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                                    【日本書紀】

神功皇后(9)

別伝

ある本に曰く、
足仲彦天皇(たらしなかつひこ=仲哀天皇)は筑紫の橿日の宮を宮処としました。
その時、サバの県主(あがたぬし)の祖であるウツヒコ・クニヒコ・松屋種(まつやたね)に神が懸かって、天皇に教えました。
「天皇がもし宝の国を手に入れたいと望めば、実際にお授けしよう。」と。
すぐにまた続けて、
「琴を持って来て皇后に勧めなさい。」
と言いました。

そこで神の言葉に従って、皇后は琴を弾きました。すると神が皇后に懸かって教えました。
「そなた天皇の所望する熊襲の国は、例えれば鹿の角のようなものである。実がない国である。今、そなたが乗っている王船と穴戸の直(あたい)ホムタチが献上した大田という名の水田を供えて、我をよく祀れば、美女の眉毛のようで金銀が沢山あって目もくらむような国をそなたに授けよう。」と。

その時、天皇は神に答えて言いました。
「いくら神といっても、どうして欺こうとされる。何処にそんな国がありましょうや。またわたしが乗る船を神に献上したら、私はどの船に乗ったらいいのですか。それに、どこの神とも分かりません。願わくば神の御名を承りたいものでございます。」

すると神が名乗られました。
表筒男(うわつつのお)、中筒男、底筒男。」と。
こうして三神の名を名乗ってまた重ねて言いました。
「我が名は、むかひつを・もおそほふ・いつのみたま・はやさのぼりの尊である。」と言いました。
すると、天皇は皇后に言いました。
「縁起の悪いことを言われる婦人だ。どうしてハヤサノボリ(速く天に昇る)と言うのか。」と。

すると神が天皇に言いました。
「そなた天皇がこれを信じないならば、その国は手に入るまい。ただし、今、皇后が懐妊している御子が手に入れるであろう。」
この夜、天皇は急に病気になって崩御しました。

この後、皇后は神の教えに従って祭りごとをしました。そうして男の装束を着て、新羅を討ちました。その時は神が留まり、導きました。そのお蔭で波に押されて船は遠く新羅の国の中まで到達しました。

新羅王のウルソホリチカは王船を迎えて、ひざまづいて頭をつけて言いました。
「臣下である私は、日本の内官家(うちつかんけ)として、これから後、日本国にまします神の御子に、絶えることなく朝貢します。」と。

新羅王
この別伝ではウルソホリチカです。
本伝ではハサムキム、即ちミシコチハトリ干峡(かんき)でした。
ある程度研究されているようですが、まだ未解決のようです。

この別伝の後、もう一つ別伝が書かれていますが、時代に合わないので省略します。



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                                    【日本書紀】

神功皇后(10)

東征

戦勝を収めると軍に従った神、表筒男、中筒男、底筒男の三柱の神々が皇后に教えて言いました。
「我が荒魂を穴門の山田の邑に祭りなさい。」と。

その時、穴門の直(あたい)の祖、ホムタチと津守の連(むらじ)の祖のタモミの宿禰が皇后に言いました。
「神が鎮座したいと言われる所には必ず定めて祭られますように。」
そこで、ホムタチを荒魂を祭る神主にして、祠を穴門の山田の邑に立てました。

こうして新羅を討った翌年の春2月に、神功皇后は群臣・百寮を率いて、穴門の豊浦の宮に遷りました。そこで仲哀天皇の亡骸を収めると、海路で京に出ました。

その時、香坂王(かごさかのおう)と忍熊王(おしくまのおう)は
「天皇が崩御された。また皇后が西を討って、あわせて皇子が新たに誕生された。」
と聞いて、密かに話し合って、
「今、皇后には御子がいる。群臣はみな従っている。きっと共に謀って、若い御子を天皇に立てるだろう。吾らは兄なのにどうして弟に従えるか。」と言いました。

そこで偽って天皇の為に御陵を作るふりをして、播磨に行って赤石で御稜の構築を興しました。船団を編んで淡路島に渡して、その島の石を運んで造りました。

その時、一人ずつ武器を持たせて皇后を待ちました。犬上の君の祖、倉見別(くらみわけ)と吉師の祖のイサチの宿禰は共に香坂王に付きました。そして将軍として東国の兵を興させました。

一方、香坂王と忍熊王は一緒にトガノに出て、ウケヒ狩り(占いの狩)をして
「もし、事が成就するならば、必ず良い獲物が手に入る」
と言いました。

二人の王はおのおの仮の桟敷にいました。赤いイノシシが急に出て来て桟敷に登って、香坂王を食い殺しました。軍勢はみな恐れました。忍熊王は倉見別に
「これは重要な験(しるし)だ。ここで敵を待ってはならない。」と言って、軍勢を引いて戻り、住吉に駐屯しました。

