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 夢に出て来た女性です。神功皇后かな。


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玉依姫            宝満神社 

 玉依姫は海の神さま大綿津見(おおわたつみ)の神の娘です。
姉の豊玉姫(とよたまひめ)と共に綿津見の宮に住んでいました。
姉の豊玉姫が日の御子のホオリノミコトと結婚してから、
三年でホオリノミコトが地上に戻りました。

姉の豊玉姫も後を追って綿津見の宮を離れました。
子供を出産するためです。

ところが、子供を生み終えると、姉上は一人で
綿津見の宮に戻って来ました。
出産するときに本来の姿を見られてしまったために、
帰って来てしまったのです。

姉上はこちらに帰って来たものの、夫が恋しく、
また残して来た子供が気がかりです。
そこで、妹の玉依姫が子供の養育係として、行く事になりました。

 こうして葦原の国に行った玉依姫は
姉の子のウガヤフキアエズノミコトを育てました。
そして、この子が成人すると、二人は結婚をしました。
二人は伯母と甥にあたります。

二人の間には四人の子供が生まれました。
子の名は五瀬命(いつせのみこと)。
稲氷命(いなひのみこと)。
御毛沼命(みけぬのみこと)。
若御沼命(わかみけぬのみこと)です。

長男のイツセノミコトは一番下のワカミヌノミコトと共に、
この国を出て、東に新たな国を作るために出かけて、途中で戦死しました。

二番目の子、イナヒノミコトは亡き母の国へと海原にお入りになりました。

三番目の子、ミケヌノミコトは波頭を踏んで常世(とこよ)の国に行きました。
そこは不老長寿の国と言われています。

一番下のワカミケヌノミコトは別名、トヨミケヌノミコト、また
カムヤマトイワレビコノミコトとも言います。

イワレビコノミコトは兄のイツセノミコトと共に日向を出て、
東に向い、大和を平定して、
初代の天皇になりました。神武天皇と言います。

           (古事記 ウガヤフキアエズの命の巻より)

こうして、玉依姫は初代天皇の母として敬愛を受ける事になりました。
ここまでが神の代となります。

ウガヤフキアエズの命が生まれた時の様子は豊玉姫を見て下さいね。
また、神武天皇の結婚はイスケヨリ姫を見て下さい。

伝承を訪ねて 
竈門神社(かまどじんじゃ)福岡県太宰府市宝満山
玉依姫はここで我が子の東征の成功を祈ったと伝えられます。
縁結びの神様として親しまれています。

宝満神社 (通称『宝満宮』)   福岡県大野城市山田
玉依姫は旧中村という所で亡くなられました。
墓所もここにあると伝えられます。
この地を今でも御陵と言い、御陵中学校の名の由来になっています。
しかし、 度重なる洪水のために現在地の山田に移転しました。
玉依姫命は、宝満山の頂に坐して水分神(みくまりのかみ)となり、
この地方一帯の水を支配されたという事です。

天皇家の母としての玉依姫
ずっと後の世に景行天皇がクマソ征伐に来た時に、
ここに来てお参りをしています。

また、それから時代が下がって、再びクマソが反抗するので、
神功皇后が九州に来ました。
しかし急きょ新羅を攻める事になったので、
神功皇后はこの玉依姫の神廟に来て戦勝を祈りました。
この時、玉依姫命が現れて
「そなたと姉妹の契りを交わしましょう。」
と、神功皇后に約束したそうです。

こういう事で、神宮皇后と玉依姫命が一緒に祀られている神社もあります。
後の世までこうして慕われました。

またさらに後の世、心蓮上人(しんれんしょうにん)が宝満山に籠もって
修業している時にも玉依姫命が現れたという事です。


宝満山の頂上に山の神でなく、海神の女神が祀られているのが
ずっと不思議だったのですが、水分の女神として、
人々に恵みを与えていたのですね。
この頂上からは玉依姫の故郷の海が見えます。
あれっ、すると、神武天皇はここで育った?

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木花之佐久夜毘賣       

 ニニギノ命は笠沙の御崎(かささのみさき)で、
美しい乙女にたまたま出会いました。
「そなたは誰の娘か?」
と尋ねるので、
「大山津見の神の娘です。名前はカムアタツヒメ。
またの名をコノハナノサクヤビメと言います。」
と答えました。

ニニギノ命はさらに尋ねました。
「そなたには兄弟がいるのか。」
「姉のイワナガヒメがいます。」
と答えました。
「私はそなたと共寝をしたいのだが、そなたはどうだ。」
とおっしゃったので、
「私は答えられません。父上の大山津見の神が返事を申し上げるでしょう。」
と乙女は答えました。

 そこでそのニニギノ命の人は結婚の申し出をするために、
供の者を遣わしました。
大山津見の神は大変喜んで、姉のイワナガヒメを添えて、
数多くの持参品を持たせて、二人の娘を差し出しました。

その姉のイワナガヒメは醜かったので、ニニギノ命は恐れをなして、
親元に送り返しました。
その妹のコノハナサクヤヒメだけを留めて、一夜共寝をしました。

 一方大山津見の神はイワナガヒメが送り返されたのを恥じて、
ニニギノ命に申し送りました。
「わが娘二人を一緒に差し出したのは
イワナガヒメをお側に仕えさせたら、これから天孫代々の御子さまたちの命は、
雪が降っても、風が吹いても、常に岩のように永遠にどっしりと動かずに
おられますようにとの事です。

