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                                    【日本書紀】

蘇我の稲目(5)

高句麗の捕虜の姫らを妻に貰い受ける

欽明天皇16年、秋7月4日、天皇蘇我の大臣稲目の宿禰穂積の磐弓の臣らを派遣して、吉備の五つの郡(こおり)に白猪屯倉(しらいのみやけ)を設置させました。

欽明天皇17年、春1月に、百済の恵王子は帰国を願い出ました。そこで、天皇は兵器と良馬を沢山授けました。また多くの褒美を与え、人々は感嘆しました。

阿倍の臣、佐伯の連、播磨の直(あたい)を派遣して、筑紫の国の舟師(ふないくさ)を率いて、守りながら百済に送りました。

その時、特別に筑紫の火の君筑紫の君の子、火の中の君の弟)を派遣して、勇士1000人を率いて守らせて、ミテの津に送らせ、海路の要害の地を守らせました。

秋7月6日、蘇我の大臣稲目の宿禰らを備前の児島郡に派遣して、屯倉を設置させました。葛城の山田の直瑞子(みつこ)を監査役にしました。

冬10月に、蘇我の大臣稲目の宿禰を倭の国の武市の郡に派遣して、百済人の大身狭(おおむさ)の屯倉を、高句麗人の小身狭(おむさ)の屯倉を設置させました。紀の国には海部(あま)の屯倉を置きました。

欽明天皇23年8月に、天皇は大将軍大伴の連狭手彦(さでひこ)を派遣して、兵数万を率いて高句麗を討たせました。狭手彦は百済の計略を用いて、高句麗を打ち破りました。

その王は垣を越えて逃げました。狭手彦はついに勝って、宮殿に入り、珍しい宝物の数々と・七織物のカーテンと鉄屋(くろがねのいえー内容不明)を手に入れて帰還しました。(鉄屋は高句麗の西の高殿の上にあったもので、織物のカーテンは王の奥の部屋のものという)七織物のカーテンは天皇に献上しました。

甲二領、金細工の太刀二振り、彫刻を施した銅の鐘三つ、五色の幡二棹、美女姫(おみなひめ)に侍女の吾田子(あたこ)を付けて、蘇我の稲目の宿禰の大臣に送りました。大臣はその二人を召し入れて妻にして、軽の曲殿(まがりどの)に住まわせました。
(鉄屋は長安寺にあるが、どこの国にあるのかは分からない。)

欽明天皇31年の春3月の1日に、蘇我の大臣稲目の宿禰は亡くなりました。

ひとりごと
崇仏論争がどんなものか知りたくて、訳してみましたが、日本書紀には載ってないようです。何か他に史料があるのでしょうね。
稲目は仏教に帰依しながらも、日本の神への信仰も捨ててはいないように見受けられます。

彼の仕事は屯倉の設置や収税などがメインのようです。
稲目だけを拾ったのですが、途中、任那や新羅などの戦いが沢山描かれています。高句麗からの戦利品が天皇と稲目に送られた事から、彼はよほどの実力者だったんですね。孫たちが天皇になるのはもう少し先の事です。

鉄屋は何か分からないそうですが、簡単に移動できるものだという事が伺えます。長安寺の場所が分からなくなっていると、書いてありましたが、朝倉市に長安寺がありますが…。斉明天皇の朝倉広庭宮の跡地の候補地のそばだけど、関係ないかな…。お寺だから同じ名前があちこちにあるのでしょうね。



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 饒速日尊(3)
 

 塩土の翁がニギハヤヒの降りた美しい国を教える

〔神武天皇〕

カムヤマトイワレビコ天皇の実名はヒコホホデミです。ヒコナギサタケウラヤフキアヘズの尊の第四子です。母は玉依姫です。海童(わたつみ)の娘です。イワレビコ天皇は生まれながらに明達で、意志が堅固でした。15歳で皇太子となりました。成長して日向国の吾田の邑のアヒラツ姫を娶って妃としました。タギシミミの命が生まれました。45歳になって兄弟たちや子供たちに言いました。

