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                                    【日本書紀】

神功皇后(6)

軍事訓練と臨月の皇后


秋9月10日に諸国に命じて船舶を集め、兵士を訓練する事にしました。その時、軍卒が集まりませんでした。皇后
「きっと神の御心のせいだろう。」と言って、大三輪の社を建てて、太刀と矛を奉納しました。すると軍勢が自然に集まりました。

ここで皇后は、あへ(相島)の海人・オマロに西の海に出て、国が有るかどうか視察するように命じました。オマロが戻って来て、「国は見えません。」と答えました。

また、しか(志賀島)の海人・名草に視察に行かせました。数日して戻って来て、
「西北に山が見えます。雲が横たわっています。その下に国があると思われます。」と言いました。

そこで吉日を卜占して、出発に臨んで神事をしました。その時、皇后はみずから大将の印であるオノとマサカリを持って、大軍に命じました。
「金鼓(かねつづみ)の音が整わず、天子の旗や軍旗が乱れる時には、兵卒の士気も整わない。敵の財宝をむさぼって、自分のものにしようと考えたり、家族の事を心にひきずったりすると、敵に捕まってしまう。

敵が少なくても侮ってはならない。敵が強くても屈してはならない。女人に手を付けようとする者を許してはならない。また、降伏する者を殺してはならない。戦いに勝てば必ず褒賞を取らせる。逃げだす者は罪となる。」

そうして神託があり、
「神の和魂(にぎみたま)は王の身体に付いて、寿命を守るであろう。神の荒魂は先鋒となって王の船を導くであろう。」と告げました。
こうして神の教えを受けると拝礼しました。依網の吾彦男垂見(よさみのあびこ・をたるみ)を祭りの神主としました。

この時は皇后の出産の月に当たっていました。皇后は石を取って腰に挿し挟んで、祈って言いました。
「戦を終えて戻って来てから、ここで生まれたまえ。」と。
その石は、今は伊都県の道の辺にあります。
こうして、荒魂を掲げて軍勢の先鋒とし、和魂を請じて王船の鎮(しづめ)としました。
(つづく)

地図 軍事訓練の伝承 志式神社 大神神社 あへの島 志賀島


るなのひとりごと
1.「あへのしま」のオマロが西の国の存在を知らなかったって変じゃない?
「あへ」というのは「北」という意味です。各地に「あへ」の付く島や地名があります。
新宮町の相島(あいのしま)はかつて「あへのしま」と言っていて、志式神社とよく似た「はやま神事」を伝えています。島には積石塚古墳が沢山あり、海人族の拠点の島でした。

当然ながら、彼らは朝鮮半島との往来が出来る人たちです。もし往来する技術が無くても、半島の存在は知っているはずです。オマロはその長たる人です。知らないはずがありません。皇后が今頃になって質問する時期も変ですし、答える方もとぼけているのが妙におかしい所です。

2.志賀の海人族の長・草はさすがに嘘が言えず、「島が見えるので国があるだろう」と言っています。数日後に戻って来たのも、それらしく見せるためでしょう。

糸島市の浜辺から壱岐対馬が目視出来ることを松尾絋一郎氏の講演で知りました。距離的に考えると、志賀島からも目視出来るでしょう。対馬まで行けば、朝鮮半島の人家の灯りも目視できます。

そうすると、この返事も何だか不自然ですね。質問する皇后も変です。自分自身、新羅(?)の血が混じっているのですから。るな的には、神功皇后は新羅の王位の後継ぎの権利をまだ持っているのではないかとさえ想像しているのです。(新羅という国名が当時あったかは不明です。)

3.ここの話の舞台は主に、新宮町から福岡市東区にかけての那国が舞台です。それなのに、鎮懐石は伊都国の方に祀られているんですね。

軍船は那国からも伊都国からも出港しただろうと思っていますが、皇后自身の出産とからんで、この出港前のシーンは、編集者も苦労して辻妻合わせをしたようです。でも結局、変なまま書いちゃったんだなと思いました。

