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                                    【日本書紀】

景行天皇(10)

蝦夷その後
 

51年の春、正月7日に天皇は群臣を召して、宴を数日催しました。この時、皇子の稚足彦尊(わかたらしひこ)と武内宿禰は宴の庭に出て来ませんでした。

天皇が召して、その訳を尋ねると、
「このような宴の日には群臣百寮は必ず宴の遊びの方に心が行って、国家の事がおろそかになります。もし狂った人がいて宮の垣根の隙を狙いでもしたらと思い、門の所で非常に備えていました。」
と二人は答えました。

これを聞いて天皇は「もっともな事だ。」と言って、二人を格別に可愛がりました。

秋8月4日に、稚足彦尊を立てて、皇太子としました。この日、武内宿禰を棟梁(むねはり)の大臣に任命しました。

さて、前述の日本武尊の佩(は)いていた草薙の剣は、今は尾張の国の年魚市(あゆち)の郡(こおり)の熱田社にあります。

またこの頃、伊勢神宮に献上した蝦夷たちは昼夜大声で騒いで、礼節なく出入りしていました。倭姫(やまとひめ)は、「この蝦夷たちを神宮に近づけてはならない。」と言って、朝廷に送りました。

そこで、御諸山(みもろやま=三輪山)の麓に住まわせました。するとまもなく神山の木を切って、隣里には大声で呼ばわって、人民がおびえました。

天皇はそれを聞いて、群臣に
「神の山の麓に住まわせた例の蝦夷は、もともと獣のような心持ちなので、国の中には住まわせられない。向こうが望むように郊外に住まわせよ。」
と言いました。

これが今の播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の五つの国の佐伯部の祖となりました。




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景行天皇(11)

日本武尊の系図

日本武尊ははじめに両道入姫(ふたぢのいりひめ)の皇女(ひめみこ)を娶って妃とし、稲依別王(いなよりわけのみこ)、足仲彦(たらしなかつひこ)天皇(仲哀天皇)、布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)、稚武王(わかたけのみこ)が生まれました。
この中の第一子の稲依別王は犬上の君、武部の君の二つの族の始祖です。

日本武尊は又、吉備の武彦の娘、吉備の穴戸の武姫を妃として、武卵王(たけかひごのみこ)と十城別王(とおきわけのみこ)が生まれました。
兄の武卵王は讃岐の綾の君の始祖です。弟の十城別王は伊予別君の始祖です。

また次の妃の穂積氏の忍山の宿禰の娘の弟橘姫稚武彦王を生みました。

52年の夏5月4日に景行天皇の皇后の播磨の太郎姫(おおいらつめ)が亡くなりました。
(太郎姫は日本武尊の生母)
秋7月7日に八坂入媛命を皇后としました。

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次の二人は神功皇后の三韓攻撃の帰りに、それぞれ唐津市と平戸市に警備の為に残されて、
祭神として祀られています。

稚武王 ⇒ 唐津市呼子加部島 田島神社 祭神
十城別王 ⇒ 平戸市 志志岐神社

詳しくは 『ひもろぎ逍遥』志式神社(5)
哀しき神々たち 三良天神と志志岐三神 に書いています。
http://lunabura.exblog.jp/13130472/


十城別命の太刀が平戸城に展示されています。
環頭の太刀(国指定文化財、亀岡神社所蔵、平戸城天守閣)
柄頭を環状にまるめ、水牛の角の鍔、竹を馬革で包んだ鞘を持つ93㎝の鉄製直刀。
神功皇后の朝鮮出兵当時の武将の刀であったと伝えられています。志志岐神社祭神である十城別命(ときわけのみこと)は、日本武尊の御子であり、仲哀天皇の弟。

平戸観光再発見
http://www.hirado-net.com/history/cate01_02.php
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景行天皇(12)
崩御まで

53年の秋8月1日に、天皇は群臣に向かって、
「私が愛した子をいつになったら忘れられるのだろうか。願わくは、小碓の王が平定した国を巡行してみたい。」と言いました。

この月に天皇は伊勢に行き、転じて東海に行きました。
冬10月に上総の国に着いて、海路で淡水門(あわのみなと)を渡りました。この時、覚賀鳥(かくかのとり)の声が聞こえて来ました。その鳥の姿を見ようと思い、海の中に入りました。そこで白蛤(うむき)を見つけました。