「昔、わが天神、タカミムスヒの尊とオオヒルメの尊がこの豊葦原の瑞穂の国を挙げて、わが天孫ヒコホノニニギの尊に授けた。その時、ホノニニギの尊は天のいわくらを開き、雲の道をかき分けて、先ばらいとともにやって来た。この時はまだ太古で、開けていなかった。暗いながらも正しい道を養って、この西の辺境の地を治めてきた。

皇祖は代々神、聖として善行・威光を積み重ねて長年がたった。天祖が天降りしてよりこのかた、179万2470年余りになる。しかし、遠方の地までは恩沢が行き届いていない。ムラごとに君がいて、村ごとに長がいて、境を隔てていさかいが絶えない。

さて、そこで、塩土の翁に尋ねたところ、
『東の方に美しい地が有ります。青山が四方を囲んでいます。その中に天磐船(あめのいわふね)に乗って飛んで降りた者がいます。』と言った。

私が思うに、その地は必ず大業(あまつひつぎ)を開き広めて、天の下に光り居るのにふさわしいだろう。まさしく天地四方の中心であろう。その飛んで降りて来た者というのは、饒速日(ニギハヤヒ)と言うではないか。是非とも行って都を作ろう。」と言いました。

皇子たちも「もっともです。私たちも常にそう思っていました。早く実行なさってください。」と応えて言いました。その年、太歳が甲寅(きのえとら)にありました。

その年の冬10月5日に天皇はみずから皇子たちや・舟師を率いて東征しました。


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饒速日命(4)

 長髄彦は防戦に成功したが、敵軍は再び攻撃して来た。  

〔神武天皇の巻のつづき〕

イワレビコ命(天皇)たちは、速吸の門、宇佐、岡の水門、安芸の国、吉備の国、難波を経て、河内の国草香邑の白肩の津に至った。

夏4月9日にイワレビコ命の軍勢は武器と馬をととのえて、歩いて竜田に向かいました。しかし、その道は狭く険しく、並んで行く事が出来ませんでした。いったん戻って、さらに東の肝駒(いこま)山を越えて、中のクニに入ろうとしました。

それを長髄彦が聞いて、
「天神の御子たちがやって来るのは、きっと我が国を奪おうとしているのだろう。」
と言って、すぐに従えていた軍勢を決起させて、進路をさえぎって、クサカエの坂で対戦しました。流れ矢がイツセの命の肱脛(ひじはぎ)に当たりました。イワレビコ命の軍勢は進軍して戦う事が出来なくなりました。

イワレビコ命は憂いましたが、閃きを心に浮かべて言いました。
「私は日の神の子孫なのに、日に向かって敵を討ったのは天の道に逆らっていた。いったん退いて弱い事を神に示して、神々を祀って、背中に日の神の威光を背負ってお蔭をいただいて敵を襲うのがよい。こうすれば刃に血を塗る事もなく、必ず敵はおのずから敗れるだろう。」と。
皆、「もっともです。」と賛同しました。

そこで、軍勢に命じて、
「しばし留まる。進軍せず。」と言いました。すぐに軍勢を引いて、退却しました。敵は追って来ませんでした。退却して草香の津に着いて、楯を立てて雄たけびをしました。そこで改めて、その津を盾津と呼ぶようになりました。今蓼津(たでつ)というのは訛りです。
その後、イツセの命は傷が悪化して亡くなる。イワレビコ命は八咫烏を得て、エウカシ、エシキなど次々に討っていった。

12月4日にイワレビコ命の軍勢はついに長髄彦を攻撃しました。何度も交戦して、勝つ事が出来ませんでした。その時、急に空が陰って氷雨が降り出しました。すると、金色の神々しいトビが飛んで来て、イワレビコの弓のハズに止まりました。そのトビは稲光のように光り輝きました。

