

こういう事から、この辺りの魚は6月になると、いつも酔っ払ったように口をパクパクさせるようになりました。

秋7月5日に皇后は豊浦の津に泊まりました。この日、皇后は如意の珠を海の中から手に入れました。

9月に宮殿を穴門に建てて、皇居としました。これを穴門豊浦宮(あなとのとようらのみや)と言います。

                         (つづく)
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神功皇后(2)

穴門豊浦宮から岡湊、香椎宮へ


仲哀8年春1月4日に仲哀天皇の一行は筑紫に行幸しました。その時、岡の県主(あがたぬし)の祖・熊鰐(くまわに)は天皇の行幸を聞いて、あらかじめ五百枝(いほえ)の賢木(さかき)を土から抜き取って、根の付いたまま九尋の船の舳先に立てて、上の枝には白銅鏡を掛け、中の枝には十握剣を掛け、下の枝には八坂瓊(やさかに)を掛けて、周防のサバの浦に迎えに行きました。そして魚や塩の産地を献上しました。
そして
「穴門から向津野の大済(おおわたり)に至るまでを東門とし、名護屋の大済を西門としています。没利(もとり)島阿閉(あへ)島を御筥(みはこ)とし、柴島をミナヘ(鍋や器)としています。逆見(さかみ)の海を塩の産地としています。」と奏上して、海路を案内して行きました。

山鹿の岬から廻って、岡の浦に入りました。岡の湊に来ると、船が進まなくなりました。
天皇は熊鰐に尋ねました。
「そなた熊鰐は嘘偽りのない忠誠心を持ってやって来たと聞いている。どうして船が進まなくなったのだ。」
熊鰐が奏上しました。
「御船が進まないのは、私の罪ではありません。この浦の口に男女の二神がいます。男神を大倉主と言い、女神をツブラ姫と言います。きっとこの神々の御心でしょう。」と。

天皇は祈祷して神意を尋ね、船頭の倭国の菟田(うだ)の人、伊賀彦を祝人(はふり)として祭らせると船が進むようになりました。

皇后は別の船に乗っていて、洞海(くきのうみ)から内海を通って行きました。まもなく、潮が引いて、動かなくなりました。その時、熊鰐が戻って来て、洞海の方から皇后を迎えに来ました。

ところが船が立ち往生しているのを見て、畏れ入って、すぐに魚が泳ぐ沼池を作らせて、鳥たちが集まって来るようにしました。皇后は鳥たちが群れ集まって魚を狙うようすを見て、ようやく機嫌を直しました。潮が満ちて来ると船は岡の津に停泊しました。

また筑紫の伊都の県主(あがたぬし)の祖・イトテが天皇が行幸したのを聞いて、五百枝(いほえ)の賢木を抜き取って、船の艫舳(ともへ)に立てて、上の枝には八坂瓊(やさかに)を掛けて、中の枝には白銅鏡を掛け、下の枝には十握剣(とつかのつるぎ)を掛けて、穴門の引島に迎えに来ました。

そうして、
「私めが、わざわざこれらの物を献上する訳は、天皇が八坂瓊が優美に曲がっているようにあまねく治めて下さいますよう、また白銅鏡のように山川海原を明確にご覧になれますように、そうして、この十握剣を掲げて天下を平定してくださいますようにという意味からです。」と言いました。

天皇はイトテを褒めて、「いそし」と言いました。これから、イトテの本国を名付けて、伊蘇(いそ)の国と言うようになりました。今、伊都と言うのは訛っているのです。
21日に儺県(なのあがた)に着いて、橿日の宮に居を構えました。

いよいよ仲哀天皇と神功皇后は筑紫に行幸しました。
青い色の所は『ひもろぎ逍遥』で、レポートした神社です。これらの伝承を調べたお蔭で、いつのまにか、日本書紀のこの部分の背景が見渡せるようになっていました。(すごい、上達ぶりですね~)

岡県主の祖の熊鰐は山口県まで迎えに来て、岡の湊まで道案内をし、その先は伊都国から迎えに来たイトテの案内で香椎宮に入っていったのが分かります。迎えに来た彼らは、味方である証拠として、三種の神器をアピールしています。この演出は景行天皇の時にも記述があります。

地図 伊都県 岡県 儺県 穴門豊浦宮


このページの伝承を残す神社は『ひもろぎ逍遥』で、詳しく書いています。

岡湊神社 福岡県遠賀郡芦屋町船頭町 岡水門は大倉主神と熊鰐と神功皇后の伝承の舞台

高倉神社 福岡県遠賀郡岡垣町高倉
(1)日本書紀そのままに残る古社
神功皇后の船を止める男女の二神の宮
(2)弥生の風景そのままに
伊賀彦は水銀産出の国から来て、ここに留まった
(3)草薙の剣を取り戻して造られた7振りの剣から
江戸時代までは八剣神社とも呼ばれていた

神武天皇社 福岡県遠賀郡芦屋町 イワレビコ命はここから東征を始めた?

平原遺跡 福岡県糸島市 曽根遺跡群 伊都国の日の巫女が眠る墓・原田大六氏が救った遺跡だよ
橿日宮(香椎宮) 福岡県福岡市東区 古宮を訪ねて ほか


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神功皇后(3)

神託と天皇の崩御

秋9月5日に、仲哀天皇群臣たちを召して、熊襲攻撃について協議させました。

その時、皇后に神が懸かって神託がありました。
「天皇よ、どうして熊襲が服従しないのを憂うのか。そこは例えれば、肉のついていない背中のように痩せた国であるぞ。兵を挙げて討つほどの国であろうか。

この国より宝がある国がある。例えれば、乙女の眉のように弧を描いた国で、我が国の津に向き合った所にある。眼もくらむ金・銀、美しい色が沢山その国にはある。その名をタクブスマ(タクの木の繊維で作った布団が白い、その白色の名を持つ)新羅の国という。

もし、われを良く祭れば、刃に血を塗る事なく、その国はおのずと降服するであろう。また熊襲も服従するであろう。われを祭るには、天皇の御船と穴門の直(あたい)ホムタチの献上した大田水田を供えよ。」と言いました。

天皇は神託を聞いて、疑いました。すぐに高い山に登って、はるかに大海を望みましたが、広々として国は見えません。天皇は神に答えました。

「私が見渡すと、海ばかりで国は有りませんでした。大空に国がある訳でもありますまい。どこの神が私をだまそうとしているのですか。もともと私の皇祖の諸天皇たちからずっと天地の神々を祭って来ました。どうして、それに漏れた神があるでのしょうか。」と。

すると、再び神が皇后に懸かって、
「天にある水鏡をのぞくように、われが天から下界を見ている国であるのに、どうして国が無いなぞと、私の言葉をそしるのだ。そなた天皇がそんな事を言って、最後まで信じなければ、そなたはその国を得る事は出来まい。ただ、皇后がようやく身ごもったので、その子が手に入れることになるであろう。」と言いました。

しかし天皇はやはり信じないで、強引に熊襲を攻撃しました。勝つ事が出来ないで戻って来ました。

仲哀9年春2月5日に、天皇は急に具合が悪くなり、翌日に崩御しました。おん年52歳でした。神の言葉を信じなかったために早く崩御したのでした。
(ある本には、天皇はみずから熊襲を攻撃して、敵の矢に当たって、亡くなったともいう。)