4.「大三輪の社」は「大神(おおみわ)神社」という名で現地に残っています。祭神は大物主神です。(福岡市東区高美台)

5.この戦いは「三韓征伐」なのか「新羅征伐」なのか、記紀でもきちんと整理が出来ていないようです。西暦200年頃の話を西暦700年頃に整理したのですから、朝鮮半島の国の興亡の知識が曖昧なのは仕方がないですね。

『ひもろぎ逍遥』では
皇石神社(3)ここからは新宮町が見える 
     神功皇后たちは馬の訓練もしていたよ
志式神社(Ⅰ)海と松林の宮
     (Ⅱ)万年願と早魚神事と神功皇后  
        神社のお話が聞けましたよ。
     (Ⅲ) 夜神楽を見て来ました。
         「早魚舞(はやままい)」―乙太夫の天神尋ね―
      (Ⅳ)安曇族(あずみぞく)と奈多の浜 
         磯良神・七不思議・お潮井とり
      (Ⅴ) 哀しき神々たち
          三良(さぶろう)天神 と 志志岐(ししき)三神
鎮懐石八幡宮(1)出産が遅れるように願いを託した二つの石
新宮町の神功皇后伝説

などで地元の伝承を紹介しています。まだ他にも伝承が残っているので、少しずつ調べて行きたいと思っています。



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                                    【日本書紀】

神功皇后(7)

新羅攻撃


冬10月3日、対馬の和珥(わに)の津を出発しました。その時、風の神は風を起こし、海の神は波を立て、海の中の大魚はみんな浮かび上がって船をたすけました。順風が大きく吹いて、帆船は波に乗りました。カジや櫂(かい)を使わずに新羅に着きました。その時、大波が起こって船は国の中に到達しました。まさしく天神地祇が助けたのを確信しました。

新羅の王は戦々恐々として、成す術もありませんでした。そこで諸人を集めて言いました。
「新羅の建国以来、いまだかつて海水が国に上って来た事を聞いたことがない。これは天運が尽きて、国が海中に没しようとするのであろうか。」

そう言い終わらないうちに軍船が海に満ちて、旗が日に輝いていました。鼓や歓声が起こって、山や川に響き渡りました。新羅王はそれを遥かに望んで、想像以上の兵が我が国を滅ぼそうとしていると思い、恐ろしさに気を失いました。

目が覚めると、
「東の方に神の国があると聞いていた。日本と言う。聖王がいて天皇と言うとも。きっとその国の神兵たちだろう。挙兵して応戦することは無理だろう。」
と言って、白旗をあげて、首に降伏の印の白い縄を付けて降伏しました。

土地の図面と人民の戸籍を封印して支配権を放棄したことを示し、王船の前に降伏しました。頭を垂れて、
「今から後、長らく天地に従うように、貴国に従って馬飼部となります。船のカジが乾かないほど頻繁に春と秋には馬の櫛とムチを献上してお仕えします。また遠く海を越えるのを厭わず、毎年、男女を献上します。」と言いました。

そして重ねて誓って、
「東から出る太陽が西から昇ったり、天の川が逆さまに流れたり、川の石が昇って星となるような事が起こらないのに、春秋の朝貢や馬の櫛とムチの献上を止める事があったら、きっと天の神、地の神の罰があるでしょう。」と言いました。

その時、日本側の或る人が「新羅の王を殺しましょう。」と言いました。
すると皇后
「もともと神の教えを受けて、金銀の国を授けられるのだ。全軍に『自ら降伏するものを殺してはならない』と命令したのだ。既にこうして財宝の国は手に入った。新羅の者は自ら降伏したのだ。殺すのは不条理だ。」
と言って、その縄をほどいて馬飼部としました。