その為に、長髄彦の軍勢は皆まぶしさに目がくらんで戦えなくなりました。長髄とはムラの名前です。それを人の名前に付けていました。イワレビコ命の軍勢のトビの瑞祥が起こったので、時の人はトビのムラと名付けました。今、鳥見(とみ)というのは訛りです。

イワレビコの命はイツセの命がクサカエの戦いで矢に当たって亡くなった事を忘れず、恨み続けて、敵を殺そうと思っていました。

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饒速日尊(5)

ニギハヤヒ命は妻の兄・長髄彦を殺して、
イワレビコ命に帰順する

〔神武天皇の巻のつづき〕

その時、長髄彦はすぐに使者を出して、イワレビコ命に告げました。
「昔、天神の御子が天磐船(あまのいわふね)に乗って天から降りました。名付けて、櫛玉饒速日命(くしたま・にぎはやひ)と言います。この方が私の妹のミカシキヤ姫(=長髄姫=トミヤ姫)を娶って、ついに子供も生まれました。名前をウマシマデの命と言います。

このような事情で、私は饒速日命を君としてお仕えしています。天神の子がどうして二人もおられましょうか。あなたはどうして、さらに天神の子だと名乗って人の国を奪おうとするのですか。あなたは偽りの御子ではないかと思うのですが。」

イワレビコ命は、
「天神の子供は大勢いる。そなたが君とする人が本当に天神の子なら、必ずしるしの物を持っているはずである。それを見せよ。」
と言いました。長髄彦はニギハヤヒ命の天羽羽矢(あまのははや)を一隻、また歩靫(かちゆき)を持って、イワレビコ命に見せました。イワレビコ命はこれを見て、
「本物だ。」と言って、戻って自分の所有する天羽羽矢一隻と歩靫を長髄彦に見せました。

長髄彦はその天表(あまつしるし)を見て、畏れかしこまりました。しかし、武器を構えていて、その勢いを中途で止められませんでした。またなおも間違った考えを持ったまま、捨てる気持ちになりませんでした。

ニギハヤヒの命
はもともと天神が大切に思っているのは、ただ天孫だけだと知っていました。それに比べて、長髄彦のひととなりはねじけた性格で、天孫と人との違いを教えても理解出来ないのを見て、ついに殺してしまいました。そして、衆人を率いてイワレビコ命に帰順しました。

イワレビコ命はもともとニギハヤヒ命は天から降ったという事を知っていました。そうして、今、忠誠心を示しました。それを褒めて寵愛しました。この人が物部氏の遠祖です。

虚空見つ日本の国(そらみつやまとのくに)
神武31年。夏、4月1日に天皇(イワレビコ命)は巡幸しました。腋上(わきがみ)のホホマの岡に登って、国のようすを見て言いました。
「ああなんと!国を手に入れた。内木綿(うつゆふ)のまさき国といっても、(狭い国だといっても、)蜻蛉が並んで飛んで行くように、山々が並んでいるなあ。」と。
そこから初めて秋津島の名が起りました。

昔、イザナギの尊がこの国を名付けて、
「日本は浦安(心やすらぐ)の国、細戈(くわしほこ)が十分にある国、磯輪上(しわかみ)の秀真国(ほつまくにーすくれた国)。」と言われました。

また大己貴(おおあなむち)の大神が名付けて「玉垣の内の国」と言われました。

ニギハヤヒの命は天岩船に乗って、大空を翔け巡ってこの国を見下ろして天下りされました。そして「そらみつ日本の国」と言われました。

太歳とは天皇の一世一代の歴制。太陽暦の四季の初日の立春立夏立秋立冬と春分夏至秋分当時と太陽暦の朔望が一致する日。合計16通りある。菊の紋章は日月を祭祀する天皇の象徴。(『儺の国の星』真鍋大覚)


ニギハヤヒを祀る神社 
福岡県の饒速日尊の伝承を追ってみました。(『ひもろぎ逍遥』)
      笠置山⇒穂掛神社⇒天照神社
天照神社 旧 福岡県鞍手郡宮田町磯光字儀長 現在は宮若市
  (1)ついにニギハヤヒの宮へ行きました。
    http://lunabura.exblog.jp/15581560/
 
