【古事記】   
天照大御神(1)
あまてらすおおみかみ

アマテラスの誕生
イザナギの命黄泉の国から逃げて来て、
筑紫の日向の橘の小門(おど)のアハキ原で禊祓いをしました。
身につけているものを脱いだ時に十二柱の神々が生まれました。
それから、「上の瀬は流れが速い。下の瀬は流れが弱い。」と言って、
初めて中の瀬に潜って、すすいだ時に十一柱の神々が生まれました。

それから、左の御目を洗う時に生まれた神の名は天照大御神
次に右の御目を洗う時に生まれた神の名は、月読の命
次に御鼻を洗う時に生まれた神の名は、建速(たけはや)スサの男の命。
この時イザナギの神は大変喜んで言いました。
「私は子供を生みに生んで、最後の最後に三柱の貴い子が出来た。」と。

すぐに首にかけていた首飾りの玉のひもをゆらゆらと揺らして、
天照大御神に授けて言いました。
「そなたは高天の原を治めなさい。」
とお任せになりました。
その首飾りの玉の名は御倉板挙(みくらたな)の神と言います。
次に月読の命に、
「そなたは夜の食国(おすくに)を治めなさい。」
と言ってお任せになりました。
次に健速スサの男の命に、
「そなたは海原(うなはら)を治めなさい。」とお任せになりました。

スサノオの命の追放
こうして、それぞれがお言葉に従って、授けられた国を治めておいでになる中で、
スサノオの命は命ぜられた国を治めないで、
ヒゲが胸のところに伸びるまでひどく泣きました。
その泣く様子は、青い山は枯れるまで、川や海は干上がるほどでした。
そのために、悪い神の声はハエがワンワンとたかるように満ちて、
いろんな災いが起こるようになりました。

そこで、イザナギの命がスサノオの命に尋ねました。
「どうしてそなたは授けた国を治めないで泣きわめくのだ。」
「わたくしめは亡き母の国、根の堅洲国に行きたくて、泣いています。」
とスサノオの命は答えました。
すると、イザナギの大神は大変怒って言いました。
「それなら、そなたはこの国に住んではならない。」
と言って、そのまま、追放されました。
こうして、そのイザナギの大神は淡海(おうみ)の多賀に鎮座されています。

スサノオの命とのウケイ
そこで、スサノオの命は
「それならば姉のアマテラス大御神に事情を話してから出て行きましょう。」
と言って、天に昇る時、山川がことごとく鳴り響き、国土がみな揺れました。
アマテラス大御神は弟がやって来ると聞いて驚いて言いました。
「私の弟の命が昇って来るのは、きっと善良な心からではあるまい。
私の国を奪おうとしているにちがいない。」

そう言うと、結っていた髪をほどいて、男の髪型のみずらに結って、
左右のみずらにも、それを留める髪飾りにも、また左右の手にも、
それぞれに八尺(やさか)の勾玉のたくさん連ねた珠を巻き付けて、
背中には千本入る靫(ゆぎ…矢入れ)を背負い、脇にも五百本入る靫をつけて、
また、手首にはイツの竹鞆(たかとも…音の鳴る手首ガード)をつけて、
弓を振り立てて、地面を股まで、めりこむように踏みならして、
土を淡雪のように蹴ちらして、勇ましい雄たけびをあげて待ち構えました。

アマテラス大御神は
「どうして、天に昇って来たのだ。」と尋ねました。
スサノオの命は
「わたしめは悪い考えは持っていません。ただ、イザナギの大御神が
私に泣きわめいている訳をお尋ねになりました。
そこで、『わたしめは亡き母の国に行きたいと思って泣いているのです。』
と答えました。

すると、大御神は『そなたはこの国に住んではならない。』
と言われて、私を追放されました。
だから、事情をお話しておこうと思って参上しました。他意はありません。」
と申し上げました。すると、アマテラス大御神は
「それなら、そなたの心が清く正しいのがどうして分かる。」と言いました。
そこでスサノオの命は答えて、
「それぞれウケイ(うらない)をして子を生みましょう。」と言いました。

宗像三女神の誕生
そこで、天の安の河(天の川)を中に置いて、ウケイをする時に、
アマテラス大御神が先に、スサノオの命の佩(は)いた
十拳剣(とつかのつるぎ)を貰い受けて、三段に折ってユラユラと揺らして、
天の真名井の水で振りすすいで、噛みに噛んで、フッと吹き捨てた時、
息吹きの霧に生まれた神の名は、タキリビメの命
またの名は奥津島(おきつしま)ヒメの命と言います。
次に、イチキシマヒメの命。またの名はサヨリビメの命と言います。
次にタギツヒメの命。三柱です。

天の忍穂耳の命らの誕生
続けて、スサノオの命はアマテラス大御神の左のみずらに巻いている
八尺(やさか)の勾玉のたくさん連なった珠をもらって、ユラユラと揺らして、
天の真名井の水で振りすすいで、噛みに噛んで、フッと吹き捨てた時、
息吹きの霧に生まれた神の名は、マサカツアカツカチハヤヒ天の忍穂耳の命

また、右のみずらに巻いている珠をもらって、噛みに噛んで、フッと吹き捨てた時、
息吹きの霧に生まれた神の名は天のホヒノ命
また、髪飾りに巻き付けていた珠をもらって、噛みに噛んで、フッと吹き捨てた時、
息吹きの霧で生まれた神の名は天津ヒコネの命

また、左の手に巻いていた珠を貰って、噛みに噛んで、フッと吹き捨てた時、
伊吹の霧に生まれた神の名はイクツヒコネの神
また右手に巻いていた珠をもらって、噛みに噛んで、フッと吹き捨てた時、
息吹きの霧に生まれた神の名は、熊野クスビの命。合せて五柱でした。

そこで、アマテラス大御神がスサノオの命に言いました。
「後の方で生まれた五柱の男子は、私の物から生まれたので、私の子だ。
先に生まれた三柱の女子は、そなたの物から生まれたので、そなたの子だ。」と。

こうして、最初に生まれた神、タキリビメの命は宗像の奥津宮にまします。
次にイチキシマヒメの命は宗像の中津宮にまします。
次にタキツヒメの命は宗像の辺津宮にまします。
この三柱の神は宗像の君らが斎きまつる三柱の大神です。

こうして、スサノオの命がアマテラス大御神に言いました。
「私の心は清く、正しかった。だから、私の生んだ子は手弱女(たおやめ)でした。
ウケイの結果から言うと、私の勝ちですね。」と言いました。

天の岩屋戸隠れ
それからは、スサノオの命は勝者としての振る舞いの度が過ぎて、
アマテラス大御神の耕作している田のあぜを壊し、
その溝を埋めて、またその大嘗(おおにえ…最初に収穫した米)を召し上がる御殿に
糞をし散らかしました。

スサノオの命がそんなことをしても、アマテラス大御神はとがめずに、
「糞をしたのは酔って吐き散らしたんでしょう。
私の大事な弟がしたんだから(大目に見ましょう)。
又田んぼのあぜを壊して、溝を埋めたのは、土地が惜しいから広くしたいと
思ったんでしょう。私の大事な弟がしたんだから(考えあっての事でしょう)。」
と、悪い事も良い方に解釈してかばいましたが、
その悪い行為はやまずに、ますますひどくなりました。

アマテラス大御神が、忌み清めた機織りの御殿に行って、神の御衣を織らせている時に、
その御殿の棟に穴を開けて、天の斑馬(ふちこま)を尾の方から逆に皮を剥いで
落とし入れたので、天の機織女(はたおりめ)が驚いて、
オサ(機織りの道具)で陰部を突いて死んでしまいました。

アマテラス大御神はそれを見て畏れて、天の岩屋戸を開いて、
中に籠ってしまいました。
すると、高天の原はみな暗くなり、葦原の中国(あしはらのなかつくに)も、
ことごとく暗くなりました。このために世の中は夜ばかりになりました。
すると、多くの神々の声はハエの飛ぶ音のように満ち満ちてて、
多くの災いが起こりました。

そこで、八百万(やおよろず)の神は天の安の河原に集まって、
タカミムスヒの神の子、オモイカネの神に考えさせました。

その結果、常世の国の長鳴き鳥を集めて鳴かせ、
天の安の河の川上の天の堅い石(鉄を鍛える為の金敷き)を取って来て、
天の金山の鉄を取って、鉄を鍛える工人の天津マラを求めて、
イシコリドメの命に命じて鏡を作らせ、タマノヤの命に命じて、
八尺の勾玉の沢山の連珠を作らせ、
天のコヤネの命フトダマの命を召して、
天の香具山の男鹿の肩の骨を丸抜きに抜いて、
天の香具山の天のハハカの木を採って、占いをさせて神意を伺わせました。

天の香具山の枝葉の茂ったサカキを根が付いたまま掘り取って、
上の枝に八尺の勾玉の沢山の連珠の付いたのを取り付け、
中の枝には八尺鏡(やたかがみ)を取り掛けて、
下の枝には木の皮で作った白い木綿(ゆう)と青い麻布を下げました。

これらの物をフトダマの命が布刀御幣(ふとみてぐら…神への贈り物)として捧げ、
アメノコヤネの命が神への祝詞を申し上げて、
アメノタヂカラオの命が岩戸の脇に隠れ立ちました。

アメノウズメの命は天の香具山の天の日影(ひかげ)をタスキにかけて、
天のツルマサキをかずらとして、天の香具山の笹の葉を手に持てるように束ねて、
天の岩屋戸の前に、桶(おけ)を伏せて乗り、踏み轟かして神懸かりしました。
胸の乳房があらわに出て、裳のひもが解け、陰部まで押し下がって垂れました。
それを見て、高天原中に鳴り響くほど、八百万の神々がみんな大笑いしました。

