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                                    【日本書紀】

 饒速日尊(3)
 

 塩土の翁がニギハヤヒの降りた美しい国を教える

〔神武天皇〕

カムヤマトイワレビコ天皇の実名はヒコホホデミです。ヒコナギサタケウラヤフキアヘズの尊の第四子です。母は玉依姫です。海童(わたつみ)の娘です。イワレビコ天皇は生まれながらに明達で、意志が堅固でした。15歳で皇太子となりました。成長して日向国の吾田の邑のアヒラツ姫を娶って妃としました。タギシミミの命が生まれました。45歳になって兄弟たちや子供たちに言いました。

「昔、わが天神、タカミムスヒの尊とオオヒルメの尊がこの豊葦原の瑞穂の国を挙げて、わが天孫ヒコホノニニギの尊に授けた。その時、ホノニニギの尊は天のいわくらを開き、雲の道をかき分けて、先ばらいとともにやって来た。この時はまだ太古で、開けていなかった。暗いながらも正しい道を養って、この西の辺境の地を治めてきた。

皇祖は代々神、聖として善行・威光を積み重ねて長年がたった。天祖が天降りしてよりこのかた、179万2470年余りになる。しかし、遠方の地までは恩沢が行き届いていない。ムラごとに君がいて、村ごとに長がいて、境を隔てていさかいが絶えない。

さて、そこで、塩土の翁に尋ねたところ、
『東の方に美しい地が有ります。青山が四方を囲んでいます。その中に天磐船(あめのいわふね)に乗って飛んで降りた者がいます。』と言った。

私が思うに、その地は必ず大業(あまつひつぎ)を開き広めて、天の下に光り居るのにふさわしいだろう。まさしく天地四方の中心であろう。その飛んで降りて来た者というのは、饒速日(ニギハヤヒ)と言うではないか。是非とも行って都を作ろう。」と言いました。

皇子たちも「もっともです。私たちも常にそう思っていました。早く実行なさってください。」と応えて言いました。その年、太歳が甲寅(きのえとら)にありました。

その年の冬10月5日に天皇はみずから皇子たちや・舟師を率いて東征しました。


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饒速日命(4)

 長髄彦は防戦に成功したが、敵軍は再び攻撃して来た。  

〔神武天皇の巻のつづき〕

イワレビコ命(天皇)たちは、速吸の門、宇佐、岡の水門、安芸の国、吉備の国、難波を経て、河内の国草香邑の白肩の津に至った。

夏4月9日にイワレビコ命の軍勢は武器と馬をととのえて、歩いて竜田に向かいました。しかし、その道は狭く険しく、並んで行く事が出来ませんでした。いったん戻って、さらに東の肝駒(いこま)山を越えて、中のクニに入ろうとしました。

それを長髄彦が聞いて、
「天神の御子たちがやって来るのは、きっと我が国を奪おうとしているのだろう。」
と言って、すぐに従えていた軍勢を決起させて、進路をさえぎって、クサカエの坂で対戦しました。流れ矢がイツセの命の肱脛(ひじはぎ)に当たりました。イワレビコ命の軍勢は進軍して戦う事が出来なくなりました。

イワレビコ命は憂いましたが、閃きを心に浮かべて言いました。
「私は日の神の子孫なのに、日に向かって敵を討ったのは天の道に逆らっていた。いったん退いて弱い事を神に示して、神々を祀って、背中に日の神の威光を背負ってお蔭をいただいて敵を襲うのがよい。こうすれば刃に血を塗る事もなく、必ず敵はおのずから敗れるだろう。」と。
皆、「もっともです。」と賛同しました。

そこで、軍勢に命じて、
「しばし留まる。進軍せず。」と言いました。すぐに軍勢を引いて、退却しました。敵は追って来ませんでした。退却して草香の津に着いて、楯を立てて雄たけびをしました。そこで改めて、その津を盾津と呼ぶようになりました。今蓼津(たでつ)というのは訛りです。
その後、イツセの命は傷が悪化して亡くなる。イワレビコ命は八咫烏を得て、エウカシ、エシキなど次々に討っていった。