皇后と大臣の武内宿禰は天皇の崩御を隠して、天下に知らせませんでした。
皇后は大臣の武内宿禰と中臣の烏賊津の連(むらじ)、大三輪の大友主の君、物部のイクヒの連、大伴の武以(たけもつ)の連を召して、
「今、天下はまだ天皇の崩御を知らない。もし人民が知ったら、気を抜くのではないか。」と言って、すぐに四人の大夫(たいふ)に命じて百寮を統率して、宮中を守らせました。

そして、ひそかに天皇の遺体を船に収めて、武内宿禰に海路を穴門まで送らせました。こうして、豊浦宮でモガリをしました。秘密にするために、火を灯しませんでした。これをホナシアガリと言います。
22日に大臣の武内宿禰は穴門から戻って来て、皇后に報告しました。

この年は新羅の役のために天皇の葬儀は出来ませんでした。
                   (つづく)

仲哀天皇が登った高い山は、すぐ近くの立花山でしょうか。会議をしたのは伝承のある、新宮町の神木(=神議)でしょうか。我が国の津は、儺の津の事でしょう。

橿日の宮で仲哀天皇は急に亡くなりました。この場所は香椎宮の古宮です。
『ひもろぎ逍遥』では、この会議のメンバーを推測して、仲哀天皇の兄弟である十域別王、稚武王も加えましたが、この日本書紀によるとメンバーに入ってませんね。

確かに天皇が亡くなれば、すぐに兄弟のどちらかが即位しようとするはずなので、兄弟にも教えなかった可能性があります。この二人はそのまま出陣させて、帰りに遠い島にそれぞれ残したので、もしかしたら最後まで教えなかったのかも、とも思うようになりました。

天皇の亡骸を豊浦宮に船で移送する話について、実際にこの日程で出来るのかどうか、実験考古学の資料をもとに調べると、裏付けがとれました。
このあたりの話は『ひもろぎ逍遥』の次の所で書いています。

香椎宮

(Ⅰ) 古宮を訪ねて
(Ⅲ) 天皇の崩御をどうやって隠す?
志式神社
(Ⅴ) 哀しき神々たち 
三良(さぶろう)天神 と 志志岐(ししき)三神
新宮町の神功皇后伝説

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神功皇后(4)

小山田邑にて祟る神を明らかにする。


仲哀9年、春2月に、仲哀天皇が筑紫の香椎宮で崩御された時、皇后は、天皇がご神託に従わなかったために早く崩御された事に心を痛めて、考えました。

祟っている神を明らかにして、神の勧める財宝の国を求めようと。そこで、群臣や百寮たちに命じて、国中の罪を払い清め、過ちを改めて、さらに斎宮を小山田の邑に作らせました。

 3月の1日に、皇后は吉日を選んで、斎宮に入って、自ら神主となりました。その時には武内宿禰に命じて御琴を弾かせました。中臣の烏賊津(いかつ)の使主(おみ)を召して審神者(さにわ)としました。

そしてお供えの織り物をたくさん、御琴の頭と尾のところに供えて尋ねて言いました。
「先の日に天皇に教えられたのはどちらの神でしょうか。願わくは、その御名を教えて下さい。」と。
七日七夜経って、ようやくお答えになりました。

 「神風の伊勢の国の度逢県(わたらいのあがた)の五十鈴の宮にまします神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかき・いつのみたま・あまさかる・むかつひめのみこと)。」と。

烏賊津の使主がまた尋ねました。
「この神以外に他の神はいらっしゃいますか。」
お答えがありました。
「旗のように靡くススキの穂が出るように出た吾は、尾田の吾田節(あがたふし)の淡郡(あはのこほり)にいる神である。」と。

「他におられますか。」
天事代虚事代玉櫛入彦厳之事代神(あめにことしろ・そらにことしろ・たまくしいりびこ・いつのことしろのかみ)有り。」

「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
そこで、審神者が言うには、
「今答えずに、また後に出て来られることが有りますでしょうか。」
すると答えがあった。
「日向国の橘の小門の水底にいて、海草のように若やかに出てくる神、名は表筒男(うわつつのを)、中筒男(なかつつのを)、底筒男(そこつつのを)の神がおる。」と。
「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
ついに他に神がいるとも言いませんでした。その時に神の言葉を得て、教えの通りにお祭りをしました。
(つづく)


祟る神は、天照大御神、不明神、事代主神、住吉三神でした。

2月5日に仲哀天皇が崩御されて、竹内宿禰が豊浦宮に遺体を送って22日に戻ってくると、3月になって、神功皇后は小山田邑で7日7晩祈って、ようやく神の名を告げられます。

この小山田邑は福岡県古賀市小山田にあります。狭小な地で、秘密が守りやすい地形です。(『ひもろぎ逍遥』にて)

小山田斎宮 (1)(2) 福岡県古賀市小山田 オキナガタラシ姫の神懸かりの地を捜して

このブログを書いた時点では、もう一つの候補地福岡県粕屋郡久山町の「山田の斎宮」と比較しながら、「小山田邑」が正しいだろうと結論付けました。

その後、香椎宮の木下宮司が小山田邑の方に「小山田斎宮」と揮ごうをされた事によって、結論が補強されました。木下宮司は古事記のドイツ語訳を50年かけて完成させています。自社で起きた事件について、私より深く論考された結果によるものと思います。

なお、もう一つの「山田の斎宮」は神功皇后が皇子を出産して後、大和へ向かうまで住んだ聖母屋敷です。群臣と百寮も共に住むにふさわしい広い土地です。

この宮を中心として、竹内宿禰は厳重な守備態勢を整えました。その伝承が伝わるのが「黒男神社」です。(『ひもろぎ逍遥』にて考察)

斎宮(いつきのみや) 福岡県粕屋郡久山町山田 
(Ⅰ)神功皇后の神懸かりの地を捜して   二つの斎宮候補地
(Ⅱ) 二つの斎宮の謎が解けた

黒男神社 福岡県粕屋郡久山町
(1)武渟川別命の子孫・阿部氏が武内宿禰を祀る宮 古代の陣営あと
(2)武内宿禰がすべてをかけて守ったもの


香椎宮 小山田斎宮 斎宮(聖母屋敷) 黒男神社

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神功皇后(5)

筑紫での戦い 熊襲、熊鷲、田油津姫

それから後、皇后は吉備の臣の祖・鴨別(かものわけ)を遣わして、熊襲の国を攻撃させました。それほど経たない内に、熊襲はおのずから降服しました。

また荷持田村(のとりたのふれ)に、羽白熊鷲(はしろくまわし)という者がいました。そのひととなりは強健でした。身体に翼があって、飛んで高く翔けることが出来ました。この度の皇后の命令に従いませんでした。いつも人民をさらっていました。

17日に皇后は熊鷲を討とうと思って、橿日宮から松峡宮(まつおのみや)に遷りました。その時、つむじ風が起こって御笠が吹き飛びました。そこで当時の人々はそこを名付けて、御笠というようになりました。