そこで、天照大御神は「変だ」と思って、天の岩屋戸を細めに開いて、
内側から言われました。
「私が籠っているので、天の原は自然と暗く、
また、葦原の中つ国もみんな暗いだろうと思ったのに、
どうして、アメノウズメは踊って、
また、八百万の神もみんなで笑っているのか。」
と。そこで、アメノウズメが申し上げました。
「あなた様に増して、貴い神がいらっしゃいました。
それで、みんなで喜んで笑っているのです。」と。

そう申し上げる間に、アメノコヤの命と、フトダマの命はその鏡を差し出して、
天照大御神にお見せするので、天照大御神はますます変だと思って、
ちょっと戸から出て、ご覧になる時に、
隠れて立っていたアメノタヂカラオの命がその御手を取って引っ張り出しました。

すぐさま、フトダマの命が注連縄(しめなわ)を後ろに引き渡して、申し上げました。
「これより、内側にはもうお戻りなさいますな。」
そうして、天照大御神が出て来られた時に、高天の原も葦原の中つ国も、
自然と明るくなりました。

スサノオの命の追放
その後、八百万の神々は協議して、スサノオの命に
千位(ちくら)の置き戸(多くのものを置く台)を背負わせ、髯を切り、
手足の爪も抜かせて、追放しました。

スサノオの命は食べ物をオオゲツヒメの神に乞いました。
すると、オオゲツヒメは鼻や口や尻からいろんな食べ物を取り出して、
いろいろと料理を作りそろえて献上しましたが、スサノオの命はその様子を覗き見して、
汚らわしいものを献上すると思って、即座にオオゲツヒメを殺しました。

こうして、殺された神の体からは、頭から蚕が生じ、両目からは稲の種が生じ、
両耳からは粟が生じ、鼻からは小豆が、
陰部からは麦が、尻からは大豆が生じました。
これを見て、神ムスビノミオヤの命はこれを取らせて種としました。

草薙の剣の由来
スサノオの命はこうして追放されて、出雲の国の肥の河上、
名は鳥髪(とりかみ)という所に降りました。
この時、箸がその川上から流れて来ました。
そこでスサノオの命は人がその川上に住んでいると思って、尋ね求めて遡って行くと、
老夫と老女が二人いて、乙女を中に置いて泣いていました。

スサノオの命は「お前たちは誰だ。」と尋ねました。老父が答えました。
「私めは国つ神、大山津見の神の子です。私めの名前は足名椎(あしなづち)と言い、
妻の名は手名椎(てなづち)と言い、娘の名前はクシナダ姫と言います。

また、「お前はなぜ泣いているのだ。」と尋ねると、
「私の娘は、もともと八人いたのですが、この高志(こし)のヤマタのオロチ
毎年来て食べてしまいました。
今また、やって来る時が来たのです。だから泣いています。」
と答えて申しました。

「その姿かたちはどんな風なのか。」と尋ねると、
「その目は赤いほおづきのようで、身体は一つで、頭が八つ、尻尾も八つ付いています。
また、その体にコケとヒノキと杉の木が生えて、その長さは谷が八つ、丘が八つ分あって、
その腹を見ると、いつも血がただれています。」
と申し上げました。そこで、スサノオの命はその老父に言いました。

「この、お前の娘を私にくれまいか。」
「畏れ多くも、お名前を存じません。」と答えました。そこで応えて言いました。
「私は天照大御神の弟だ。こうして、今、天から降りて来た所だ。」
と言いました。それを聞いてアシナヅチとテナヅチは、
「そうでしたら、畏れ多い事です。娘を差し上げましょう。」と申し上げました。

そこで、スサノオの命はその乙女を湯津爪櫛(ゆつつまぐし)に変えて、
ミヅラに刺して、アシナヅチ・テナヅチに言いました。
「そなたたちは、八回繰り返して醸造した酒を作り、又垣根をぐるりと作り、
その垣根に八つの門を作り、門毎に八つの桟敷(さじき)を作り、
その桟敷毎に酒を入れる器を置いて、
器ごとに酒をなみなみと入れて待ちなさい。」と。

そこで、言われたとおりに準備をして待った時、例のヤマタのオロチが、
言われた通りにやって来ました。ヤマタのオロチは酒を見つけると、
器ごとに頭を垂れてつっこんで、その酒を飲みました。
そして、酔っぱらうと、居座って寝込んでしまいました。

それを見計らって、スサノオの命は帯びていた十握剣(とつかのつるぎ)を抜いて、
そのオロチをずたずたに切ったので、肥の河は血に染まって流れました。
ところが、そのオロチの尾を切った時に剣の刃が欠けてしまいました。
「怪しい。」と思って、剣の先で裂いてみると、都牟刈(つむがり)の太刀がありました。
その太刀を取り出して、「不思議なものだ」と思って、
アマテラス大御神にその話をして献上しました。
これが草薙の太刀です。
                                (つづく)


伝承の地のレポートです。(『ひもろぎ逍遥』)

イザナギの命が身体を洗った伝承の地  志賀海神社(2)沖津宮と小戸 
 海の神々が生まれた美しき聖地 イザナミの命が禊をした所だったよ

http://lunabura.exblog.jp/13586252/

宗像三女神の降臨した六嶽の下宮 六嶽神社(1)~(2)
http://lunabura.exblog.jp/i35/

◆スサノオの命が高天原から出雲の国に行く途中の伝承のある地
原初の神気を今なお残す宮 
宗像三女神が生れた十握剣と父のスサノオが始まりだった 古物神社

http://lunabura.exblog.jp/i29



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天照大御神(2)

アマテラスと高木神は葦原の中つ国を手に入れる。

               (高御産巣霊神=高木神)

豊葦原の水穂の国は我が子の治める国である。

天照大御神は、
「豊葦原(とよあしはら)の千秋(ちあき)の長五百秋(ながいおあき)の
水穂(みずほ)の国は私の御子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命
(まさかつあかつかつはやひあめのおしほみみ)が治める国である。」
命じて言われ、天忍穂耳命が天降り(あまくだり)しました。

天忍穂耳命の天降りの中断
天忍穂耳命は天の浮橋に立ったのですが、
「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国はひどく騒いでいるなあ。」
と言って、戻って来て天照大神にその事を申し上げました。

そこで、高御産巣日神と天照大神は命じて、
天の安河の河原に八百万の神を集めて、
思金(おもいかね)の神に考えさせて、言いました。

「この葦原の中つ国は私の御子が治める国で、私が委ねて与えた国である。
しかし、この国にはすばしこい荒ぶる国つ神どもが大勢いると思われる。
そこで、どの神かを遣わして、帰順させてほしい。」と。

天のホヒの神の派遣
思金神や八百万の神が協議して言いました。
天の菩比(あめのほひ)の神を遣わすのがよろしいでしょう。」と。
そこで天の菩比の神を遣わすと、そのまま大国主の神に媚(こ)びて従って、
三年たっても戻って来ませんでした。

天の若日子の派遣
そこで高御産巣日神と天照大御神は多くの神々に尋ねました。
「葦原の中つ国に遣わした天の菩比の神はずっと帰って来ない。
今度はどの神を遣わせばよいだろうか。」
そこで思金神が
天津国玉の神の子、天の若日子(わかひこ)を遣わすのがよいでしょう。」
と申し上げました。
これによって、天のマカコ弓、天のハハ矢を天の若日子に授けて遣わしました。

天の若日子はその国に天降りすると、すぐに大国主の神の娘の
下照比賣(したてるひめ)を娶(めと)り、
またその国を自分の国にしようと思うようになって、
八年たっても戻って来ませんでした。

鳴女の派遣
そこで天照大御神と高御産巣日神が他の神々に尋ねました。
「天の若日子はずいぶん経つのに戻って来ない。
また、誰か他の神を遣わして、天の若日子が久しく留まる訳をたずねよう。」
そこで、諸神と思金神が
「雉(きじ)で、名前が鳴女(なきめ)という者を遣わしましょう。」
とお答え申し上げたので、鳴女に言われました。

「おまえが行って、天の若日子にこう尋ねよ。
『そなたを葦原の中つ国に使わしたのは、
その国の荒ぶる神どもを説得して帰順させよと言う事だった。
どうして、八年も経つのにまだ帰って来ないのか。』と。」

そこで鳴女は天降りして、天の若日子の家の門にある湯津楓
(ゆつかつら)の木に止まり、天つ神の言われた通りに言いました。

すると、天の佐具賣(さぐめ)がこの鳥の言う事を聞いて、
天の若日子に言いました。
「この鳥は鳴き声がとても不吉です。射殺すべし。」
と進言すると、すぐに天の若日子は天つ神が授けた天のハジ弓、
天のカク矢を持って来て、その雉を射殺しました。

すると、その矢は雉の胸を射通し、突き抜けて、
さかさまに高天原に射上げられて、天の安河の河原にいる天照大御神と
高木神の元に戻って来ました。この高木神は高御産巣日神の別の名です。

高木神がその矢を取って見ると、血がその矢の羽についていました。
そこで、高木神は
「この矢は天の若日子に授けた矢だ。」
と言って、諸神に見せて言われました。
「もし、天の若日子が我々の命令に忠実で、悪い神を射た矢が
戻って来たのなら、天の若日子には当たるな。
もし、反逆の心が有るなら、天の若日子に当たって禍(わざわい)せよ。」
と言って、その矢を取って、その矢が開けた中つ国との境の穴から、
突き返すと、天の若日子が朝、寝床に寝ている時、
その胸に当たって死んでしましました。(これが還り矢の語源です。)

またその雉も戻って来ませんでした。
コトワザに「雉の頓使(ひたつかい)」(雉の行ったきり)という謂われは
ここから来ています。

タケミカヅチの神の派遣
―略―
(天の若日子の派遣が失敗したので、高天原では再び諸神の相談があって、
建御雷の神を派遣させる事が決定しました。)

天照大御神は建御雷(たけみかづち)の神に
天の鳥船の神を付けて遣わしました。
この二柱の神は出雲の国の伊那佐の小浜に天降りして、
十掬剣(とつかつるぎ)を抜いて、さかさまに波頭に刺し立て、
その剣の前に胡坐を組んで座り、大国主の神に尋ねて言いました。