12月4日にイワレビコ命の軍勢はついに長髄彦を攻撃しました。何度も交戦して、勝つ事が出来ませんでした。その時、急に空が陰って氷雨が降り出しました。すると、金色の神々しいトビが飛んで来て、イワレビコの弓のハズに止まりました。そのトビは稲光のように光り輝きました。

その為に、長髄彦の軍勢は皆まぶしさに目がくらんで戦えなくなりました。長髄とはムラの名前です。それを人の名前に付けていました。イワレビコ命の軍勢のトビの瑞祥が起こったので、時の人はトビのムラと名付けました。今、鳥見(とみ)というのは訛りです。

イワレビコの命はイツセの命がクサカエの戦いで矢に当たって亡くなった事を忘れず、恨み続けて、敵を殺そうと思っていました。

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                                    【日本書紀】

饒速日尊(5)

ニギハヤヒ命は妻の兄・長髄彦を殺して、
イワレビコ命に帰順する

〔神武天皇の巻のつづき〕

その時、長髄彦はすぐに使者を出して、イワレビコ命に告げました。
「昔、天神の御子が天磐船(あまのいわふね)に乗って天から降りました。名付けて、櫛玉饒速日命(くしたま・にぎはやひ)と言います。この方が私の妹のミカシキヤ姫(=長髄姫=トミヤ姫)を娶って、ついに子供も生まれました。名前をウマシマデの命と言います。

このような事情で、私は饒速日命を君としてお仕えしています。天神の子がどうして二人もおられましょうか。あなたはどうして、さらに天神の子だと名乗って人の国を奪おうとするのですか。あなたは偽りの御子ではないかと思うのですが。」

イワレビコ命は、
「天神の子供は大勢いる。そなたが君とする人が本当に天神の子なら、必ずしるしの物を持っているはずである。それを見せよ。」
と言いました。長髄彦はニギハヤヒ命の天羽羽矢(あまのははや)を一隻、また歩靫(かちゆき)を持って、イワレビコ命に見せました。イワレビコ命はこれを見て、
「本物だ。」と言って、戻って自分の所有する天羽羽矢一隻と歩靫を長髄彦に見せました。

長髄彦はその天表(あまつしるし)を見て、畏れかしこまりました。しかし、武器を構えていて、その勢いを中途で止められませんでした。またなおも間違った考えを持ったまま、捨てる気持ちになりませんでした。

ニギハヤヒの命
はもともと天神が大切に思っているのは、ただ天孫だけだと知っていました。それに比べて、長髄彦のひととなりはねじけた性格で、天孫と人との違いを教えても理解出来ないのを見て、ついに殺してしまいました。そして、衆人を率いてイワレビコ命に帰順しました。

イワレビコ命はもともとニギハヤヒ命は天から降ったという事を知っていました。そうして、今、忠誠心を示しました。それを褒めて寵愛しました。この人が物部氏の遠祖です。

虚空見つ日本の国(そらみつやまとのくに)
神武31年。夏、4月1日に天皇(イワレビコ命)は巡幸しました。腋上(わきがみ)のホホマの岡に登って、国のようすを見て言いました。
「ああなんと!国を手に入れた。内木綿(うつゆふ)のまさき国といっても、(狭い国だといっても、)蜻蛉が並んで飛んで行くように、山々が並んでいるなあ。」と。
そこから初めて秋津島の名が起りました。

昔、イザナギの尊がこの国を名付けて、
「日本は浦安(心やすらぐ)の国、細戈(くわしほこ)が十分にある国、磯輪上(しわかみ)の秀真国(ほつまくにーすくれた国)。」と言われました。

また大己貴(おおあなむち)の大神が名付けて「玉垣の内の国」と言われました。

ニギハヤヒの命は天岩船に乗って、大空を翔け巡ってこの国を見下ろして天下りされました。そして「そらみつ日本の国」と言われました。

太歳とは天皇の一世一代の歴制。太陽暦の四季の初日の立春立夏立秋立冬と春分夏至秋分当時と太陽暦の朔望が一致する日。合計16通りある。菊の紋章は日月を祭祀する天皇の象徴。(『儺の国の星』真鍋大覚)