また、コノハナサクヤヒメを仕えさせれば、木の花が咲き誇るように
栄えて戴きたく、神の占いをして差し出しました。
ところがこのようにイワナガヒメだけを返して、
コノハナサクヤヒメ一人留められました。

だから、天つ神の御子のお命は、木の花がはかないのと同じようになるでしょう。」
と。
これが原因で、今に至るまで、天皇家の方々のお命は
神代のようには長くはならなくなりました。

 さて、この後、コノハナサクヤヒメがニニギノ命の宮に出かけて行って
申し上げました。
「私は妊娠しました。もう、出産まぢかです。
この天つ神の御子は、こっそりと生むわけにはいきません。
それで、こうやって申し出ました。」

それを聞いて、ニニギノ命は
「サクヤヒメよ。一晩で身籠ったというのか。それは私の子ではあるまい。
だれか、国つ神の子にちがいあるまい。」
とおっしゃいました。

コノハナサクヤヒメは、そう言われて、
「私が身籠った子がもし国つ神の子ならば、生んでも無事ではないでしょう。
もし、天つ神の御子ならば、無事でしょう。」
と言って、すぐに出入り口のない八尋殿を作って、中に入り、土で塗り塞ぎました。

 いよいよ生む時になって、火を付けて生みました。
その、火が盛んに燃える時に生んだ子の名は火照命(ほでりのみこと)。
次に生んだ子の名は火須勢理命(ほすせりのみこと)。
次に生んだ子の名は火遠理命(ほをりのみこと)。
またの名を天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)と言います。

(古事記 木花佐久夜毘売の巻)

この最後に生まれたホヲリノミコトが後に豊玉姫と出会う事になります。
つづきはサイドパーのカテゴリの「豊玉姫」からどうぞ。


ニニギノ命は何故妻を疑った?

古代の夫婦は別居からスタートしていました。

当時は妻問い婚といって、夫が妻の家に夜になって通っていました。
朝になると、自分の家に帰ります。
ですから、夫が妻の所に通わなくなって、他の男が通うようになっても
夫には分かりません。

また、妻の方から見ても、夫が自分以外の女の所に通っても
妻にはわかりませんでした。

このお話では、コノハナサクヤ姫とイワナガ姫の二人は一緒に
ニニギノ命の宮に参内しました。
ニニギノ命はイワナガ姫をすぐに返されて、
木花佐久夜姫だけを残したのですが、それも一夜だけの契りでした。
その後は実家に戻ったのでしょう。
それから10か月経って姫自身が、妊娠を告げるために
出かけていったのです。

このような事情から、ニニギノ命はコノハナサクヤ姫の懐妊の相手を
疑ったのでしょう。

 それにしても、夫から「他の国つ神の子だろう」と言われれば、大問題です。
それをコノハナサクヤ姫は産屋に火を放つという、
女神にしか出来ない激しい方法で証明してみせます。


何故、親は二人の娘を差し出したの?

当時は姉妹が一緒に嫁ぐ風習がありました。

古代は一夫一婦制ではありませんでした。
この二人のように貴人に姉妹を差し出すケースはいくつもみられます。
女性が子供を産んで亡くなるケースもあるし、
子供が小さいうちになくなることも多かった筈です。
共に育ててくれる姉妹を差し出すのも、子孫を残すための知恵だったのかもしれませんね。

兄弟と姉妹とダブルで結婚することもありました。

アジアに残る二夫一婦制

アジアに二夫一婦制の暮らしがあるのをテレビで見ました。
一人の妻に夫が二人です。
二人の夫は兄弟でした。
兄が遠くに羊を売りに行く間、弟と妻が留守を守っていました。

山の中の人口の少ない中で、妻を残して長い旅をする間に、
妻と家畜を守る男が必要です。
それが弟なら一番安心です。

このケースは日本の古代社会を理解する上で大いに役立ちました。

結婚は何歳ぐらいでしたの?

奈良時代の史料では結婚適齢期は男子17~8歳。女子13歳ごろです。
今なら中学生の女の子と高校生の男の子が結婚するくらいの年です。
出産は20歳頃が中心だそうです。


伝承のある神社
此花咲耶姫神社   佐賀県基山町大字園部字古屋敷

ニニギノ命とコノハナサクヤ姫が結婚したという契山(ちぎりやま)があります。

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沙本毘賣 

 サホ姫が垂仁天皇(イクメイリビコイサチの命)のお后となってから
三年がたった時の話です。

同母兄弟のサホビコの王がサホ姫に言いました。
「夫である帝と兄の私とどちらが愛しいかな。」
「お兄さんよ。」
とサホ姫は答えました。

すると、兄のサホヒコは謀り事をして言いました。
「そなたが本当に私を愛しいと思うなら、私とそなたで天下を取ろう。」
と言って、何度も鍛えて鋭利になった紐小刀(ひもこがたな)を、
妹に持たせて言いました。
「この小刀で、帝が寝ていらっしゃる時に刺して殺しなさい。」と。

 さて、帝はこの暗殺計画を知らないで、サホ姫の膝枕で寝ていました。
そこで、サホ姫は紐小刀を取り出して、首を刺そうとして、
三度も振り上げたけれども、悲しすぎて、刺す事が出来ませんでした。
涙があふれて来て、帝のお顔に落ちました。

すると、帝はびっくりして起き上がって、サホ姫に言いました。
  「変な夢を見たよ。沙本(さほ)の方から激しい雨が降って来て、
  急に私の顔にも降り注いだ。
  それから、錦色の小さな蛇が私の首にまとわりついた。
  こんな夢は何かの前兆かもしれないな。」