「天照大御神、高木の神の命令で、尋ねるために私を遣わされた。
『そなたが治める葦原の中つ国は我が御子が治める国ぞ。』との仰せである。
そこで、なんじの心はいかがであるか。」
大国主の神は
「私めは申し上げますまい。
我が子の八重事代主(やえことしろぬし)の神が答えるでしょう。
しかし、我が子は鳥の遊びをして、魚を取っているので、
御大(みほ)の前(さき)に行って、まだ帰って来ません。」と答えました。

そこで建御雷の神は、天の鳥船の神を遣わして、
八重事代主の神を引き立てて来て、お尋ねになった所、
八重事代主の神は、父神に語って言いました。
「畏れ多い。この国は天つ神の御子に献上しましょう。」
と言って、そのまま船を踏みつけて傾かせて、
青い芝で作った神域を示す垣根を作り、天の逆手(呪術的な拍手?)を打って、
身を隠されました。 
―略―
(この後、建御雷の神はもう一人の御子とも対決して勝利し、
ついに出雲の降伏が決定して、建御雷の神が高天原に戻って来ます。)

天降りをニニギノ命に変更する
そこで、天照大御神と高木の神の命令で、
太子(ひつぎのみこ)の天の忍穂耳命に言われました。
「今、葦原の中つ国を平定したとの報告があった。
だから、以前にその国を与えた通りにして、天降りして、治めなさいませ。」と。

そこで太子の天忍穂耳命が答えて申し上げました。
「私めが天降りしようと支度をする間に、子供が生まれました。
名前は天ニキシ国ニキシ天津日高日子番(あまつひこひこほ)のニニギノ命です。
この子を降臨させましょう。」

この御子は高木の神の娘の萬幡豊秋津師比賣命(よろずはたとよあきづしひめ)と
結婚して生まれた子供で、長男が天の火明命(あめのほあかり)。
次男が日子ホノニニギの命です。

こういう事で、天の忍穂耳の言葉が受け入れられました。
忍穂耳の命はニニギノ命に勅命を伝えて、
「この豊葦原の水穂の国はそなたが治める国であると言ってお与えになった。
だから、命ぜられた通りに天降りしなさい。」と言われました。
             
見知らぬ神との交渉役をアメノウズメに決定する
そこで日子穂のニニギノ命が天降りをしようとする時に、
天の八街(やちまた)で、上は高天の原を照らし、
下は葦原の中つ国を照らす神が立っていました。

それを見て、天照大御神と高木の神はアメノウズメの神に命じて言われました。
「そなたは力の弱い女であるが、敵対する神に会っても、
面と向かって気後れしない神である。だから、そなた一人で行って尋ねなさい。
『我が御子の天降りする道の真ん中に立ち塞がっているのはどなたか。』と。」

そこで、アメノウズメの神が行って尋ねました。
すると、その神が答えて言いました。
「私は国つ神、名は猿田彦の神です。こうして出て来たのは、天つ神の御子が
天降りなさると聞いたので、道案内をしようとして、参上しました。」
こうしてニニギノ命は、五人の職人の長たちを連れて天降りなさいました。

                (つづく)



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                                   【古事記】   
天照大御神(3)

アマテラスと高木の神はイワレビコを助ける

                          イワレビコ=神武天皇

イワレビコに剣と八咫烏を授ける
神倭(かむやまと)イワレビコの命が熊野の村に着いた時に、
大きなクマがほのかに出て来て、そのまま消えてしまいました。
すると、神倭イワレビコの命は急に疲れてしまい、
また率いていた軍勢も皆疲れて倒れてしまいました。

この時、熊野の高倉下(たかくらじ)が、一振りの太刀を持って、
天つ神の御子が倒れている所にやって来て、献上しました。
すると、神倭イワレビコの命はすぐに目が覚めて、起き上がり、
「長く寝たなあ。」と言われました。
そして、その太刀を受け取ると、その熊野の山の荒ぶる神は
ひとりでに皆切り倒されました。
すると惑わされて倒れていた軍勢もみな目が覚めて起きました。

そこで、神倭イワレビコの命が高倉下にその太刀を手に入れた事情を尋ねると、
こう答えました。
「こんな夢を見たのです。天照大御神高木の神の二柱の神が
建御雷の神を召して、言われました。
葦原の中つ国はひどく騒いでいるようだ。我が御子たちが病んでいるらしい。
その葦原の中つ国は、そもそもそなたが平定した国である。
だから、そなた建御雷の神が天降りしなさい。』と。

そこでお答えになったのが、
『私めが直接降りなくても、その国を平定した太刀が有るので、
その太刀を下ろすのがよろしいでしょう。』と。
(この太刀の名は佐士布都(さじふつの)神と言い、
またの名は甕布都主(みかふつぬし)と言い、
またの名は布都御魂(ふつみたま)と言う。この刀は石上神宮にある。)

そして、夢の中で私にお告げになったのです。
『この刀を降ろす方法だが、お前、高倉下の倉の屋根に穴を開けて、
そこから落とし入れる。だから、縁起をかついで、朝目を覚ました時に、
一番最初に目に入るようにして、天つ神の御子に奉りなさい。』と。

朝、目が覚めて、夢で教えられた通りに倉を見ると、本当に太刀がありました。
だから、その太刀を持って献上しに参りました。」
と高倉下は申し上げました。さらに付け加えて言いました。

「その時、また、高木の神が諭して命ぜられた事には、
『天つ神の御子をこれより奥の方には、入らせないようにしなさい。
荒ぶる神がとても多い。今、天からヤタガラスを遣わす。
そのヤタガラスが道案内をするであろう。
それが飛び立った後から、行軍されるように。』との事です。」

それを聞いて、神倭イワレビコの命は教えの通りに、
ヤタガラスの後から行軍しました。

                      (つづく)
◆ヤタガラスが高句麗の古墳の壁画に描かれています。
その謎に取り組みました。『ひもろぎ逍遥』
高句麗壁画(1) 八咫烏―高句麗と日本の賀茂氏の謎
http://lunabura.exblog.jp/i42/

このページは天照大御神を中心に拾い出しているので、
次回は神功皇后の所に飛びます。
このイワレビコの東征の続きは「神武天皇」を見てください。


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                                   【古事記】   

天照大御神(4)

アマテラスと住吉三神は仲哀天皇に死を告げる 

                       オキナガタラシ姫=神功皇后(じんぐうこうごう)

仲哀天皇の崩御と神託
仲哀天皇筑紫の香椎(かしい)に宮を作られて、
熊襲の国を討とうとされた時に、ご神託を聞くことになりました。
天皇が琴を弾いて、オキナガタラシ姫が神懸かりをします。
建内(たけうち)の宿禰(すくね)の大臣がサニワをしました。
サニワとは降りた神が、どなたか、本物か偽物かなどを明らかにする人です。

オキナガタラシ姫が神を招き寄せて、託宣をしました。
「西の方に国がある。金銀を始めとして、目にも輝くいろいろな珍
しい宝が沢山その国にある。私が今その国を帰服させて与えよう。」と。
そこで天皇が答えて申し上げました。
「高い所に登って西の方を見るけれども、国は見えません。
ただ、大海があるだけです。」と言って、「偽りをいう神だ。」
と言いながら琴を押し退けて、それ以上お弾きにならず、
黙って座ったままになりました。

すると、その神は大変お怒りになって、
「そもそもこの天の下はそなたの治める国ではない。
そなたは人間が行かねばならぬ、一本道に向かうがよい。」
と言われました。一本道とは死への道です。

そこで、建内の宿禰の大臣が言いました。
「畏れ多いことです。我が天皇、やはりその琴をお弾き遊ばせ。」と。
そこで、そろそろと琴を取り寄せると、
生半可(なまはんか)にお弾きになりました
すると、どれほどの時間も経たないで、琴の音が聞こえなくなりました。
火をともして見ると、すでに崩御されていました。
そこで驚き懼(おそ)れて、殯宮(もがりのみや)に亡骸を安置しました。

神の怒りを解くために、神へのお供え物を捧げ、
国中の人々の犯した罪や穢れを払う大祓(おおはらえ)をしました。
罪、穢れとは、生きながら獣の皮を剥ぐ罪、尾の方から剥ぐ罪、
田の畔(あぜ)を壊す罪、水路を埋める罪、他(略)です。
この大祓を済ませると、再び建内の宿禰の大臣がサニワとなって、
ご神託を求めました。

二度目の神託
今度も、神が教え諭す様子は、全く先日の通りで、
「そもそも、この国は、皇后のお腹の中に宿る御子が治める国である。」
と諭されました。そこで、建内の宿禰の大臣が言うには
「畏れ多いことです。我が大神さま、今お懸かかりになっている
お方のお腹に宿る御子は男御子か女御子か、どちらでしょうか。」
「男御子ぞ。」
とお答えになりました。さらに詳しく尋ねました。

「今、このように教えられる大神のお名前を知りたいのですが。」
と求めると、すぐにお答えになりました。
「これは天照大神の御心ぞ。
また、底筒男(そこつつお)、中筒男、上筒男の三柱の住吉大神ぞ。
今まことにその国を求めようと思うならば、天の神や国の神、
また、山の神、川や海の神に、ことごとく御幣を奉り、
住吉大神の御魂(みたま)を船の上に祀り、
マキの木の灰をヒョウタンの器に入れ、
また、箸と柏の葉で作った皿をたくさん作って、
それを皆大海に散らして浮かべて、渡るがよい。」
と言われました。

そこで、詳しく教えられた通りにして、軍勢を整えて、
船を並べて、西の方の国に渡られると、海原の魚、大小を問わず、
ことごとく御船を乗せて進みました。
その上、追い風も吹いて、御船は波が寄せるのに任せて行きました。
その御船を乗せた波は新羅の国に押し上がって、
完全に国土の半分まで達しました。