ニギハヤヒを祀る神社 
福岡県の饒速日尊の伝承を追ってみました。(『ひもろぎ逍遥』)
      笠置山⇒穂掛神社⇒天照神社
天照神社 旧 福岡県鞍手郡宮田町磯光字儀長 現在は宮若市
  (1)ついにニギハヤヒの宮へ行きました。
    http://lunabura.exblog.jp/15581560/
 
  (2)奉納された稲穂の由来
  (3)九州の物部氏の分布図 日本の太陽神は二系統ある 
 
穂掛神社 笠置山の麓にある美しい渓流に聖地はあった
    天照神社の元宮 
    http://lunabura.exblog.jp/15664680/ 
 


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                                   【古事記】   
天照大御神(3)

アマテラスと高木の神はイワレビコを助ける

                          イワレビコ=神武天皇

イワレビコに剣と八咫烏を授ける
神倭(かむやまと)イワレビコの命が熊野の村に着いた時に、
大きなクマがほのかに出て来て、そのまま消えてしまいました。
すると、神倭イワレビコの命は急に疲れてしまい、
また率いていた軍勢も皆疲れて倒れてしまいました。

この時、熊野の高倉下(たかくらじ)が、一振りの太刀を持って、
天つ神の御子が倒れている所にやって来て、献上しました。
すると、神倭イワレビコの命はすぐに目が覚めて、起き上がり、
「長く寝たなあ。」と言われました。
そして、その太刀を受け取ると、その熊野の山の荒ぶる神は
ひとりでに皆切り倒されました。
すると惑わされて倒れていた軍勢もみな目が覚めて起きました。

そこで、神倭イワレビコの命が高倉下にその太刀を手に入れた事情を尋ねると、
こう答えました。
「こんな夢を見たのです。天照大御神高木の神の二柱の神が
建御雷の神を召して、言われました。
葦原の中つ国はひどく騒いでいるようだ。我が御子たちが病んでいるらしい。
その葦原の中つ国は、そもそもそなたが平定した国である。
だから、そなた建御雷の神が天降りしなさい。』と。

そこでお答えになったのが、
『私めが直接降りなくても、その国を平定した太刀が有るので、
その太刀を下ろすのがよろしいでしょう。』と。
(この太刀の名は佐士布都(さじふつの)神と言い、
またの名は甕布都主(みかふつぬし)と言い、
またの名は布都御魂(ふつみたま)と言う。この刀は石上神宮にある。)

そして、夢の中で私にお告げになったのです。
『この刀を降ろす方法だが、お前、高倉下の倉の屋根に穴を開けて、
そこから落とし入れる。だから、縁起をかついで、朝目を覚ました時に、
一番最初に目に入るようにして、天つ神の御子に奉りなさい。』と。

朝、目が覚めて、夢で教えられた通りに倉を見ると、本当に太刀がありました。
だから、その太刀を持って献上しに参りました。」
と高倉下は申し上げました。さらに付け加えて言いました。

「その時、また、高木の神が諭して命ぜられた事には、
『天つ神の御子をこれより奥の方には、入らせないようにしなさい。
荒ぶる神がとても多い。今、天からヤタガラスを遣わす。
そのヤタガラスが道案内をするであろう。
それが飛び立った後から、行軍されるように。』との事です。」

それを聞いて、神倭イワレビコの命は教えの通りに、
ヤタガラスの後から行軍しました。

                      (つづく)
◆ヤタガラスが高句麗の古墳の壁画に描かれています。
その謎に取り組みました。『ひもろぎ逍遥』
高句麗壁画(1) 八咫烏―高句麗と日本の賀茂氏の謎
http://lunabura.exblog.jp/i42/

このページは天照大御神を中心に拾い出しているので、
次回は神功皇后の所に飛びます。
このイワレビコの東征の続きは「神武天皇」を見てください。


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神武天皇 (1)

神武の東征


神武天皇は天津ヒダカヒコナギサタケのウガヤフキアエズの命と、
母の代わりに育ててくれた叔母の玉依姫との間に生まれました。
兄はイツセの命、イナヒの命、ワカミケヌの命の三人です。