ついに、その国の中枢に入って財宝の蔵を封印して、地図・戸籍・文書を没収しました。そして皇后の持っていた矛を新羅王城の門に立てて、後の世の印としました。この矛は今でも尚、新羅王城の門に立っています。

そこで新羅王ハサムキム、別名ミシコチハトリ干峡(かんき)を人質として、金銀・彩色・綾絹・うす絹・固く織った絹を八十隻の船に載せて、官軍に従わせました。これよりのち、新羅王が常に八十隻の朝貢を日本国にするのは、この戦いの所以からです。

高麗、百済の二国の王は新羅が地図・戸籍を取り収めて日本国に降伏したと聞いて、ひそかに日本の軍勢を伺い、勝つ事が出来ないのを悟ると、自ら営舎の外に出て、頭を下げて「これより後は、永く西蕃(せいばん)と称して、朝貢をし続けます。」と言いました。

こうして日本は内官家屯倉(うちつみやけ)を置きました。これがいわゆる三韓です。皇后は新羅から帰還しました。



ひとりごと

大波について
対馬から朝鮮半島へは有視界航路です。現代のヨットで博多→釜山間は一日行程です。

初め、この「大波が起こって船は国の中に到達しました」という一文がよく分からなかったのですが、スマトラ沖の津波を見て、この大波は津波と訳すべきではないかと考えるようになっていました。今回の東日本大地震もそうですが、歴史の痕跡を辿ると、人類は津波や噴火との戦いの連続だったのが推し量られます。

地震雲を世に出した眞鍋大覚氏は、逆に新羅の地震のせいで、九州に津波が上がった記録についても書いてあります。(『ひもろぎ逍遥』「針摺の瀬戸と水城 古代、玄界灘と有明海はつながっていた」で一部紹介)


三韓と新羅について
三韓とは普通3世紀頃では「馬韓・辰韓・弁韓」を指し、4世紀では「百済・新羅・高句麗」を指します。8世紀の日本人には、三韓がどちらを指すのかがよく分からないために、表現が混乱しています。

それは、現代の日本人が500年前の朝鮮半島の国がどんなだったかが分からないのと同じだと思います。「新羅」と書いてあるから、4世紀だと決めつけてしまうと、真実の探求が出来なくなる恐れがあるなと思いました。

海路
途中で嵐が起こって漂着したりした伝承が福岡沿岸にいろいろとあります。
『ひもろぎ逍遥』の方で、少しずつ追っていきたいと思います。

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蘇我の稲目(5)

高句麗の捕虜の姫らを妻に貰い受ける

欽明天皇16年、秋7月4日、天皇蘇我の大臣稲目の宿禰穂積の磐弓の臣らを派遣して、吉備の五つの郡(こおり)に白猪屯倉(しらいのみやけ)を設置させました。

欽明天皇17年、春1月に、百済の恵王子は帰国を願い出ました。そこで、天皇は兵器と良馬を沢山授けました。また多くの褒美を与え、人々は感嘆しました。

阿倍の臣、佐伯の連、播磨の直(あたい)を派遣して、筑紫の国の舟師(ふないくさ)を率いて、守りながら百済に送りました。

その時、特別に筑紫の火の君筑紫の君の子、火の中の君の弟)を派遣して、勇士1000人を率いて守らせて、ミテの津に送らせ、海路の要害の地を守らせました。

秋7月6日、蘇我の大臣稲目の宿禰らを備前の児島郡に派遣して、屯倉を設置させました。葛城の山田の直瑞子(みつこ)を監査役にしました。

冬10月に、蘇我の大臣稲目の宿禰を倭の国の武市の郡に派遣して、百済人の大身狭(おおむさ)の屯倉を、高句麗人の小身狭(おむさ)の屯倉を設置させました。紀の国には海部(あま)の屯倉を置きました。