そこで、新羅の国王は恐れをなして、奏上しました。
「これからは天皇の命令に従って、御馬を飼育する者となって
毎年、貢物(みつぎもの)を載せた船を何艘も出して、
船の底が乾く間もないようにします。
棹(さお)や舵(かじ)が乾く間もないように、
天地の運行がとどまることのないのと同じように、
お仕えしましょう。」と申し上げました。


(以上、天照大御神は古事記では4か所に出て来ました。)

 伝承の地を訪ねたレポートです。   『ひもろぎ逍遥』

香椎宮(1)古宮を訪ねて
http://lunabura.exblog.jp/i2/


香椎宮(3)天皇の崩御をどうやって隠す?
http://lunabura.exblog.jp/13196975/


小山田斎宮(1)(2)オキナガタラシ姫の神懸かりの地を捜して
http://lunabura.exblog.jp/12788885/


住吉神社
http://lunabura.exblog.jp/15387796/




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住吉三神(住之江の神)
底筒男神・中筒男神・上筒男神
 
三神の誕生

 イザナギの命は橘の小戸の阿波岐が原でミソギながら、多くの神々を生んだあと、「上の瀬は流れが速い。下の瀬は流れが弱い。」と言って、初めて中の瀬に潜ってすすぎました。その時に生まれた神の名は、
  八十禍津日(やそまがつひ)の神。
  次に大禍津日(おおまがつひ)の神。
この二神は、そのけがらわしい国に行った時の穢れによって生まれた神です。つぎにその禍(まが)を直そうとして、生まれた神の名は
  神直毘(かむなおび)の神。
  大直毘(おおなおび)の神。
  次にイヅノメの神。
次に水の底にすすぐ時に生まれた神の名は、
  底津綿津見(そこつわたつみ)の神。
  次に底筒の男(そこつつのお)の命
中にすすぐ時に生まれた神の名は、
  中津綿津見の神。
  次に中筒の男の命
次に水の上にすすぐ時に生まれた神の名は、
  上(うは)津綿津見の神。
  次に上筒の男(うはつつのお)の命
この三柱の綿津見の神は、阿曇(あづみ)の連(むらじ)らが祖神(おやがみ)として、お仕えする神です。また、阿曇の連たちは、その綿津見神の子のウツシ日金作拆(ひがなさく)の命の子孫です。その底筒の男の命、中筒の男の命、上筒の男の命の三柱の神は、墨の江の三前(みまえ)の大神です。

                           ☆ ☆ ☆

天皇の崩御と神託

オキナガタラシ姫の命仲哀天皇の大后(おおきさき)で、神功皇后の事です。

仲哀天皇が筑紫の香椎(かしい)に宮を作られて、熊襲の国を討とうとされた時に、ご神託を聞くことになりました。天皇が琴を弾いて、オキナガタラシ姫が神懸かりをします。建内(たけうち)の宿禰(すくね)の大臣がサニワをしました。サニワとは降りた神が、どなたか、本物か偽物かなどを明らかにする人です。
オキナガタラシ姫が神を招き寄せて、託宣をしました。
「西の方に国がある。金銀を始めとして、目にも輝くいろいろな珍しい宝が沢山その国にある。私が今その国を帰服させて与えよう。」と。
そこで天皇が答えて申し上げました。
「高い所に登って西の方を見るけれども、国は見えません。ただ、大海があるだけです。」と言って、
「偽りをいう神だ。」
と言いながら琴を押し退けて、それ以上お弾きにならず、黙って座ったままになりました。

すると、その神は大変お怒りになって、
「そもそもこの天の下はそなたの治める国ではない。そなたは人間が行かねばならぬ、一本道に向かうがよい。」
と言われました。一本道とは死への道です。そこで、建内の宿禰の大臣が言いました。
「畏れ多いことです。我が天皇、やはりその琴をお弾き遊ばせ。」と。
そこで、そろそろと琴を取り寄せると、生半可(なまはんか)にお弾きになりました。すると、どれほどの時間も経たないで、琴の音が聞こえなくなりました。火をともして見ると、すでに崩御されていました。そこで驚き懼(おそ)れて、殯宮(もがりのみや)に亡骸を安置しました。

神の怒りを解くために、神へのお供え物を捧げ、国中の人々の犯した罪や穢れを払う大祓(おおはらえ)をしました。罪、穢れとは、生きながら獣の皮を剥ぐ罪、尾の方から剥ぐ罪、田の畔(あぜ)を壊す罪、水路を埋める罪、他(略)です。

この大祓を済ませると、再び建内の宿禰の大臣がサニワとなって、ご神託を求めました。
今度も、神が教え諭す様子は、全く先日の通りで、
「そもそも、この国は、皇后のお腹の中に宿る御子が治める国である。」
と諭されました。そこで、建内の宿禰の大臣が言うには
「畏れ多いことです。我が大神さま、今お懸かかりになっているお方のお腹に宿る御子は男御子か女御子か、どちらでしょうか。」
「男御子ぞ。」
とお答えになりました。さらに詳しく尋ねました。
「今、このように教えられる大神のお名前を知りたいのですが。」
と求めると、すぐにお答えになりました。
「これは天照大神の御心ぞ。また、底筒男(そこつつお)、中筒男、上筒男の三柱の住吉大神ぞ。今まことにその国を求めようと思うならば、天の神や国の神、また、山の神、川や海の神に、ことごとく御幣を奉り、住吉大神の御魂(みたま)を船の上に祀り、マキの木の灰をヒョウタンの器に入れ、また、箸と柏の葉で作った皿をたくさん作って、それを皆大海に散らして浮かべて、渡るがよい。」
と言われました。

 そこで、詳しく教えられた通りにして、軍勢を整えて、船を並べて、西の方の国に渡られると、海原の魚、大小を問わず、ことごとく御船を乗せて進みました。その上、追い風も吹いて、御船は波が寄せるのに任せて行きました。その御船を乗せた波は新羅の国に押し上がって、完全に国土の半分まで達しました。

そこで、新羅の国王は恐れをなして、奏上しました。
「これからは天皇の命令に従って、御馬を飼育する者となって毎年、貢物(みつぎもの)を載せた船を何艘も出して、船の底が乾く間もないようにします。棹(さお)や舵(かじ)が乾く間もないように、天地の運行がとどまることのないのと同じように、お仕えしましょう。」と申し上げました。

そう言う事で、新羅の国は御馬を飼育する部曲と定めて、百済の国は海外の直轄地と定めました。そして、御杖を占有権を表す印として、新羅王の門に突き立てて、住の江(すみのえ)の大神の荒御魂(あらみたま)を守護する神として祭り鎮めて、日本に戻られました。


◆日本書紀には荒魂を山口県下関市に祭る話が出ています。
【日本書紀】
遠征軍に従った神、表筒男・中筒男・底筒男の三柱の神は皇后に教えて言いました。
「我が荒御魂を穴門の山田の邑に祭らせよ。」
その時、穴門の直(あたい)の祖・ホムタチ・津守の連(むらじ)の祖・タモミの宿禰が皇后に言いました。
「神が居たいと思われる所を必ず定めて奉斎するのがよろしいかと。」
そこでホムタチを荒魂を奉斎する神主としました。よって、祠(やしろ)を穴門の山田邑に立てました。
(穴門の山田の邑は下記の下関の住吉神社です)


住吉三神を祭る主な神社 (マイペディアより)
福岡市博多区住吉(筑前国一の宮)三神の和魂をまつる。 例祭10月13日
下関市一宮 (長門国一の宮)   三神の荒魂をまつる。  例祭12月15日
大阪市住吉区住吉(摂津一の宮) 三神と神功皇后をまつる。例祭6月30日
壱岐市                  三神の和魂をまつる。  例祭11月9日



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美夜受比売 

ミヤズ姫

ヤマトタケルの命は尾張の国に着いて、尾張の国造(くにつくり)の祖の
ミヤズ姫の家に行きました。そこで、姫と契りを交わそうと思いましたが、
また戻って来た時にそうしようと思って、約束をして、
東(あずま)の国に行って、山河の荒ぶる神、また、まつろわぬ人どもを
ことごとく平定しました。

こうして相模の国に着いた時、その国造が偽って言いました。
「この野の中に大沼があります。その沼の中にすむ神はひどく荒れすさぶ神です。」と。
そこでヤマトタケルの命は見てみようと野に入って行きました。
すると、その国造はその野に火を点けました。
こうして、騙されたのに気づいて、叔母のヤマト姫がくれた袋の口を開いて見ると、
火打ち石がその中に入っていました。
そこで、まず太刀で草を刈り取って、その火打ち石を打って、向かえ火を点けて、
こちらからも焼いて火を退けさせて、生還しました。
それから、その国造どもを切り滅ぼして、火をつけて焼きました。
こういう事から、そこを焼津といいます。

弟橘姫の入水

そこから走水(はしりみず―浦賀水道)の海を渡る時に、
その渡りの神が波を起こして船をぐるぐると廻して、進む事が出来ませんでした。
すると后(きさき)の弟橘姫(おとたちばなひめ)が言いました。
「私めが、御子に代わって海の中に入りましょう。
御子は派遣された勅命を成し遂げて、帝にご報告をなさいませ。」
と言って海に入ろうとする時に、菅で編んだ敷物を八重、皮の敷物を八重、
絹の敷物を八重、波の上に敷いて、その上に下りました。

すると、その荒波は自然と静まって、船が進む事が出来ました。
その時、弟橘姫が歌った歌。
   相模の小野で 燃える火の 
   火中に立って 私を思って下さったあなた
それから七日後に、弟橘姫の櫛が浜辺に打ち寄せられました。
そこでその櫛を拾って、お墓を作って納めました。 
               