神武天皇のまたの名は、トヨミケヌの命、カムヤマトイハレビコの命とも言います。

高千穂の宮を発って東に向かう

イハレビコの命は同じ母から生まれた兄のイツセの命とお二人で、
高千穂の宮で話し合いました。
「どこに行ったら、平らかに天の下にあるこの国の政治をして、
臣下たちの奏上する話が聞けるだろうか。やはり、東に行こう。」
と言われて、日向を発って、筑紫に行きました。

そこで、豊の国の宇佐に着いたとき、
その国の人で、名前はウサツヒコ、ウサツヒメの二人が
足一騰宮(あしひとつあがりの宮)を造って、たいそうもてなしました。
そこから移動して筑紫の岡田の宮に一年滞在しました。
またその国より、上って、安芸の国の多祁理(たけり)の宮に七年刊滞在しました。
さらにまた上って、吉備の国の高島の宮に八年間滞在しました。

さて、この国(高千穂の宮の国)から上って行った時、
亀の背に乗って、釣りをしながら袖を振って来る人と出会ったのが
速吸門(はやすいのと)です。

イワレビコの命はその人を呼び寄せて、「そなたは誰であるか。」と尋ねると、
「私めは国つ神です。」と答えました。
「そなたは、海路を御存じか。」と尋ねると、
「よく知っています。」と答えました。
「私に仕えてはくれまいか。」と尋ねると、
「お仕えしましょう。」と答えました。

こうして、長い棹(さお)を伸ばして、その人を自分の船に引き入れて、
サオネツヒコという名前を授けました。(この人が倭の国造などの祖先です。)

ナガスネヒコと戦って、兄のイツセの命は戦死した

そこで、その国から上って行った時、浪速(なみはや)の渡(わたり)を経て、
青雲の白肩(しらかた)の津に船で泊まりました。

この時、トミノナガスネヒコが軍勢を率いて待ち構えて、戦を挑んできました。
そこで船に載せていた楯を持って上陸しました。
こうして、そこを楯津といいます。
今は日下(くさか)の蓼津(たてつ)と言います。

そこでトミビコと戦った時に、兄のイツセの命はトミビコの猛烈な矢の攻撃に会って、
手を負傷しました。そこで言いました。
「私は日の神の御子だから、日に向かって戦うのはよくない。
それで、賤(いや)しいヤツにやられて深手を負った。
この先、遠回りして、背に日を負う方向から撃とう。」
と言って、南の方に進路を取って行く時に、
血沼(ちぬ)の海について、その手の血を洗われました。
そこで、その地を血沼と言うようになりました。

そこから廻って行って、紀の国の男之水門(おのみなと)に着いて、
「賤しいヤツの矢を受けて死ぬのか。」と雄たけびして、亡くなりました。
この謂われから、この水門を名付けて、男の水門と言います。
お墓は紀の国の竈山(かまやま)にあります。

                           (つづく)
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神武天皇 (3)

宇陀の兄宇迦斯・弟宇迦斯
うだのエウカシ・オトウカシ


そこから踏みうがち、山を越えて、宇陀にやって来ました。
だから、そこを宇陀のうがちと言います。
この宇陀には、兄(え)ウカシ弟(おと)ウカシという兄弟がいました。

そこで、イワレビコの命はまず、八咫烏を遣わして、二人に尋ねさせました。
「今からここに、天つ神の御子がお越しになる。お前たちは、お仕えするか。」と。
すると、兄ウカシは鏑矢(かぶらやー音の出る矢)で、
その使いを待って射返しました。
そこで、鏑矢の落ちた所をかぶら崎と言います。
そして、待ち構えて攻撃しようと言って、軍勢を集めました。

しかし、集まらなかったので、「お仕えします」と偽って、大きな御殿を作って、
その中に、押機(おしー踏めば打たれて圧死する仕掛け)を作って隠して、待ちました。

すると、弟ウカシが先にイワレビコの命の所へ出向いて、拝んで言いました。
「私めの兄、兄ウカシが天つ神の御子の使いを射返して、
待ち伏せして攻めようとして軍勢を集めましたが、集まらなかったので、
御殿を造り、その中に押機を張って待って、殺そうとしています。
だから、こうして暴露するために参上ました。」