この時、神功皇后は忍熊王が軍勢を起こして待っていると聞いて、武内宿禰に命じて皇子を抱かせ、迂回して南海に出て、紀伊水門に停泊させました。皇后の船はまっすぐ難波を目指しました。その時、皇后の船が海中でぐるぐる廻って、進めなくなりました。そこで務古水門に戻って占いをしました。

すると、天照大神が教えました。
「我が荒魂を皇后に近づけてはならない。広田の国に祀りなさい。」と。
そこで山背の根子の娘、葉山姫に祀らせました。

またワカヒルメの尊が教えて言いました。
「吾は活田の長峡(いくたのながお)の国にいよう。」と。
そこで海上(うながみ)のイサチに祀らせました。

また事代主の尊が教えて言いました。
「私を長田の国に祀りなさい。」と。
そこで葉山姫の妹の長姫に祀らせました。

また、表筒男・中筒男・底筒男の三柱の神が教えて、
「吾が和魂(にぎみたま)を大津のヌナクラの長峡(ながお)に祀りなさい。そこで往来する船を見守ろう。」と言いました。こうして神の教えのままに神々を鎮めました。すると無事に海を渡る事が出来ました。

忍熊王はさらに軍勢を退却させて、ウヂに行って、軍勢を立て直しました。皇后は南の紀伊の国に行って、日高で皇子に会いました。群臣と協議して、ついに忍熊王を攻撃するために、さらに小竹宮(しののみや)に遷りました。  


住吉神社 下関市一の宮町 ホムタチを荒魂を祭る神主と定めて、祀った穴門の山田の邑。


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                                    【日本書紀】

神功皇后(11)

忍熊王を攻撃

この時、昼なのにまるで夜のように暗い日々が何日も続きました。当時の人たちは「常夜になってしまった。」と言いました。
皇后は紀の直(あたい)の祖である豊耳
「昼でも暗い原因は何だろうか。」と尋ねました。

その時、一人の老父
「言い伝えでは、このような怪異をアザナヒの罪と言うそうです。」と答えました。
「それはどういう事だ。」と尋ねると、
「二つの社の祝物(はふり)を、一緒に葬ったのではないでしょうか。」
そこで邑や里に調べに行かせると、ある人が、
小竹の祝(はふり)と天野の祝が、仲の良い友だったのですが、小竹の祝が病気にかかって死んでしまいました。すると天野の祝が血の涙を流して、
『二人は生きている間、親しい友だった。死んでも同じ穴に葬られたい。』
と言って、遺体の傍で自害しました。それで合葬したのです。もしかしたら、この事でしょうか。」
と言いました。

それを聞いて墓を開いて確かめると事実でした。そこで棺を改めて、別々に埋葬しました。すると、太陽が輝きだして、昼と夜の区別がはっきりとするようになりました。

3月5日に、皇后は武内宿禰と和邇(わに)の臣の祖の武振熊(たけふるくま)に命じて、数万の軍勢を率いて、忍熊王(おしくまのみこ)を攻撃させました。そこで武内宿禰らは精兵を選んで、山背から出ました。ウヂについて、川の北に駐屯しました。

忍熊王は陣営を出て戦おうとしました。その時熊の凝(こり)という者が忍熊王の軍勢の先鋒となりました。その時、自分の軍勢を奮い立たせようと思って、声高に歌を詠みました。
  かなたの あれあれ、あの松原 
  あの松原に 進んで行って、
  槻弓(つくゆみ)に 音の出る鏑矢(かぶらや)をつがえて、
  貴人は貴人どうし、親友は親友どうし、さあ闘おう。
  我は 闘おう。 霊力が極まっているという 武内の朝臣と。
  腹の中は 小石だらけのやつさ。
  さあ、闘うぞ、我は。

その時、武内宿禰は大軍に命じて、全員に髪を椎(つち)のように結わせました。そして号令をかけて、
「おのおの、控えの弦(ゆづる)を髪の中に収めよ。また木刀を腰につけよ。」
と言いました。そうして、皇后の仰せだと言って、忍熊王をだまして言いました。

「私は天下を取ろうとは思っていません。ただ、幼い皇子を抱いて、君王(忍熊王)に従うだけです。どうして、戦おうなどと思うでしょうか。
願わくは、お互い一緒に弦を絶って武器を捨て、ともに連合して和睦しようではないですか。そうして、君王は皇位を継承して、その席に安心して座り、枕を高くして、よろずのまつりごとを専制なさるがよい。」と。