これを聞いてサホ姫は隠し立ては出来ないと思って、帝に告白しました。
  「私の兄のサホビコの王が私に言いました。
  『夫と私とどちらが愛しいか。』と。

  面と向かって聞かれたので、気おくれがして、
  私は『兄の方が愛しい』と答えてしまったのです。
  そして、私を誘いこんで、言いました。
  『私とそなたと共に天下を治めよう。だから帝を殺せ。』と。

  そしてこの紐小刀を渡したのです。
  私は帝のお首を刺そうと思って、三度も振り上げたのですが、
  かなしくて、そんな事は出来ません。
  涙が帝のお顔に落ちてしまいました。
  帝の夢はきっとこの事でしょう。」と言いました。
帝は「私はすんでの所で裏切られる所だったのか。」と驚きました。

 帝はただちに軍勢に命じて、サホビコの王を攻撃しました。
サホビコの王の方は、備蓄用の稲を積み上げて、
防塁として対戦しました。
その時、サホ姫は兄の心を思うと、耐えられず、
御所の後ろの門から逃げ出して、兄の陣営に入りました。

 この時、サホ姫はすでに妊娠していました。
帝はサホ姫が身重で心配な上に、三年も愛し合ったので、
サホ姫を失う訳にはいきません。

 そこで、軍勢にはサホビコの王の家を取り囲ませるだけで、
急襲しないように命じました。
こうして、戦が長引いている間に、サホ姫の子供が生まれました。

そこで、サホ姫は子供を防塁から外に出して置いて、帝に伝言を頼みました。
  「もし、この子を帝の御子だと思われるなら、育てて下さい。」と。

帝はそれを聞いて、
  「その兄を恨んではいるが、今でもサホ姫への思いを断ち切る事は出来ない。」
と言われました。そうして、お后を取り返そうと思われました。

そこで、兵士の中で力があって、軽快に動く者を選び抜いて、
集めて言われました。
  「御子を受け取る時に、一緒にその母上も奪い取るように。
  髪でも手でも何でもいいから、掴んで引っ張って連れて来るように。」と。

 しかし、お后のサホ姫は帝のお気持ちを察して、髪を剃って、
その髪でかつらを作って、かぶり、また玉の腕輪は糸を弱るように腐らせて
三重にまきました。
また、酒で衣(ころも)を腐らせて、見かけは普通の衣のようにしました。
こうして、準備をして、御子を抱いて、防塁の外に差し出しました。

 その時、選りすぐりの兵士たちが、御子を受け取ると、
お后も掴んで引っ張りだそうとしました。
しかし、髪を掴むとひとりでに落ち、手を取ると腕輪がちぎれ、
衣を掴むと、破れてしまいました。
こうして、御子は取り戻せても、お后は取り戻せませんでした。

兵士たちは帰って来ると、
  「お后さまのみぐしは抜け落ち、お衣はすぐに破れ、
  み手に巻かれた腕輪もすぐにちぎれました。
  ですから、お后さまは連れて来れず、御子だけをお連れしました。」
と報告しました。

 帝は、お后を失った事を後悔し、腕環に細工をした者たちを恨んで、
その私有地を没収されました。
こうして、「所を得ぬ玉造り」(褒美を貰おうとして、逆に持っている物を失う)
ということわざが生まれました。

帝はなおもサホ姫に言いました。
  「大体、子供の名前は必ず母親が付けるものなのに。
  なんとかこの子の名前を言ってくれ。」と。

そこでサホ姫は答えました。
  「稲で作った防塁が焼かれる時に、火の中でお生まれになりました。
  ですから、お名前はホムチワケの御子と付けて下さい。」と。

帝はさらに言いました。
  「どうやってこの子を育てたらいいと言うのか。」と。
  「乳母(うば)を付けて、湯浴みをさせる大湯座(おおゆえ)、
  若湯座(わかゆえ)を決めて、お育て下さい。」
帝はサホ姫の申し上げた通りにお育てになりました。

帝はまた、尋ねました。
  「そなたが愛を誓って、結んでくれた下着の紐は
  いったい誰が解くと言うのか。そなたしかいないのに。」
と言われると、こう答えました。
  「丹波のヒコタタスミチノウシノ王の娘にエヒメ、オトヒメという
  お二人のヒメみこが、心清らかな人たちです。
  その二人をお召し下さい。」と。

 この後、ついに、帝はサホヒコの王を攻めて殺されたので、
妹のサホ姫も後を追いました。

 帝は忘れ形見のホムチワケの命を可愛がり、
尾張の国の会津の二股杉で二股の小船を作らせて大和に運ばせ、
イチシノ池、カルノ池に浮かべて、二人で乗って遊んだそうです。

また、言われた通りに丹波の姉妹をお召しになりました。


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何故サホ姫は兄の言いなりになったのでしょうか?