それを聞いた、大伴の連(おおとものむらじ)等の祖先の道臣の命
(みちおみのみこと)と、久米直(くめのあたえ)等の祖先の大久米の命の二人は、
兄ウカシを召して、ののしって言いました。

「お前がイワレビコ様の為に作ったという御殿の中に、お前がまず入って、
お仕えしようという心を証して見せろ。」
そう言うと、横刀(たち)の柄(つか)を握って見せ、矛を向けて、
弓には矢をつがえて、押し迫りました。

兄ウカシは追い込まれて、自分が作った押機に打たれて死んでしまいました。
道臣の命と大久米の命の二人は死体を引きずり出して、切り散らしました。
こうして、その地を宇陀の血原と言うようになりました。

その後、弟ウカシは盛大な宴でもてなしましたが、
イワレビコの命はすべて自分の軍勢に与えました。
その時に歌を歌われました。

  宇陀の小高い丘に (シギ・鳥の名)の罠を張ったが、
  私の待つ 鴫はかからない。
  なんとまあ、大物のが かかったぞ。

  最初の妻が おかずが欲しいと言えば、
  蕎麦(ソバ)の実の 少ないのを 出してやるさ。
  二番目の妻が おかずが欲しいと言えば、
  イチサカキの実のたくさんついたのを、食べさせてやろう。

  ええ、シヤゴシヤ、これはののしるのさ。
  ああ、シヤゴシヤ、これはあざ笑うのさ。

こうして、弟ウカシは宇陀の水取の祖先となりました。

                     (つづく)
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神武天皇 (4)

 忍坂の土雲・八十建



そこからさらに進軍して、忍坂(おさか)の大室(おおむろ)に来た時、
シッポのある土雲(つちぐもー異部族)、八十建(やそたける)が
その室屋(むろやー洞穴)に集結して、待ち構えていました。

そこで、イワレビコの命は一計を案じ、御馳走を八十建に持って行く事にしました。
相手が八十建ならこっちも八十膳夫(やそかしわでーたくさんの料理人)で行こうと、
大勢の料理人を設けて、どの人にも太刀を佩(は)かせて、説明しました。
「歌を聞いたら、一斉に切りかかるように。」と。
そう言って、その土雲を攻撃することを明かしました。

こうして、実行の時に歌った歌は

  忍坂の 大室屋に 人が大勢来て入っていた。
  人が 大勢入っていても、 
  力満ちている 久米の猛者たちが
  頭椎(くぶつついー持ち手の丸い大太刀)や、石の太刀を持って、
  撃たずにおくものか。
  力満ちている 久米の猛者たちが 
  頭椎や、石の太刀を持って、今、撃てばよい。

と歌いました。
これを合図に、太刀を抜いて一斉にうち殺しました。

久米の子らの歌

さて、その後、イツセの命を殺したトミビコを再び攻撃しようとした時に、歌った歌。

  力満ちている 久米の猛者たちが
  粟(あわ)畑に生えている臭いニラ、
  そいつの根元を、その芽ごと横ざまに切り払うように
  撃たずにおくものか。

と歌いました。またこうも歌いました。

  力満ちている 久米の猛者たちが
  垣根の元に植えた山椒の木。
  噛めばピリリと辛い、あの辛さを忘れない。
  撃たずにおくものか。

と歌いました。さらに、

  神風の吹く 伊勢の海の 大岩に 
  這いずりまわる キサゴ(巻貝)のように
  這いずってでも、撃たずにおくものか。


又、兄師木(えしき)弟師木(おとしき)を攻撃する時、
軍勢はさすがに疲れてしまいました。そんな時に歌った歌。

  楯を並べて イナサの山の 木々の間を 
  行ったり来たりして守って戦ったので
  俺はもう腹が減ってしかたがない。
  島の鳥、ウを飼う鵜飼部(食糧班)よ、 今すぐ助けに来てくれ。

全ての戦いを終えて

こうして、ついに邇藝速日(にぎはやひ)の命がイワレビコの元にやって来て、
申し上げました。
「天つ神の御子が天降り(あまくだり)されたと聞きました。
そこで後を追って降って来ました。」
そう言って、天つ神の子孫である証拠の品を献上して、お仕え申しました。