20日にソソキ野に着いて、すぐに兵を挙げて羽白熊鷲を討って滅ぼしました。側近に語って、「熊鷲を討ち取った。これで私の心は安らかだ。」と言いました。それから、そこを名付けて安(やす)と言うようになりました。

25日に移動して山門県(やまとのあがた)に着いて、即座に土蜘蛛の田油津姫(たぶらつひめ)を討ち取りました。その時、田油津姫の兄の夏羽(なつは)が軍勢を興して、迎え討ちに来ました。しかし妹が殺された事を聞くと、そのまま逃げました。

夏4月3日に北の火前国(ひのみちのくちのくに)の松浦県(まつらのあがた)に着いて、玉嶋の里の小川のほとりで食事を取りました。その時、皇后は針を曲げて釣り針を造り、飯粒を餌にして、裳の糸を引き抜いて釣り糸にして、川の中の石の上に登って、釣り針を投げてウケイをして言いました。

「私は西の方の宝の国を求めようと思う。もし事を成す事が出来るなら、川の魚よ、かかれ。」そうして、竿を挙げると、アユがかかっていました。皇后は「珍しいものがかかった。」と言いました。こうして、当時の人はそこを名付けてメヅラの国と言うようになりました。今松浦の国というのは訛っているのです。

この事があってから、その国の女人は4月の上旬になると、釣り針を川の中に投げ入れて、鮎を釣る習わしが今に続いています。ただし、男が釣っても魚はかかりません。

皇后はこうして神の教えの霊験がある事を確信して、さらに天つ神、国つ神を祭って祈り、西の方を討とうと思いました。そこで神田を定めました。その時、儺の川の水を引かせて、神田を潤そうと思って、溝(うなで)を掘りました。とどろきの岡に至ると、大岩がふさがって、溝を通す事が出来ません。

皇后は武内宿禰を召して、剣、鏡を捧げて天地の神に祈らせて、溝を通そうとしました。すると雷が急に鳴り出して、その岩を踏み裂いて水を通しました。そこで人々はその溝を裂田溝(さくたのうなで)と言いました。

皇后は橿日浦に戻って祈り、髪をほどいて海に臨んで、
「私は天つ神、国つ神の教えを受けて、皇祖のみ霊のお蔭を受け、青き海原を渡って、みずから西を討とうとしています。今から頭を海水に漬けます。もし霊験があるなら髪が自然と分かれて二つになりますように。」
と言って、海の中に入って立ち上がると、髪は自然と二つに分かれました。

皇后はその髪を結い上げて男の髪型のミヅラにしました。それから群臣に言いました。
「そもそも軍隊を興し、衆人を動かすのは国の大事である。戦いが容易でも危険でも、勝ち戦さでも負け戦さでも、我々に掛かっている。

今、征伐する国がある。戦いの指揮を群臣たちに命ずる。しかし、もし勝つ事が出来なければ群臣たちが罪に問われる。それは不本意である。

私は女で、戦さには慣れていない。しかし、しばらく男の姿になって雄々しく戦おうと思う。上は天つ神、国つ神のみたまの助けを頼み、下は群臣たちの助けをたよって、兵士を奮い立たせて険しい波を渡り、船隊を整えて財宝の国を手に入れる。

勝利すれば軍功は皆と共にある。勝利でなければ、罪は私だけが引き受ける。私はそう決心した。皆はどう考えるか、協議するがよい。」

群臣たちは皆、
「皇后陛下。天下の為に、国家の安泰の為に全力を尽くします。負けて罪を問われるような事態は決してありません。謹んで勅命を承ります。」と答えました。
(つづく)

羽白熊鷲のことは次にレポートしています。
大己貴神社(1) (旧三輪町) 旧三輪町の中心の宮
       (2)大己貴の語源を考える。穴遅とゾロアスター教と錬金の工人

裂田溝 橿日浦 やす 羽白熊鷲 やまと田油津姫 松浦



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神功皇后(6)

軍事訓練と臨月の皇后


秋9月10日に諸国に命じて船舶を集め、兵士を訓練する事にしました。その時、軍卒が集まりませんでした。皇后
「きっと神の御心のせいだろう。」と言って、大三輪の社を建てて、太刀と矛を奉納しました。すると軍勢が自然に集まりました。

ここで皇后は、あへ(相島)の海人・オマロに西の海に出て、国が有るかどうか視察するように命じました。オマロが戻って来て、「国は見えません。」と答えました。

また、しか(志賀島)の海人・名草に視察に行かせました。数日して戻って来て、
「西北に山が見えます。雲が横たわっています。その下に国があると思われます。」と言いました。

そこで吉日を卜占して、出発に臨んで神事をしました。その時、皇后はみずから大将の印であるオノとマサカリを持って、大軍に命じました。
「金鼓(かねつづみ)の音が整わず、天子の旗や軍旗が乱れる時には、兵卒の士気も整わない。敵の財宝をむさぼって、自分のものにしようと考えたり、家族の事を心にひきずったりすると、敵に捕まってしまう。

敵が少なくても侮ってはならない。敵が強くても屈してはならない。女人に手を付けようとする者を許してはならない。また、降伏する者を殺してはならない。戦いに勝てば必ず褒賞を取らせる。逃げだす者は罪となる。」

そうして神託があり、
「神の和魂(にぎみたま)は王の身体に付いて、寿命を守るであろう。神の荒魂は先鋒となって王の船を導くであろう。」と告げました。
こうして神の教えを受けると拝礼しました。依網の吾彦男垂見(よさみのあびこ・をたるみ)を祭りの神主としました。

この時は皇后の出産の月に当たっていました。皇后は石を取って腰に挿し挟んで、祈って言いました。
「戦を終えて戻って来てから、ここで生まれたまえ。」と。
その石は、今は伊都県の道の辺にあります。
こうして、荒魂を掲げて軍勢の先鋒とし、和魂を請じて王船の鎮(しづめ)としました。
(つづく)

地図 軍事訓練の伝承 志式神社 大神神社 あへの島 志賀島


るなのひとりごと
1.「あへのしま」のオマロが西の国の存在を知らなかったって変じゃない?
「あへ」というのは「北」という意味です。各地に「あへ」の付く島や地名があります。
新宮町の相島(あいのしま)はかつて「あへのしま」と言っていて、志式神社とよく似た「はやま神事」を伝えています。島には積石塚古墳が沢山あり、海人族の拠点の島でした。

当然ながら、彼らは朝鮮半島との往来が出来る人たちです。もし往来する技術が無くても、半島の存在は知っているはずです。オマロはその長たる人です。知らないはずがありません。皇后が今頃になって質問する時期も変ですし、答える方もとぼけているのが妙におかしい所です。

2.志賀の海人族の長・草はさすがに嘘が言えず、「島が見えるので国があるだろう」と言っています。数日後に戻って来たのも、それらしく見せるためでしょう。

糸島市の浜辺から壱岐対馬が目視出来ることを松尾絋一郎氏の講演で知りました。距離的に考えると、志賀島からも目視出来るでしょう。対馬まで行けば、朝鮮半島の人家の灯りも目視できます。

そうすると、この返事も何だか不自然ですね。質問する皇后も変です。自分自身、新羅(?)の血が混じっているのですから。るな的には、神功皇后は新羅の王位の後継ぎの権利をまだ持っているのではないかとさえ想像しているのです。(新羅という国名が当時あったかは不明です。)