そう言うと、はっきりと分かるように軍勢に命じて、全員に弓の弦を断ち切らせて、太刀をはずして、川に投げ入れさせました。忍熊王はその偽りを信じて、自分の軍勢に命じて、武器をはずして川に投げ入れて、弓の弦を切らせました。

そうすると、武内宿禰は大軍に号令をかけて、髪に隠した弦を出して再び弓に張って、真剣を付けさせました。そうして、川を渡って進軍しました。

忍熊王は騙された事が分かって、倉見別(くらみわけ)・イサチの宿禰に言いました。
「謀られた。もう、代わりの武器はない。どうして戦えようか。」
といって、軍を連れて少し退却しました。

武内宿禰は精兵を出して、追いかけました。ついに逢阪で対戦して、討ち破りました。それで、その地を名づけて逢坂と言います。忍熊王の軍勢は逃げました。

武内宿禰はささなみの栗林で追いついて、大勢を斬りました。そこに血が流れて、栗林にあふれました。それで、縁起が悪いと言って、今に至るまで、この栗林の木の実は御所に献上しません。

忍熊王は逃げて隠れる所が無くなりました。そこでイサチの宿禰を呼んで、歌を詠みました。
  さあ、我が君、イサチの宿禰よ。
  霊力が極まった 内の朝臣の 
  頭槌(くぶつち)の太刀にやられて 痛手を負わないとするなら、
  ニホ鳥のように 水に潜るしかない。
こうして二人共に、瀬田の渡し場で身を投げて死にました。

その時武内宿禰は歌を詠んで言いました。
  淡海の 瀬田の渡し場に 潜る鳥
  目には見えないので 本当に身を投げたかどうか分からなくて、
  溜息がでる。
そう言って、その遺体を探させたけれども、見つかりませんでした。こうして数日して、ウヂ川に出ました。武内宿禰はまた歌を詠んで言いました。
  淡海の 瀬田の渡し場に 潜る鳥
  田上を過ぎて ウヂで捕まえた。

(つづく)

昼間もなお暗くなったという話は、初めは何の現象か分からなかったのですが、火山が噴火して灰が世界中に廻って冷害をもたらした経験をした今、これはどこかの火山噴火による現象だったのではないかと、想像できるようになりました。

二人を合葬するという習慣があって、祀る神が違う人たちを合葬するのは罪であるという文化思想があったのが読み取れます。神が違えば氏族、人種が違う可能性もありますね。たまたま『ひもろぎ逍遥』で祇園山古墳人丸古墳で男女の合葬などを見たので、墓制を知る上で興味深い話に思われました。



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神功皇后(12)

摂政時代

冬10月2日に、群臣神功皇后を尊んで、皇太后(おおきさき)と呼びました。この年、太歳を辛巳(かのとみ)に催行し、摂政元年としました。
神功摂政2年の冬11月8日に、仲哀天皇を河内の国の長野の陵に埋葬しました。

3年の春正月3日にホムダワケの皇子を皇太子としました。そうして磐余(いわれ)に都をつくりました。これを若桜の宮といいます。       

5年の春3月7日に、新羅の王ウレシホツ、モマリシチ、ホラモチたちを派遣して朝貢しました。それは先に人質となった、ミシコチ伐旱(ほつかんー新羅の官位)を返してほしいという心情からでした。

新羅の使者たちはミシコチ伐旱に謀り事を教えて、欺かせて言わせました。
「使者のウレシホツとモマリシチたちが私めに言いました。
『新羅の王は、私めが久しく還らないので、妻や子供たちを皆捕えて奴婢としてしまった。』と。願わくは、しばらく本土に還って、真偽を確認したいのですが。」と。

皇太后(神功皇后)は許可しました。葛城の襲津彦(そつびこ)を付けて派遣しました。共に対馬に着いて、鉏海(さひのうみー対馬から朝鮮までの海域・諸説あり)の湊に泊まりました。

その時、新羅の使者のモマリシチたちは、密かに船と水手(かこ)を手配して、ミシコチ旱岐(かんき)を乗せて新羅に逃がしました。その時、人形を作ってミシコチの布団の中に置いて、偽って病人のふりをさせて、襲津彦に言いました。
「ミチコチが急に病気になって死にそうです。」と。

襲津彦は人を送って病人を見に行かせました。そこで騙された事が分かって、新羅の使者三人を捕えて牢屋に入れて、火をつけて焼き殺しました。そして新羅に行って、蹈鞴津(たたらのつ)に行き、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰国しました。この時の捕虜たちは今の桑原、サビ、高宮、忍海(おしぬみ)たちの、四つの邑の漢人(あやひと)らの始祖です。