ニギハヤヒの命がトミビコの妹のトミヤビメを妻にして、
生まれていた子供のウマシマヂの命は
物部の連(むらじ)の穂積臣、ウネベの臣の祖先となりました。

こうして、イワレビコの命は荒ぶる神どもを平定し、
まつろわぬ人どもを退け払い、
畝火(うねび)の白檮原(かしはら)の宮で 天下を治めました。
(つづく)
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神武天皇 (5)

結婚 后と大后


后 アヒラ姫

イワレビコノ命が、まだ日向(ひむか)に居られた時に、
アタのオバシの君(きみ)の妹、アヒラ姫を妻としました。
その二人の間に生まれた御子はタギシミミノ命キスミミノ命です。

大后 イスケヨリ姫

しかし、更に大后(おおきさき)にふさわしい美人を捜す事になりました。
その時、大久米(おおくめ)の命が申し上げました。

「この近くに良い娘がいます。この娘を神の子と言います。
何故かと言うと、三島のミゾクイの娘でセヤダタラ姫という人がとても美しい方で、
三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)が見染めたそうです。
その姫が川の上に作った厠(かわや)に行って、用を足していると、
大物主神は、赤く塗った丹塗りの矢になって、川から流れて来て、
その人のホト(女陰)を突きました。
その姫は驚いて、逃げてイススキ(狼狽し)ました。

その矢を床の所に置くと、たちまちに麗しい男になって、
セヤダタラ姫を妻にしました。
こうして生まれたた子供の名前はホトタタライススキヒメの命と言い、
また、ヒメタタライスケヨリ姫とも言います。
(これはホトという言葉を嫌って後に名前を改めました。)
こう言う事で神の御子と言うのです。」

七乙女

 ある日、七人の乙女たちが高佐士野(たかさじの)で、
野遊びをしている中に、イスケヨリ姫がいました。

大久米の命が、イスケヨリ姫を見つけて、
歌を作って、イワレビコの命に言いました。
   「倭(やまと)の高佐士野を 七人の乙女たちが通って行きます。
   あなたは誰と共寝をしますか。」
この時、イスケヨリ姫は一番前に立っていました。
イワレビコノ命はその乙女たちをご覧になって、
(イスケヨリ姫は一番前に立っている人だろう)と思って、
歌で返事をされました。
  「まあそうだな。一番前に立っている可愛い人と共寝をしよう。」

そこで、大久米の命はイワレビコノ命のお気持ちをイスケヨリ姫に伝えました。
イスケヨリ姫はその大久米の命が目の周りに入れ墨をして鋭い目に見えるのを見て、(変わってるなあ)と思って、歌にして、返事をしました。
  「つばめ、せきれい、ちどり、ほおじろ。それにあなた。
  どうしてそんなに縁取りのくっきりとした目なの。」

それを聞いて、大久米命も歌を返しました。
  「ただ、あなたに会いたいと、探し求めて、大きな目になりました。」

その歌の意を汲み取った乙女は「お仕えしましょう。」と言って、
お后になる事を承知しました。

イスケヨリ姫の家は狭韋河(さいがわ)のほとりにありました。
イワレビコノ命はイスケヨリ姫の家にお出ましになって、一夜、共寝をなさいました。
  (その川を狭韋河と言う訳は、
   その川辺に山百合の花がたくさん咲いていたからです。
   サイとは山百合の花の事です。)

のちに、イスケヨリ姫が入内された時に、イワレビコノ命が歌を詠まれました。
   「葦がいっぱい生えている所の、粗末な小屋で、
   菅で編んだ敷物を清らかに敷いて、私とそなたと一緒に寝たなあ。」

こうして、生まれた御子の名前は、日子八井命(ヒコヤイノ命)。
次に神八井耳命(カムヤイミミノ命)、
次に神沼河耳命(カムヌナカワミミノ命)の三人でした。
                    * 
 神倭(カムヤマト)イワレビコの天皇の崩御の年は137歳。
御陵は畝火山の北の方の白檮(かし)の尾の上にあります。

