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タグ:系図

  • 景行天皇(11)日本武尊の系図
    [ 2011-07-02 09:21 ]
  • 開化天皇
    [ 2011-02-06 20:34 ]
  • 饒速日命(1)ニギハヤヒはニニギの兄である
    [ 2010-12-24 19:09 ]
  • 葛城襲津彦(1)ソツビコは建内宿禰の子供である
    [ 2010-12-09 01:15 ]
  • 葛城襲津彦(2)娘と孫を天皇に嫁がせた。
    [ 2010-12-08 20:16 ]
  • ソツビコ兄弟は加羅に留まった弓月人民の日本への亡命を助ける。
    [ 2010-12-05 16:02 ]
  • 大気都比売(2) 系図
    [ 2010-10-24 11:32 ]
  • 建内宿禰(1)香椎宮・気比宮
    [ 2010-08-10 22:56 ]
  • 武内宿禰・300歳のミステリーは計算ミスと解釈ミスが重なった?
    [ 2010-08-02 19:01 ]
  • 武内宿禰と神功皇后の系図・二人は遠い親戚だった
    [ 2010-08-01 22:11 ]
                                   【日本書紀】   

景行天皇(11)

日本武尊の系図

日本武尊ははじめに両道入姫(ふたぢのいりひめ)の皇女(ひめみこ)を娶って妃とし、稲依別王(いなよりわけのみこ)、足仲彦(たらしなかつひこ)天皇(仲哀天皇)、布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)、稚武王(わかたけのみこ)が生まれました。
この中の第一子の稲依別王は犬上の君、武部の君の二つの族の始祖です。

日本武尊は又、吉備の武彦の娘、吉備の穴戸の武姫を妃として、武卵王(たけかひごのみこ)と十城別王(とおきわけのみこ)が生まれました。
兄の武卵王は讃岐の綾の君の始祖です。弟の十城別王は伊予別君の始祖です。

また次の妃の穂積氏の忍山の宿禰の娘の弟橘姫稚武彦王を生みました。

52年の夏5月4日に景行天皇の皇后の播磨の太郎姫(おおいらつめ)が亡くなりました。
(太郎姫は日本武尊の生母)
秋7月7日に八坂入媛命を皇后としました。



次の二人は神功皇后の三韓攻撃の帰りに、それぞれ唐津市と平戸市に警備の為に残されて、
祭神として祀られています。

稚武王 ⇒ 唐津市呼子加部島 田島神社 祭神
十城別王 ⇒ 平戸市 志志岐神社

詳しくは 『ひもろぎ逍遥』志式神社(5)
哀しき神々たち 三良天神と志志岐三神 に書いています。
http://lunabura.exblog.jp/13130472/


十城別命の太刀が平戸城に展示されています。
環頭の太刀(国指定文化財、亀岡神社所蔵、平戸城天守閣)
柄頭を環状にまるめ、水牛の角の鍔、竹を馬革で包んだ鞘を持つ93㎝の鉄製直刀。
神功皇后の朝鮮出兵当時の武将の刀であったと伝えられています。志志岐神社祭神である十城別命(ときわけのみこと)は、日本武尊の御子であり、仲哀天皇の弟。

平戸観光再発見
http://www.hirado-net.com/history/cate01_02.php



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開化天皇

系図だけでしたが、
例の三人の共通の先祖なんだ


若倭根子日子大毘毘の命は春日の伊邪河(いざかわ)の宮で天下を治めました。
この天皇が旦波(たには)の大県主であるユゴリの娘の竹野姫を娶って、生まれた御子はヒコユムスミの命

また庶母(ままはは)のイカガシコメの命を娶って、生まれた御子はミマキイリヒコ・イニエの命。次にミマツヒメの命

また丸邇(わに)の臣の祖、日子国オケツの命の妹、オケツヒメを娶って、生まれた御子は日子イマスの王

また葛城の垂見の宿禰の娘。ワシ姫を娶って生れた御子は建豊ハヅラワケ
この天皇の御子たちは合せて五柱です。

この内、ミマキイリヒコ・イニエの命が次代の天皇になりました。

開化天皇
名 若倭根子日子大毘毘の命
父 大倭根子日子国玖琉の命(孝元天皇)
母 内色許賣の命(孝元天皇の后)

以上。開化天皇については系図だけしか書いてありませんでした。
ただし、この子供たちの系図が大変詳しく書いてあります。
その系図を辿ると6代目にオキナガタラシ姫が出てきました。