そこで、膳臣(かしわのおみ)の遠祖、名は磐鹿六雁(いわかむつかり)が蒲(がま)をタスキにして、白蛤を刺身にして出しました。その六雁臣の技を褒めて、膳大伴部(かしわでのおおともべ)の長官にしました。

12月に東国から戻ってきて、伊勢に滞在しました。そこを綺宮(かにはたのみや)と言います。
54年秋9月19日に伊勢から倭に戻って、纒向宮(まきむくのみや)に住みました。

55年春2月5日に、彦狭島王(ひこさしまのみこ)を東山道の15国の都督に任じました。彦狭島王は豊城命(とよきのみこと)の孫です。王は春日の穴咋邑(あなくいのむら)に着いた所で病気になって亡くなりました。この時、東国の人民は彦狭島王が自分たちの所まで来られなかった事を悲しんで、ひそかに王の遺骸を盗んで上野国(かみつけのくに)に埋葬しました。

56年の秋8月に天皇は御諸別王(みもろわけのみこ)に、
「そなたの父、彦狭島王は任地に着かずに亡くなってしまった。だから、そなたが東国を治めなさい。」
と言いました。そこで、御諸別王は天皇の命を受けて、父の後を引き継ぎ、当地で善政を行いました。

この時、蝦夷が騒ぎました。すぐに兵を挙げて攻撃しました。蝦夷の首長の足振辺(あしふりべ)と大羽振辺(おおはふりべ)と遠津闇男辺(とおつくらおべ)たちが頭を下げてやって来ました。おがんで罪を受けて自分の土地を献上しました。そこで降伏する者は許して、服従しないものは討ちました。こうして、東国は久しく無事に治まりました。その子孫は今も東国にいます。

57年の秋9月に坂手の池を造りました。その時、竹を堤の上に植えました。
冬10月に諸国に命じて田部屯倉(みやけ)を興しました。
58年春2月11日に近江の国に行幸して志賀に3年留まりました。これを高穴穂宮と言います。
60年の冬11月7日に天皇は高穴穂宮で亡くなりました。御年106歳でした。

                                   (終)



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神功皇后(1)
オキナガタラシ姫
結婚・熊襲討伐へ

気長足姫尊(おきながたらしひめ)はワカヤマト・ネコヒコ・オオヒヒの天皇(開化天皇)のひ孫気長宿禰の王の娘です。母は葛城タカヌカ姫と言います。

仲哀天皇の2年に皇后になりました。幼い時から聡明で叡智にとんでいました。容貌も美しく、父の王は並外れていると思いました。

仲哀天皇(タラシナカヒコ)は日本武尊(ヤマトタケル)の第二子です。母はフタヂノイリ姫の命です。仲哀天皇の容貌は端正で、身長は1.7メートル。
成務48年成務天皇に男御子がいなかったので、皇太子となりました。その時の御年31歳。
成務60年に成務天皇(ワカタラシヒコ)が崩御しました。

仲哀元年春、正月の11日に仲哀天皇は即位しました。秋9月の1日に実母は皇太后となりました。

仲哀2年の春、正月11日にオキナガタラシ姫の尊を立てて皇后としました。(神功皇后)
これより先に、叔父の彦人大兄(ひこひとのおおえ)の娘の大中姫(おおなかつひめ)を娶って妃としていました。香坂の皇子(かごさかのみこ)と忍熊の皇子(おしくまのみこ)が生まれました。
次に、弟姫(おとひめ)を娶って、ホムヤワケの皇子が生まれました。

2月6日、仲哀天皇は角鹿(つぬが)に行幸しました。そこに行宮(かりみや)を立ててお住みました。これをケヒの宮と言います。その月に淡路の屯倉を定めました。

3月15日に天皇は南国を巡回しました。この時は皇后や百寮(つかさつかさ)は残して、お伴には二、三人の臣下と官人、数百人で気軽に出かけました。

紀伊の国に着いて、徳勒津宮(ところつのみや)に居ました。この時、熊襲が叛(そむ)いて貢ぎ物を献上しませんでした。天皇はそこで、熊襲の国を討とうと決意しました。

すぐに徳勒津宮を出立して、船で山口県の豊浦郡の穴門(あなと)に向かいました。
その日のうちに、角鹿に使者を立てて、皇后に、
「すぐに、その湊から出発なさいませ。穴門で逢いましょう。」と伝えました。