欽明天皇23年8月に、天皇は大将軍大伴の連狭手彦(さでひこ)を派遣して、兵数万を率いて高句麗を討たせました。狭手彦は百済の計略を用いて、高句麗を打ち破りました。

その王は垣を越えて逃げました。狭手彦はついに勝って、宮殿に入り、珍しい宝物の数々と・七織物のカーテンと鉄屋(くろがねのいえー内容不明)を手に入れて帰還しました。(鉄屋は高句麗の西の高殿の上にあったもので、織物のカーテンは王の奥の部屋のものという)七織物のカーテンは天皇に献上しました。

甲二領、金細工の太刀二振り、彫刻を施した銅の鐘三つ、五色の幡二棹、美女姫(おみなひめ)に侍女の吾田子(あたこ)を付けて、蘇我の稲目の宿禰の大臣に送りました。大臣はその二人を召し入れて妻にして、軽の曲殿(まがりどの)に住まわせました。
(鉄屋は長安寺にあるが、どこの国にあるのかは分からない。)

欽明天皇31年の春3月の1日に、蘇我の大臣稲目の宿禰は亡くなりました。

ひとりごと
崇仏論争がどんなものか知りたくて、訳してみましたが、日本書紀には載ってないようです。何か他に史料があるのでしょうね。
稲目は仏教に帰依しながらも、日本の神への信仰も捨ててはいないように見受けられます。

彼の仕事は屯倉の設置や収税などがメインのようです。
稲目だけを拾ったのですが、途中、任那や新羅などの戦いが沢山描かれています。高句麗からの戦利品が天皇と稲目に送られた事から、彼はよほどの実力者だったんですね。孫たちが天皇になるのはもう少し先の事です。

鉄屋は何か分からないそうですが、簡単に移動できるものだという事が伺えます。長安寺の場所が分からなくなっていると、書いてありましたが、朝倉市に長安寺がありますが…。斉明天皇の朝倉広庭宮の跡地の候補地のそばだけど、関係ないかな…。お寺だから同じ名前があちこちにあるのでしょうね。



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葛城襲津彦(7)

謎と矛盾を考えました

                   
サチヒコソツビコは別人だった。
文中に唐突に挿しこまれたサチヒコという人物。百済記から引用したという事ですが、サチヒコが死んだあとも、ソツビコは活躍していました。
二人の人生を比較すると、全く別人だという事が分かりました。

日本書紀の編者は、勘違いして挿入したようです。(後の人が挿入した可能性も)
その原因は、
    1、発音が似ている。
    2、どちらも新羅を討ちに行った。
    3、どちらも長らく帰って来なかった。
    4、どちらも天皇に近い人物である。
という共通点からのようです。
しかし、4については、サチヒコはが皇宮へ、ソツビコはを天皇へ嫁がせています。
ソツビコには姉がいます。妹がいないとは言い切れないのですが、ソツビコの娘に生まれた男の子のうち三人までも天皇にしています。天皇家の外戚として、まさしくこの事件の中枢にいる人です。新羅の美女二人ぐらいでは裏切る事はないですね。

※日本書紀の編集のプロセスを考えました
日本書紀の編者が何冊もの歴史書を付き合わせながら、まとめていったのが、よく分かる部分でした。書いてある通りに西暦200年代だとすると、倭国は100国あったのが30国に統合された時代で、その中の数国には歴史書を編纂する力があったと思われます。

ヤマト統一後の編者はそれら歴史書を手に入れて、30国が1国になるまでの記事の編纂に大変苦労したと思われます。が、上手く行かず、竹内宿禰は300歳となり、仲哀天皇も100歳で即位となりました。(訳していて、200年代の話がいつの間にか400年代になっていて、オドロキ。)

今回、竹内宿禰の子供の葛城襲津彦の兄弟たちの流れを追ってみると、竹内宿禰と同じように年を取っている事が分かったので、このままでは、み~んな数100歳になりそうです。