仲哀天皇と神功皇后と竹内宿禰は同族でしたよ!
対三韓の利害が一緒だったんだ。




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饒速日命(1)
(ニギハヤヒ・天の火明の命)
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊
あまてる・くにてるひこ・あめのほあかり・くしたま・にぎはやひのみこと

ニギハヤヒはニニギの兄である。

それまでのあらすじ
天照大御神に天降りを命ぜられた天の忍穂耳命葦原の中つ国に向かうが、騒がしいと言って、戻って来た。そこで天照大御神と高木の神は、次々に使者を送って葦原の中つ国(出雲)を制圧した。そこで、天照大御神は改めて天の忍穂耳命に天降りを命じた。ところが…。

【ニニギノ命の天下りの巻】

天照大御神高木の神の命令で、太子(ひつぎのみこ)の天の忍穂耳命に言いました。
「今、葦原の中つ国を平定したとの報告があった。だから、以前にその国をそなたに与えたのだから、天降りして、治めなさいませ。」と。
そこで太子の天忍穂耳命が答えて申し上げました。
「私めが天降りしようと支度をする間に、子供が生まれました。名前は天ニキシ国ニキシ天津日高日子番(あまつひこひこほ)のニニギノ命です。この子を降臨させましょう。」

この御子は高木の神の娘の萬幡豊秋津師比賣命(よろずはたとよあきづしひめ)と結婚して生まれた子供で、長男が天の火明命(あめのほあかり)。次男が日子ホノニニギの命です。

こういう事で、天の忍穂耳の言葉が受け入れられました。
忍穂耳の命はニニギノ命に勅命を伝えて、
「この豊葦原の水穂の国はそなたが治める国であると言ってお与えになった。だから、命ぜられた通りに天降りしなさい。」と言いました。             

【イワレビコの東征の巻】

それまでのあらすじ
イワレビコ(神武天皇)は兄のイツセの命たちと高千穂の宮を発って東に向かった。豊の国の宇佐、筑紫の岡田の宮、安芸の国のタケリの宮、吉備の国の高島の宮を経て、浪速の渡に着いた。(一方、ニギハヤヒはナガスネヒコの妹と結婚していた。)


ナガスネヒコはイワレビコを迎え撃つ
イワレビコの軍勢は、浪速(なみはや)の渡(わたり)を経て、青雲の白肩(しらかた)の津に船で泊まりました。この時、トミノナガスネヒコが軍勢を率いて待ち構えて、戦を挑んできました。そこで船に載せていた楯を持って上陸しました。こうして、そこを楯津といいます。今は日下(くさか)の蓼津(たてつ)と言います。

トミビコと戦った時に、兄のイツセの命はトミビコの猛烈な矢の攻撃に会って、手を負傷しました。そこで言いました。
「私は日の神の御子だから、日に向かって戦うのはよくない。それで、賤(いや)しいヤツにやられて深手を負った。この先、遠回りして、背に日を負う方向から撃とう。」と言って、南の方に進路を取って行く時に、血沼(ちぬ)の海について、その手の血を洗われました。そこで、その地を血沼と言うようになりました。

そこから廻って行って、紀の国の男之水門(おのみなと)に着いて、
「賤しいヤツの矢を受けて死ぬのか。」と雄たけびして、亡くなりました。この謂われから、この水門を名付けて、男の水門と言います。お墓は紀の国の竈山(かまやま)にあります。
  
途中のあらすじ
イワレビコたちは熊野で神剣・フツの御魂と八咫烏を得て、吉野、宇陀、忍坂と進軍して行った。

久米の子らの歌
さてその後、イツセの命を殺したトミビコを再び攻撃しようとした時に、歌った歌。
  力満ちている 久米の猛者たちが
  粟(あわ)畑に生えている臭いニラ、
  そいつの根元を、その芽ごと横ざまに切り払うように
  撃たずにおくものか。

と歌いました。またこうも歌いました。
  力満ちている 久米の猛者たちが
  垣根の元に植えた山椒の木。
  噛めばピリリと辛い、あの辛さを忘れない。
  撃たずにおくものか。

と歌いました。さらに、
  神風の吹く 伊勢の海の 大岩に 
  這いずりまわる キサゴ(巻貝)のように
  這いずってでも、撃たずにおくものか。

又、兄師木(えしき)弟師木(おとしき)を攻撃する時、軍勢はさすがに疲れてしまいました。そんな時に歌った歌。
  楯を並べて イナサの山の 木々の間を 
  行ったり来たりして守って戦ったので
  俺はもう腹が減ってしかたがない。
  島の鳥、ウを飼う鵜飼部(食糧班)よ、今すぐ助けに来てくれ。