夏、6月10日に、天皇は豊浦の津に泊まりました。
一方、皇后も角鹿を発って、ヌタの門に着いて、船の上で食事をしました。その時、鯛が沢山船のそばに集まりました。
皇后は酒を鯛に注ぎました。すると鯛は酔っ払って浮かびました。それで海人(あま)は魚をたくさん獲って喜んで「聖王の与えられた魚だ」と言いました。

こういう事から、この辺りの魚は6月になると、いつも酔っ払ったように口をパクパクさせるようになりました。

秋7月5日に皇后は豊浦の津に泊まりました。この日、皇后は如意の珠を海の中から手に入れました。

9月に宮殿を穴門に建てて、皇居としました。これを穴門豊浦宮(あなとのとようらのみや)と言います。

                         (つづく)
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神功皇后(2)

穴門豊浦宮から岡湊、香椎宮へ


仲哀8年春1月4日に仲哀天皇の一行は筑紫に行幸しました。その時、岡の県主(あがたぬし)の祖・熊鰐(くまわに)は天皇の行幸を聞いて、あらかじめ五百枝(いほえ)の賢木(さかき)を土から抜き取って、根の付いたまま九尋の船の舳先に立てて、上の枝には白銅鏡を掛け、中の枝には十握剣を掛け、下の枝には八坂瓊(やさかに)を掛けて、周防のサバの浦に迎えに行きました。そして魚や塩の産地を献上しました。
そして
「穴門から向津野の大済(おおわたり)に至るまでを東門とし、名護屋の大済を西門としています。没利(もとり)島阿閉(あへ)島を御筥(みはこ)とし、柴島をミナヘ(鍋や器)としています。逆見(さかみ)の海を塩の産地としています。」と奏上して、海路を案内して行きました。

山鹿の岬から廻って、岡の浦に入りました。岡の湊に来ると、船が進まなくなりました。
天皇は熊鰐に尋ねました。
「そなた熊鰐は嘘偽りのない忠誠心を持ってやって来たと聞いている。どうして船が進まなくなったのだ。」
熊鰐が奏上しました。
「御船が進まないのは、私の罪ではありません。この浦の口に男女の二神がいます。男神を大倉主と言い、女神をツブラ姫と言います。きっとこの神々の御心でしょう。」と。

天皇は祈祷して神意を尋ね、船頭の倭国の菟田(うだ)の人、伊賀彦を祝人(はふり)として祭らせると船が進むようになりました。

皇后は別の船に乗っていて、洞海(くきのうみ)から内海を通って行きました。まもなく、潮が引いて、動かなくなりました。その時、熊鰐が戻って来て、洞海の方から皇后を迎えに来ました。

ところが船が立ち往生しているのを見て、畏れ入って、すぐに魚が泳ぐ沼池を作らせて、鳥たちが集まって来るようにしました。皇后は鳥たちが群れ集まって魚を狙うようすを見て、ようやく機嫌を直しました。潮が満ちて来ると船は岡の津に停泊しました。

また筑紫の伊都の県主(あがたぬし)の祖・イトテが天皇が行幸したのを聞いて、五百枝(いほえ)の賢木を抜き取って、船の艫舳(ともへ)に立てて、上の枝には八坂瓊(やさかに)を掛けて、中の枝には白銅鏡を掛け、下の枝には十握剣(とつかのつるぎ)を掛けて、穴門の引島に迎えに来ました。

そうして、
「私めが、わざわざこれらの物を献上する訳は、天皇が八坂瓊が優美に曲がっているようにあまねく治めて下さいますよう、また白銅鏡のように山川海原を明確にご覧になれますように、そうして、この十握剣を掲げて天下を平定してくださいますようにという意味からです。」と言いました。

天皇はイトテを褒めて、「いそし」と言いました。これから、イトテの本国を名付けて、伊蘇(いそ)の国と言うようになりました。今、伊都と言うのは訛っているのです。
21日に儺県(なのあがた)に着いて、橿日の宮に居を構えました。

いよいよ仲哀天皇と神功皇后は筑紫に行幸しました。
青い色の所は『ひもろぎ逍遥』で、レポートした神社です。これらの伝承を調べたお蔭で、いつのまにか、日本書紀のこの部分の背景が見渡せるようになっていました。(すごい、上達ぶりですね~)