あづまはや

ヤマトタケルの命が、そこからさらに奥に入って、
荒ぶる蝦夷(えみし)どもをことごとく平定し、また山河の荒ぶる神どもを平定して、
都へ戻って来る途中、足柄の坂の麓に着きました。
干し飯(かれひ)を食べている時に、その坂の神が白い鹿に化けて、現れ出ました。
そこで、食べ残したノビル(野草)の片端を持って、待ち受けて打ち付けると、
その眼に当たって殺してしまいました。その後、その坂に登って頂きに立つと、
亡くなった弟橘姫が思い出されて、三回「我が妻よ。」と嘆きました。
この事から、その国をアヅマと言うようになりました。

その国を越えて甲斐に出て、酒折(さかおり)の宮に居る時に歌を詠みました。
  新治(にいばり) 筑波を過ぎて 何日寝ただろうか。
と詠みました。
すると、かがり火の番をする老人が、その歌に続けて歌いました。
  日々を数えて 夜は9夜 日は十日過ぎました。
それを聞いたヤマトタケルの命は老人をほめて、
即座にアヅマの国造(くにのみやつこ)に任命しました。

再会

その国から科野(しなの)の国を越えて、科野の坂の神を平定して、
尾張の国に戻って来て、前に約束していたミヤズ姫のもとに行きました。
そこで、大宴会が行われた時、ミヤズ姫が大きな杯を捧げ持って来ました。
その時、ミヤズ姫の重ね着の衣の裾に、月のものの血が付いていました。
それを見て、ヤマトタケルの命は歌を詠みました。
  ひさかたの 天の香具山の上を 
  鋭い鎌(かま)のように 首を伸ばして飛んで行く 
  白鳥の首のように か細くて しなやかなあなたの腕を 
  枕にしようと 私は思うのだけど
  そんなふうに共寝をしようと 思うのだけど
  あなたの着ている 衣の裾に 月が立っているよ。

ミヤズ姫が歌で返しました。
  高い空で光輝く 日の御子よ
  天下を治める 我が君よ
  年が経ってしまったので、
  その間、月は何度も来ては過ぎ去って行きました。
  ほんと、ほんと、ほんと
  あなたを待ち切れないで、私の衣の裾に 月が立ってしまいました。

こう詠み交わしながら、二人は結ばれて、ヤマトタケルの命は
身につけていた草薙の剣をミヤズ姫の所に置いて、
伊吹山の神を討ち取りに出かけました。



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大気都比売 (大宜都比売)(1)  
オオゲツヒメ
神の身体から五穀と蚕が生まれた


古事記の三か所に出て来ます。
「大都比売」と「大都比売」の表記には区別がありません。
同一の神かどうかは不明です。

◆オオゲツヒメはギ・ミ神から生まれた。
四国の粟の国の別の名前でもある。◆


イザナギの命イザナミの命のお二人は、話し合いました。
「今回生まれた子供は良くなかった。やっぱり、天つ神の所に行って、相談しよう。」
と言って、一緒に参上して天つ神の御意見を求めました。

そこで、天つ神の意見によって太占(ふとまに)で占って、告げられました。
「女が先に言ったのが良くなかった。また帰って、やり直しなさい。」
そこで、再び天下りして、天の御柱を同じように廻りました。
この時、イザナギの命が先に
「ああ、なんと素敵なお前よ。」
と言って、その後、イザナミの命が
「ああ、なんて素敵なあなた。」と言いました。

そうして再び、夫婦の交わりをして生んだ子供は
淡道(あわじ)の穂の狭別(さわけ)の島。
次に伊予の二名(ふたな)の島
この島は身体は一つで、顔が四つ有りました。顔ごとに名前が付いています。
   伊予の国はエヒメと言い、
   讃岐の国イヒヨリヒコと言い、
   粟の国オオゲツヒメと言い、
   土佐の国はタケヨリワケと言います。
次に隠岐の三つ子の島を生みました。またの名は天のオシコロワケ。
         (略)
次に生んだ神の名は、鳥の石楠船(いはくすぶね)の神。
   またの名は天の鳥船と言います。
次にオオゲツヒメの神を生みました。
次に火のヤギハヤオの神を生みました。
またの名は火のカガビコの神と言い、またの名を火のカグツチの神と言います。

この子を生んだために、イザナミの命は陰部を焼かれて病み臥すようになりました。


◆オオゲツヒメはスサノオの孫・ハヤマトの神の妻になる◆

大年の神(スサノオの命とカムオオイチヒメの間の子)が
カムイクスビの神の娘、イノヒメを妻として生んだ子は
   大国御魂(おおくにみたま)の神。
   次に韓(から)の神。
   次にソホリの神。
   次に白日(しらひ)の神。
   次に聖(ひじり)の神。

カヨヒメを娶って生んだ子は、
   オオカガヤトノオミの神。
   次に御年(みとし)の神。

アメチカルミヅヒメを妻として生んだ子は
   オキツヒコの神。
   次にオキツヒメの神。またの名はオオベヒメの神。
      これは人々が奉斎する竈の神である。
   次にオオヤマクヒの神。またの名はヤマスエのオオヌシの神。
      この神は近淡海(ちかつあわうみ)の国の日枝(ひえ)の山にまし、
      また葛野(かづの)の松の尾にまして、鳴鏑(なりかぶら)を持つ神です。
   次にニワツヒの神。
   次にアスハの神。
   次にハヒキの神。
   次にカガヤマトオミの神。
   次にハヤマトの神
   次にニワタカツヒの神。
   次にオオツチの神。またの名は土のミオヤの神。9柱。(※実際は10柱)

ハヤマトの神オオゲツヒメの神を妻として生んだ子は、
   若山クヒの神。
   次に若年の神。
   次にイモワカサナメの神。
   次にミヅマキの神。
   次に夏タカツヒの神。またの名は夏ノメの神。
   次に秋ビメの神。
   次にククトシの神。
   次にククキワカムロツナネの神。8柱。

◆オオゲツヒメはスサノオの命から殺された。◆

高天原から追放されたスサノオの命は食べ物をオオゲツヒメに乞いました。
すると、オオゲツヒメは鼻や口や尻からいろんな食べ物を取り出して、
いろいろと料理を作りそろえて献上しましたが、
スサノオの命はその様子を覗き見して、汚らわしいものを献上すると思って、
即座にオオゲツヒメを殺しました。

こうして、殺された神の体からは、頭から蚕が生じ、両目からは稲の種が生じ、
両耳からは粟が生じ、鼻からは小豆が、
陰部からは麦が、尻からは大豆が生じました。
これを見て、カミムスビノミオヤの命はこれを取らせて種としました。


※ オオゲツヒメが二か所に出てくるので、どうなっているのか、
  次回は系図を書いてみます。

良く似た話が日本書紀にも出て来ます。
ウケモチの神(保食神)と月読尊の話に変わっています。
南方系神話ーハイヌウェレ神話との関わりについては
 『ひもろぎ逍遥』大嶽神社(5)
「ウケモチの神から五穀と蚕が生まれたーハイヌウェレ神話と日本の神話」
http://lunabura.exblog.jp/15336975/ 
 

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大気都比売(2)

系図


オオゲツヒメは古事記に三か所に分かれて出て来ます。
そこでそれが全部同じ神だという前提で、系図を書いて見ました。
粟の国は別とする。)

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スサノオの命がオオゲツヒメを殺すと、死体から五穀と蚕が生まれました。
スサノオの命とオオゲツヒメは姉弟です。
そして、オオゲツヒメはスサノオの孫と結婚しています。
オオゲツヒメの住まいは葦原の中つ国です。


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保食神
 (うけもちのかみ)
神の身体から牛馬と五穀と蚕が生まれた
 
天照大神が天上にあって、言いました。
葦原の中つ国保食(うけもち)の神がいると聞いています。
そなた、月夜見尊(つくよみのみこと)、行って見て来なさい。」と。
月夜見尊は命令を受けて降りました。そして保食神の所に行きました。

保食神は首を回して国土を見ると、口から飯を出しました。
又、海を見ると、魚のひれの大きいもの、小さいものを口から出しました。
又、山を見ると、毛の荒い動物、柔らかい動物を口から出しました。
その各種の物を全部揃えて、沢山の机に並べて饗応しました。

この時、月夜見尊は顔色を変えて怒って言いました。
「けがわらしい。いやしい。どうして、口から吐き出したものを、
あえて私に食べさせようとするのか。」
と言って、即座に剣を抜いて、殺してしまいました。
それから天上に戻って、詳しくその状況を話しました。

すると、天照大神は大変怒って、
「お前は何と悪い神だ。もう会わない。」と言いました。
そこで月夜見尊と、一日一夜隔てて離れて住むようになりました。

この後、天照大神はまた天の熊人(くまひと)を遣わして、
どうなっているか見に行かせました。この時には保食神はすでに死んでいました。
すると、その神の頭頂からは牛と馬が生れていました。
額からは粟(あわ)がなっていました。眉の上には蚕(かいこ)が生まれていました。
眼の中には稗(ひえ)が生まれていました。腹の中には稲が生まれていました。
陰部からは麦と大豆や小豆が生まれていました。

天の熊人はこれを全部持ち帰って、献上しました。
天照大神は喜んで、
「これはこの世の青人草(人間―青い目の人とも言う)が食べて生きるものです。」
と言って、粟(あわ)稗(ひえ)麦豆を畑の種子としました。
また稲は水田の種子としました。
また天の邑君(むらきみー農民の長)を定めました。
そこで、その稲種を初めて天の狭田(さなだ)や長田に植えました。
その秋に実った穂は大変長く垂れて、豊作でした。
また口の中に蚕を含んで絹糸を引き出すことが出来るようになりました。
これから初めて養蚕が始まりました。


良く似た話が古事記にも出て来ます。
オオゲツヒメとスサノオの命の話に変わっています。
詳細は
 『ひもろぎ逍遥』大嶽神社(5)
「ウケモチの神から五穀と蚕が生まれたーハイヌウェレ神話と日本の神話」
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斉明天皇(1)(皇極天皇)
生没(594~661)在位(655~661)