13年の春2月8日、神功皇太后は武内宿禰に、皇太子に従って角鹿(つぬが)の笥飯(けひ)の大神に参拝するように命じました。
17日に皇太子は角鹿から帰って来ました。この日に、皇太后は太子の為に大殿で宴をしました。皇太后は酒をなみなみと注いだ杯をささげて、皇太子を祝福しました。そして、歌を詠みました。

  この御酒は 私の作った御酒ではありません。
  神酒の司、常世の国にいます 
  少御神(すくなみかみ)が 豊かであるように祝福し、
  長寿であるように祝福し、
  神祝いをして 祝い狂って 出来上がった御酒です。
  残さず飲みたまえ。ささ。

武内宿禰は皇太子に代わって返歌をしました。
  この御酒を 醸した人は 
  その鼓を 臼のように立てて
  歌いながら 醸したんだなあ。
  この御酒の やたら 楽しさと言ったら。
  さあ。

神功摂政39年。この年、太歳を己未(つちのとひつい)に催行しました。
「魏志」に曰く、明帝の景初の3年の6月、倭の女王が大夫・難斗米たちを派遣して、帯方郡に至り、天子に謁見を求めました。太守の鄧夏は役人を派遣して、魏の都洛陽に一行を行かせました。

40年。「魏志」に曰く、正始元年に建忠校尉・梯携たちを派遣して詔書と印綬を倭国に賜りました。

43年.「魏志」に曰く、正始4年、倭王は再び大夫の伊声者掖耶たちを派遣して朝貢しました。

46年の春3月1日に、斯摩(しま)の宿禰卓淳(とくじゅん)国に派遣しました。卓淳の国王・マキム旱岐(かんき)が斯摩宿禰に話しました。
「甲子(きのえね)の年の7月20日に、百済人(くだらびと)クテイ、ミツル、マクコの三人が我が国に来て言いました。

『百済の王が東の方に日本という貴い国がある事を聞いて、臣下を派遣して、その貴い国に朝貢させました。道を探し求めて、その国に着きました。もし、貴殿の国の臣下にも道を教えて通わせるなら、我が国王も深く貴殿をよろこばしく思います。』と。

それを聞いて、私(卓淳国王)はクテイたちに言いました。
「前から、東の国に貴い国がある事は聞いていた。しかし、通ったことがないので、道も分からない。ただ、海のかなた遠くにあって波が険しい。大船に乗るなら、何とか通う事が出来るだろう。もし湊があるとしても、船がなければどうして行く事ができようか。」と。

すると、クテイたちが言いました。
『それならば、すぐ今は通う事は出来ないでしょう。また帰国して船を準備しますから、その後に(便乗して)通うと良いでしょう。』
また念を押して言いました。
『もし、貴い国の使者が来る事があれば、必ず我が国に伝えたまえ。』とも。
そう言って帰国しました。」

その話を聞いて、斯摩宿禰は従者のニハヤと卓淳国の人、ワコの二人を百済国に派遣して、その王を慰労しました。時の王・百済の肖古(しょうこ)王は深く喜んで、手厚く待遇しました。

その時、五色の綾織の絹をそれぞれ一匹、また牛の角を張りつけた弓矢、合わせて鉄ののべ板40枚をニハヤに預けました。またすぐに宝の蔵を開けて、いろいろ珍しいものを見せて、
「我が国には献上物にしたい珍宝があります。貴国に献上しようと思っていても、道が分からない。志はあっても、かないませんでした。しかし、今、使者に預けて、献上します。」と言いました。

そこで、ニハヤはそれを受け取って、還って来て斯摩宿禰に話を伝えました。こうして、斯摩宿禰は卓淳国から帰国しました。

(注…百済人は日本へ朝貢したと、卓淳国では言っていましたが、自国では、ニハヤには道が分からなかったと言っています。矛盾しますがそのまま訳します。)

ひとりごと
この部分には有名な魏志倭人伝の記事に該当する文が挿入されています。
この事から、神功皇后=卑弥呼と解釈する人もいます。
卑弥呼の人生と神功皇后の人生を並べて比較すると全く別人物である事が分かります。
この挿入部分は、日本書紀の編者が神功皇后=卑弥呼としたかったからで、その為に
神功皇后の寿命を100歳にしたという説もあります。