岡県主の祖の熊鰐は山口県まで迎えに来て、岡の湊まで道案内をし、その先は伊都国から迎えに来たイトテの案内で香椎宮に入っていったのが分かります。迎えに来た彼らは、味方である証拠として、三種の神器をアピールしています。この演出は景行天皇の時にも記述があります。

地図 伊都県 岡県 儺県 穴門豊浦宮


このページの伝承を残す神社は『ひもろぎ逍遥』で、詳しく書いています。

岡湊神社 福岡県遠賀郡芦屋町船頭町 岡水門は大倉主神と熊鰐と神功皇后の伝承の舞台

高倉神社 福岡県遠賀郡岡垣町高倉
(1)日本書紀そのままに残る古社
神功皇后の船を止める男女の二神の宮
(2)弥生の風景そのままに
伊賀彦は水銀産出の国から来て、ここに留まった
(3)草薙の剣を取り戻して造られた7振りの剣から
江戸時代までは八剣神社とも呼ばれていた

神武天皇社 福岡県遠賀郡芦屋町 イワレビコ命はここから東征を始めた?

平原遺跡 福岡県糸島市 曽根遺跡群 伊都国の日の巫女が眠る墓・原田大六氏が救った遺跡だよ
橿日宮(香椎宮) 福岡県福岡市東区 古宮を訪ねて ほか


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神功皇后(3)

神託と天皇の崩御

秋9月5日に、仲哀天皇群臣たちを召して、熊襲攻撃について協議させました。

その時、皇后に神が懸かって神託がありました。
「天皇よ、どうして熊襲が服従しないのを憂うのか。そこは例えれば、肉のついていない背中のように痩せた国であるぞ。兵を挙げて討つほどの国であろうか。

この国より宝がある国がある。例えれば、乙女の眉のように弧を描いた国で、我が国の津に向き合った所にある。眼もくらむ金・銀、美しい色が沢山その国にはある。その名をタクブスマ(タクの木の繊維で作った布団が白い、その白色の名を持つ)新羅の国という。

もし、われを良く祭れば、刃に血を塗る事なく、その国はおのずと降服するであろう。また熊襲も服従するであろう。われを祭るには、天皇の御船と穴門の直(あたい)ホムタチの献上した大田水田を供えよ。」と言いました。

天皇は神託を聞いて、疑いました。すぐに高い山に登って、はるかに大海を望みましたが、広々として国は見えません。天皇は神に答えました。

「私が見渡すと、海ばかりで国は有りませんでした。大空に国がある訳でもありますまい。どこの神が私をだまそうとしているのですか。もともと私の皇祖の諸天皇たちからずっと天地の神々を祭って来ました。どうして、それに漏れた神があるでのしょうか。」と。

すると、再び神が皇后に懸かって、
「天にある水鏡をのぞくように、われが天から下界を見ている国であるのに、どうして国が無いなぞと、私の言葉をそしるのだ。そなた天皇がそんな事を言って、最後まで信じなければ、そなたはその国を得る事は出来まい。ただ、皇后がようやく身ごもったので、その子が手に入れることになるであろう。」と言いました。

しかし天皇はやはり信じないで、強引に熊襲を攻撃しました。勝つ事が出来ないで戻って来ました。

仲哀9年春2月5日に、天皇は急に具合が悪くなり、翌日に崩御しました。おん年52歳でした。神の言葉を信じなかったために早く崩御したのでした。
(ある本には、天皇はみずから熊襲を攻撃して、敵の矢に当たって、亡くなったともいう。)

皇后と大臣の武内宿禰は天皇の崩御を隠して、天下に知らせませんでした。
皇后は大臣の武内宿禰と中臣の烏賊津の連(むらじ)、大三輪の大友主の君、物部のイクヒの連、大伴の武以(たけもつ)の連を召して、
「今、天下はまだ天皇の崩御を知らない。もし人民が知ったら、気を抜くのではないか。」と言って、すぐに四人の大夫(たいふ)に命じて百寮を統率して、宮中を守らせました。

そして、ひそかに天皇の遺体を船に収めて、武内宿禰に海路を穴門まで送らせました。こうして、豊浦宮でモガリをしました。秘密にするために、火を灯しませんでした。これをホナシアガリと言います。
22日に大臣の武内宿禰は穴門から戻って来て、皇后に報告しました。