これを解くカギは古代の結婚制度にあります。
当時は母系社会で、妻問い婚でした。
夜になると、夫は妻の元に出かけ、朝になると自分の家に戻りました。

垂仁天皇の場合、サホ姫は天皇のお側に召されていますが、
サホ姫亡き後の后の数は6人です。御子の数は16人。。
この時代に天皇家でこれだけの后を同居させた訳ではないと思います。

后たちはそれぞれ実家と宮を行き来したと考えられます。

子供の名前は実家で付けていたという事情が、
帝の「大体、子供の名前は必ず母親が付けるのに。」という言葉で分かります。

こんな母系社会の時代ですから、
サホ姫の場合も、気持ち的には実家の人間だったと思うのです。

次の時代の平安時代になっても、まだ通い婚が基本です。
しばらくしてから、婿取りという形式が出てきます。
「舅(しゅうと)に気に入られる婿(むこ)はまずいない」という話も残っています。

女性が夫の家に嫁ぐ(とつぐ)という風習は江戸時代になってからです。
今の常識から古代を見ると、不思議な感じですね。

話を戻しましょう。

サホ姫も月のものが来ると、実家に戻ったことでしょう。
そうすると、実家の親や兄と顔を合わせます。

クーデターを起こせば、政権を取れる時代です。
実家がそれを狙えば、サホ姫は拒否出来ない立場でした。

サホ姫は政略結婚で嫁いだのかも知れませんが、帝と純粋に愛し合って、
板挟みになったと思われます。
その苦しみが、流す涙になりました。

しかし、実家の謀反を明かした以上、運命は兄と共にある事を、
サホ姫は誰よりも知っていました。
そんなサホ姫を救いたくて、あれこれと尋ねる帝の純情が読む人の心を打ちます。

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伊須気余理比賣 

 神武天皇の名前はカムヤマトイワレビコノ命と言われます。

このイワレビコノ命が、まだ日向(ひむか)に居られた時に、
アタのオバシの君(きみ)の妹、アヒラ姫を妻としました。
その二人の間に生まれた御子はタギシミミノ命とキスミミノ命です。

しかし、更に大后(おおきさき)にふさわしい美人を捜す事になりました。
その時、大久米命(おおくめの命)が申し上げました。

「この近くに良い娘がいます。この娘は神の子と言います。
三島のミゾクイの娘でセヤダタラ姫という人がとても美しい方で、
三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)が見染めたそうです。

その姫が川の上に作った厠(かわや)に行って、用を足していると、
大物主神は、赤く塗った丹塗りの矢になって、川から流れて来て、
その人のホト(女陰)を突きました。
その姫は驚いて、逃げてイススキ(狼狽)しました。

その矢を床の所に置くと、たちまちに麗しい男になって、
セヤダタラ姫を妻にしました。
こうして生まれたた子供の名前はホトタタライススキヒメの命と言い、
また、ヒメタタライスケヨリ姫とも言います。
(これはホトという言葉を嫌って後に名前を改めました。)
こう言う事で神の御子と言うのです。」

                 * * *

ある日、七人の乙女たちが高佐士野(たかさじの)で、
野遊びをしている中に、イスケヨリ姫がいました。

大久米の命が、イスケヨリ姫を見つけて、
歌を作って、イワレビコの命に言いました。

  「倭(やまと)の高佐士野を 七人の乙女たちが通って行きます。
  あなたはいったい誰と共寝をしますか。」

その時、イスケヨリ姫は一番前に立っていました。
イワレビコノ命はその乙女たちをご覧になって、
  (イスケヨリ姫は一番前に立っている人だろう)と思って、
歌で返事をされました。

 「まあそうだな。一番前に立っている可愛い人と共寝をしよう。」

そこで、大久米の命はイワレビコノ命のお気持ちを
イスケヨリ姫に伝えました。

イスケヨリ姫はその大久米の命が目の周りに入れ墨をして
鋭い目に見えるのを見て、変わってるなあと思って、
歌にして、返事をしました。

  「つばめ、せきれい、ちどり、ほおじろ。それにあなた。
   どうしてそんなに縁取りのくっきりとした目なの。」

それを聞いて、大久米命も歌を返しました。

  「ただ、あなたに会いたいと、探し求めて大きな目になりました。」

その歌の意を汲み取った乙女は「お仕えしましょう。」と言って、
お后になる事を承知しました。
イスケヨリ姫の家は狭韋河(さいがわ)のほとりにありました。

イワレビコノ命はイスケヨリ姫の元にお出ましになって、
一夜、共寝をなさいました。

その川を狭韋河と言う訳は、その川辺に山百合の花が
たくさん咲いていたからです。
サイとは山百合の花の事です。

のちに、イスケヨリ姫が入内された時に、
イワレビコノ命が歌を詠まれました。

「葦がいっぱい生えている所の、粗末な小屋で、
菅で編んだ敷物を清らかに敷いて、私とそなたと一緒に寝たなあ。」

そうして、生まれた御子の名前は
日子八井命(ヒコヤイノ命)。
次に神八井耳命(カムヤイミミノ命)、
次に神沼河耳命(カムヌナカワミミノ命)の三人でした。
 
* * *

 月日が経って、イワレビコノ命がお亡くなりになりました。
亡くなってからの名前を神武天皇といいます。

すると、その長男のタギシミミノ命(アヒラ姫の御子)が、
遺された大后のイスケヨリ姫を、妻にしました。
自分の父親の妻を自分の妻にしたのです。

 その後、腹違いの弟に当たる、イスケヨリ姫の三人の御子たちを
殺そうと計画しました。
それを知った、イスケヨリ姫は苦しんで、
歌を送って何とか知らせようとしました。

  「狭井河よ。雲が湧き起こっています。
  畝傍山(うねびやま)の木の葉がざわざわと騒いでいます。
  風が吹こうとしています。」
    (狭井河のほとりで育った私の子供たちよ。
    怪しい雲が湧き起こっています。
    畝傍山を象徴するお方の周りの木々が
    ざわざわと騒いでいます。
    風が吹こうとしています。気を付けて下さい。)