百済の使者が百済敗北を報告して、援軍を依頼した
 


 斉明天皇6年9月5日に、百済(くだら)は達卒(だちそちー官位)のなにがし(名前は不明)と沙弥(さみ)覚従(かくじゅ)たちを派遣して、ヤマト朝廷にて奏上しました。(ある本には、逃げて来て、国難を奏上したともいう)

「今年の7月に、新羅(しらぎ)が武力を頼み、勢いに任せて、隣国のと手を結びました。唐人を加担させて、百済を傾けて転覆させました。国王大臣たちをみな捕虜にして連れて行き、残っているものもいません。

(ある本には、今年の7月10日に大唐の蘇定方(そていほう)が船団を出して、尾資(びし)の津に進軍した。新羅の王・春秋智(しゅんしうち)は兵馬を引き連れて、ノズリ山に陣を敷いた。百済を挟み討ちして三日間戦った。我が百済の王城は陥落した。7月13日の事だった。ノズリ山は百済の東の堺にある。)

 そこで、西部恩卒(さいほうおんそちー官位)・鬼室福信(姓と名)は怒り発奮してニザギ山に布陣しました。達率(官位)・余自進(よじしんー姓と名―百済の王族)は中部のクマノリ城に布陣しました。それぞれ自分の陣営で、散り散りになった兵たちを集めました。

武器は百済滅亡の時に使いはたしていました。だから、棍棒で戦いました。新羅軍が敗れました。百済はその武器を奪いました。こうして百済軍は再び回復して、精鋭軍となりました。ですから、唐はあえて侵入しようとはしません。

福信たちは、ついに我が国の者たちを集めて、共に百済城を守っています。国の民は称えて佐平(最高官位)・福信、佐平・自進と呼びます。ただし、福進だけは神の恵みで戦って滅んだ国を再興しました。」と奏上しました。

冬10月に、百済は佐平・鬼室福信と佐平・貴智(くゐち)たちをヤマト朝廷に派遣して、唐の捕虜100人余りを連れて来て献上しました。今、美濃の国の不破(ふわ)・片県(かたあがた)の唐人がこの人たちです。

福信たちは、軍勢を出して百済国を助けるように頼みました。併せて、百済の王子・余豊璋(よほうしょうー人質として日本にいた)の帰国を願って言いました。

「唐人が、害虫のような新羅と手を結んで国境を侵し、我が国を滅ぼし、我が国王と群臣を捕虜にしてしまいました。
〔百済の王・義慈(ぎじ)と妻・恩古(おんこ)、その子・(りう)たち、大臣の佐平・千福国弁成(こくべんじょう)・孫登(そんとう)たち、合わせて50人余り。秋7月13日に、将軍に捕えられて唐国に送られた。〕

しかも、百済国は遥か遠いヤマトの天皇の御加護を頼んで、さらに離散したものたちを集めて国を回復しました。まさに、今、謹んで願うのは、百済国から貴国に遣わした王子・豊璋を迎えて、国王にしていただきたい事です。」などと奏上しました。

 斉明天皇が言いました。
「軍隊の派遣を求めて、救援を頼むような話は昔もあったと聞いている。国が危ないのを助け、絶えた王族の血統を継ぐ事は、古典にも書かれている。

百済国の人たちが困って我が国を頼っているのは、本国が滅亡して乱れ、頼る所もなく、相談する所もないという事情からである。再興を願って戈(ほこ)を枕にして、苦い肝を舐めて、敗戦の屈辱を忘れないようにしている。是非とも助けてくれと、遠い所から来て奏上している。その志(こころざし)をむげには出来ない。

将軍に命じて、あらゆる手段をこうじて、共に進軍しよう。雲のように会い、雷のように動いて、ともに新羅のサタクの地に集結して、悪人たちを切って、苦しみを緩和させよう。
有司(つかさ)よ、人質の王子たちを、礼節をもって遣わすように。」などと言いました。

〔王子・豊璋とその妻子と、叔父の忠勝たちを送還する。その出発は7年の記事にみえる。ある本には、天皇は余豊璋を立てて百済王として、塞上(さいじょう)を補佐とし、礼節を持って遣わしたという。〕

12月24日に、斉明天皇は難波の宮に行かれました。天皇は福信の願いを聞き入れて、筑紫に行って、援軍を出そうと思い、まずはここに来て、もろもろの兵器の準備をしました。
                                           (つづく)

余豊璋…舒明3年3月、百済は人質として豊璋をヤマトに奉っていた。



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                                    【日本書紀】

斉明天皇(2)(皇極天皇)
生没(594~661)在位(655~661)

筑紫の朝倉橘広庭の宮


この年(斉明6年)、百済の為に新羅を討とうと決定して、すぐに駿河(するが)の国に命じて船を造らせました。船が出来上がって、続麻郊(おみの)に曳航していった時、その船が夜中に何故か前後(へとトモ)が入れ替わってしまいました。それを見た人々は敗戦の予兆だと思いました。

信濃の国では「蠅が群がって西に向かって巨坂(おおさか)を飛び越えた。その大きさは十人の広げた手で囲むほど。高さは天に届いた。」と言いました。これも救援軍が負ける前兆ではないかと噂しました。

童謡が歌われました。(意味は分かりませんー綾杉)
  まひらくつのくれつれをのへたをらふくのりかりが
  みわたとのりかみをのへたをらふくのりかりが
  甲子とわよとみをのへたをらふくのりかりが

斉明天皇7年の春1月6日に、天皇が乗船された船が西に行って、初めて海路に出ました。
8日に御船は岡山県大伯(おおく)の海を通りました。その時、大田姫皇女(おおたのひめみー中大兄皇子の娘で大海人皇子の妃)が女の子を出産しました。そこでその地名をとって大伯皇女(おおくのひめみこ)と名付けました。

14日に御船は伊予の熟田津(にぎたつ)の石湯行宮(いわゆのかりみや)に停泊しました。
3月25日に御船は航路に戻って那の大津に着きました。磐瀬行宮(いわせのかりみや)に住みました。天皇は名を改めて長津の宮とされました。

夏4月に百済の福信が使者を派遣し、手紙をたてまつって、百済の王子・余豊璋を返してほしいと願いました。(ある本には4月に天皇は朝倉の宮に遷宮されたといいます。)

5月9日に天皇は朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に遷宮されました。この時に朝倉神社の木を切り払って広庭宮を作ったために、神の怒りにふれて雷が落ちて、御殿を壊してしまいました。

また、この宮の中に鬼火が現れました。このせいで大舎人(とねり)や色々な近侍たちが大勢病気になって死にました。
23日に耽羅(たむら)国(済州島)が初めて王子アハギたちを人質として差し出しました。
6月に伊勢王(いせのおおきみ)が亡くなりました。
秋7月の24日に斉明天皇は朝倉宮で崩御されました。(68歳)

8月1日に皇太子・中大兄皇子は天皇の御遺体を磐瀬宮に移しました。この夜、朝倉山の上に鬼が出て、大笠を付けて、喪儀を見ていました。人々は怪しみました。

冬10月7日に天皇の喪船は海路で帰って行きました。途中の湊で皇太子が天皇をしのんで歌を詠みました。
 あなたの目が恋しい。
 こうして舟泊まりしていると、こんなに恋しいとは。
 あなたの目をもう一度見たい。
23日に天皇の喪船は難波に戻って来ました。 
11月7日に天皇の御遺体を飛鳥川原でモガリしました。9日までモガリをしました。

(日本世紀の本には、11月に福信が捕らえた唐人・続守言(しょくしゅげん)たちが筑紫についたという。ある本には、この年に百済の佐平・福信が献上した唐の捕虜106人、近江の国の墾田(はりた)に住まわせたという。その前年にすでに福信は唐の捕虜を献上したとも言っている。ここに異説を書いておく。定めよ。)

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7世紀の地図です。   (高句麗+百済)VS(唐+新羅)
この二年後に白村江の戦いがあります。
百済の福信が日本に来た時期が当時すでに幾つもの説が出てしまって分からなくなっています。
橘広庭宮は三か所ほど候補地が挙がっています。町は須川に石碑を立てています。
磐瀬宮(長津宮)は福岡市の高宮八幡宮付近だと言われています。
            福岡県那珂郡安徳村梶原です。
朝倉でのモガリの宮は朝倉市の恵蘇八幡宮・木の丸殿です。詳細は『ひもろぎ逍遥』に書いています。



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建内宿禰(1)
たけうちのすくね    (武内宿禰・竹内宿禰)
系図・香椎宮・気比宮
【古事記】

〔孝元天皇の巻〕

系図

建内宿禰の父ヒコフツオシの信(マコト)の命です。母は山下影姫です。
(山下影姫は木の国の造(みやつこ)の祖、ウヅヒコの妹)
父には別の妻・葛城のタカチナ姫がいて、子供にウマシウチの宿禰がいます。

この建内宿禰の子供は合わせて9人です。
男7人、女2人。
波多の八代の宿禰。(波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君の祖。)
次に許勢の小柄(おから)の宿禰。(許勢臣、雀部臣、軽部臣の祖。)
次に蘇賀の石河の宿禰。(蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣らの祖。)
次に平群の都久の宿禰。(平群臣、佐和良臣、馬御機連らの祖。)
次に木の角(つぬ)の宿禰。(木臣、都奴臣、坂本臣の祖。)
次に久米のマイト姫
次にノノイロ姫
次に葛城の長江のソツビコ。(玉手臣、的臣、生江臣、阿曇那臣らの祖。)
又、若子(わくご)の宿禰。(江野財臣の祖。)
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〔成務天皇〕

若タラシヒコ天皇(成務天皇)は近淡海の志賀の高穴穂の宮に住んで、天下を治めました。
この天皇は穂積の臣らの祖であるタケオシヤマタリネの娘、オトタカラの郎女(いらつめ)を妻として、生まれた御子はワカヌケの王といいます。(一柱)