この年は新羅の役のために天皇の葬儀は出来ませんでした。
                   (つづく)

仲哀天皇が登った高い山は、すぐ近くの立花山でしょうか。会議をしたのは伝承のある、新宮町の神木(=神議)でしょうか。我が国の津は、儺の津の事でしょう。

橿日の宮で仲哀天皇は急に亡くなりました。この場所は香椎宮の古宮です。
『ひもろぎ逍遥』では、この会議のメンバーを推測して、仲哀天皇の兄弟である十域別王、稚武王も加えましたが、この日本書紀によるとメンバーに入ってませんね。

確かに天皇が亡くなれば、すぐに兄弟のどちらかが即位しようとするはずなので、兄弟にも教えなかった可能性があります。この二人はそのまま出陣させて、帰りに遠い島にそれぞれ残したので、もしかしたら最後まで教えなかったのかも、とも思うようになりました。

天皇の亡骸を豊浦宮に船で移送する話について、実際にこの日程で出来るのかどうか、実験考古学の資料をもとに調べると、裏付けがとれました。
このあたりの話は『ひもろぎ逍遥』の次の所で書いています。

香椎宮

(Ⅰ) 古宮を訪ねて
(Ⅲ) 天皇の崩御をどうやって隠す?
志式神社
(Ⅴ) 哀しき神々たち 
三良(さぶろう)天神 と 志志岐(ししき)三神
新宮町の神功皇后伝説

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神功皇后(4)

小山田邑にて祟る神を明らかにする。


仲哀9年、春2月に、仲哀天皇が筑紫の香椎宮で崩御された時、皇后は、天皇がご神託に従わなかったために早く崩御された事に心を痛めて、考えました。

祟っている神を明らかにして、神の勧める財宝の国を求めようと。そこで、群臣や百寮たちに命じて、国中の罪を払い清め、過ちを改めて、さらに斎宮を小山田の邑に作らせました。

 3月の1日に、皇后は吉日を選んで、斎宮に入って、自ら神主となりました。その時には武内宿禰に命じて御琴を弾かせました。中臣の烏賊津(いかつ)の使主(おみ)を召して審神者(さにわ)としました。

そしてお供えの織り物をたくさん、御琴の頭と尾のところに供えて尋ねて言いました。
「先の日に天皇に教えられたのはどちらの神でしょうか。願わくは、その御名を教えて下さい。」と。
七日七夜経って、ようやくお答えになりました。

 「神風の伊勢の国の度逢県(わたらいのあがた)の五十鈴の宮にまします神、名は撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかき・いつのみたま・あまさかる・むかつひめのみこと)。」と。

烏賊津の使主がまた尋ねました。
「この神以外に他の神はいらっしゃいますか。」
お答えがありました。
「旗のように靡くススキの穂が出るように出た吾は、尾田の吾田節(あがたふし)の淡郡(あはのこほり)にいる神である。」と。

「他におられますか。」
天事代虚事代玉櫛入彦厳之事代神(あめにことしろ・そらにことしろ・たまくしいりびこ・いつのことしろのかみ)有り。」

「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
そこで、審神者が言うには、
「今答えずに、また後に出て来られることが有りますでしょうか。」
すると答えがあった。
「日向国の橘の小門の水底にいて、海草のように若やかに出てくる神、名は表筒男(うわつつのを)、中筒男(なかつつのを)、底筒男(そこつつのを)の神がおる。」と。
「他におられますか。」
「いるかいないか分からぬ。」
ついに他に神がいるとも言いませんでした。その時に神の言葉を得て、教えの通りにお祭りをしました。
(つづく)


祟る神は、天照大御神、不明神、事代主神、住吉三神でした。

2月5日に仲哀天皇が崩御されて、竹内宿禰が豊浦宮に遺体を送って22日に戻ってくると、3月になって、神功皇后は小山田邑で7日7晩祈って、ようやく神の名を告げられます。

この小山田邑は福岡県古賀市小山田にあります。狭小な地で、秘密が守りやすい地形です。(『ひもろぎ逍遥』にて)