  (2)奉納された稲穂の由来
  (3)九州の物部氏の分布図 日本の太陽神は二系統ある 
 
穂掛神社 笠置山の麓にある美しい渓流に聖地はあった
    天照神社の元宮 
    http://lunabura.exblog.jp/15664680/ 
 


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                                    【日本書紀】

葛城襲津彦(3)
かづらきのそつひこ 
襲津彦は新羅の人質・ミシコチを
護送する途中、逃げられてしまう。
新羅の草羅城を攻め落として捕虜を連れて帰る。

  
【神功皇后の巻】
それまでのあらすじ
神功皇后の軍勢は新羅に攻め入って、勝利する。新羅の王ハサムキムミシコチハトリ干岐(かんき)を人質として差し出した。高麗(こま)と百済も服従。これが三韓である。

神功摂政5年の春3月7日に、新羅の王ウレシホツ、モマリシチ、ホラモチたちを派遣して、貢ぎ物を持って来ました。それは先に人質となった、ミシコチ伐旱(ほつかんー新羅の官位)を返してほしいという心情からでした。

新羅の使者たちはミシコチ伐旱に謀り事を教えました。ミシコチは皇太后に欺いて言いました。
「使者のウレシホツとモマリシチたちが私めに言いました。
『新羅の王は、私めが久しく還らないので、妻や子供たちを皆捕えて奴婢としてしまった。』と。
願わくば、しばらく本土に還って、真偽を確認したいのですが。」と。

皇太后(神功皇后)は許可しました。葛城の襲津彦(そつびこ)を付けて派遣しました。共に対馬に着いて、鉏海(さひのうみ)の湊に泊まりました。その時、新羅の使者のモマリシチたちが密かに船と水手(かこ)を手配して、ミシコチ旱岐(かんき)を乗せて新羅に逃がしました。

その時、人形を作ってミシコチの布団の中に置いて、偽って病人のふりをさせて、襲津彦に言いました。「ミチコチが急に病気になって死にそうです。」と。

襲津彦は人を送って病人を見に行かせました。そこで騙された事が分かって、新羅の使者三人を捕えて牢屋に入れて、火をつけて焼き殺しました。そして、新羅に行って、蹈鞴津(たたらのつ)に行き、草羅城(さわらのさし)を攻め落として帰国しました。この時の捕虜たちは今の桑原、サビ、高宮、忍海(おしぬみ)たちの、四つの邑の漢人(あやひと)らの始祖です。

※西暦 205年の事です。

                                           (つづく)
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葛城襲津彦(4)

ソツビコは新羅の攻撃を命ぜられる。
沙至比跪は新羅でなく、加羅国を攻撃する。


【神功皇后の巻】

神功摂政62年新羅が貢物をしませんでした。その年に襲津彦を派遣して、新羅を攻撃させました。

百済記によると、
壬午年に新羅は貴国(=日本)に仕えませんでした。貴国は沙至比跪(さちひこ)を派遣して討伐させました。新羅人は美女を二人飾り立てて湊に迎えに行かせました。沙至比跪はその美女を受けて、寝返りして加羅国を討伐しました。加羅の国王コホ旱岐(かんき)とコハククチ、アシュチ、コクサリ、イラマス、ニモンチたちは人民を連れて百済に逃げました。百済は手厚く待遇しました。

加羅の国王の妹のケデンチは大倭に行って、申し上げました。
天皇は沙至比跪(サチヒコ)を派遣して新羅の攻撃を命じました。それなのに、新羅の美女を与えられて、その命令を捨てて、攻撃しませんでした。寝返って、我が国を滅ぼしました。兄弟も人民も皆さすらっています。悲しみに耐えません。それを伝えに参りました。」
天皇は大変怒って、すぐにモクラコンシを派遣して軍勢を率いて、加羅に行って、その国を取り返したと伝えます。