3.ここの話の舞台は主に、新宮町から福岡市東区にかけての那国が舞台です。それなのに、鎮懐石は伊都国の方に祀られているんですね。

軍船は那国からも伊都国からも出港しただろうと思っていますが、皇后自身の出産とからんで、この出港前のシーンは、編集者も苦労して辻妻合わせをしたようです。でも結局、変なまま書いちゃったんだなと思いました。

4.「大三輪の社」は「大神(おおみわ)神社」という名で現地に残っています。祭神は大物主神です。(福岡市東区高美台)

5.この戦いは「三韓征伐」なのか「新羅征伐」なのか、記紀でもきちんと整理が出来ていないようです。西暦200年頃の話を西暦700年頃に整理したのですから、朝鮮半島の国の興亡の知識が曖昧なのは仕方がないですね。

『ひもろぎ逍遥』では
皇石神社(3)ここからは新宮町が見える 
     神功皇后たちは馬の訓練もしていたよ
志式神社(Ⅰ)海と松林の宮
     (Ⅱ)万年願と早魚神事と神功皇后  
        神社のお話が聞けましたよ。
     (Ⅲ) 夜神楽を見て来ました。
         「早魚舞(はやままい)」―乙太夫の天神尋ね―
      (Ⅳ)安曇族(あずみぞく)と奈多の浜 
         磯良神・七不思議・お潮井とり
      (Ⅴ) 哀しき神々たち
          三良(さぶろう)天神 と 志志岐(ししき)三神
鎮懐石八幡宮(1)出産が遅れるように願いを託した二つの石
新宮町の神功皇后伝説

などで地元の伝承を紹介しています。まだ他にも伝承が残っているので、少しずつ調べて行きたいと思っています。



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神功皇后(7)

新羅攻撃


冬10月3日、対馬の和珥(わに)の津を出発しました。その時、風の神は風を起こし、海の神は波を立て、海の中の大魚はみんな浮かび上がって船をたすけました。順風が大きく吹いて、帆船は波に乗りました。カジや櫂(かい)を使わずに新羅に着きました。その時、大波が起こって船は国の中に到達しました。まさしく天神地祇が助けたのを確信しました。

新羅の王は戦々恐々として、成す術もありませんでした。そこで諸人を集めて言いました。
「新羅の建国以来、いまだかつて海水が国に上って来た事を聞いたことがない。これは天運が尽きて、国が海中に没しようとするのであろうか。」

そう言い終わらないうちに軍船が海に満ちて、旗が日に輝いていました。鼓や歓声が起こって、山や川に響き渡りました。新羅王はそれを遥かに望んで、想像以上の兵が我が国を滅ぼそうとしていると思い、恐ろしさに気を失いました。

目が覚めると、
「東の方に神の国があると聞いていた。日本と言う。聖王がいて天皇と言うとも。きっとその国の神兵たちだろう。挙兵して応戦することは無理だろう。」
と言って、白旗をあげて、首に降伏の印の白い縄を付けて降伏しました。

土地の図面と人民の戸籍を封印して支配権を放棄したことを示し、王船の前に降伏しました。頭を垂れて、
「今から後、長らく天地に従うように、貴国に従って馬飼部となります。船のカジが乾かないほど頻繁に春と秋には馬の櫛とムチを献上してお仕えします。また遠く海を越えるのを厭わず、毎年、男女を献上します。」と言いました。

そして重ねて誓って、
「東から出る太陽が西から昇ったり、天の川が逆さまに流れたり、川の石が昇って星となるような事が起こらないのに、春秋の朝貢や馬の櫛とムチの献上を止める事があったら、きっと天の神、地の神の罰があるでしょう。」と言いました。

その時、日本側の或る人が「新羅の王を殺しましょう。」と言いました。
すると皇后
「もともと神の教えを受けて、金銀の国を授けられるのだ。全軍に『自ら降伏するものを殺してはならない』と命令したのだ。既にこうして財宝の国は手に入った。新羅の者は自ら降伏したのだ。殺すのは不条理だ。」
と言って、その縄をほどいて馬飼部としました。

ついに、その国の中枢に入って財宝の蔵を封印して、地図・戸籍・文書を没収しました。そして皇后の持っていた矛を新羅王城の門に立てて、後の世の印としました。この矛は今でも尚、新羅王城の門に立っています。

そこで新羅王ハサムキム、別名ミシコチハトリ干峡(かんき)を人質として、金銀・彩色・綾絹・うす絹・固く織った絹を八十隻の船に載せて、官軍に従わせました。これよりのち、新羅王が常に八十隻の朝貢を日本国にするのは、この戦いの所以からです。

高麗、百済の二国の王は新羅が地図・戸籍を取り収めて日本国に降伏したと聞いて、ひそかに日本の軍勢を伺い、勝つ事が出来ないのを悟ると、自ら営舎の外に出て、頭を下げて「これより後は、永く西蕃(せいばん)と称して、朝貢をし続けます。」と言いました。

こうして日本は内官家屯倉(うちつみやけ)を置きました。これがいわゆる三韓です。皇后は新羅から帰還しました。



ひとりごと

大波について
対馬から朝鮮半島へは有視界航路です。現代のヨットで博多→釜山間は一日行程です。

初め、この「大波が起こって船は国の中に到達しました」という一文がよく分からなかったのですが、スマトラ沖の津波を見て、この大波は津波と訳すべきではないかと考えるようになっていました。今回の東日本大地震もそうですが、歴史の痕跡を辿ると、人類は津波や噴火との戦いの連続だったのが推し量られます。

地震雲を世に出した眞鍋大覚氏は、逆に新羅の地震のせいで、九州に津波が上がった記録についても書いてあります。(『ひもろぎ逍遥』「針摺の瀬戸と水城 古代、玄界灘と有明海はつながっていた」で一部紹介)


三韓と新羅について
三韓とは普通3世紀頃では「馬韓・辰韓・弁韓」を指し、4世紀では「百済・新羅・高句麗」を指します。8世紀の日本人には、三韓がどちらを指すのかがよく分からないために、表現が混乱しています。

それは、現代の日本人が500年前の朝鮮半島の国がどんなだったかが分からないのと同じだと思います。「新羅」と書いてあるから、4世紀だと決めつけてしまうと、真実の探求が出来なくなる恐れがあるなと思いました。

海路
途中で嵐が起こって漂着したりした伝承が福岡沿岸にいろいろとあります。
『ひもろぎ逍遥』の方で、少しずつ追っていきたいと思います。

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                                    【日本書紀】

神功皇后(8)

出産

神功皇后は12月14日に誉田(ほむた)天皇を筑紫で出産しました。
そのため、時の人は出生地を宇瀰(うみ)と言います。

今回の日本書紀の訳は二行だけです。いろいろと課題の多い事件なので、関係する神社を参考として挙げます。研究に役立てて下さい。

宇美と蚊田 
出産地について、神功皇后摂政の巻では冒頭のように宇瀰としていますが、同じ日本書紀の誉田天皇(応神天皇)の巻では
「誉田天皇は皇后が新羅を討った年の冬12月に、筑紫の蚊田に生まれました。」
となっています。宇美=蚊田説と別の場所説があるようです。