神武天皇の東征前の伝承が、福岡県の筑前地方各地に残っています。

飯塚市 日若神社  神武天皇が峠の霧で困ったのを助けられた話。
      厳島神社  神武天皇を物部氏が馬を連れて迎えに来た話。
嘉麻市  宇麻美神社(馬見神社)神武天皇が物部氏の案内で
         天孫を祀りに行った所。
宗像市  八所宮  神武天皇たちが東征前に神を祀った所。
北九州市 岡湊神社 一年間逗留した所。

青い所は『ひもろぎ逍遥』で紹介しています。 


イスケヨリ姫の出自については
 『ひもろぎ逍遥』
日若神社(5)イスケヨリ姫との結婚の背景
         姫の名前には古代鉄の暗号が。
で詳しく書いています。                   


イスケヨリ姫の歌に出てくる鳥について、ブログ『徒然なるままに、、、』で、野鳥の会の方に検証してもらった記事が出ましたので、リンクしました。写真付きです。
                   「古事記にでてくる鳥」 
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  高木の神 (高御産巣日神) (Ⅲ)
(たかみむすひのかみ)



神武天皇の東征


神倭イワレビコの命が熊野の村に着いた時に、
大きなクマがほのかに出て来て、そのまま消えてしまいました。

すると、神倭イワレビコの命は急に疲れてしまい、
また率いていた軍勢も皆疲れて倒れてしまいました。

この時、熊野の高倉下(たかくらじ)が、一振りの太刀を持って、
天つ神の御子が倒れている所にやって来て、献上しました。

すると、神倭イワレビコの命はすぐに目が覚めて、起き上がり、
「長く寝たなあ。」と言われました。
そして、その太刀を受け取ると、
その熊野の山の荒ぶる神はひとりでに皆切り倒されました。

すると惑わされて倒れていた軍勢もみな目が覚めて起きました。

そこで、神倭イワレビコの命が高倉下に
その太刀を手に入れた事情を尋ねると、こう答えました。

「こんな夢を見たのです。

天照大御神と高木の神の二柱の神が
建御雷の神を召して、言われました。

『葦原の中つ国はひどく騒いでいるようだ。
我が御子たちが病んでいるらしい。

その葦原の中つ国は、そもそもそなたが平定した国である。
だから、そなた建御雷の神が天降りしなさい。』と。

そこでお答えになったのが、
『私めが直接降りなくても、その国を平定した太刀が有るので、
その太刀を下ろすのがよろしいでしょう。』と。

     (この太刀の名は佐士布都(さじふつの)神と言い、
      またの名は甕布都主(みかふつぬし)と言い、
      またの名は布都御魂(ふつみたま)と言う。
      この刀は石上神宮にある。)

そして、夢の中で私にお告げになったのです。

『この刀を降ろす方法だが、
お前、高倉下の倉の屋根に穴を開けて、そこから落とし入れる。
だから、縁起をかついで、
朝目を覚ました時に、一番最初に目に入るようにして、
天つ神の御子に奉りなさい。』と。

朝、目が覚めて、夢で教えられた通りに倉を見ると、
本当に太刀がありました。
だから、その太刀を持って献上しに参りました。」
と高倉下は申し上げました。
さらに付け加えて言いました。

「その時、また、高木の神が諭して命ぜられた事には、
『天つ神の御子をこれより奥の方には、入らせないようにしなさい。
荒ぶる神がとても多い。
今、天からヤタガラスを遣わす。
そのヤタガラスが道案内をするであろう。
それが飛び立った後から、行軍されるように。』との事です。」

それを聞いて、神倭イワレビコの命は教えの通りに、
ヤタガラスの後から行軍されました。

    (神武天皇  東征の巻)





以上、三回に渡って高木の神が出てくる所を
現代語訳しました。

今回の「神武天皇の東征」では、高木の神たちは
神武天皇が熊野で困難にあった時に、
高倉下の夢に現われて、助けています。

振りかえって見ると、
高木の神と天照大御神は高天原ではいつも一緒でした。

この二柱の神の子供同士も結婚しています。
強力なタッグを組んでいます。
何か古代史の謎を秘めているようですね。

その謎を解くカギとして、この二柱が古代の暦を作る時に、
重要な働きをしている事が分かりました。

高木の神とはアンドロメダ星雲を指すことも分かりました。


『ひもろぎ逍遥』の「高良大社(Ⅳ)」で

「高木の神と玉垂命が交代した謎にチャレンジ
アンドロメダ星雲と暦の変化」

というタイトルで考察しています。
サイドバーのリンクからどうぞ。

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玉依姫            宝満神社 

 玉依姫は海の神さま大綿津見(おおわたつみ)の神の娘です。
姉の豊玉姫(とよたまひめ)と共に綿津見の宮に住んでいました。
姉の豊玉姫が日の御子のホオリノミコトと結婚してから、
三年でホオリノミコトが地上に戻りました。