その原因を考えて見ると、竹内宿禰系の歴史書とか、仁徳天皇系の歴史書があって、それを付き合わせた時に、無理をしたのではないかと思いました。
合体された歴史書を元の数冊に戻せたら、面白いだろうになあ。

※神功皇后の4~5世紀説が出た原因について
資料や本を読んでいると神功皇后の三韓征伐あるいは新羅征伐という事件が4~5世紀の話であるという説がよく見られます。

日本書紀では200年から数年後の話のように書いてあるのに、どうして4世紀と書く人がいるのだろうかと、謎に思っていたのですが、韓国や中国の歴史書と付き合わせて、「トキ王が405年」とあるからだろうなと思いました。あるいは「サチヒコの382年説」から来たのかもしれません。

年代は、まだよく分かりません。真鍋大覚氏の計算では、200年代説です。(主な理由は、神功皇后が3回も大歳をした天文現象を計算した結果です。この大歳については『ひもろぎ逍遥』の「高良大社(4)」にチラリと書いてます。)

                     (つづく)


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武内宿禰(9)

武内宿禰・300歳のミステリーは
計算ミスと解釈ミスが重なった?


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ミステリー1. 仲哀天皇は父が死んで36年目に生まれた!?
岩波文庫の日本書紀を現代語訳して来ましたが、〈注〉を見ると、仲哀天皇は父の日本武尊が死んでから36年目に生まれた事になると書いてありました。
「おっ、舎人親王たちは計算違いをしたな」と思いながら訳しました。西暦のような絶対年数がないので、かなり計算が難しそう。

ミステリー2. 神功皇后の妊娠期間がおかしい。
 
計算ミスに関しては、他にもあって、神功皇后の妊娠期間の十月十日(とつきとおか)について、1か月を30日で計算しているらしいです。
現代では妊娠期間は280日と基準が決められているそうです。日本書紀の計算で行くと、30日×10月=300日。プラス10日で310日になります。すると、40日の差が出ます。この辺りの計算ミスが、応神天皇の父は仲哀天皇ではないという噂の原因にもなっています。

ミステリー3
事実を想像すると、皇太子が16歳頃に応神天皇として即位し、神功皇后はそのまま摂政として残って、まつりごとをした。その二人に武内宿禰がぴったりと付いて補佐をした。それがナチュラルな解釈じゃないかなと思ったのですが。それにしても、ずっと武内宿禰と三人で出てくるのも不思議な感じがしました。

長生きしたのは武内宿禰だけではなかったよ。

 武内宿禰が300歳って何でだろうと思って訳したのですが、みんな100歳以上でした。(な~んだ。そうだったのか。)どうして、この辺りの編年が変なのか?訳をしながらの印象ですが、まずは神功皇后の年が100歳に無理に引き上げられて、全体が矛盾して行ったんじゃないかなと思いました。単なる勘です。

日本書紀は正史なので、中国にならって、年号をきちんと書かないといけないけど、ヤマトタケルとか、神功皇后とか、武内宿禰とか、この時代の人たちは伝説だけで、年号は伝わっていない。舎人親王たちは、それをなんとか辻妻合せをしたけど、うまく行かなかった。

と言う事で、日本書紀を編纂した舎人親王たちの計算ミスと、神功皇后と建内宿禰を長命にしようとした作為が重なった結果、年代がゴチャゴチャになっているなと想像しました。また、まさか、後世の人が天皇の即位期間と神功皇后の摂政期間を単純に足し算するとは思わなくて、人物順に記事を書いた。それを現代人が足し算してしまって、300歳という数字が出てしまったのではないかとも思いました。