韓国の弾琴台土城で鉄鋌が40枚出土した記事が新聞に載っていました。
時代は少し違いますが、40枚という数字が日本書紀のこの部分と一致することで、
興味深いものとなっています。
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(2011年3月24日 西日本新聞 写真・文は福岡大学教授 武末純一氏による)
記事は『ひもろぎ逍遥』「弾琴台土城」にて掲載
http://lunabura.exblog.jp/16245067/
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神功皇后(13)

百済と連合して新羅に勝利す
 
 
神功摂政47年の夏4月に、百済の王クテイ、ミツル、マクコを日本に派遣して朝貢しました。その時、新羅国の朝貢の使者もクテイと共に参りました。皇太后と太子・誉田別尊(ほむたわけのみこと)は大いに喜んで言いました。

先の王の所望された国の人が今、来朝した。痛ましい事よ、天皇は亡くなってしまって、間に合わなかった。」と。群臣たちは皆涙を流しました。

このあと二つの国の貢物(みつぎもの)を調べました。すると、新羅の貢物には珍しいものが沢山ありました。百済の貢物は少なくて、賤しくてよくありませんでした。そこで百済のクテイたちに尋ねました。
「百済の貢物は新羅に劣っているが、どうしてだろうか。」
答えて言いました。

「私たちは道に迷って、沙比(さひ)の新羅に着きました。すると新羅人は私たちを捕えて牢獄に入れました。三か月すると、殺そうとしました。その時、私たちは天に向かって呪詛(じゅそ)しました。新羅人はその呪詛を恐れて殺せませんでした。

しかし、私たちの持っていた貢物を奪って、自国の貢物としました。新羅の賤しいものを百済国の貢物とした上で、私たちに言いました。

『もし、これを取り違えてしまったら、帰国した時にお前たちを殺す。』と。私たちは恐れて従うのみです。こうして、なんとか生きて日本の朝廷に来る事が出来ました。」と。

それを聞いて皇太后とホムタワケの命は新羅の使者を責めて、天神に祈って言いました。
「誰を百済に派遣して、この話の真偽を確かめさせたらいいでしょうか。誰を新羅に派遣して、その罪を問えばいいでしょうか。」と。

そこで、天神が教えて言いました。
武内宿禰に計画させよ。そして、千熊長彦(ちくまながひこ)を使者にすれば、まさに願いの通りになるだろう。」と。こうして、千熊長彦を新羅に派遣して責めると、百済の献上物を横取りしたのが明らかになりました。     

49年の春3月に、荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)を将軍に任命しました。クテイたちと共に軍備を整えて、海を渡って卓淳国(とくじゅん)に行って、新羅を攻撃しようとしました。

その時、ある者が言いました。
「兵士が少なくては新羅を破ることはできません。サハクカフロに援軍を頼むのがよろしいかと。」
進言を受けて援軍を頼むと、百済のモクラコンシササナコは精兵を率いて、サハクとカフロと共に卓淳に集合して、新羅を攻撃して討ち破りました。

こうして、ヒシホ・南加羅・トクの国・安羅(あら)・多羅・卓淳(とくじゅん)・加羅、七つの国を平定しました。それから西の方に兵を移動させて、コケイの津に至って、南蛮のトムタレ(済州島)を討って百済に授けました。

それを受けて、百済王の肖古(しょうこ)とクウィス王子が軍勢を率いてやって来ました。その途中、ヒリ・ヘチュウ・ホムキ・ハンコの四つの邑は戦わずに降伏しました。

百済の王と王子は、荒田別・モクラコンシたちにオル村(ツルスキ)で会いました。互いに喜んで厚く礼を交わしました。

四人の中で千熊長彦と百済の王だけが百済国に行って、ヘキ山に登って誓いました。

またコサ山に登って一緒に岩の上に座りました。そして百済の王は、
「もし草を敷いて敷物としたら、火に焼かれる事もありましょう。
また木を組んで敷物としたら、水に流される事もありましょう。
こうして岩の上に座って誓うのは、永遠に朽ちることはないという事を示しています。

だからこの誓いは今からのち、千秋万歳に絶えることなく、終わることもないのです。
常に貴国の西蕃と称して、春秋に朝貢します。」
と言って誓いました。

それから千熊長彦を都に連れて行って、手厚く待遇しました。その後クテイたちを添えて千熊長彦を日本に送り届けました。

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神功皇后(14)

百済は七支刀と谷那の鉄を献上する
 
50年の春2月に荒田別たちは帰国しました。

夏5月に、千熊長彦クテイたちも百済から戻って来ました。皇太后は喜びながらも、クテイに、
「海の西のもろもろの韓をすでにそなたの国に与えた。それなのに、またこうして何度もやってくるのはどうしてなのか。」と尋ねました。