ニギハヤヒは天津瑞を献上する
こうして、ついに邇藝速日(にぎはやひ)の命がイワレビコの元にやって来て、申し上げました。
天つ神の御子が天降り(あまくだり)されたと聞きました。そこで後を追って天降って来ました。」
そう言って、天津瑞(あまつしるしー天つ神の子孫である証拠の品)を献上して、お仕え申しました。

ニギハヤヒの命がトミビコの妹のトミヤビメを妻にして、生まれた子供のウマシマヂの命は、物部の連(むらじ)の穂積臣、ウネベの臣の祖先となりました。
こうして、イワレビコの命は荒ぶる神どもを平定し、まつろわぬ人どもを退け払い、畝火(うねび)の白檮原(かしはら)の宮で 天下を治めました。


天津瑞(あまつしるし)
古事記ではどんな品物であったかは書いてありません。
日本書紀では「天羽羽矢1隻と歩靫」となっています。
旧事本紀では「十種神宝(とくさのかんだから)」となっています。
(1、おき津鏡 2、辺津鏡 3、八握剣 4、生玉、5、死反玉 6、足玉 7、道反玉 8、蛇比礼 9、蜂比礼 10、品物比礼)

天津瑞は、いわゆる三種の神器ではないんですね。
ニギハヤヒのセリフが問題です。
天つ神の御子が天降りされたと聞きました。」
と言っています。この天つ神の御子は文脈ではイワレビコになります。天降りをしたのはニニギノ命だったはずですよね。現代人の感覚で訳してはいけないのかな。
トミビコをニギハヤヒが殺した事は日本書紀の方に書いてあります。
日本書紀とは趣がかなり違います。


※ホアカリ=ニギハヤヒで系図を書きましたが、別人とした方がうまくいくのかなあ。
『ひもろぎ逍遥』
◆ニギハヤヒを祀る神社
天照神社 福岡県宮若市儀長
http://lunabura.exblog.jp/15581560/ 

◆ホアカリの命を祀る神社
志式神社 福岡市東区奈多
(5)哀しき祭神たち 
http://lunabura.exblog.jp/13130472/





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                                   【古事記】  

葛城襲津彦(1) (曾都毘古) 
かづらきのそつびこ
葛城襲津彦は建内宿禰の子供である。

〔孝元天皇の巻〕

建内宿禰の父はヒコフツオシの信(マコト)の命です。母は山下影姫です。(山下影姫は木の国の造(みやつこ)の祖、ウヅヒコの妹)父には別の妻・葛城のタカチナ姫がいて、子供にウマシウチの宿禰がいます。
この建内宿禰の子供は合わせて9人です。男7人、女2人。

波多の八代の宿禰。(波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君の祖。)
次に許勢の小柄(おから)の宿禰。(許勢臣、雀部臣、軽部臣の祖。)
次に蘇賀の石河の宿禰。(蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣らの祖。)
次に平群の都久の宿禰。(平群臣、佐和良臣、馬御機連らの祖。)
次に木の角(つぬ)の宿禰。(木臣、都奴臣、坂本臣の祖。)
次に久米のマイト姫
次にノノイロ姫
次に葛城の長江のソツビコ 。(玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣らの祖。)
又、若子(わくご)の宿禰は(江野財臣の祖。)






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葛城襲津彦(2)

ソツビコの娘は天皇に嫁ぎ、三人の皇子が天皇になった。
  
【仁徳天皇の巻】

大雀(おおさざき)命仁徳天皇)は難波の高津宮で、天下を治めました。この天皇は葛城のソツビコの娘、イワノヒメの命を娶って、生まれた御子は大江のイザホワケの命。次に墨江(すみのえ)の中津王。次に蝮(たぢひ)のミヅハワケ命、次にヲアサヅマワクゴ宿禰の命。四柱。

又、前述した日向の諸縣(もろがた)の君・牛諸(うしもろ)の娘、髪長姫を娶って、生まれた御子はハタビノオオイラツコ(=大日下王)。次に、ハタビノ若郎女(=ナガヒヒメの命=若日下部命)二柱。
又異母妹八田若郎女を娶りました。また異母妹ウヂノ若郎女を娶りました。この二柱には御子がありませんでした。
この大雀天皇の御子たちは合せて六王です。男王5柱。女王1柱。

そのうち、イザホワケの命は天下を治めました。(履中天皇)
次に蝮のミヅハワケの命も天下を治めました。(反正天皇)
次にヲアサヅマワクゴの宿禰の命もまた、天下を治めました。(允恭天皇)