年齢を延ばした意図と計算ミスと現代人の解釈ミスの三重の問題があるようです。このあたりを検証するには、朝鮮半島の歴史が分からないと、無理だなあ。

武内宿禰の伝承は筑紫にある。
ただ、「武内宿禰の死についての伝承がない」と岩波文庫には書いてありますが、福岡県の織幡神社にちゃんとありました。(『ひもろぎ逍遥』⇒織幡神社
武内宿禰が「風土記」に書いてないからといって、空想の人物と断定するのは、無理です。
香椎宮の近くには武内宿禰屋敷というのが伝わっています。また、宮地嶽神社付近にもその子孫の人の伝承が残っています。他にもまだ述べてない伝承もありますが、玄海灘を中心とする伝承を総合すると、武内宿禰はかなり大きな勢力を持った大王クラスの人だと思われて来ました。

対新羅について

韓半島との関係の記事もいろいろ出て来てびっくりしました。(ルナは何にも知りませんでした。)新羅とは交戦し、百済には援助という構図が分かりました。今回は武内宿禰に絞ったので、対韓半島に関わる他の記事は省略しましたが、神功皇后の所にはバンバン出て来ています。いつか全体の訳を試みようと思います。ここを押さえると、歴史家たちの言っている事が分かるようになるけどなあ。と思いながら…。

謎の名前交換

応神天皇は「気比の大神」と名前の交換をしています。気比の大神は、武内宿禰と関わりのある所です。(⇒織幡神社)応神天皇はそれに加えて自分の子供が生まれると、これまた武内宿禰の子供と名前を交換しています。二人の子は同じ日に生まれたとか。名前の交換は重量な出来事ですが、理由は分かりません。彼の霊力に預かりたい親心のような…。あるいは倭の支配者の交換か。とにかく、武内宿禰がかなりのヒーローだったのが見えて来ました。これからも、目が離せません。彼の本貫地もうっすらと見えて来ました。コツコツと調べて行きます。


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武内宿禰(10)

武内宿禰と神功皇后の系図
二人は遠い親戚だった

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記紀から分かったのは、神功皇后武内宿禰は、香椎宮以来、ずっと一緒にいるらしいという事です。1800年たった今でも、二人の仲が噂されています。これに関しては別に意見はないのですが、系図を描いていて、同じ孝元天皇の名前が出てきたので、「あれ、二人は同じ先祖?」と思って、二人の系図を並べてみました。

孝元天皇はウチシコオの妹と娘を娶っています。この婚姻のパターンはこれまでも、いくつも出て来たので驚く事ではないけど、ウチ家天皇家が強く結ばれているに驚きました。
神功皇后の母方はアメノヒボコなので、彼女は新羅の王家天皇家の両方の血筋を持っています。そんな彼女が新羅と戦うのだから、これまた面白い。

ルナの妄想ですが、神功皇后は新羅の王家の末裔でもあるので、まだ新羅の王位継承権を持っていて、それを主張しているのではないかと考えました。新羅の役というのは、彼女が新羅の王であるという事を確認させた戦いではないか。だから、いとも簡単に勝つ事が出来た。彼女の他での戦い方のパターンを見ると、そんな気がしてなりません。

系図は見るより、書いている時が楽しい。その時に発見が沢山あります。今回、知ったのは天皇家はウチ家そのものだったという事。そして、ウチ家の代表となる人物が武内宿禰でした。古代日本は武内宿禰の研究があってこそ、明らかになるのが分かりました。

「ウチ家と天皇家」の「武と祭祀」が強力に組み合わさったのが、「武内宿禰と神功皇后」。この二人を正史としてどう組み込むかを舎人親王らは苦心しています。無理を重ねて矛盾だらけにしてしまいましたが、彼らの目的は一応達成されました。

武内宿禰を白髯のおじいさんという古い人物像で惑わされてはいけない。壮年の生き生きと倭を生きる人物として捉える事が、古代史の真実を明らかにする事になります。

この時代を把握するには、環日本海の視点で捉える必要があります。地図を逆さまにして見て、固定観念をはずして、はじめて真実に近づく事が出来ます。

まだまだ、パズルのピースは不足していますが、どこに行けばそのピースが手に入るのか、少しずつ見え始めました。


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