ある本には
沙至比跪(サチヒコ)は天皇の怒りを知って、あえて表だって帰国しませんでした。そのまま潜伏しました。そのに仕えていました。比跪はひそかに使者を出して、天皇の怒りが解けているかどうか尋ねさせました。

妹はそこで、夢を見たことにして言いました。
「ゆうべの夢に沙至比跪が出て来ました。」
天皇は大変怒って言いました。
「比跪がどうして出て来たのだ。」。
妹は帝の言葉を伝えました。比跪は許されていない事を知って、石穴に入って死んだと言います。
※文脈を変えずに訳しています。日本書紀は襲津彦=沙至比跪として書いていると思われますが、襲津彦はこの先にも登場します。

※神功摂政62年は西暦262年。注によると、百済記の記述は壬午年で、382年と解釈されています。その差120年。

※加羅国は二つの可能性があるそうです。広義の加羅は任那地方全体をさして、狭義では「高霊」の加羅がある。地図の中央に赤字で「高霊」と表示しています。


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古代朝鮮の地図は、時代によって変遷があるのですが、確かめようがないので、
今回は「伽耶文化展」の本を参考にしました。
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葛城襲津彦(5)

ソツビコ兄弟は加羅に留まった弓月人民の
日本への亡命を助ける。

【応神天皇の巻】

応神天皇14年の春2月に百済の王衣縫(きぬぬい)の工女を献上しました。マケツと言います。この人は今の来目(くめ)の衣縫の始祖です。

この年、弓月の君が百済から来朝しました。その理由を奏上するに、
「私めは自分の国の人夫120県を率いて帰化しようとしました。ところが新羅人が邪魔をしたので、みんな加羅国に留まっています。」と。

そこで葛城襲津彦を派遣して、弓月の人民を加羅に集めました。しかし、三年たっても襲津彦は戻って来ませんでした。

応神天皇15年の秋8月6日に百済の王アチキを派遣して良馬二匹を献上しました。(略)

応神天皇16年の春2月に王仁(わに)が来朝しました。そこで皇太子のウヂノワキ
イラツコ
の師としました。いろいろな漢書を王仁に習いました。(略)
この年、百済のアクヱ王は亡くなりました。そこで、天皇はトキ王を召して言いました。
「そなた、国に帰って位を継げ。」と。そして、また東韓の地を与えました。東韓は甘羅城(カムラのさし)高難城(カウナンのさし)・爾林城(ニリムのさし)を指します。

8月に平群(へぐり)のツクの宿禰・的(いくは)の戸田の宿禰を加羅に派遣しました。その時、天皇は精兵を授けて、言いました。
「襲津彦は長らく帰ってこない。きっと、新羅が邪魔をしていて、滞っているのだろう。そなたら、急いで行って新羅を撃って、その道を開け。」

そこで、ツクの宿禰たちは精兵を進軍させて、新羅との国境に臨みました。新羅の王は、恐れて罪に服しました。その結果、弓月の人民を率いて、襲津彦と共に帰国しました。


アクヱ王(阿花王)…応神天皇3年。百済のシンシ王が即位して日本に礼をしなかった。そこで、紀角宿禰・羽田八代宿禰・石川宿禰・ツクの宿禰を派遣して、その無礼を責めた。そうして、百済国はシンシ王を殺して謝罪した。紀角宿禰たちはすぐにアクヱを王に即位させて、帰国した。

トキ王(直支王)…阿花王の長子。人質として日本に来ていた。三国史記によると、405年。

皇太子ウヂノワキイラツコはその後、自殺している。

弓月の君秦(はた)氏の祖先。中国の帝秦(しん)氏の後裔とされている。


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葛城襲津彦(6)

無礼な百済の王族の酒君を日本へ連行する

【仁徳天皇の巻】

仁徳天皇41年の春3月に、紀角(きのつの)の宿禰百済に派遣して、初めて国郡の堺を明確にして、つぶさに生産品を記録しました。

この時に、百済の王族の酒君(さけのきみ)が礼をしませんでした。そこで、紀角宿禰は百済の王を責めました。百済の王は畏まって、鉄の鎖で酒君を縛って、襲津彦に渡しました。