伝承
宇美八幡宮 福岡県粕屋郡宇美町
     神功皇后がホムタワケ命を生んだ場所として伝えている。
     現在も安産を祈願して参拝する人々が絶えない。

王子八幡宮  福岡県粕屋郡志免町
     宝満また宝満山という地名のそばにある。字金明から遷宮したが、
     元宮で王子(ホムタワケ命)が生れたという説がある。

蚊田宮 福岡県三井郡北野町 カダの地名があり、
     神功皇后の出産の伝承がある。ここにも宝満宮がある。

駕輿丁八幡宮 福岡県粕屋郡粕屋 神功皇后を輿に乗せた伝承。

日守神社 福岡県粕屋郡粕屋 神功皇后が時間を聞いたという伝承がある。
  
かだ    真鍋大覚氏 「かだ」は星の古語。拾遺p136
      応神帝が御誕生の時、宇美から鳩座βワズン星が南の空に見え、
      大臣星(おほみのほし)と言った。      
      神功皇后の御安産の前後にありとあらゆる倭法で万全を期した
      武内宿禰の名をとったと聞く。

      宇美星(おほみのほし)が倭人伝の頃は不彌星(ふみのほし)とな
      り、母が身二つになることを祈る星でもあった。

     「誉田」とは「中稲(なかて)」の事。(拾遺p200)


『ひもろぎ逍遥』でのレポートは駕輿丁八幡宮だけです。(2011、3月現在)

当時は立産で、木の枝に両手で万歳の形で支えにして出産したという話もあります。

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                                    【日本書紀】

神功皇后(9)

別伝

ある本に曰く、
足仲彦天皇(たらしなかつひこ=仲哀天皇)は筑紫の橿日の宮を宮処としました。
その時、サバの県主(あがたぬし)の祖であるウツヒコ・クニヒコ・松屋種(まつやたね)に神が懸かって、天皇に教えました。
「天皇がもし宝の国を手に入れたいと望めば、実際にお授けしよう。」と。
すぐにまた続けて、
「琴を持って来て皇后に勧めなさい。」
と言いました。

そこで神の言葉に従って、皇后は琴を弾きました。すると神が皇后に懸かって教えました。
「そなた天皇の所望する熊襲の国は、例えれば鹿の角のようなものである。実がない国である。今、そなたが乗っている王船と穴戸の直(あたい)ホムタチが献上した大田という名の水田を供えて、我をよく祀れば、美女の眉毛のようで金銀が沢山あって目もくらむような国をそなたに授けよう。」と。

その時、天皇は神に答えて言いました。
「いくら神といっても、どうして欺こうとされる。何処にそんな国がありましょうや。またわたしが乗る船を神に献上したら、私はどの船に乗ったらいいのですか。それに、どこの神とも分かりません。願わくば神の御名を承りたいものでございます。」

すると神が名乗られました。
表筒男(うわつつのお)、中筒男、底筒男。」と。
こうして三神の名を名乗ってまた重ねて言いました。
「我が名は、むかひつを・もおそほふ・いつのみたま・はやさのぼりの尊である。」と言いました。
すると、天皇は皇后に言いました。
「縁起の悪いことを言われる婦人だ。どうしてハヤサノボリ(速く天に昇る)と言うのか。」と。

すると神が天皇に言いました。
「そなた天皇がこれを信じないならば、その国は手に入るまい。ただし、今、皇后が懐妊している御子が手に入れるであろう。」
この夜、天皇は急に病気になって崩御しました。

この後、皇后は神の教えに従って祭りごとをしました。そうして男の装束を着て、新羅を討ちました。その時は神が留まり、導きました。そのお蔭で波に押されて船は遠く新羅の国の中まで到達しました。

新羅王のウルソホリチカは王船を迎えて、ひざまづいて頭をつけて言いました。
「臣下である私は、日本の内官家(うちつかんけ)として、これから後、日本国にまします神の御子に、絶えることなく朝貢します。」と。

新羅王
この別伝ではウルソホリチカです。
本伝ではハサムキム、即ちミシコチハトリ干峡(かんき)でした。
ある程度研究されているようですが、まだ未解決のようです。

この別伝の後、もう一つ別伝が書かれていますが、時代に合わないので省略します。



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                                    【日本書紀】

神功皇后(10)

東征

戦勝を収めると軍に従った神、表筒男、中筒男、底筒男の三柱の神々が皇后に教えて言いました。
「我が荒魂を穴門の山田の邑に祭りなさい。」と。

その時、穴門の直(あたい)の祖、ホムタチと津守の連(むらじ)の祖のタモミの宿禰が皇后に言いました。
「神が鎮座したいと言われる所には必ず定めて祭られますように。」
そこで、ホムタチを荒魂を祭る神主にして、祠を穴門の山田の邑に立てました。

こうして新羅を討った翌年の春2月に、神功皇后は群臣・百寮を率いて、穴門の豊浦の宮に遷りました。そこで仲哀天皇の亡骸を収めると、海路で京に出ました。

その時、香坂王(かごさかのおう)と忍熊王(おしくまのおう)は
「天皇が崩御された。また皇后が西を討って、あわせて皇子が新たに誕生された。」
と聞いて、密かに話し合って、
「今、皇后には御子がいる。群臣はみな従っている。きっと共に謀って、若い御子を天皇に立てるだろう。吾らは兄なのにどうして弟に従えるか。」と言いました。

そこで偽って天皇の為に御陵を作るふりをして、播磨に行って赤石で御稜の構築を興しました。船団を編んで淡路島に渡して、その島の石を運んで造りました。

その時、一人ずつ武器を持たせて皇后を待ちました。犬上の君の祖、倉見別(くらみわけ)と吉師の祖のイサチの宿禰は共に香坂王に付きました。そして将軍として東国の兵を興させました。

一方、香坂王と忍熊王は一緒にトガノに出て、ウケヒ狩り(占いの狩)をして
「もし、事が成就するならば、必ず良い獲物が手に入る」
と言いました。

二人の王はおのおの仮の桟敷にいました。赤いイノシシが急に出て来て桟敷に登って、香坂王を食い殺しました。軍勢はみな恐れました。忍熊王は倉見別に
「これは重要な験(しるし)だ。ここで敵を待ってはならない。」と言って、軍勢を引いて戻り、住吉に駐屯しました。

この時、神功皇后は忍熊王が軍勢を起こして待っていると聞いて、武内宿禰に命じて皇子を抱かせ、迂回して南海に出て、紀伊水門に停泊させました。皇后の船はまっすぐ難波を目指しました。その時、皇后の船が海中でぐるぐる廻って、進めなくなりました。そこで務古水門に戻って占いをしました。

すると、天照大神が教えました。
「我が荒魂を皇后に近づけてはならない。広田の国に祀りなさい。」と。
そこで山背の根子の娘、葉山姫に祀らせました。

またワカヒルメの尊が教えて言いました。
「吾は活田の長峡(いくたのながお)の国にいよう。」と。
そこで海上(うながみ)のイサチに祀らせました。

また事代主の尊が教えて言いました。
「私を長田の国に祀りなさい。」と。
そこで葉山姫の妹の長姫に祀らせました。

また、表筒男・中筒男・底筒男の三柱の神が教えて、
「吾が和魂(にぎみたま)を大津のヌナクラの長峡(ながお)に祀りなさい。そこで往来する船を見守ろう。」と言いました。こうして神の教えのままに神々を鎮めました。すると無事に海を渡る事が出来ました。