建内宿禰を大臣(おおおみ)として、大国小国の国造(くにのみやつこ)を定めて、国々の堺や大縣(おおあがた)小縣の縣主(あがたぬし)を定めました。天皇の御年は95歳。乙卯の年の3月15日に崩御されました。御陵は沙紀(さき)のタタナミにあります。

〔仲哀天皇の巻〕

香椎宮

仲哀天皇は穴門の豊浦野宮、また筑紫の訶志比の宮で天下を治めました。
その大后オキナガタラシ姫の命は当時、神懸かりをされました。
そこで、天皇は筑紫の香椎の宮におわしまして、熊襲の国を討とうとされた時に、天皇が琴を弾いて、建内(たけうち)の宿禰(すくね)の大臣がサニワをして、神のみ言葉を請いました。(サニワとは降りた神が、どなたか、本物か偽物かなどを明らかにする人です。)

オキナガタラシ姫が神を招き寄せて、託宣をしました。
「西の方に国がある。金銀を始めとして、目にも輝くいろいろな珍しい宝が沢山その国にある。私が今その国を帰服させて与えよう。」と言われました。

そこで天皇が答えて申し上げました。
「高い所に登って西の方を見るけれども、国は見えません。ただ、大海があるだけです。」
と言って、
「偽りをいう神だ。」
と言って琴を押し退けて、それ以上お弾きにならず、黙って座ったままになりました。

すると、その神は大変お怒りになって、
「そもそも、この天の下はそなたの治める国ではない。そなたは人間が行かねばならぬ、一本道に向かうがよい。」
と言われました。(一本道とは死への道です。)

そこで、建内の宿禰の大臣が言いました。
「畏れ多いことです。我が天皇、やはりその琴をお弾き遊ばせ。」と。
そこで、そろそろと琴を取り寄せて、生半可(なまはんか)にお弾きになりました。すると、どれほどの時間も経たないで、琴の音が聞こえなくなりました。火をともして見ると、すでに崩御されていました。

そこで驚き懼(おそ)れて、殯宮(もがりのみや)に亡骸を安置しました。神の怒りを解くために、神へのお供え物を捧げ、国中の人々の犯した罪や穢れを払う大祓(おおはらえ)をしました。(罪、穢れとは、生きながら獣の皮を剥ぐ罪、尾の方から剥ぐ罪、田の畔(あぜ)を壊す罪、水路を埋める罪、他(略)です。)

この大祓を済ませると、再び建内の宿禰の大臣がサニワとなって、ご神託を請いました。今度も、神が教え諭す様子は、全く先日の通りで、
「そもそも、この国は、皇后のお腹の中に宿る御子が治める国である。」
と諭されました。

そこで、建内の宿禰の大臣が言うには
「畏れ多いことです。我が大神さま、今お懸かかりになっているお方のお腹に宿る御子は、男御子か女御子か、どちらでしょうか。」
「男御子ぞ。」
とお答えになりました。さらに詳しく尋ねました。

「今、このように教えられる大神のお名前を知りたいのですが。」
と求めると、すぐにお答えになりました。
「これは天照大神の御心ぞ。また、底筒男(そこつつお)、中筒男、上筒男の三柱の住吉大神ぞ。今まことにその国を求めようと思うならば、天の神や地の神、また、山の神、川や海の神々、ことごとく御幣を奉り、私(住吉大神)の御魂(みたま)を船の上に祀り、マキの木の灰をヒョウタンの器に入れ、また、箸と柏の葉で作った皿をたくさん作って、それを皆大海に散らして浮かべて、渡るがよい。」
と言われました。

 そこで、詳しく教えられた通りにして、軍勢を整えて、船を並べて、西の方の国に渡られると、海原の魚、大小を問わず、ことごとく御船を乗せて進みました。その上、追い風も大いに吹いて、御船は波が寄せるのに任せて行きました。その御船を乗せた波は新羅の国に押し上がって、完全に国土の半分まで達しました。

そこで、新羅の国王は恐れをなして、奏上しました。
「これからは天皇の命令に従って、御馬を飼育する者となって、毎年、貢物(みつぎもの)を載せた船を何艘も出して、船の底が乾く間もないようにします。棹(さお)や舵(かじ)が乾く間もないように、天地の運行がとどまることのないのと同じように、お仕えしましょう。」と申し上げました。

そう言う事で、新羅の国は御馬を飼育する部曲と定めて、百済の国は海外の直轄地と定めました。そして、御杖を占有権を表す印として、新羅王の門に突き立てて、住の江(すみのえ)の大神の荒御魂(あらみたま)を新羅を守護する神として祭り鎮めて、日本に戻られました。

 ところが、その政(まつりごと)が終わらない内に、腹の御子がお生まれになろうとしました。そこで、子供が生まれないようにと石を取って御裳の腰に巻いて、筑紫の国に渡って、その御子はお生まれになりました。
そこで、その御子がお生まれになった所を名づけて、「宇美」(うみ)といいます。

 その御裳に巻きつけた石は筑紫の国の伊斗(いと)村にあります。また、筑紫の末羅縣(まつらのあがた)の玉島の里に着いて、その河のほとりでお食事をされました。

四月の上旬でした。そこでその河の中の石がごろごろした所で御裳の糸を抜き取って、飯粒を餌にして、その河のアユを釣りました。
 この故事から、四月の上旬になると、その土地の女の人たちは裳の糸を抜いて、飯粒を餌にしてアユを釣ることが今に至るまで、続いています。
            

皇位争い
 

さて、オキナガタラシ姫の命はに御帰還される時に、人々が忠誠心を持っているかどうか疑わしいので、喪船(もふね)を一艘仕立てて、御子をその喪船に載せて、先に「御子は既に亡くなられた」と言い洩らさせました。

 こうして倭に向かう途中、御子の異母兄弟に当たる香坂(かごさか)の王忍熊王(おしくま)の王が待ち受けて討ち取ろうと思って、斗賀野(とがの)に進み出て、ウケイ(占い)の狩をしました。

香坂の王がクヌギの木に上って座って見ると、大きな怒った猪が出て来て、そのクヌギの木の根を掘って倒し、その香坂の王を食い殺しました。しかし、その弟の忍熊の王はこのウケイの大凶の結果を畏れずに、軍勢を引き連れて、船を待ちました。

 先頭を行く喪船は空の船なので、まずそれを取ろうと攻めかかりました。すると、喪船から隠れていた兵士たちが出て来て、戦いになりました。

 この時、忍熊の王は難波の吉師部(きしべ)の祖先の伊佐比の宿禰を将軍とし、皇太子の軍勢は丸邇(わに)の臣(おみ)の祖先の難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)の命を将軍としていました。

 建振熊の命が忍熊の王の軍を追撃して山代まで行った時、忍熊の王の軍は態勢を立て直し、互いに退かずに、戦いになりました。

 そこで、建振熊の命がはかりごとをして、敵に伝えました。
「オキナガタラシ姫の命はすでに亡くなりました。だから、これ以上戦う理由が無い。」
と、伝令に言わせると、弓の弦を断ち切って、偽って服従しました。

 敵将軍はその嘘を真に受けて、弓の弦をはずし、武器を収めました。 
すると、建振熊の命は頭の上で束ねた髪の中から、仕込んでおいた弦を取り出し弓に張り、追撃をしました。

忍熊の王は逢坂に逃げ退いて、そこで応戦しました。
建振熊の命はさらに追い攻めて、沙沙那美で打ち破り、ついに軍勢に切り込みました。

忍熊の王と伊佐比の宿禰は共に追い攻められて、船に乗って海上に逃げて、歌を詠みました。
  さあ、お前。
  振熊のやつが痛手を負わないのなら、
  カイツブリが水に潜るように、
  我々が淡海の湖(琵琶湖)に潜ろうではないか。
と詠むと、そのまま湖に入って、共に死にました。
           
気比の大神

さて、建内の宿禰の命はその皇太子を連れて、みそぎをしようとして、淡海や若狭の国へ行った時、越前の国の角鹿(つぬが)に仮宮を造って滞在されました。

すると、その地の神イザサワケの大神の命が夢に出て来て、言われました。
「我が名を、御子の御名と交換したいと思う。」
そこで、建内の宿禰は言祝いで(ことほいで)言いました。

「畏れ多いことでございます。お言葉の通りに変え奉ります。」
と申すと、さらに大神が言われました。
「明日の朝、浜辺に行きなさい。名を交換したしるしの贈り物をしよう。」
そこで、翌朝、浜に御子が行かれると、
鼻が傷ついたイルカが浜辺全体に打ち上げられていました。

 御子が言われました。
「私に大神の食べ物の魚をくださった。」と。
こうして、大神の御名を称えて、ミケツの大神と名をお付けになりました。これから、今でも気比(けひ)の大神と言います。また、そのイルカの鼻の血の匂いが大変臭かったので、そこを血浦(ちうら)と言います。今は都奴賀と言います。

それから、再び都にお戻りになった時に、母君のオキナガタラシ姫の命は無事を祈って作る待酒(まちざけ)を造って献上しました。そして、歌を詠んでいわく、
  この御酒は私の作った御酒ではありません。
  酒でも極上の酒です。
  常世の国にいらっしゃるスクナビコナの神が
  祝福して、狂わんばかりに祝福し、
  豊かであるように祝福し、祝福し尽くして、
  出来上がった御酒ですよ。
  盃を空にせずに、お飲みなさい。
  ささ。
とお歌いになりました。こうして、大御酒をたてまつりました。

そこで、建内の宿禰の命が御子の代わりに答えて歌いました。
  この御酒を造った人は
  その鼓を臼の横に立てて歌いながら、造ったんだなあ。
  舞いながら造ったんだなあ。
  この御酒の、御酒のやたら楽しい事よ。
  ささ。
これは「酒楽」(さかくら)の歌といいます。オキナガタラシ姫は御年、百歳でお亡くなりになり、狭城の楯列(たたなみ)の陵(みささぎ)に埋葬されました。      