こうして、酒君は(日本に連れて来られて)、石川の錦織の首(おびと)コロシの家に逃げました。騙して、「天皇はもう私の罪を許されたのだ。だから、そなたに預けられる事になった。」と言いました。久しくあって、天皇はついにその罪を許しました。

【履中天皇の巻】

イザホワケ天皇(履中天皇)仁徳天皇の皇太子です。母はイワノヒメの命と言います。葛城襲津彦の娘です。仁徳天皇の31年の春一月に皇太子になりました。
                      
                             (日本書紀の記事は以上です)



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葛城襲津彦(7)

謎と矛盾を考えました

                   
サチヒコソツビコは別人だった。
文中に唐突に挿しこまれたサチヒコという人物。百済記から引用したという事ですが、サチヒコが死んだあとも、ソツビコは活躍していました。
二人の人生を比較すると、全く別人だという事が分かりました。

日本書紀の編者は、勘違いして挿入したようです。(後の人が挿入した可能性も)
その原因は、
    1、発音が似ている。
    2、どちらも新羅を討ちに行った。
    3、どちらも長らく帰って来なかった。
    4、どちらも天皇に近い人物である。
という共通点からのようです。
しかし、4については、サチヒコはが皇宮へ、ソツビコはを天皇へ嫁がせています。
ソツビコには姉がいます。妹がいないとは言い切れないのですが、ソツビコの娘に生まれた男の子のうち三人までも天皇にしています。天皇家の外戚として、まさしくこの事件の中枢にいる人です。新羅の美女二人ぐらいでは裏切る事はないですね。

※日本書紀の編集のプロセスを考えました
日本書紀の編者が何冊もの歴史書を付き合わせながら、まとめていったのが、よく分かる部分でした。書いてある通りに西暦200年代だとすると、倭国は100国あったのが30国に統合された時代で、その中の数国には歴史書を編纂する力があったと思われます。

ヤマト統一後の編者はそれら歴史書を手に入れて、30国が1国になるまでの記事の編纂に大変苦労したと思われます。が、上手く行かず、竹内宿禰は300歳となり、仲哀天皇も100歳で即位となりました。(訳していて、200年代の話がいつの間にか400年代になっていて、オドロキ。)

今回、竹内宿禰の子供の葛城襲津彦の兄弟たちの流れを追ってみると、竹内宿禰と同じように年を取っている事が分かったので、このままでは、み~んな数100歳になりそうです。

その原因を考えて見ると、竹内宿禰系の歴史書とか、仁徳天皇系の歴史書があって、それを付き合わせた時に、無理をしたのではないかと思いました。
合体された歴史書を元の数冊に戻せたら、面白いだろうになあ。

※神功皇后の4~5世紀説が出た原因について
資料や本を読んでいると神功皇后の三韓征伐あるいは新羅征伐という事件が4~5世紀の話であるという説がよく見られます。

日本書紀では200年から数年後の話のように書いてあるのに、どうして4世紀と書く人がいるのだろうかと、謎に思っていたのですが、韓国や中国の歴史書と付き合わせて、「トキ王が405年」とあるからだろうなと思いました。あるいは「サチヒコの382年説」から来たのかもしれません。

年代は、まだよく分かりません。真鍋大覚氏の計算では、200年代説です。(主な理由は、神功皇后が3回も大歳をした天文現象を計算した結果です。この大歳については『ひもろぎ逍遥』の「高良大社(4)」にチラリと書いてます。)

                     (つづく)


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葛城襲津彦(8)

福岡県の葛城・平群・曽我
(今回は、福岡県の古代の地名の資料です。)