忍熊王はさらに軍勢を退却させて、ウヂに行って、軍勢を立て直しました。皇后は南の紀伊の国に行って、日高で皇子に会いました。群臣と協議して、ついに忍熊王を攻撃するために、さらに小竹宮(しののみや)に遷りました。  


住吉神社 下関市一の宮町 ホムタチを荒魂を祭る神主と定めて、祀った穴門の山田の邑。


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神功皇后(11)

忍熊王を攻撃

この時、昼なのにまるで夜のように暗い日々が何日も続きました。当時の人たちは「常夜になってしまった。」と言いました。
皇后は紀の直(あたい)の祖である豊耳
「昼でも暗い原因は何だろうか。」と尋ねました。

その時、一人の老父
「言い伝えでは、このような怪異をアザナヒの罪と言うそうです。」と答えました。
「それはどういう事だ。」と尋ねると、
「二つの社の祝物(はふり)を、一緒に葬ったのではないでしょうか。」
そこで邑や里に調べに行かせると、ある人が、
小竹の祝(はふり)と天野の祝が、仲の良い友だったのですが、小竹の祝が病気にかかって死んでしまいました。すると天野の祝が血の涙を流して、
『二人は生きている間、親しい友だった。死んでも同じ穴に葬られたい。』
と言って、遺体の傍で自害しました。それで合葬したのです。もしかしたら、この事でしょうか。」
と言いました。

それを聞いて墓を開いて確かめると事実でした。そこで棺を改めて、別々に埋葬しました。すると、太陽が輝きだして、昼と夜の区別がはっきりとするようになりました。

3月5日に、皇后は武内宿禰と和邇(わに)の臣の祖の武振熊(たけふるくま)に命じて、数万の軍勢を率いて、忍熊王(おしくまのみこ)を攻撃させました。そこで武内宿禰らは精兵を選んで、山背から出ました。ウヂについて、川の北に駐屯しました。

忍熊王は陣営を出て戦おうとしました。その時熊の凝(こり)という者が忍熊王の軍勢の先鋒となりました。その時、自分の軍勢を奮い立たせようと思って、声高に歌を詠みました。
  かなたの あれあれ、あの松原 
  あの松原に 進んで行って、
  槻弓(つくゆみ)に 音の出る鏑矢(かぶらや)をつがえて、
  貴人は貴人どうし、親友は親友どうし、さあ闘おう。
  我は 闘おう。 霊力が極まっているという 武内の朝臣と。
  腹の中は 小石だらけのやつさ。
  さあ、闘うぞ、我は。

その時、武内宿禰は大軍に命じて、全員に髪を椎(つち)のように結わせました。そして号令をかけて、
「おのおの、控えの弦(ゆづる)を髪の中に収めよ。また木刀を腰につけよ。」
と言いました。そうして、皇后の仰せだと言って、忍熊王をだまして言いました。

「私は天下を取ろうとは思っていません。ただ、幼い皇子を抱いて、君王(忍熊王)に従うだけです。どうして、戦おうなどと思うでしょうか。
願わくは、お互い一緒に弦を絶って武器を捨て、ともに連合して和睦しようではないですか。そうして、君王は皇位を継承して、その席に安心して座り、枕を高くして、よろずのまつりごとを専制なさるがよい。」と。

そう言うと、はっきりと分かるように軍勢に命じて、全員に弓の弦を断ち切らせて、太刀をはずして、川に投げ入れさせました。忍熊王はその偽りを信じて、自分の軍勢に命じて、武器をはずして川に投げ入れて、弓の弦を切らせました。

そうすると、武内宿禰は大軍に号令をかけて、髪に隠した弦を出して再び弓に張って、真剣を付けさせました。そうして、川を渡って進軍しました。

忍熊王は騙された事が分かって、倉見別(くらみわけ)・イサチの宿禰に言いました。
「謀られた。もう、代わりの武器はない。どうして戦えようか。」
といって、軍を連れて少し退却しました。

武内宿禰は精兵を出して、追いかけました。ついに逢阪で対戦して、討ち破りました。それで、その地を名づけて逢坂と言います。忍熊王の軍勢は逃げました。

武内宿禰はささなみの栗林で追いついて、大勢を斬りました。そこに血が流れて、栗林にあふれました。それで、縁起が悪いと言って、今に至るまで、この栗林の木の実は御所に献上しません。

忍熊王は逃げて隠れる所が無くなりました。そこでイサチの宿禰を呼んで、歌を詠みました。
  さあ、我が君、イサチの宿禰よ。
  霊力が極まった 内の朝臣の 
  頭槌(くぶつち)の太刀にやられて 痛手を負わないとするなら、
  ニホ鳥のように 水に潜るしかない。
こうして二人共に、瀬田の渡し場で身を投げて死にました。

その時武内宿禰は歌を詠んで言いました。
  淡海の 瀬田の渡し場に 潜る鳥
  目には見えないので 本当に身を投げたかどうか分からなくて、
  溜息がでる。
そう言って、その遺体を探させたけれども、見つかりませんでした。こうして数日して、ウヂ川に出ました。武内宿禰はまた歌を詠んで言いました。
  淡海の 瀬田の渡し場に 潜る鳥
  田上を過ぎて ウヂで捕まえた。

(つづく)

昼間もなお暗くなったという話は、初めは何の現象か分からなかったのですが、火山が噴火して灰が世界中に廻って冷害をもたらした経験をした今、これはどこかの火山噴火による現象だったのではないかと、想像できるようになりました。

二人を合葬するという習慣があって、祀る神が違う人たちを合葬するのは罪であるという文化思想があったのが読み取れます。神が違えば氏族、人種が違う可能性もありますね。たまたま『ひもろぎ逍遥』で祇園山古墳人丸古墳で男女の合葬などを見たので、墓制を知る上で興味深い話に思われました。



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神功皇后(12)

摂政時代

冬10月2日に、群臣神功皇后を尊んで、皇太后(おおきさき)と呼びました。この年、太歳を辛巳(かのとみ)に催行し、摂政元年としました。
神功摂政2年の冬11月8日に、仲哀天皇を河内の国の長野の陵に埋葬しました。

3年の春正月3日にホムダワケの皇子を皇太子としました。そうして磐余(いわれ)に都をつくりました。これを若桜の宮といいます。       

5年の春3月7日に、新羅の王ウレシホツ、モマリシチ、ホラモチたちを派遣して朝貢しました。それは先に人質となった、ミシコチ伐旱(ほつかんー新羅の官位)を返してほしいという心情からでした。

新羅の使者たちはミシコチ伐旱に謀り事を教えて、欺かせて言わせました。
「使者のウレシホツとモマリシチたちが私めに言いました。
『新羅の王は、私めが久しく還らないので、妻や子供たちを皆捕えて奴婢としてしまった。』と。願わくは、しばらく本土に還って、真偽を確認したいのですが。」と。