そう歌を作ると、もう一つ付け加えました。

 「畝傍山は昼間は雲が湧き起こっています。
 夜になると、風が吹くでしょう。
 木の葉がざわざわと騒いでいます」
     (畝傍山を象徴するお方は昼間は雲が湧いているだけですが、
      夜になると、風が吹きます。
      その前兆で木の葉がざわざわと騒いでいます。)

 母のイスケヨリ姫の歌を受け取って、
その意味を理解した三人の子供たちは驚きました。
「異母兄弟のタギシミミノ命は、母上と結婚した上に、
お世継の継承権がある、自分たちを殺そうとしている。
それなら殺される前に、殺してしまおう。」
と三人は相談しました。

 末っ子の神沼河耳の命が、二男の神八井耳の命に言いました。
「なあ、兄上。兵士たちを連れて、タギシミミノ命を殺して下さい。」

そこで、神八井耳の命は武器を持って押し入り、タギシミミノ命を
殺そうとした時に、手足がわなわなと震えて、殺す事が出来ませんでした。
すると、弟の神沼河耳の命が、兄の武器を「わたしに下さい。」と言って、
取って、中に入って殺しました。

 それから、弟の神沼河耳の命の武勇を称えて、建沼河耳の命
(たけぬなかわの命)と呼び名が変わりました。

 その後、神八井耳の命が、弟の建沼河耳の命に、
世継の地位を譲って言いました。

「私は仇(かたき)を殺す事が出来なかった。そなたはそれが出来た。
だから、私は兄ではあるが、天皇になるわけにはいかない。
そなたが天皇となって、天下を治めて下さい。
私はそなたをたすけて、神を祀る忌人(いわいびと)となって
お仕えしましょう。」

こうして、建沼河耳の命が天下を治めるようになりました。

(古事記 神武天皇の巻より)

大久米の命の目の入れ墨
さて、大久米の命の目が入れ墨をしていた事から、
彼は安曇族(あずみぞく)ではないかと思っています。
古代の日本人には入れ墨をしている氏族がいて、
氏族ごとに入れ墨の場所が違いました。

安曇族の入れ墨は目元にしていたそうです。
かれらは福岡県の玄界灘を中心に活躍していました。
航海術に長けていたので、神武天皇が東征する時に、
船団や兵卒、武器などの軍備で支えた者と思われます。

イスケヨリ姫は初めて入れ墨をした目を見たので、
無邪気に尋ねたのですね。 
 
タタラって何?
セヤダタラヒメのタタラとは古代の砂鉄を使った製鉄法です。
また、その時に風を送るフイゴをさします。
上代の神話をひも解いて行くと、鉄や銅などの知識が込められているのが
見えてきます。
姫さまの名前にこんな言葉を付けるのは、ちょっと驚きですが、
それだけ、後世に伝えたかった大事なことなのでしょうね。

三輪山の大物主神
三輪山は奈良県と福岡県にあります。
大物主の神は蛇の姿がシンボルです。
麗しい男の姿をとって人間の女性の所に通う話がいくつか残っています。
三輪山は出雲系で、これも古代の製鉄で有名です。

セヤダタラヒメと大物主神はどうやら製鉄の縁で結ばれているようです。
 

イスケヨリ姫の母と実家については、『ひもろぎ逍遥』の日若神社で、詳しく書いています。

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豊玉姫 (Ⅰ)  和多都美神社 

 豊玉姫は綿津見(わたつみ)の宮に住んでいました。
ある日、豊玉姫のお付きの侍女が美しい器を持って、
水を汲もうと井戸に行きました。
すると井戸の底に光が写っています。
不思議に思って上を見ると、美しい男が枝の茂った桂の木に登っていました。
侍女はいぶかしく思いました。

 するとその男は、侍女に「水を下さい。」と言いました。
侍女は水を汲んで、持っていた玉器に入れて男に差し上げました。
ところが、その男は水を飲まないで、首飾りを外すと、玉を抜いて、
それを口に含んで、その玉器に唾と一緒にぱっと吐き入れました。
玉は器にくっついて、離れなくなりました。

 侍女は仕方なく、玉がついたままの器を豊玉姫に差し出しました。
姫はその玉を見て侍女に尋ねました。

「もしかしたら、宮の門の外に誰かいるのですか。」
「はい。井戸のそばの桂の木の上に男の人がいます。とても綺麗な人です。
王様の大綿津見(おおわだつみ)の神よりも貴いお方のようです。
その人が水を下さいと言うので、差し上げたら、
その水は飲まないで、この玉を吐いて入れたのです。
でも取れません。それで入れたまま持って帰りました。」
と侍女は言いました。

 そこで豊玉姫は変な事だと思って門の外に出て、その男を見ると、
一目惚れしてしまいました。
お互いにじっと見つめ合って恋に落ちました。

 豊玉姫は戻って父親に言いました。
「門の所に綺麗な男の人がいます。」
それを聞いて大綿津見の神が自ら出て見ると、
「おお、この方は天津日高(アマツヒコ)の御子の
虚空津日高(ソラツヒコ)様ですぞ。」
と言って、すぐに門の中に案内しました。
ソラツヒコはホオリノミコトという名前も持っています。