小山田斎宮 (1)(2) 福岡県古賀市小山田 オキナガタラシ姫の神懸かりの地を捜して

このブログを書いた時点では、もう一つの候補地福岡県粕屋郡久山町の「山田の斎宮」と比較しながら、「小山田邑」が正しいだろうと結論付けました。

その後、香椎宮の木下宮司が小山田邑の方に「小山田斎宮」と揮ごうをされた事によって、結論が補強されました。木下宮司は古事記のドイツ語訳を50年かけて完成させています。自社で起きた事件について、私より深く論考された結果によるものと思います。

なお、もう一つの「山田の斎宮」は神功皇后が皇子を出産して後、大和へ向かうまで住んだ聖母屋敷です。群臣と百寮も共に住むにふさわしい広い土地です。

この宮を中心として、竹内宿禰は厳重な守備態勢を整えました。その伝承が伝わるのが「黒男神社」です。(『ひもろぎ逍遥』にて考察)

斎宮(いつきのみや) 福岡県粕屋郡久山町山田 
(Ⅰ)神功皇后の神懸かりの地を捜して   二つの斎宮候補地
(Ⅱ) 二つの斎宮の謎が解けた

黒男神社 福岡県粕屋郡久山町
(1)武渟川別命の子孫・阿部氏が武内宿禰を祀る宮 古代の陣営あと
(2)武内宿禰がすべてをかけて守ったもの


香椎宮 小山田斎宮 斎宮(聖母屋敷) 黒男神社

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神功皇后(5)

筑紫での戦い 熊襲、熊鷲、田油津姫

それから後、皇后は吉備の臣の祖・鴨別(かものわけ)を遣わして、熊襲の国を攻撃させました。それほど経たない内に、熊襲はおのずから降服しました。

また荷持田村(のとりたのふれ)に、羽白熊鷲(はしろくまわし)という者がいました。そのひととなりは強健でした。身体に翼があって、飛んで高く翔けることが出来ました。この度の皇后の命令に従いませんでした。いつも人民をさらっていました。

17日に皇后は熊鷲を討とうと思って、橿日宮から松峡宮(まつおのみや)に遷りました。その時、つむじ風が起こって御笠が吹き飛びました。そこで当時の人々はそこを名付けて、御笠というようになりました。

20日にソソキ野に着いて、すぐに兵を挙げて羽白熊鷲を討って滅ぼしました。側近に語って、「熊鷲を討ち取った。これで私の心は安らかだ。」と言いました。それから、そこを名付けて安(やす)と言うようになりました。

25日に移動して山門県(やまとのあがた)に着いて、即座に土蜘蛛の田油津姫(たぶらつひめ)を討ち取りました。その時、田油津姫の兄の夏羽(なつは)が軍勢を興して、迎え討ちに来ました。しかし妹が殺された事を聞くと、そのまま逃げました。

夏4月3日に北の火前国(ひのみちのくちのくに)の松浦県(まつらのあがた)に着いて、玉嶋の里の小川のほとりで食事を取りました。その時、皇后は針を曲げて釣り針を造り、飯粒を餌にして、裳の糸を引き抜いて釣り糸にして、川の中の石の上に登って、釣り針を投げてウケイをして言いました。

「私は西の方の宝の国を求めようと思う。もし事を成す事が出来るなら、川の魚よ、かかれ。」そうして、竿を挙げると、アユがかかっていました。皇后は「珍しいものがかかった。」と言いました。こうして、当時の人はそこを名付けてメヅラの国と言うようになりました。今松浦の国というのは訛っているのです。

この事があってから、その国の女人は4月の上旬になると、釣り針を川の中に投げ入れて、鮎を釣る習わしが今に続いています。ただし、男が釣っても魚はかかりません。

皇后はこうして神の教えの霊験がある事を確信して、さらに天つ神、国つ神を祭って祈り、西の方を討とうと思いました。そこで神田を定めました。その時、儺の川の水を引かせて、神田を潤そうと思って、溝(うなで)を掘りました。とどろきの岡に至ると、大岩がふさがって、溝を通す事が出来ません。

皇后は武内宿禰を召して、剣、鏡を捧げて天地の神に祈らせて、溝を通そうとしました。すると雷が急に鳴り出して、その岩を踏み裂いて水を通しました。そこで人々はその溝を裂田溝(さくたのうなで)と言いました。

皇后は橿日浦に戻って祈り、髪をほどいて海に臨んで、
「私は天つ神、国つ神の教えを受けて、皇祖のみ霊のお蔭を受け、青き海原を渡って、みずから西を討とうとしています。今から頭を海水に漬けます。もし霊験があるなら髪が自然と分かれて二つになりますように。」
と言って、海の中に入って立ち上がると、髪は自然と二つに分かれました。