※簡単に朝鮮半島と往来していた
訳をしていて思ったのは、ソツビコたちに大変機動性がある事です。軍はもちろん、弓月の君王の妹なども日韓を簡単に往来しています。ですから、この話の舞台は、福岡市の早良区や西区を中心とした話ではないかと思うようになりました。
当時の朝鮮半島への航路は唐津経由か志賀島経由でした。

和名類聚抄』によると、福岡市西部を中心に平群曾我、額田、田部などがあった事が書いてあります。大和地方と似た構成です。ですから、渡来人たちは福岡市にまず、拠点を置いて、それから大和地方に移動したと考えるのがナチュラルです。そうすると、どちらにも平群などがある理由が分かります。


※『和名抄』に早良郡に平群や曽我があった事が書いてあった。
「早良郡」ウィキペディアより (早良郡で検索すると出て来ます。)
『和名類聚抄』によれば、毘伊(ひい、現在の城南区樋井川付近)、能解(のけ、現在の福岡市早良区野芥付近)、額田(ぬかだ、現在の西区野方付近)、早良(さわら、現在の城南区鳥飼付近)、平群(へぐり、現在の早良区羽根戸から金武付近)、田部(たべ、現在の早良区小田部付近)、曽我の7郷があったとされる。

※真鍋大覚氏による伝承

『儺の国の星・拾遺』
p244
筑紫で孝元帝(前214~158)から清寧帝(480~484)の間に玄界灘の交易を掌握していた平群は近東系の出であって、月氏のササンの子孫であったと思われる。筑前早良の由来は「ささのあまのはら」で、平群氏が百済人をここに租界させた。
p245
昔、祖先に「かひ」と「とひ」の二つの氏族があった。「かひ」とは夏至を元日とする氏族であり、「とひ」は冬至を元日とする氏族であった。かすかな口伝ではあるが、平群氏は望旦夏至に固執し、曾我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる。

皇極帝(645)年はまさに暦法の採否をめぐって中大江皇子の激烈な論争と対決が背景にあったことを心得なければならない。
「そが」は素娥と書き、月の東洋的異称であった。これに対して、「へぐり」は平群と書き、月の西洋的異称であった。

和名抄には筑前国早良郡の条に、まだ平群、蘇我の郷名が記録されているが、今はない。
所は脇山であって、改名の由来は文書にはない。月を女人に事寄せる泰西の民族の伝統に「わき」なる異邦人の租界の古称を重ねて作り上げたものと古老は語っていた。
賀茂の氏族は日本の開拓者であった。刀剣の類を作り上げるよりも、むしろ百姓の鋤鍬の方を主としていた。北方系の胡人であった。

『儺の国の星』
p155 
早良戸栗(へぐり)は、かつての平群氏の故郷であった。
p196
大和の笠置の山々の名は、筑紫の葛城から神功皇后(201~269)の御宇に遷したものと伝えられる。葛城の峰は香椎宮から太宰府の東の空に連なる。

葛城氏竈門山系と水縄山系を領有して南方貿易を独占していたのに対し、平群氏背振山系と志摩山系を治めて北方貿易を掌握していました。せふりの語源は「へぐり」に在ったと語られますが、日繰(ひぐり)すなわち天文暦法の家系を示す古語であります。

香椎宮から太宰府の東の峰は犬鳴連峰の事でしょうか。
水縄=耳納
ウィキペディアと眞鍋氏を合せて解釈して地図を描いてみました。

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なお、「賀茂」が野芥の北にあります。

大和にこれと重なる構成の地名があるのは教科書で学びます。
葛城襲津彦は筑紫の出身で、大和に移住したものと考えると、うまくいきそうです。
それに前後して、多くの氏族の移住もあったのでしょう。
父親の「竹内(つくしうち)の宿禰」は「筑紫の内の宿禰」と考えました。

※日本書紀中の的(いくは)臣について
ソツビコの子孫が的(いくは)臣です。阿藝那臣も子孫です。藝の字は曇の写し間違いだと思いました。安曇那臣が正しいと思います。的臣は福岡の筑後川流域・浮羽(うきは)で、阿曇那臣は福岡市です。



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