この天皇の御世に大后イワノヒメの御名代(みなしろ)として、葛城部を定め、
また皇太子イザホワケの命の御名代として、壬生部(みぶべ)を定め、
またミヅハワケの命の御名代として、蝮部(たぢひべ)を定め、
また大日下の王の御名代として、大日下部を定め、
若日下部の王の御名代として、若日下部を定めました。

又、秦人(はたびと)を使役して茨田(まむだ)の堤及び、茨田の三宅を作り、又、丸邇(わに)の池依網(よさみ)の池を作り、又難波の堀江を掘って海に通わせ、又小椅(おばし)の江を掘り、又墨江の津を定めました。

※御名代…天皇、皇后、皇子、皇女の名を後世に残し伝えるために、ちなんだ名をつけて設置された部民。

ソツビコの孫も天皇に嫁がせた

【履中天皇の巻】

仁徳天皇の皇子・イザホワケの命はイワレの若櫻の宮で、天下を治めました。この天皇は葛城のソツビコの子・葦田の宿禰の娘、名は黒比売を娶って、生まれた御子は市の辺のオシハの王。次に御馬(みま)の王。次に妹青海(あをみ)の郎女(=飯豊郎女)。三柱。



古事記は以上、系図のみでした。次回から、日本書紀です。






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葛城襲津彦(5)

ソツビコ兄弟は加羅に留まった弓月人民の
日本への亡命を助ける。

【応神天皇の巻】

応神天皇14年の春2月に百済の王衣縫(きぬぬい)の工女を献上しました。マケツと言います。この人は今の来目(くめ)の衣縫の始祖です。

この年、弓月の君が百済から来朝しました。その理由を奏上するに、
「私めは自分の国の人夫120県を率いて帰化しようとしました。ところが新羅人が邪魔をしたので、みんな加羅国に留まっています。」と。

そこで葛城襲津彦を派遣して、弓月の人民を加羅に集めました。しかし、三年たっても襲津彦は戻って来ませんでした。

応神天皇15年の秋8月6日に百済の王アチキを派遣して良馬二匹を献上しました。(略)

応神天皇16年の春2月に王仁(わに)が来朝しました。そこで皇太子のウヂノワキ
イラツコ
の師としました。いろいろな漢書を王仁に習いました。(略)
この年、百済のアクヱ王は亡くなりました。そこで、天皇はトキ王を召して言いました。
「そなた、国に帰って位を継げ。」と。そして、また東韓の地を与えました。東韓は甘羅城(カムラのさし)高難城(カウナンのさし)・爾林城(ニリムのさし)を指します。

8月に平群(へぐり)のツクの宿禰・的(いくは)の戸田の宿禰を加羅に派遣しました。その時、天皇は精兵を授けて、言いました。
「襲津彦は長らく帰ってこない。きっと、新羅が邪魔をしていて、滞っているのだろう。そなたら、急いで行って新羅を撃って、その道を開け。」

そこで、ツクの宿禰たちは精兵を進軍させて、新羅との国境に臨みました。新羅の王は、恐れて罪に服しました。その結果、弓月の人民を率いて、襲津彦と共に帰国しました。


アクヱ王(阿花王)…応神天皇3年。百済のシンシ王が即位して日本に礼をしなかった。そこで、紀角宿禰・羽田八代宿禰・石川宿禰・ツクの宿禰を派遣して、その無礼を責めた。そうして、百済国はシンシ王を殺して謝罪した。紀角宿禰たちはすぐにアクヱを王に即位させて、帰国した。

トキ王(直支王)…阿花王の長子。人質として日本に来ていた。三国史記によると、405年。

皇太子ウヂノワキイラツコはその後、自殺している。

弓月の君秦(はた)氏の祖先。中国の帝秦(しん)氏の後裔とされている。






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大気都比売(2)

系図


オオゲツヒメは古事記に三か所に分かれて出て来ます。
そこでそれが全部同じ神だという前提で、系図を書いて見ました。
粟の国は別とする。)


スサノオの命がオオゲツヒメを殺すと、死体から五穀と蚕が生まれました。
スサノオの命とオオゲツヒメは姉弟です。
そして、オオゲツヒメはスサノオの孫と結婚しています。
オオゲツヒメの住まいは葦原の中つ国です。





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建内宿禰(1)
たけうちのすくね    (武内宿禰・竹内宿禰)
系図・香椎宮・気比宮
【古事記】

〔孝元天皇の巻〕

系図

建内宿禰の父ヒコフツオシの信(マコト)の命です。母は山下影姫です。
(山下影姫は木の国の造(みやつこ)の祖、ウヅヒコの妹)
父には別の妻・葛城のタカチナ姫がいて、子供にウマシウチの宿禰がいます。