アシカの皮の敷物を八重に敷いて、その上に絹の敷物を八重に敷いて、
ホオリノミコトを座らせました。
それから百もの机に結納の品を置き、ごちそうを並べて、
娘の豊玉姫を妻として差し出しました。
こうして三年の間、二人は一緒に暮らしました。

 ある日、ホオリノミコトがタメ息をつきました。
豊玉姫はそのタメ息を聞いて父神に言いました。
「三年間ここに住まわれましたが、普段は嘆くようなことは無かったのに、
ゆうべ大きなタメ息をつかれました。何か訳があるのでしょうか。」

そこで、父神が婿に尋ねました。
「今朝、娘が言ったのですが、三年間ここに住んでいらっしゃって、
これまでは嘆く事もなかったのに、ゆうべ大きなタメ息をつかれたとか。
何か訳が有るのではありませんか。
また、この宮に来られたのは何故ですか。」

 そこでホオリノミコトは詳しく話をしました。
「私は3人兄弟で、一番下です。一番上の兄はホデリノミコトと言います。
その兄は海幸彦として魚を取って、
私は山幸彦として狩りをして毛皮を取っていました。

 ある時、私は兄に『お互いの道具を換えてみないか。』と持ちかけました。
三回頼んで、三回とも断られたけれども、ようやく『ちょっとだけなら』と、
交換してくれました。

 早速それで釣りをしたのですが、全く釣れなかった上に、
釣り針を失くしてしましました。

その後、兄が
『山サチはお前の道具。海サチは私の道具。さあ、元通りにしよう。』
と言って来ました。

 しかし、私が釣り針を失くしてしまったのが分かると、
返してくれと言って聞きません。
どうしようもないので、私の剣で500本の釣り針を作って、
償ったのですが、受け取ってくれませんでした。
それでさらに1000本作って償ったのですが、
『やはり元の釣り針がいる』と言います。

 私はどうしようもなくて、海辺で嘆いていたら、塩土の神がやって来て、
『どうして日の御子さまが泣いていらっしゃるのですか。』と聞いてきます。
それで事情を話すと、塩土の神は『よい考えがあります。』と言って、
竹で編んだ小船を作って、私を乗せてこう言いました。

『私がこの船を押し流します。
日の御子さまはそのまま潮の流れに乗って下さい。
すると、綿津見の神の立派な宮殿に着くでしょう。
その宮殿の門の所に井戸があって、桂の木が生えています。
その木の上で待っていると、海神の娘が出て来て、
相談に乗ってくれるでしょう。』
言われたままにしたら、こうやってこの宮殿に着いたのです。」

これを聞いて大綿津見の神は海中の大小の魚を呼び集めて、尋ねました。
「誰か、ホオリノミコトさまの釣り針を取った者はいないか。」
すると、答える者がいました。
「前に、鯛が喉に何かが刺さって物が食べられないと困っていました。
そいつが取ったのでしょう。」と。
そこで鯛の喉を調べると、釣り針が見つかりました。
すぐに取り出して、良く洗ってホオリノミコトに返しました。

その時に大綿津見の神はこんな事を教えました。
「この釣り針を兄上に返す時に、
『この釣り針はオボチ、スズチ、マヂチ、ウルヂ』
とおまじないを言って返して下さい。

そして、兄上が高い所に田んぼを作るなら、
あなたは低い所に田んぼを作って下さい。
兄上が低い所に作るなら、あなたは高い所に作って下さい。

私は水を支配していますから、三年の間で、
兄上が米がとれずに貧しくなるようにしてみせます。

もし、兄上がこれを恨んであなたに攻めて来たら、
潮満珠(しおみつたま)を出して溺れさせ、
もし困らせ過ぎたら潮乾珠(しおひるたま)を出して、
生かして懲らしめて下さい。」
と言って、潮満珠と潮乾珠を授けると、
すぐに和邇(ワニ=海亀)たちを呼び集めて、尋ねました。

「今から日の御子さまが葦原の中つ国にお帰りになる。
それぞれ何日で送り届けられるか申せ。」
それを聞いて、めいめいが自分の背丈から計算して言うと、
一尋和邇(ひとひろわに)が言いました。
「私は一日で送って還って来られます。」
「それなら、お前が送りなさい。
海の中を渡るときは、御子さまに怖い思いをさせてはならぬぞ。」
と言って、ホオリノミコトを和邇の背に乗せて、送り出しました。

 和邇は約束通りに、一日で送りました。
ホオリノミコトは和邇を返す時に、お礼に
身に付けていた紐のついた小刀をはずして、和邇の首に付けて返しました。
それからは、その一尋和邇は刀を持っている神という意味で、
サヒモチノ神と呼ばれるようになりました。

 さて、ホオリノミコトは大綿津見の神が詳しく教えてくれた通りにして、
その釣り針を兄のホデリノミコトに返しました。
そのために兄のホデリノミコトはだんだんと貧しくなって、
心がすさんでホオリノミコトを攻めようとしました。
そうすると、ホオリノミコトは潮満珠を出して、兄を溺れさせ、
助けを求めると、潮乾珠を出して救いました。
こうして悩ませ、苦しめた後に、ついにホデリノミコトは頭を地につけて、
ホオリノミコトに言いました。

「私はこれからは、あなたの昼夜の守り人と成って、お仕えします。」と。
こう言う訳で、ホデリノミコトは隼人の祖となって仕えるようになりました。
そして隼人の舞という形で溺れた時の様子を今に伝えています。
 