皇太后(神功皇后)は許可しました。葛城の襲津彦(そつびこ)を付けて派遣しました。共に対馬に着いて、鉏海(さひのうみー対馬から朝鮮までの海域・諸説あり)の湊に泊まりました。

その時、新羅の使者のモマリシチたちは、密かに船と水手(かこ)を手配して、ミシコチ旱岐(かんき)を乗せて新羅に逃がしました。その時、人形を作ってミシコチの布団の中に置いて、偽って病人のふりをさせて、襲津彦に言いました。
「ミチコチが急に病気になって死にそうです。」と。

襲津彦は人を送って病人を見に行かせました。そこで騙された事が分かって、新羅の使者三人を捕えて牢屋に入れて、火をつけて焼き殺しました。そして新羅に行って、蹈鞴津(たたらのつ)に行き、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰国しました。この時の捕虜たちは今の桑原、サビ、高宮、忍海(おしぬみ)たちの、四つの邑の漢人(あやひと)らの始祖です。

13年の春2月8日、神功皇太后は武内宿禰に、皇太子に従って角鹿(つぬが)の笥飯(けひ)の大神に参拝するように命じました。
17日に皇太子は角鹿から帰って来ました。この日に、皇太后は太子の為に大殿で宴をしました。皇太后は酒をなみなみと注いだ杯をささげて、皇太子を祝福しました。そして、歌を詠みました。

  この御酒は 私の作った御酒ではありません。
  神酒の司、常世の国にいます 
  少御神(すくなみかみ)が 豊かであるように祝福し、
  長寿であるように祝福し、
  神祝いをして 祝い狂って 出来上がった御酒です。
  残さず飲みたまえ。ささ。

武内宿禰は皇太子に代わって返歌をしました。
  この御酒を 醸した人は 
  その鼓を 臼のように立てて
  歌いながら 醸したんだなあ。
  この御酒の やたら 楽しさと言ったら。
  さあ。

神功摂政39年。この年、太歳を己未(つちのとひつい)に催行しました。
「魏志」に曰く、明帝の景初の3年の6月、倭の女王が大夫・難斗米たちを派遣して、帯方郡に至り、天子に謁見を求めました。太守の鄧夏は役人を派遣して、魏の都洛陽に一行を行かせました。

40年。「魏志」に曰く、正始元年に建忠校尉・梯携たちを派遣して詔書と印綬を倭国に賜りました。

43年.「魏志」に曰く、正始4年、倭王は再び大夫の伊声者掖耶たちを派遣して朝貢しました。

46年の春3月1日に、斯摩(しま)の宿禰卓淳(とくじゅん)国に派遣しました。卓淳の国王・マキム旱岐(かんき)が斯摩宿禰に話しました。
「甲子(きのえね)の年の7月20日に、百済人(くだらびと)クテイ、ミツル、マクコの三人が我が国に来て言いました。

『百済の王が東の方に日本という貴い国がある事を聞いて、臣下を派遣して、その貴い国に朝貢させました。道を探し求めて、その国に着きました。もし、貴殿の国の臣下にも道を教えて通わせるなら、我が国王も深く貴殿をよろこばしく思います。』と。

それを聞いて、私(卓淳国王)はクテイたちに言いました。
「前から、東の国に貴い国がある事は聞いていた。しかし、通ったことがないので、道も分からない。ただ、海のかなた遠くにあって波が険しい。大船に乗るなら、何とか通う事が出来るだろう。もし湊があるとしても、船がなければどうして行く事ができようか。」と。

すると、クテイたちが言いました。
『それならば、すぐ今は通う事は出来ないでしょう。また帰国して船を準備しますから、その後に(便乗して)通うと良いでしょう。』
また念を押して言いました。
『もし、貴い国の使者が来る事があれば、必ず我が国に伝えたまえ。』とも。
そう言って帰国しました。」

その話を聞いて、斯摩宿禰は従者のニハヤと卓淳国の人、ワコの二人を百済国に派遣して、その王を慰労しました。時の王・百済の肖古(しょうこ)王は深く喜んで、手厚く待遇しました。

その時、五色の綾織の絹をそれぞれ一匹、また牛の角を張りつけた弓矢、合わせて鉄ののべ板40枚をニハヤに預けました。またすぐに宝の蔵を開けて、いろいろ珍しいものを見せて、
「我が国には献上物にしたい珍宝があります。貴国に献上しようと思っていても、道が分からない。志はあっても、かないませんでした。しかし、今、使者に預けて、献上します。」と言いました。

そこで、ニハヤはそれを受け取って、還って来て斯摩宿禰に話を伝えました。こうして、斯摩宿禰は卓淳国から帰国しました。

(注…百済人は日本へ朝貢したと、卓淳国では言っていましたが、自国では、ニハヤには道が分からなかったと言っています。矛盾しますがそのまま訳します。)

ひとりごと
この部分には有名な魏志倭人伝の記事に該当する文が挿入されています。
この事から、神功皇后=卑弥呼と解釈する人もいます。
卑弥呼の人生と神功皇后の人生を並べて比較すると全く別人物である事が分かります。
この挿入部分は、日本書紀の編者が神功皇后=卑弥呼としたかったからで、その為に
神功皇后の寿命を100歳にしたという説もあります。


韓国の弾琴台土城で鉄鋌が40枚出土した記事が新聞に載っていました。
時代は少し違いますが、40枚という数字が日本書紀のこの部分と一致することで、
興味深いものとなっています。
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(2011年3月24日 西日本新聞 写真・文は福岡大学教授 武末純一氏による)
記事は『ひもろぎ逍遥』「弾琴台土城」にて掲載
http://lunabura.exblog.jp/16245067/
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                                    【日本書紀】

神功皇后(13)

百済と連合して新羅に勝利す
 
 
神功摂政47年の夏4月に、百済の王クテイ、ミツル、マクコを日本に派遣して朝貢しました。その時、新羅国の朝貢の使者もクテイと共に参りました。皇太后と太子・誉田別尊(ほむたわけのみこと)は大いに喜んで言いました。

先の王の所望された国の人が今、来朝した。痛ましい事よ、天皇は亡くなってしまって、間に合わなかった。」と。群臣たちは皆涙を流しました。

このあと二つの国の貢物(みつぎもの)を調べました。すると、新羅の貢物には珍しいものが沢山ありました。百済の貢物は少なくて、賤しくてよくありませんでした。そこで百済のクテイたちに尋ねました。
「百済の貢物は新羅に劣っているが、どうしてだろうか。」
答えて言いました。

「私たちは道に迷って、沙比(さひ)の新羅に着きました。すると新羅人は私たちを捕えて牢獄に入れました。三か月すると、殺そうとしました。その時、私たちは天に向かって呪詛(じゅそ)しました。新羅人はその呪詛を恐れて殺せませんでした。

しかし、私たちの持っていた貢物を奪って、自国の貢物としました。新羅の賤しいものを百済国の貢物とした上で、私たちに言いました。

『もし、これを取り違えてしまったら、帰国した時にお前たちを殺す。』と。私たちは恐れて従うのみです。こうして、なんとか生きて日本の朝廷に来る事が出来ました。」と。

それを聞いて皇太后とホムタワケの命は新羅の使者を責めて、天神に祈って言いました。
「誰を百済に派遣して、この話の真偽を確かめさせたらいいでしょうか。誰を新羅に派遣して、その罪を問えばいいでしょうか。」と。