この建内宿禰の子供は合わせて9人です。
男7人、女2人。
波多の八代の宿禰。(波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君の祖。)
次に許勢の小柄(おから)の宿禰。(許勢臣、雀部臣、軽部臣の祖。)
次に蘇賀の石河の宿禰。(蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣らの祖。)
次に平群の都久の宿禰。(平群臣、佐和良臣、馬御機連らの祖。)
次に木の角(つぬ)の宿禰。(木臣、都奴臣、坂本臣の祖。)
次に久米のマイト姫
次にノノイロ姫
次に葛城の長江のソツビコ。(玉手臣、的臣、生江臣、阿曇那臣らの祖。)
又、若子(わくご)の宿禰。(江野財臣の祖。)


〔成務天皇〕

若タラシヒコ天皇(成務天皇)は近淡海の志賀の高穴穂の宮に住んで、天下を治めました。
この天皇は穂積の臣らの祖であるタケオシヤマタリネの娘、オトタカラの郎女(いらつめ)を妻として、生まれた御子はワカヌケの王といいます。(一柱)

建内宿禰を大臣(おおおみ)として、大国小国の国造(くにのみやつこ)を定めて、国々の堺や大縣(おおあがた)小縣の縣主(あがたぬし)を定めました。天皇の御年は95歳。乙卯の年の3月15日に崩御されました。御陵は沙紀(さき)のタタナミにあります。

〔仲哀天皇の巻〕

香椎宮

仲哀天皇は穴門の豊浦野宮、また筑紫の訶志比の宮で天下を治めました。
その大后オキナガタラシ姫の命は当時、神懸かりをされました。
そこで、天皇は筑紫の香椎の宮におわしまして、熊襲の国を討とうとされた時に、天皇が琴を弾いて、建内(たけうち)の宿禰(すくね)の大臣がサニワをして、神のみ言葉を請いました。(サニワとは降りた神が、どなたか、本物か偽物かなどを明らかにする人です。)

オキナガタラシ姫が神を招き寄せて、託宣をしました。
「西の方に国がある。金銀を始めとして、目にも輝くいろいろな珍しい宝が沢山その国にある。私が今その国を帰服させて与えよう。」と言われました。

そこで天皇が答えて申し上げました。
「高い所に登って西の方を見るけれども、国は見えません。ただ、大海があるだけです。」
と言って、
「偽りをいう神だ。」
と言って琴を押し退けて、それ以上お弾きにならず、黙って座ったままになりました。

すると、その神は大変お怒りになって、
「そもそも、この天の下はそなたの治める国ではない。そなたは人間が行かねばならぬ、一本道に向かうがよい。」
と言われました。(一本道とは死への道です。)

そこで、建内の宿禰の大臣が言いました。
「畏れ多いことです。我が天皇、やはりその琴をお弾き遊ばせ。」と。
そこで、そろそろと琴を取り寄せて、生半可(なまはんか)にお弾きになりました。すると、どれほどの時間も経たないで、琴の音が聞こえなくなりました。火をともして見ると、すでに崩御されていました。

そこで驚き懼(おそ)れて、殯宮(もがりのみや)に亡骸を安置しました。神の怒りを解くために、神へのお供え物を捧げ、国中の人々の犯した罪や穢れを払う大祓(おおはらえ)をしました。(罪、穢れとは、生きながら獣の皮を剥ぐ罪、尾の方から剥ぐ罪、田の畔(あぜ)を壊す罪、水路を埋める罪、他(略)です。)

この大祓を済ませると、再び建内の宿禰の大臣がサニワとなって、ご神託を請いました。今度も、神が教え諭す様子は、全く先日の通りで、
「そもそも、この国は、皇后のお腹の中に宿る御子が治める国である。」
と諭されました。

そこで、建内の宿禰の大臣が言うには
「畏れ多いことです。我が大神さま、今お懸かかりになっているお方のお腹に宿る御子は、男御子か女御子か、どちらでしょうか。」
「男御子ぞ。」
とお答えになりました。さらに詳しく尋ねました。

「今、このように教えられる大神のお名前を知りたいのですが。」
と求めると、すぐにお答えになりました。
「これは天照大神の御心ぞ。また、底筒男(そこつつお)、中筒男、上筒男の三柱の住吉大神ぞ。今まことにその国を求めようと思うならば、天の神や地の神、また、山の神、川や海の神々、ことごとく御幣を奉り、私(住吉大神)の御魂(みたま)を船の上に祀り、マキの木の灰をヒョウタンの器に入れ、また、箸と柏の葉で作った皿をたくさん作って、それを皆大海に散らして浮かべて、渡るがよい。」
と言われました。