皇后はその髪を結い上げて男の髪型のミヅラにしました。それから群臣に言いました。
「そもそも軍隊を興し、衆人を動かすのは国の大事である。戦いが容易でも危険でも、勝ち戦さでも負け戦さでも、我々に掛かっている。

今、征伐する国がある。戦いの指揮を群臣たちに命ずる。しかし、もし勝つ事が出来なければ群臣たちが罪に問われる。それは不本意である。

私は女で、戦さには慣れていない。しかし、しばらく男の姿になって雄々しく戦おうと思う。上は天つ神、国つ神のみたまの助けを頼み、下は群臣たちの助けをたよって、兵士を奮い立たせて険しい波を渡り、船隊を整えて財宝の国を手に入れる。

勝利すれば軍功は皆と共にある。勝利でなければ、罪は私だけが引き受ける。私はそう決心した。皆はどう考えるか、協議するがよい。」

群臣たちは皆、
「皇后陛下。天下の為に、国家の安泰の為に全力を尽くします。負けて罪を問われるような事態は決してありません。謹んで勅命を承ります。」と答えました。
(つづく)

羽白熊鷲のことは次にレポートしています。
大己貴神社(1) (旧三輪町) 旧三輪町の中心の宮
       (2)大己貴の語源を考える。穴遅とゾロアスター教と錬金の工人

裂田溝 橿日浦 やす 羽白熊鷲 やまと田油津姫 松浦



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神功皇后(7)

新羅攻撃


冬10月3日、対馬の和珥(わに)の津を出発しました。その時、風の神は風を起こし、海の神は波を立て、海の中の大魚はみんな浮かび上がって船をたすけました。順風が大きく吹いて、帆船は波に乗りました。カジや櫂(かい)を使わずに新羅に着きました。その時、大波が起こって船は国の中に到達しました。まさしく天神地祇が助けたのを確信しました。

新羅の王は戦々恐々として、成す術もありませんでした。そこで諸人を集めて言いました。
「新羅の建国以来、いまだかつて海水が国に上って来た事を聞いたことがない。これは天運が尽きて、国が海中に没しようとするのであろうか。」

そう言い終わらないうちに軍船が海に満ちて、旗が日に輝いていました。鼓や歓声が起こって、山や川に響き渡りました。新羅王はそれを遥かに望んで、想像以上の兵が我が国を滅ぼそうとしていると思い、恐ろしさに気を失いました。

目が覚めると、
「東の方に神の国があると聞いていた。日本と言う。聖王がいて天皇と言うとも。きっとその国の神兵たちだろう。挙兵して応戦することは無理だろう。」
と言って、白旗をあげて、首に降伏の印の白い縄を付けて降伏しました。

土地の図面と人民の戸籍を封印して支配権を放棄したことを示し、王船の前に降伏しました。頭を垂れて、
「今から後、長らく天地に従うように、貴国に従って馬飼部となります。船のカジが乾かないほど頻繁に春と秋には馬の櫛とムチを献上してお仕えします。また遠く海を越えるのを厭わず、毎年、男女を献上します。」と言いました。

そして重ねて誓って、
「東から出る太陽が西から昇ったり、天の川が逆さまに流れたり、川の石が昇って星となるような事が起こらないのに、春秋の朝貢や馬の櫛とムチの献上を止める事があったら、きっと天の神、地の神の罰があるでしょう。」と言いました。

その時、日本側の或る人が「新羅の王を殺しましょう。」と言いました。
すると皇后
「もともと神の教えを受けて、金銀の国を授けられるのだ。全軍に『自ら降伏するものを殺してはならない』と命令したのだ。既にこうして財宝の国は手に入った。新羅の者は自ら降伏したのだ。殺すのは不条理だ。」
と言って、その縄をほどいて馬飼部としました。

ついに、その国の中枢に入って財宝の蔵を封印して、地図・戸籍・文書を没収しました。そして皇后の持っていた矛を新羅王城の門に立てて、後の世の印としました。この矛は今でも尚、新羅王城の門に立っています。