姉の豊玉姫も後を追って綿津見の宮を離れました。
子供を出産するためです。

ところが、子供を生み終えると、姉上は一人で
綿津見の宮に戻って来ました。
出産するときに本来の姿を見られてしまったために、
帰って来てしまったのです。

姉上はこちらに帰って来たものの、夫が恋しく、
また残して来た子供が気がかりです。
そこで、妹の玉依姫が子供の養育係として、行く事になりました。

 こうして葦原の国に行った玉依姫は
姉の子のウガヤフキアエズノミコトを育てました。
そして、この子が成人すると、二人は結婚をしました。
二人は伯母と甥にあたります。

二人の間には四人の子供が生まれました。
子の名は五瀬命(いつせのみこと)。
稲氷命(いなひのみこと)。
御毛沼命(みけぬのみこと)。
若御沼命(わかみけぬのみこと)です。

長男のイツセノミコトは一番下のワカミヌノミコトと共に、
この国を出て、東に新たな国を作るために出かけて、途中で戦死しました。

二番目の子、イナヒノミコトは亡き母の国へと海原にお入りになりました。

三番目の子、ミケヌノミコトは波頭を踏んで常世(とこよ)の国に行きました。
そこは不老長寿の国と言われています。

一番下のワカミケヌノミコトは別名、トヨミケヌノミコト、また
カムヤマトイワレビコノミコトとも言います。

イワレビコノミコトは兄のイツセノミコトと共に日向を出て、
東に向い、大和を平定して、
初代の天皇になりました。神武天皇と言います。

           (古事記 ウガヤフキアエズの命の巻より)

こうして、玉依姫は初代天皇の母として敬愛を受ける事になりました。
ここまでが神の代となります。

ウガヤフキアエズの命が生まれた時の様子は豊玉姫を見て下さいね。
また、神武天皇の結婚はイスケヨリ姫を見て下さい。

伝承を訪ねて 
竈門神社(かまどじんじゃ)福岡県太宰府市宝満山
玉依姫はここで我が子の東征の成功を祈ったと伝えられます。
縁結びの神様として親しまれています。

宝満神社 (通称『宝満宮』)   福岡県大野城市山田
玉依姫は旧中村という所で亡くなられました。
墓所もここにあると伝えられます。
この地を今でも御陵と言い、御陵中学校の名の由来になっています。
しかし、 度重なる洪水のために現在地の山田に移転しました。
玉依姫命は、宝満山の頂に坐して水分神(みくまりのかみ)となり、
この地方一帯の水を支配されたという事です。

天皇家の母としての玉依姫
ずっと後の世に景行天皇がクマソ征伐に来た時に、
ここに来てお参りをしています。

また、それから時代が下がって、再びクマソが反抗するので、
神功皇后が九州に来ました。
しかし急きょ新羅を攻める事になったので、
神功皇后はこの玉依姫の神廟に来て戦勝を祈りました。
この時、玉依姫命が現れて
「そなたと姉妹の契りを交わしましょう。」
と、神功皇后に約束したそうです。

こういう事で、神宮皇后と玉依姫命が一緒に祀られている神社もあります。
後の世までこうして慕われました。

またさらに後の世、心蓮上人(しんれんしょうにん)が宝満山に籠もって
修業している時にも玉依姫命が現れたという事です。


宝満山の頂上に山の神でなく、海神の女神が祀られているのが
ずっと不思議だったのですが、水分の女神として、
人々に恵みを与えていたのですね。
この頂上からは玉依姫の故郷の海が見えます。
あれっ、すると、神武天皇はここで育った?

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