クテイたちは、
「天朝の恵みは、遠くて卑しい我が国にまで及んでおります。我が王も喜んで踊り出さんばかりです。そこで真心を示すためにこうして再び参りました。万世に渡るまで必ずお仕えする心を示すためです。」
と奏上しました。

皇太后は
「嬉しいことを言ってくれる。それは私の望むところだ。」
と言って多沙城(たさのさし)を追加して与えて、通い路の駅舎(うまや)としました。

51年春3月に、百済王はまたクテイを派遣して朝貢しました。
皇太后は皇太子武内宿禰に、
「親しくする百済国は、人ではなく天が与えたような国ですね。貢いで来る物は珍しいものばかかりで、見たこともないものばかり。時を置かず常に朝貢して来て、大変喜ばしいことです。(私が死んだあとも)変わらず、厚く恩恵を与えるように。」
と言いました。

その年、帰国するクテイを千熊長彦に送らせました。百済に着くと皇太后の言葉を伝えました。
「われは神の示しに従って初めてここに道を開いた。海の西を平定して百済に与えた。今また友好の縁をしっかりと結び、永遠に慈しむものである。」

百済の王の父子は並んで額を地につけ、
「貴国の恩恵は天地より重いものです。いついかなる時にも決して忘れません。聖王は天上にあって、月や太陽のように輝いておられます。私めは下に侍って、忠誠の心は山のように不動です。永遠に西蕃となって、二心(ふたごころ)は持ちません。」と言いました。

52年の秋、9月10日にクテイたちは千熊長彦に従って来朝しました。その時、七支刀一口、七子(ななつこ)の鏡一面、および種々の宝を献上しました。そして、
「臣下である我が国の西に川があり、水源は谷那(こくな)の鉄山から出ています。

大変遠いところで、七日では着きません。そこに行き、その山の鉄を採って、永遠に聖朝に献上します。」
と言いました。

そうして、肖古王は孫のトムル王に、
「今わたしが使者を通わせている海の東の貴い国は天がひらいた国です。その国が天の恩を我が国にも与えて、海の西側を分けて与えてくれた。だから、この国の基盤は永遠に固いのです。

そなたも、この友好関係を大切にして、国中から集めたものを献上し続けてくれるなら、私は死んでも恨むことはない。」と言いました。これより後、毎年朝貢し続けました。

55年に百済の肖古王は亡くなりました。
56年に百済のクウィス王子が王となりました。
62年に新羅は日本に朝貢しませんでした。その年、葛城襲津彦を派遣して新羅を攻撃しました。
64年に百済国のクウィス王が亡くなり、トムル王子が王に即位しました。
65年に百済のトムル王が亡くなりました。アクヱ王子は年少でした。その叔父の辰斯(しんし)が王位を奪って即位しました。

(66年。この年は晋の武帝の泰初2年である。晋の起居の注に武帝の泰初2年10月に倭の女王が通訳を何人も通して、朝貢したと書いてある。)

69年の夏、4月17日に、皇太后は稚桜(わかさくら)宮で崩御しました。100歳でした。
冬10月15日に狭城盾列陵(さきのたたなみ)に埋葬しました。この日、皇太后に気長足(おきながたらし)姫尊(ひめのみこと)と追号しました。

                                          (終わり)



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                                    【日本書紀】

蘇我の稲目(1)
そがのいなめ
稲目は大臣となる。

宣化天皇元年、春1月に都を檜隈(ひのくま)の廬入野(いほりの)に遷しました。それを宮の名としました。

2月1日に大伴の金村大連を大連(おおむらじ)とし、物部のアラカヒ大連を大連と、前任同様にしました。また蘇我の稲目宿禰を大臣(おおおみ)としました。阿部の大麻呂臣を大夫(まえつきみ)としました。

5月1日に宣化天皇の詔(みことのり)がありました。
「食糧は天下の根本である。黄金が万貫あっても、飢えを癒す事はできない。白玉が千箱あっても寒さを助けることは出来ない。

筑紫の国は遠近の国々が朝貢してくる所で、往来の関門にあたる所である。海外の国は海流を観測して来朝して賓客となり、空の雲を観察して朝貢して来る。

胎中天皇である応神天皇の時から私に至るまでに、稲モミを収蔵して、余剰米を蓄えている。凶作の年にそなえ、賓客を手厚くもてなす事ができる。国を安泰にするのに、これより優れた方法はない。

だから、私は阿蘇の君を遣わして、河内の国の茨田(まむた)郡の屯倉の稲モミを運ばせようと思う。蘇我大臣稲目の宿禰は、尾張連(おわりのむらじ)を遣わして、尾張の国の屯倉の稲モミを運ばせよ。