そこで、天神が教えて言いました。
武内宿禰に計画させよ。そして、千熊長彦(ちくまながひこ)を使者にすれば、まさに願いの通りになるだろう。」と。こうして、千熊長彦を新羅に派遣して責めると、百済の献上物を横取りしたのが明らかになりました。     

49年の春3月に、荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)を将軍に任命しました。クテイたちと共に軍備を整えて、海を渡って卓淳国(とくじゅん)に行って、新羅を攻撃しようとしました。

その時、ある者が言いました。
「兵士が少なくては新羅を破ることはできません。サハクカフロに援軍を頼むのがよろしいかと。」
進言を受けて援軍を頼むと、百済のモクラコンシササナコは精兵を率いて、サハクとカフロと共に卓淳に集合して、新羅を攻撃して討ち破りました。

こうして、ヒシホ・南加羅・トクの国・安羅(あら)・多羅・卓淳(とくじゅん)・加羅、七つの国を平定しました。それから西の方に兵を移動させて、コケイの津に至って、南蛮のトムタレ(済州島)を討って百済に授けました。

それを受けて、百済王の肖古(しょうこ)とクウィス王子が軍勢を率いてやって来ました。その途中、ヒリ・ヘチュウ・ホムキ・ハンコの四つの邑は戦わずに降伏しました。

百済の王と王子は、荒田別・モクラコンシたちにオル村(ツルスキ)で会いました。互いに喜んで厚く礼を交わしました。

四人の中で千熊長彦と百済の王だけが百済国に行って、ヘキ山に登って誓いました。

またコサ山に登って一緒に岩の上に座りました。そして百済の王は、
「もし草を敷いて敷物としたら、火に焼かれる事もありましょう。
また木を組んで敷物としたら、水に流される事もありましょう。
こうして岩の上に座って誓うのは、永遠に朽ちることはないという事を示しています。

だからこの誓いは今からのち、千秋万歳に絶えることなく、終わることもないのです。
常に貴国の西蕃と称して、春秋に朝貢します。」
と言って誓いました。

それから千熊長彦を都に連れて行って、手厚く待遇しました。その後クテイたちを添えて千熊長彦を日本に送り届けました。

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神功皇后(14)

百済は七支刀と谷那の鉄を献上する
 
50年の春2月に荒田別たちは帰国しました。

夏5月に、千熊長彦クテイたちも百済から戻って来ました。皇太后は喜びながらも、クテイに、
「海の西のもろもろの韓をすでにそなたの国に与えた。それなのに、またこうして何度もやってくるのはどうしてなのか。」と尋ねました。

クテイたちは、
「天朝の恵みは、遠くて卑しい我が国にまで及んでおります。我が王も喜んで踊り出さんばかりです。そこで真心を示すためにこうして再び参りました。万世に渡るまで必ずお仕えする心を示すためです。」
と奏上しました。

皇太后は
「嬉しいことを言ってくれる。それは私の望むところだ。」
と言って多沙城(たさのさし)を追加して与えて、通い路の駅舎(うまや)としました。

51年春3月に、百済王はまたクテイを派遣して朝貢しました。
皇太后は皇太子武内宿禰に、
「親しくする百済国は、人ではなく天が与えたような国ですね。貢いで来る物は珍しいものばかかりで、見たこともないものばかり。時を置かず常に朝貢して来て、大変喜ばしいことです。(私が死んだあとも)変わらず、厚く恩恵を与えるように。」
と言いました。

その年、帰国するクテイを千熊長彦に送らせました。百済に着くと皇太后の言葉を伝えました。
「われは神の示しに従って初めてここに道を開いた。海の西を平定して百済に与えた。今また友好の縁をしっかりと結び、永遠に慈しむものである。」

百済の王の父子は並んで額を地につけ、
「貴国の恩恵は天地より重いものです。いついかなる時にも決して忘れません。聖王は天上にあって、月や太陽のように輝いておられます。私めは下に侍って、忠誠の心は山のように不動です。永遠に西蕃となって、二心(ふたごころ)は持ちません。」と言いました。

52年の秋、9月10日にクテイたちは千熊長彦に従って来朝しました。その時、七支刀一口、七子(ななつこ)の鏡一面、および種々の宝を献上しました。そして、
「臣下である我が国の西に川があり、水源は谷那(こくな)の鉄山から出ています。

大変遠いところで、七日では着きません。そこに行き、その山の鉄を採って、永遠に聖朝に献上します。」
と言いました。

そうして、肖古王は孫のトムル王に、
「今わたしが使者を通わせている海の東の貴い国は天がひらいた国です。その国が天の恩を我が国にも与えて、海の西側を分けて与えてくれた。だから、この国の基盤は永遠に固いのです。

そなたも、この友好関係を大切にして、国中から集めたものを献上し続けてくれるなら、私は死んでも恨むことはない。」と言いました。これより後、毎年朝貢し続けました。

55年に百済の肖古王は亡くなりました。
56年に百済のクウィス王子が王となりました。
62年に新羅は日本に朝貢しませんでした。その年、葛城襲津彦を派遣して新羅を攻撃しました。
64年に百済国のクウィス王が亡くなり、トムル王子が王に即位しました。
65年に百済のトムル王が亡くなりました。アクヱ王子は年少でした。その叔父の辰斯(しんし)が王位を奪って即位しました。

(66年。この年は晋の武帝の泰初2年である。晋の起居の注に武帝の泰初2年10月に倭の女王が通訳を何人も通して、朝貢したと書いてある。)

69年の夏、4月17日に、皇太后は稚桜(わかさくら)宮で崩御しました。100歳でした。
冬10月15日に狭城盾列陵(さきのたたなみ)に埋葬しました。この日、皇太后に気長足(おきながたらし)姫尊(ひめのみこと)と追号しました。

                                          (終わり)



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                                   【古事記】   

開化天皇

系図だけでしたが、
例の三人の共通の先祖なんだ


若倭根子日子大毘毘の命は春日の伊邪河(いざかわ)の宮で天下を治めました。
この天皇が旦波(たには)の大県主であるユゴリの娘の竹野姫を娶って、生まれた御子はヒコユムスミの命

また庶母(ままはは)のイカガシコメの命を娶って、生まれた御子はミマキイリヒコ・イニエの命。次にミマツヒメの命

また丸邇(わに)の臣の祖、日子国オケツの命の妹、オケツヒメを娶って、生まれた御子は日子イマスの王

また葛城の垂見の宿禰の娘。ワシ姫を娶って生れた御子は建豊ハヅラワケ
この天皇の御子たちは合せて五柱です。

この内、ミマキイリヒコ・イニエの命が次代の天皇になりました。

開化天皇
名 若倭根子日子大毘毘の命
父 大倭根子日子国玖琉の命(孝元天皇)
母 内色許賣の命(孝元天皇の后)

以上。開化天皇については系図だけしか書いてありませんでした。
ただし、この子供たちの系図が大変詳しく書いてあります。
その系図を辿ると6代目にオキナガタラシ姫が出てきました。
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仲哀天皇と神功皇后と竹内宿禰は同族でしたよ!
対三韓の利害が一緒だったんだ。


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