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豊玉姫(Ⅱ) 出産

 さて、海神の娘の豊玉姫は、夫がいなくなった後に、
妊娠している事に気付きました。
そこで、葦原の中つ国にやって来て、ホオリノミコトに言いました。

「私はあなたの子供を宿しました。もうすぐ生まれます。
どこで出産したらよいかと考えましたが、
天の神の御子となる子供ですから、海原で生むわけにはいきません。
ですから、こうして、参りました。」

 そう伝えると、すぐにその海辺の波打ち際で、
鵜の羽根を屋根に葺いて、産殿(うぶや)を造らせました。
ところがまだ産殿が出来あがらない内に急に産気づいてしまいました。
そこで産屋に入ってお産をしようとする時に、
夫のホオリノミコトに言いました。

「人間界と違う異世界の者は生む時になると、
本来の世界の姿になって生むものです。
ですから、私も本来の姿で生もうと思います。
どうぞ、私を見ないで下さい。」と。

 しかし、ホオリノミコトは「変な話だ。」と思って、
産屋を覗き見しました。
すると、妻は八尋和邇(やひろワニ=大きな海亀)となって腹這って、
うごめいていました。
ホオリノミコトは驚いて逃げました。

 豊玉姫は夫が覗き見した事を知って、本当の姿を見られたのを
恥ずかしく思って、そのまま御子を置いて、
「私はこの子を生んだ後も、常に海の道を渡って、
育てようと思っていました。
けれども、私の姿を見られてしまっては、
恥ずかしくてここには居られません。」と言って、
綿津見の宮へと通ずる海の境を塞いで帰ってしまいました。

 生まれた御子は生まれた時の様子から、
天津日高日子波限建鵜萱草葺不合命
(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)と
名付けられました。

 国に戻った豊玉姫は夫が覗き見しなかったら、
こんな事にはならなかったのにと、恨みましたが、
恋しくて仕方がありませんでした。
妹の玉依姫が御子を養育することになったので、
妹に夫への歌をことづけて贈りました。

「赤い玉はその紐までも輝かせるほど、光輝いていますが、
それにも増して、白い玉のような清らかなあなたのお姿は貴いものでした」

これを見てホオリノミコトも返歌を贈りました。

「沖の鳥、鴨が棲むような遠い島で、一緒に寝たあなたを
私は忘れません。生きている限り」

 こうして、ホオリノミコトは高千穂の宮に580年間住まわれました。
お墓は高千穂の山の西にあります。
別の名前を日子穂穂手見の命(ひこほほでみのみこと)と言います。

(古事記 火遠理命の巻より)

 豊玉姫の生んだウガヤフキアエズノミコトは妹の玉依姫と結婚して、
その第四子が神武天皇になりました。

豊玉姫は海亀の化身?

 豊玉姫が八尋和邇の姿になって出産したのですが、この和邇とは何かが
昔から分かっていません。
鰐という字で書かれている本もあります。
これはサメだという説が学界では中心です。

でも、もっと古くには海亀のことをワニと呼んでいる事が分かりました。
また太占(ふとまに=古代の占いの方法)に用いる海亀の甲羅をワニと
呼んでいます。

そうすると、豊玉姫が浜辺で出産する理由がよく分かります。
海亀が腹這って砂の上を歩いて、涙を流しながら、卵を産む姿。
そして、卵を残して海に帰る姿がほうふつとします。

日本書紀ではホオリノミコトは櫛に火を灯して妻を覗き見しています。
これで夜の出産だという事が分かります。
海亀が夜に産卵するのと同じです。

ホオリノミコトを送り届けた一尋和邇も、亀の背に乗せて届けたと解釈すると、
浦島太郎とそっくりです。
ちなみに豊玉姫の生まれた和多都美神社の地を夫姫と言うんですよ。

日本書紀には豊玉姫が大亀に乗って戻って行ったとも書いてあります。 
こういう事で和邇をウミガメと訳しました。

一尋は? 両手を広げた長さです。これは自分の身長とほぼ同じです。
八尋は? 「八」には沢山という意味があります。
  八尋和邇はとても大きな海亀という程度です。


 伝承を訪ねて

和多都美神社 長崎県対馬市豊玉町
御祭神はヒコホホデミノミコト(ホオリノミコトの別名)と豊玉姫です。
二人の三年の結婚生活がこの地で営まれました。
海神である豊玉彦尊がここに宮殿を造り、この地を夫姫と名付けました。
ここで生まれ育った豊玉姫はここで亡くなり、
お墓が今でも伝えられています。

紫瀬戸 対馬の美津島町の三浦湾 
豊玉姫は、出産した後産の胎盤などをこの地で洗いました。
そのために、藻が紫になったと言い伝えられています。
また産湯のための水を汲んだ井戸が伝わっています。

志登神社 福岡県前原市
 豊玉姫が夫に会う為に上陸したと伝えられる所。
その近くには豊玉姫が髪を櫛けずったという岩があります。
ここは昔、海が入り込んでいた所だそうです。

若宮神社 福岡県糟屋郡新宮町の沖合の相の島
ご祭神は豊玉姫と玉依姫とウガヤフキアエズノミコトです。
この境内には井戸があり、そこは綿津見の宮に通じていると
言い伝えがあります。
小さな島ですが、海人族(かいじんぞく)たちの積み石の古墳が
浜辺に沢山並んでいるので有名です。

住吉神社 対馬の東海岸沿いの美津島町の鶏知(けち)
ご祭神は、ウガヤフキアエズノミコトと豊玉姫と玉依姫。
(住吉なのに住吉三神ではないんです!)