物部の大連アラカヒは新家(にいのみ)の連を遣わして、新家屯倉の稲モミを運ばせよ。阿部の臣伊賀の臣を遣わして、伊賀の国の屯倉の稲モミを運ばせよ。

宮家(みやけ)を那の津のほとりに作らせよ。また、かの筑紫・肥・豊の三つの国の屯倉は分散して遠いところにある。運んで移すのに遥かに隔たっている。もし使おうとしても、急に備える事が出来ない。諸郡に命じて、一部を分けて那の津のほとりに集めて、非常時に備えて、ひたすら人民の命とするように。急いで郡県に命じて、私の心を伝えよ。」

秋7月に物部アラカヒ大連は亡くなりました。この年太歳がありました。

宣化天皇2年。冬10月1日に、天皇は、新羅任那を攻撃したことを知って、大伴の金村大連に命じて、その子の(いわ)と狭手彦(さでひこ)を遣わして、任那を助けました。その時に磐は筑紫に留まって、その国の政治を行い、三韓に備えました。狭手彦は行って、任那を鎮圧し、また百済を救いました。

宣化天皇4年の春2月10日に、天皇は檜隈の廬入野(いおりの)の宮で崩御しました。73歳でした。


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蘇我の稲目(2)

娘二人を天皇に嫁がせる。
三人の孫がのちに天皇になる。


欽明天皇元年。冬12月5日に天国排開広庭天皇(あめくに・おしはらき・ひろには・のすめらみこと)は即位しました。年は若干。先代の皇后を皇太后としました。

大伴の金村の大連物部の尾輿(おこし)の大連を大連(おおむらじ)として蘇我の稲目の宿禰の大臣を大臣(おおおみ)と、これまでどおりに任命しました。

欽明天皇2年の春3月に5人の妃を決めました。その中の一人に蘇我の大臣の稲目の宿禰の娘の堅塩(キタシ)姫がいました。7人の男子・6人の女子を生みました。子の名前。
大兄皇子(=橘豊日尊。のちの用明天皇)、
磐隈皇女(=夢皇女。伊勢の斎宮)、
アトリの皇子。
豊御食炊屋姫尊(とよみけ・かしきやひめのみこと。=額田部の皇女。のちの推古天皇
椀子(まろこ)の皇子
大宅皇女(おおやけのひめみこ)、
石上部皇子、山背皇子、大伴皇女、桜井皇子、肩野皇女、橘本稚皇子、舎人皇女。

もう一人、堅塩姫の同母妹、小姉君(おあねのきみ)も后となりました。子供は4人の男子、1人の女子。
茨城(うまらき)皇子、
葛城皇子、
泥部穴穂部(はしひとのあなほべ)の皇女、
泥部穴穂部皇子(=天香子皇子)、
泊瀬部(はつせべ)皇子
(のちの崇峻天皇)。

(つづく)


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蘇我の稲目(3)

百済伝来の仏像を礼拝する

欽明天皇13年、冬10月に、百済の聖明王は西部・姫氏(きし)達率(だちそち・官名)ヌリシチケイたちを派遣して、釈迦仏の金銅像一柱と幡蓋を(はたきぬがさ)若干、経論を若干巻献上しました。

仏の教えが流通して礼拝する功徳を称賛して、
「この法は諸法の中で最も優れています。解り難く、入るのにも難しく、中国の周公も孔子も知る事が出来ないような内容です。この法は無限で、福徳果報があって、この上もない菩提の境地を得られます。

例えば、願いを叶える宝珠を持って用いると、ことごとく意のままになるように、この妙法の宝も祈り願えば思いのままで、足りないことはありません。

遠くはインドから三韓に至るまでに、この教えに従い捧げ持ち、尊んで敬わないものはいません。

そこで、百済の王臣の明(めい)が謹んで、陪臣ヌリシチケイを遣わして帝国にお伝えして、国内に流通するようにと献上します。釈迦仏が、『私の法は東に伝わるだろうと』と言われた言葉を果たす事になります。」

この日、天皇は聞き終えると大変喜んで、使者に
「私は昔から今に至るまで、このような精妙な法を聞いたことがない。しかし、私自身では決定はすまい。」と言いました。そして、群臣に一人ずつ尋ねました。
「西の国が献上した仏の顔は端厳である。こんなものを見たことがない。敬うべきかどうか。」
蘇我の大臣の稲目の宿禰は、
「西の方の国々はみんなこれを礼拝しているのなら、豊秋つ日本だけが背くのはどうでしょうか。」と奏上しました。