「神功皇后」の方では一部、不自然なところは日本書紀を参考にして、書き換えましたが、この「建内宿禰」では、出来るだけ、原文に添って訳しました。
主に違う所は、喪船の時に死んだのは皇太子と古事記ではなっていますが、日本書紀では天皇と成っています。
(つづく)


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建内宿禰(2) 
 
髪長姫


〔応神天皇の巻〕

応神天皇は日向の国の諸県(もろがた)の君の娘、髪長姫の容貌が
美しいとお聞きになって、そばで使おうとお召しになった時に、
その皇太子の大雀(おおさざき)の命が、
その乙女を乗せた船が難波津に泊まっていた時にご覧になって、
その美しさに心動かされて、建内宿禰の大臣にあえて言いました。
「この日向から召しあげた髪長姫は、天皇にお願いして、
私に下さるようにしてくれ。」
と。
そこで建内宿禰の大臣は天皇にお許しを願い出ると、
天皇は即座に髪長姫を皇太子にお与えになりました。

その時のようすは、天皇が宴をされる日に、
髪長姫に杯の代わりの柏葉を持たせて、その皇太子に授けました。

その時、歌を詠まれました。

  さあ、お前たち、ノビルを摘みに行こう。
  ノビルを摘みに行く我が道はミカンの花の香のなんとかぐわしい事よ。
  ミカンの花は上の枝は鳥がとまって食いつまんでしまい、
  下の枝は人が取ってしまった。
  残った中の枝の花のめしべがほんのりとふくらんで色付いて行くように、
  ほんのり赤くなった肌の乙女を、
  さあ、私の酒を受け取ったら、そなたに与えてよろしい。

と詠まれました。また、

  水がたまった依網(よさみ)の池で、
  杭打ちの者がすでに杭を挿しこんだのも知らないで。
  きれいな沼に生えるジュンサイをたぐりよせて、
  手を伸ばしたのも知らないで。
  子どもの気持ちも気付かないほど、いやあ、私が愚かだったのが残念だ。

と歌われました。そう歌を詠みながら、乙女を皇子に授けました。

こうして、乙女を頂いたあと、皇太子は歌いました。

  遠い国のコハダの乙女の、
  その美しさは雷が鳴りひびくように、評判が聞こえていたが、
  こうして、枕を交わして共に寝る事ができるとは。

と詠みました。また、歌いました。

  遠い国のコハダ乙女は
  父と争わずに寝る事が出来るのは、
  なんと愛しいことよ。

と歌いました。

                                       (つづく)

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建内宿禰(3)

雁の卵の本岐歌 
 
〔仁徳天皇〕

ある時、仁徳天皇が豊楽(とよのあかりー酒宴)をしようとして、
ヒメ島に出かけられた時、その島で雁(かり)が卵を産みました。

そこで建内宿禰を召して、歌を詠んで、
雁が卵を産んだ事についてお尋ねになりました。
   内(ウチ)の出身の朝臣(あそん)よ。 
   あなたこそ 世の長生きの人です。
   ヤマトの国に 雁が卵を産むなんて 聞いた事がありますか。

そこで建内宿禰は返歌で語りました。
   空高く光る 日の御子よ。
   なるほど、お尋ねになるのもごもっともです。
   まことに よくお尋ねになりました。
   私こそは 世の長生きの人です。
   ヤマトの国で 雁が卵を産んだことは まだ聞いた事がありません。

と申し上げました。それから、御琴を受け取って(神招きして神託を受けて)歌を詠みました。
   あなたの御子が 跡を継いで末永く天下を治めるであろう
   と、(瑞祥として)雁が卵を産んだようです。
と歌いました。これは本岐歌(ほきうたー寿歌)の片歌です。


建内宿禰のあらまし (古事記)

孝元天皇   建内宿禰の祖父に当たる。
開化天皇   建内宿禰の叔父に当たる。
崇神天皇
垂仁天皇
景行天皇
成務天皇   大臣になる。
仲哀天皇   筑紫・香椎宮にて審神者をする。天皇の崩御に立ちあう。
応神天皇   幼時に補佐する。禊のために気比へ連れて行く。
         仁徳天皇が皇太子の時に、髪長姫との仲を取り持つ。大臣。
仁徳天皇   日女島にて琴を弾いて本岐歌を詠む。


〔系図〕 
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ウチシコオウチシコメは兄妹です。
孝元天皇ウチシコメとその姪のイカガシコメを妻にしています。
そのため、天皇家も建内宿禰も同じウチの系統になります。

建内宿禰の年齢はどうでしょうか。
古事記だけを見ると、長生きではあっても、
300歳を数える事はないように見えます。

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                    ★日本書紀版です。読み方は「たけしうち}です。

武内宿禰(4)
たけしうちのすくね
孝元天皇から仲哀天皇崩御まで


【日本書紀】

〔孝元天皇〕

7年の春二月の丙寅(ひのえとら)の朔丁卯(ひのとうのひー2日)に、
孝元天皇ウツシコメの命を立てて皇后としました。
后(きさき)は二人の男、一人の女を生みました。
第一をオオビコの命と言います。
第二をワカヤマトネコヒコオオヒヒの天皇と言います。
第三をヤマトトト姫の命と言います。
(ある本にはこの姫の父は天皇の同母弟スクナヒコオの命と言います。)

妃(みめ)イカガシコメの命ヒコフツオシノマコトの命を生みました。
次の妃(みめ)河内のアオタマカケの娘の埴安姫
タケハニヤスビコの命を生みました。
兄のオオビコの命は阿倍(あべ)の臣・膳(かしわで)の臣、アへの臣、ササキの山の君、筑紫の国の造・越の国の造・伊賀の臣、すべて七族の始祖です。
ヒコフツオシノマコトの命は、武内宿禰の祖父です。

〔景行天皇〕


3年の春二月の庚寅(かのえとら)の朔(ついたち)に、景行天皇
紀伊の国に出かけて、もろもろの神祇を祝い祀ろうとして、占いましたが、
吉ではありませんでした。そこで、行幸は中止になりました。

ヤヌシオシオタケオココロの命を代わりに遣わして祭祀させました。
ヤヌシオシオタケオココロの命が詣でて、阿備(あび)の柏原に行って、
神祇を祝い祀りました。そこに9年間住みました。
その時、紀の直(あたい)の遠祖ウヂヒコの娘の影姫を娶って、
武内宿禰が生まれました。

25年の秋、7月の庚辰(かのえたつ)の朔壬午(みずのえうま―3日)に、
武内宿禰を遣わして、北陸および、東方の国々の地形、また人民の消息を
視察させました。

27年の春2月の辛丑(かのとうし)の朔壬子(みずのえのねー12日)に、
武内宿禰は東国から帰って来て奏上しました。
「東(あづま)の田舎の中に、日高見の国があります。
その国の人は、男女とも髪を椎(つち)のような形に結って、
からだに入れ墨を入れて、ひととなりは勇ましく、たくましく見えます。
これをみな蝦夷(えみし)と言います。また土地が肥沃で広いです。
攻撃して取るのがよろしい。」と言いました。

秋8月に熊襲がまた背いて、辺境を侵しました。

冬10月の丁酉(ひのととり)の朔己酉(つちのととりー13日)に、
日本武尊(やまとたけるのみこと)を遣わして、熊襲を撃たせました。
その年16歳。

51年の春正月の壬午(みずのえうま)の朔戊子(つちのえね―7日)に、
景行天皇は群臣たちを召して宴(とよのあかり)を数日されました。
その時、皇子のワカタラシヒコの尊と武内宿禰は宴の庭に参内しませんでした。
天皇は召してその訳を尋ねました。
そこで奏上したのは、
「このような宴楽の日には、群臣百寮はきっと心が遊びごとでいっぱいで、
国家の事が疎かになります。もし、狂った人がいて、警備の隙を突く事が
あったらいけないと、門の所に伺候して、非常の事態に備えていました。」
と。
その時、天皇が言いました。
「これはあっぱれ。」と。そう言う事で武内宿禰を寵愛しました。

秋8月の己酉(つちのととり)の朔壬子(みずのえねー4日)に、
ワカタラシヒコの尊を立てて、皇太子となさいました。
この日に、武内宿禰を棟梁の臣(むねはりのまえつきみ)とされました。

〔成務天皇〕


3年の春正月の朔癸酉(みずのとりー7日)に、
武内宿禰を大臣(おおおみ)とされました。
もともと成務天皇と武内宿禰とは同じ日に生まれました。
それで特に寵愛されました。

〔仲哀天皇〕


9年の春2月の癸卯(みずのとのう)の朔丁未(ひのとのひつじー5日)に、
仲哀天皇は急に病に倒れて、翌日崩御されました。
その時52歳。神の言葉を受け入れなかったために早く亡くなったのでした。
ある本には仲哀天皇がみずから熊襲を討って、敵の矢に当たって
崩御されたといいます。
神功皇后と大臣武内宿禰は仲哀天皇の喪を隠して、天下に知らせませんでした。
そうして、皇后は大臣と中臣の烏賊津の連(むらじ)、大三輪の大友主の君
物部のイクヒの連、大友のタケモツの連に、
「今、天下はまだ天皇が崩御された事を知らない。
もし群臣・人民が知ったら、戦意を喪失するであろう。」
と言われました。
そこで四人の大夫に命じて、百寮を率いて宮中を守らせました。

ひそかに天皇の屍(しかばね)を収めて、武内宿禰に命じて
海路で穴門の宮に遷しました。
こうして豊浦の宮で殯(もがり)をして、灯火を付けずに
御霊をあげる儀式をしました。
甲子(きのえねー22日)に大臣武内宿禰は穴門から戻ってきて、
皇后に帰還を報告しました。
この年は新羅の役のために、仲哀天皇の葬儀が出来ませんでした。
                               (つづく)


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スペルボーン(Spellborn)