 そこで、詳しく教えられた通りにして、軍勢を整えて、船を並べて、西の方の国に渡られると、海原の魚、大小を問わず、ことごとく御船を乗せて進みました。その上、追い風も大いに吹いて、御船は波が寄せるのに任せて行きました。その御船を乗せた波は新羅の国に押し上がって、完全に国土の半分まで達しました。

そこで、新羅の国王は恐れをなして、奏上しました。
「これからは天皇の命令に従って、御馬を飼育する者となって、毎年、貢物(みつぎもの)を載せた船を何艘も出して、船の底が乾く間もないようにします。棹(さお)や舵(かじ)が乾く間もないように、天地の運行がとどまることのないのと同じように、お仕えしましょう。」と申し上げました。

そう言う事で、新羅の国は御馬を飼育する部曲と定めて、百済の国は海外の直轄地と定めました。そして、御杖を占有権を表す印として、新羅王の門に突き立てて、住の江(すみのえ)の大神の荒御魂(あらみたま)を新羅を守護する神として祭り鎮めて、日本に戻られました。

 ところが、その政(まつりごと)が終わらない内に、腹の御子がお生まれになろうとしました。そこで、子供が生まれないようにと石を取って御裳の腰に巻いて、筑紫の国に渡って、その御子はお生まれになりました。
そこで、その御子がお生まれになった所を名づけて、「宇美」(うみ)といいます。

 その御裳に巻きつけた石は筑紫の国の伊斗(いと)村にあります。また、筑紫の末羅縣(まつらのあがた)の玉島の里に着いて、その河のほとりでお食事をされました。

四月の上旬でした。そこでその河の中の石がごろごろした所で御裳の糸を抜き取って、飯粒を餌にして、その河のアユを釣りました。
 この故事から、四月の上旬になると、その土地の女の人たちは裳の糸を抜いて、飯粒を餌にしてアユを釣ることが今に至るまで、続いています。
            

皇位争い
 

さて、オキナガタラシ姫の命はに御帰還される時に、人々が忠誠心を持っているかどうか疑わしいので、喪船(もふね)を一艘仕立てて、御子をその喪船に載せて、先に「御子は既に亡くなられた」と言い洩らさせました。

 こうして倭に向かう途中、御子の異母兄弟に当たる香坂(かごさか)の王忍熊王(おしくま)の王が待ち受けて討ち取ろうと思って、斗賀野(とがの)に進み出て、ウケイ(占い)の狩をしました。

香坂の王がクヌギの木に上って座って見ると、大きな怒った猪が出て来て、そのクヌギの木の根を掘って倒し、その香坂の王を食い殺しました。しかし、その弟の忍熊の王はこのウケイの大凶の結果を畏れずに、軍勢を引き連れて、船を待ちました。

 先頭を行く喪船は空の船なので、まずそれを取ろうと攻めかかりました。すると、喪船から隠れていた兵士たちが出て来て、戦いになりました。

 この時、忍熊の王は難波の吉師部(きしべ)の祖先の伊佐比の宿禰を将軍とし、皇太子の軍勢は丸邇(わに)の臣(おみ)の祖先の難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)の命を将軍としていました。

 建振熊の命が忍熊の王の軍を追撃して山代まで行った時、忍熊の王の軍は態勢を立て直し、互いに退かずに、戦いになりました。

 そこで、建振熊の命がはかりごとをして、敵に伝えました。
「オキナガタラシ姫の命はすでに亡くなりました。だから、これ以上戦う理由が無い。」
と、伝令に言わせると、弓の弦を断ち切って、偽って服従しました。

 敵将軍はその嘘を真に受けて、弓の弦をはずし、武器を収めました。 
すると、建振熊の命は頭の上で束ねた髪の中から、仕込んでおいた弦を取り出し弓に張り、追撃をしました。

忍熊の王は逢坂に逃げ退いて、そこで応戦しました。
建振熊の命はさらに追い攻めて、沙沙那美で打ち破り、ついに軍勢に切り込みました。

忍熊の王と伊佐比の宿禰は共に追い攻められて、船に乗って海上に逃げて、歌を詠みました。
  さあ、お前。
  振熊のやつが痛手を負わないのなら、
  カイツブリが水に潜るように、
  我々が淡海の湖(琵琶湖)に潜ろうではないか。
と詠むと、そのまま湖に入って、共に死にました。
           