物部の大連尾輿(おこし)と中臣の連鎌子(かまこ)は、
「我が国家で、天下に王として君臨される所以は、天地の社に常におられます180の神を、春夏秋冬に祭礼されるからです。

今あらためて他国の神を拝むようなことをされたら、国つ神の怒りを招く恐ろしい事になるでしょう。」と同じ意見を奏上しました。

天皇は
「それでは賛成している稲目の宿禰に授けて、試みに礼拝させよう。」と言いました。

稲目の大臣はひざまずいて受け取って喜びました。そして小墾田(おわりだ)の家に安置しました。丁重に出家の業を修養して、依り所としました。向原(むくはら)の家を清め払って寺としました。

後に国に疫病が起こって、多くの民が死にました。それは長く続き、大勢の人が亡くなりました。防いで治療する事が出来ませんでした。

物部の大連尾輿と中臣の連鎌子は共に天皇に、
「以前、私たちの意見をお聞き入れにならなかったので、この疫病が起こったのです。すぐに元通りにすれば、必ず恵みがあるでしょう。早く異国のものを投げ捨てて、日本の神々に幸いを求めてください。」と奏上しました。
天皇は、「その通りにせよ。」と言いました。

有司(つかさ)はすぐに蘇我の稲目の家の仏像を取って、難波の堀江に流し捨てました。また伽藍に火をつけました。燃え尽きて、跡形も無くなりました。その時、風も雲もないのに突然、磯城島宮の大殿が燃え上がりました。
(つづく)


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蘇我の稲目(4)

百済王子・余昌と亡き王について語る

欽明天皇14年、秋7月4日、天皇は樟勾宮(くすのまがりのみや)に行幸しました。

蘇我の大臣の稲目の宿禰は勅命を受けて、王辰爾(おうじんに)を遣わして、船の関税を調べて記録させました。そして、王辰爾を船長(ふねのつかさ)とし、姓(かばね)を与えて船史(ふねのふびと)としました。今の船連(ふねのむらじ)の祖先です。

欽明天皇16年、春2月、百済の王子・余昌(よしょう)は弟の王子・恵(けい)を倭国に派遣して、
聖明王は敵に殺されました。」と奏上しました。(15年に新羅によって殺される。)
天皇はそれを聞いて悼みました。すぐに恵王子のいる津に使者を出して、慰労して許勢の臣に尋ねさせました。
「日本に留まられるか。または本国に戻られるおつもりか。」と。
恵王子は
「天皇の御徳を頂いて、願わくは、亡き父王の仇を討ちたいと思っています。もし憐れんで、兵器を沢山戴けるならば、恥をすすぎ、仇を討つのが私の願いです。私が日本に留まるかどうかは、仰せに従います。」答えました。

しばらくして、蘇我の臣が訪ねて来て、言いました。
「そなたの父、聖王は天の道、地のことわりを悟っていて、その名は四方八方に知れ渡っていた。思い起こせば、国の安定を保ち、日本の隣国を統治して、千年も万年も天皇にお仕えしようと思った人だった。

思ってもいなかった。こうして急に天に昇り、水のように流れ去って戻らず、暗い玄室に永遠の休みにつかれようとは。心が痛くてしかたがない。悲しくてしかたがない。心ある者なら皆悼まずにはいられない。

もしかしたら何かの咎(とが)があって、こんな災いを招いたのだろうか。今からどんな手段で国家を鎮めたらいいのだ。」

王子の恵が答えました。
「わたしめは知恵が足らず、神の大計も分かりません。ましてや、禍福の成り立ちや国家の存亡の事など。」と。

蘇我の卿(まえつきみ)は、
「むかし大泊瀬天皇(雄略天皇)の御世に、そなたの国、百済は高句麗に攻められて(南方に遷都し)、まるで積み重なった卵のように危うかった。

そこで、我が天皇は神祇官の長官に命じて、天地の神を敬って策を授けていただいた。
祝者(はふり)が神託を受けて報告したのは、『国を建てた神を謹んで勧請して、滅ぼうとする百済国王を救えば、必ず国家は治まって、人民は安らかになるであろう。』という事であった。

そこで天皇は神を勧請して、そちらに持って行かせて救われた。だから国は安泰になったのだ。その国を建てた神とは、天地が開けて別れた時、草木が物を言う時代に、天から降って国家を作った神だ。

この頃はそなたの国はうち捨てて祭っていないと聞く。まさに今、その過ちを悔い改めて、神の宮を修理して、神の御霊(みたま)をお祭りすればば、国は栄えるであろう。そなた、この事を忘れてはならないぞ。」と言いました。
(つづく)


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