青木茂の『わだつみのいろこのみや』 ブリジストン美術館所蔵。
桂の木に隠れるホオリノミコト(山幸彦)と
それを見上げる豊玉姫と侍女が描かれています。
わずか一筋水底から泡が昇っていて、それが海の底だと教えてくれます。
神秘的な絵です。


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阿加流比賣   比賣碁曾(ひめこそ) 神社

 昔、新羅の国に王子さまがいました。
名前を天之日矛(アメノヒボコ)と言います。
この王子さまが妻を追って日本に渡って来ました。
その物語をしましょう。


 新羅の国に沼がありました。
アグ沼といいます。
この沼のほとりで、ある貧しい女が昼寝をしていました。
その時、太陽が虹のように輝いて、その陰部に射しこみました。

それを貧しい男が見ていて、不思議な事だと思って、
それ以来、女の様子をいつも観察していました。


 この貧しい女はその太陽の光で妊娠して、赤い玉を生みました。
それを知った例の男は、女に
「それを是非私に下さい。」と言って、貰って大事に布に包んで腰に付けていました。
この男は谷の所で田んぼを作って暮らしていました。

 ある日、その男が田んぼで働く人たちのために、食べ物を牛に乗せて、
谷に入っていくと、この国の王子さま、アメノヒボコに
ばったりと出会いました。アメノヒボコは男に尋ねて言いました。

「どうしてお前は食べ物を牛に乗せて、こんな山の中の谷に入るのだ。
さては、この牛を殺して食べるつもりだな。」
そう言ってアメノヒボコはその男を捕えて牢屋に入れようとするので、
男が答えて言いました。

「私は牛を殺そうとしているのではありません。
ただ、田んぼで働く者たちに食べ物を持って行こうとしているだけでございます。」

しかし、アメノヒボコは許しませんでした。
そこで男は腰に付けていた赤い玉を取り出して王子さまに差し出しました。
「この宝を差し上げますのでどうぞ許して下さい。」

* * *

こうして、王子のアメノヒボコはその赤い玉を手に入れて、部屋に置きました。
すると、赤い玉はたちまちに美しい乙女に成りました。
二人は愛し合い、その乙女は王子さまの正妻になりました。
名前をアカルヒメと言います。

アカルヒメはいろいろと珍しいごちそうを作っては、アメノヒボコに出しました。
しかし、国王の子であるアメノヒボコはそのうちに、だんだんとつけあがって、
アカルヒメをののしるようになりました。

ある日ついにアカルヒメは言いました。
「そもそも、私はあなたの妻となるべき女ではありません。私の祖国に帰ります。」

そう言うと、すぐに秘かに小船に乗って、海を渡って逃げてしまいました。
そうして、故郷の日本に着くと、難波の地に留まりました。

 この方が難波の比売碁曾神社に祭られる阿加流比売神です。

* * *

 アメノヒボコはアカルヒメが逃げたと聞いて、すぐに追って、
海を渡って日本にやって来て、難波に行こうとしましたが、
途中、渡(わたり)の神が邪魔をして、難波には入れませんでした。
そこでぐるっと廻って但馬の国に行きました。

アメノヒボコはそこに留まって、但馬のマタヲの娘のマエツミという女を
妻にしました。
二人の間に生まれた子供は但馬モロスクといいます。
その子供は但馬ヒネ。
その子供は但馬ヒナラキ。
その子供は但馬モリと但馬ヒタカとキヨヒコです。
このキヨヒコが当麻(タギマ)のメヒと結婚して、生まれた子供が
菅(すが)のモロオと妹の菅釜(すがかま)ユラドミでした。

 この内、但馬ヒタカは姪にあたるユラドミと結婚して、
生まれた子供が葛城(かずらぎ)の高額ヒメ命(タカヌカヒメノミコト)と言います。

この方が息長帯比売(オキナガタラシヒメ)の母親です。
息長帯比売は後に仲哀天皇の妃となり、神功皇后と呼ばれるようになりました。

* * *

 さて、アメノヒボコが日本に渡って来る時に玉津宝(たまつたから)と言う、
立派な宝物を持って来ました。
それは紐に通した玉を二連。
また、波振るひれ、波切るひれ、風振るひれ、風切るひれ。
また、沖の鏡、辺(へ)の鏡、合わせて八つです。
この八つの宝が伊豆志神社の八前の大神です。

(古事記 天之日矛の巻より)

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伝承を訪ねて

二つの難波説
普通、「難波」は現在の大阪府と考えますが、
アメノヒボコのルートを考えた時に、
大阪に入れずに、瀬戸内海を通って、関門海峡に戻って、日本海の方に廻ったというのが、不自然だという説が昔から指摘されています。

二つのひめこそ神社
大阪市のヒメコソ神社は御祭神が下照姫で、遅くまで湿地帯だったとか。
アカルヒメは大分県の国東半島の沖にある姫島の比売碁曾(ひめこそ)神社に祀られています。

そこで、難波とは、古代には福岡県の北東部の海岸部にも難波があって、そちらが元だという説があります。
ここには、もう一つ、よく似た「ツヌガアラシトという渡来人と大和の姫の話」が伝わっています。

これは香春岳の採銅所が深く関わっていると思われます。
稿を改めて物語を紹介したいと思っています。

皆様にいろいろと教えていただけたら幸いです。       綾杉るな

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スペルボーン(Spellborn)