気比の大神

さて、建内の宿禰の命はその皇太子を連れて、みそぎをしようとして、淡海や若狭の国へ行った時、越前の国の角鹿(つぬが)に仮宮を造って滞在されました。

すると、その地の神イザサワケの大神の命が夢に出て来て、言われました。
「我が名を、御子の御名と交換したいと思う。」
そこで、建内の宿禰は言祝いで(ことほいで)言いました。

「畏れ多いことでございます。お言葉の通りに変え奉ります。」
と申すと、さらに大神が言われました。
「明日の朝、浜辺に行きなさい。名を交換したしるしの贈り物をしよう。」
そこで、翌朝、浜に御子が行かれると、
鼻が傷ついたイルカが浜辺全体に打ち上げられていました。

 御子が言われました。
「私に大神の食べ物の魚をくださった。」と。
こうして、大神の御名を称えて、ミケツの大神と名をお付けになりました。これから、今でも気比(けひ)の大神と言います。また、そのイルカの鼻の血の匂いが大変臭かったので、そこを血浦(ちうら)と言います。今は都奴賀と言います。

それから、再び都にお戻りになった時に、母君のオキナガタラシ姫の命は無事を祈って作る待酒(まちざけ)を造って献上しました。そして、歌を詠んでいわく、
  この御酒は私の作った御酒ではありません。
  酒でも極上の酒です。
  常世の国にいらっしゃるスクナビコナの神が
  祝福して、狂わんばかりに祝福し、
  豊かであるように祝福し、祝福し尽くして、
  出来上がった御酒ですよ。
  盃を空にせずに、お飲みなさい。
  ささ。
とお歌いになりました。こうして、大御酒をたてまつりました。

そこで、建内の宿禰の命が御子の代わりに答えて歌いました。
  この御酒を造った人は
  その鼓を臼の横に立てて歌いながら、造ったんだなあ。
  舞いながら造ったんだなあ。
  この御酒の、御酒のやたら楽しい事よ。
  ささ。
これは「酒楽」(さかくら)の歌といいます。オキナガタラシ姫は御年、百歳でお亡くなりになり、狭城の楯列(たたなみ)の陵(みささぎ)に埋葬されました。      


「神功皇后」の方では一部、不自然なところは日本書紀を参考にして、書き換えましたが、この「建内宿禰」では、出来るだけ、原文に添って訳しました。
主に違う所は、喪船の時に死んだのは皇太子と古事記ではなっていますが、日本書紀では天皇と成っています。
(つづく)





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                                    【日本書紀】

武内宿禰(9)

武内宿禰・300歳のミステリーは
計算ミスと解釈ミスが重なった?




ミステリー1. 仲哀天皇は父が死んで36年目に生まれた!?
岩波文庫の日本書紀を現代語訳して来ましたが、〈注〉を見ると、仲哀天皇は父の日本武尊が死んでから36年目に生まれた事になると書いてありました。
「おっ、舎人親王たちは計算違いをしたな」と思いながら訳しました。西暦のような絶対年数がないので、かなり計算が難しそう。

ミステリー2. 神功皇后の妊娠期間がおかしい。
 
計算ミスに関しては、他にもあって、神功皇后の妊娠期間の十月十日(とつきとおか)について、1か月を30日で計算しているらしいです。
現代では妊娠期間は280日と基準が決められているそうです。日本書紀の計算で行くと、30日×10月=300日。プラス10日で310日になります。すると、40日の差が出ます。この辺りの計算ミスが、応神天皇の父は仲哀天皇ではないという噂の原因にもなっています。

ミステリー3
事実を想像すると、皇太子が16歳頃に応神天皇として即位し、神功皇后はそのまま摂政として残って、まつりごとをした。その二人に武内宿禰がぴったりと付いて補佐をした。それがナチュラルな解釈じゃないかなと思ったのですが。それにしても、ずっと武内宿禰と三人で出てくるのも不思議な感じがしました。

長生きしたのは武内宿禰だけではなかったよ。

 武内宿禰が300歳って何でだろうと思って訳したのですが、みんな100歳以上でした。(な~んだ。そうだったのか。)どうして、この辺りの編年が変なのか?訳をしながらの印象ですが、まずは神功皇后の年が100歳に無理に引き上げられて、全体が矛盾して行ったんじゃないかなと思いました。単なる勘です。

日本書紀は正史なので、中国にならって、年号をきちんと書かないといけないけど、ヤマトタケルとか、神功皇后とか、武内宿禰とか、この時代の人たちは伝説だけで、年号は伝わっていない。舎人親王たちは、それをなんとか辻妻合せをしたけど、うまく行かなかった。