そこで新羅王ハサムキム、別名ミシコチハトリ干峡(かんき)を人質として、金銀・彩色・綾絹・うす絹・固く織った絹を八十隻の船に載せて、官軍に従わせました。これよりのち、新羅王が常に八十隻の朝貢を日本国にするのは、この戦いの所以からです。

高麗、百済の二国の王は新羅が地図・戸籍を取り収めて日本国に降伏したと聞いて、ひそかに日本の軍勢を伺い、勝つ事が出来ないのを悟ると、自ら営舎の外に出て、頭を下げて「これより後は、永く西蕃(せいばん)と称して、朝貢をし続けます。」と言いました。

こうして日本は内官家屯倉(うちつみやけ)を置きました。これがいわゆる三韓です。皇后は新羅から帰還しました。



ひとりごと

大波について
対馬から朝鮮半島へは有視界航路です。現代のヨットで博多→釜山間は一日行程です。

初め、この「大波が起こって船は国の中に到達しました」という一文がよく分からなかったのですが、スマトラ沖の津波を見て、この大波は津波と訳すべきではないかと考えるようになっていました。今回の東日本大地震もそうですが、歴史の痕跡を辿ると、人類は津波や噴火との戦いの連続だったのが推し量られます。

地震雲を世に出した眞鍋大覚氏は、逆に新羅の地震のせいで、九州に津波が上がった記録についても書いてあります。(『ひもろぎ逍遥』「針摺の瀬戸と水城 古代、玄界灘と有明海はつながっていた」で一部紹介)


三韓と新羅について
三韓とは普通3世紀頃では「馬韓・辰韓・弁韓」を指し、4世紀では「百済・新羅・高句麗」を指します。8世紀の日本人には、三韓がどちらを指すのかがよく分からないために、表現が混乱しています。

それは、現代の日本人が500年前の朝鮮半島の国がどんなだったかが分からないのと同じだと思います。「新羅」と書いてあるから、4世紀だと決めつけてしまうと、真実の探求が出来なくなる恐れがあるなと思いました。

海路
途中で嵐が起こって漂着したりした伝承が福岡沿岸にいろいろとあります。
『ひもろぎ逍遥』の方で、少しずつ追っていきたいと思います。

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                                    【日本書紀】

神功皇后(8)

出産

神功皇后は12月14日に誉田(ほむた)天皇を筑紫で出産しました。
そのため、時の人は出生地を宇瀰(うみ)と言います。

今回の日本書紀の訳は二行だけです。いろいろと課題の多い事件なので、関係する神社を参考として挙げます。研究に役立てて下さい。

宇美と蚊田 
出産地について、神功皇后摂政の巻では冒頭のように宇瀰としていますが、同じ日本書紀の誉田天皇(応神天皇)の巻では
「誉田天皇は皇后が新羅を討った年の冬12月に、筑紫の蚊田に生まれました。」
となっています。宇美=蚊田説と別の場所説があるようです。

伝承
宇美八幡宮 福岡県粕屋郡宇美町
     神功皇后がホムタワケ命を生んだ場所として伝えている。
     現在も安産を祈願して参拝する人々が絶えない。

王子八幡宮  福岡県粕屋郡志免町
     宝満また宝満山という地名のそばにある。字金明から遷宮したが、
     元宮で王子(ホムタワケ命)が生れたという説がある。

蚊田宮 福岡県三井郡北野町 カダの地名があり、
     神功皇后の出産の伝承がある。ここにも宝満宮がある。

駕輿丁八幡宮 福岡県粕屋郡粕屋 神功皇后を輿に乗せた伝承。

日守神社 福岡県粕屋郡粕屋 神功皇后が時間を聞いたという伝承がある。
  
かだ    真鍋大覚氏 「かだ」は星の古語。拾遺p136
      応神帝が御誕生の時、宇美から鳩座βワズン星が南の空に見え、
      大臣星(おほみのほし)と言った。      
      神功皇后の御安産の前後にありとあらゆる倭法で万全を期した
      武内宿禰の名をとったと聞く。

      宇美星(おほみのほし)が倭人伝の頃は不彌星(ふみのほし)とな
      り、母が身二つになることを祈る星でもあった。

     「誉田」とは「中稲(なかて)」の事。(拾遺p200)


『ひもろぎ逍遥』でのレポートは駕輿丁八幡宮だけです。(2011、3月現在)

当時は立産で、木の枝に両手で万歳の形で支えにして出産したという話もあります。

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