と言う事で、日本書紀を編纂した舎人親王たちの計算ミスと、神功皇后と建内宿禰を長命にしようとした作為が重なった結果、年代がゴチャゴチャになっているなと想像しました。また、まさか、後世の人が天皇の即位期間と神功皇后の摂政期間を単純に足し算するとは思わなくて、人物順に記事を書いた。それを現代人が足し算してしまって、300歳という数字が出てしまったのではないかとも思いました。

年齢を延ばした意図と計算ミスと現代人の解釈ミスの三重の問題があるようです。このあたりを検証するには、朝鮮半島の歴史が分からないと、無理だなあ。

武内宿禰の伝承は筑紫にある。
ただ、「武内宿禰の死についての伝承がない」と岩波文庫には書いてありますが、福岡県の織幡神社にちゃんとありました。(『ひもろぎ逍遥』⇒織幡神社
武内宿禰が「風土記」に書いてないからといって、空想の人物と断定するのは、無理です。
香椎宮の近くには武内宿禰屋敷というのが伝わっています。また、宮地嶽神社付近にもその子孫の人の伝承が残っています。他にもまだ述べてない伝承もありますが、玄海灘を中心とする伝承を総合すると、武内宿禰はかなり大きな勢力を持った大王クラスの人だと思われて来ました。

対新羅について

韓半島との関係の記事もいろいろ出て来てびっくりしました。(ルナは何にも知りませんでした。)新羅とは交戦し、百済には援助という構図が分かりました。今回は武内宿禰に絞ったので、対韓半島に関わる他の記事は省略しましたが、神功皇后の所にはバンバン出て来ています。いつか全体の訳を試みようと思います。ここを押さえると、歴史家たちの言っている事が分かるようになるけどなあ。と思いながら…。

謎の名前交換

応神天皇は「気比の大神」と名前の交換をしています。気比の大神は、武内宿禰と関わりのある所です。(⇒織幡神社)応神天皇はそれに加えて自分の子供が生まれると、これまた武内宿禰の子供と名前を交換しています。二人の子は同じ日に生まれたとか。名前の交換は重量な出来事ですが、理由は分かりません。彼の霊力に預かりたい親心のような…。あるいは倭の支配者の交換か。とにかく、武内宿禰がかなりのヒーローだったのが見えて来ました。これからも、目が離せません。彼の本貫地もうっすらと見えて来ました。コツコツと調べて行きます。





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武内宿禰(10)

武内宿禰と神功皇后の系図
二人は遠い親戚だった


記紀から分かったのは、神功皇后武内宿禰は、香椎宮以来、ずっと一緒にいるらしいという事です。1800年たった今でも、二人の仲が噂されています。これに関しては別に意見はないのですが、系図を描いていて、同じ孝元天皇の名前が出てきたので、「あれ、二人は同じ先祖?」と思って、二人の系図を並べてみました。

孝元天皇はウチシコオの妹と娘を娶っています。この婚姻のパターンはこれまでも、いくつも出て来たので驚く事ではないけど、ウチ家天皇家が強く結ばれているに驚きました。
神功皇后の母方はアメノヒボコなので、彼女は新羅の王家天皇家の両方の血筋を持っています。そんな彼女が新羅と戦うのだから、これまた面白い。

ルナの妄想ですが、神功皇后は新羅の王家の末裔でもあるので、まだ新羅の王位継承権を持っていて、それを主張しているのではないかと考えました。新羅の役というのは、彼女が新羅の王であるという事を確認させた戦いではないか。だから、いとも簡単に勝つ事が出来た。彼女の他での戦い方のパターンを見ると、そんな気がしてなりません。

系図は見るより、書いている時が楽しい。その時に発見が沢山あります。今回、知ったのは天皇家はウチ家そのものだったという事。そして、ウチ家の代表となる人物が武内宿禰でした。古代日本は武内宿禰の研究があってこそ、明らかになるのが分かりました。

「ウチ家と天皇家」の「武と祭祀」が強力に組み合わさったのが、「武内宿禰と神功皇后」。この二人を正史としてどう組み込むかを舎人親王らは苦心しています。無理を重ねて矛盾だらけにしてしまいましたが、彼らの目的は一応達成されました。

武内宿禰を白髯のおじいさんという古い人物像で惑わされてはいけない。壮年の生き生きと倭を生きる人物として捉える事が、古代史の真実を明らかにする事になります。

この時代を把握するには、環日本海の視点で捉える必要があります。地図を逆さまにして見て、固定観念をはずして、はじめて真実に近づく事が出来ます。

まだまだ、パズルのピースは不足していますが、どこに行けばそのピースが手に入るのか、少しずつ見え始めました。





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