建内宿禰(1)
たけうちのすくね (武内宿禰・竹内宿禰)
系図・香椎宮・気比宮【古事記】〔孝元天皇の巻〕系図建内宿禰の父は
ヒコフツオシの信(マコト)の命です。母は
山下影姫です。
(山下影姫は木の国の造(みやつこ)の祖、ウヅヒコの妹)
父には別の妻・葛城の
タカチナ姫がいて、子供に
ウマシウチの宿禰がいます。
この
建内宿禰の子供は合わせて9人です。
男7人、女2人。
波多の八代の宿禰。(波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君の祖。)
次に
許勢の小柄(おから)の宿禰。(許勢臣、雀部臣、軽部臣の祖。)
次に
蘇賀の石河の宿禰。(蘇我臣、川辺臣、田中臣、高向臣、小治田臣、桜井臣、岸田臣らの祖。)
次に
平群の都久の宿禰。(平群臣、佐和良臣、馬御機連らの祖。)
次に
木の角(つぬ)の宿禰。(木臣、都奴臣、坂本臣の祖。)
次に
久米のマイト姫。
次に
ノノイロ姫。
次に
葛城の長江のソツビコ。(玉手臣、的臣、生江臣、阿曇那臣らの祖。)
又、
若子(わくご)の宿禰。(江野財臣の祖。)
〔成務天皇〕若タラシヒコ天皇(成務天皇)は近淡海の志賀の高穴穂の宮に住んで、天下を治めました。
この天皇は穂積の臣らの祖である
タケオシヤマタリネの娘、
オトタカラの郎女(いらつめ)を妻として、生まれた御子は
ワカヌケの王といいます。(一柱)
建内宿禰を大臣(おおおみ)として、大国小国の国造(くにのみやつこ)を定めて、国々の堺や大縣(おおあがた)小縣の縣主(あがたぬし)を定めました。天皇の御年は95歳。乙卯の年の3月15日に崩御されました。御陵は沙紀(さき)のタタナミにあります。
〔仲哀天皇の巻〕香椎宮仲哀天皇は穴門の
豊浦野宮、また筑紫の
訶志比の宮で天下を治めました。
その
大后オキナガタラシ姫の命は当時、神懸かりをされました。
そこで、天皇は筑紫の香椎の宮におわしまして、熊襲の国を討とうとされた時に、天皇が琴を弾いて、
建内(たけうち)の宿禰(すくね)の大臣がサニワをして、神のみ言葉を請いました。(サニワとは降りた神が、どなたか、本物か偽物かなどを明らかにする人です。)
オキナガタラシ姫が神を招き寄せて、託宣をしました。
「西の方に国がある。金銀を始めとして、目にも輝くいろいろな珍しい宝が沢山その国にある。私が今その国を帰服させて与えよう。」と言われました。
そこで天皇が答えて申し上げました。
「高い所に登って西の方を見るけれども、国は見えません。ただ、大海があるだけです。」
と言って、
「偽りをいう神だ。」
と言って琴を押し退けて、それ以上お弾きにならず、黙って座ったままになりました。
すると、その神は大変お怒りになって、
「そもそも、この天の下はそなたの治める国ではない。そなたは人間が行かねばならぬ、一本道に向かうがよい。」
と言われました。(一本道とは死への道です。)
そこで、建内の宿禰の大臣が言いました。
「畏れ多いことです。我が天皇、やはりその琴をお弾き遊ばせ。」と。
そこで、そろそろと琴を取り寄せて、生半可(なまはんか)にお弾きになりました。すると、どれほどの時間も経たないで、琴の音が聞こえなくなりました。火をともして見ると、すでに崩御されていました。
そこで驚き懼(おそ)れて、殯宮(もがりのみや)に亡骸を安置しました。神の怒りを解くために、神へのお供え物を捧げ、国中の人々の犯した罪や穢れを払う大祓(おおはらえ)をしました。(罪、穢れとは、生きながら獣の皮を剥ぐ罪、尾の方から剥ぐ罪、田の畔(あぜ)を壊す罪、水路を埋める罪、他(略)です。)
この大祓を済ませると、再び建内の宿禰の大臣がサニワとなって、ご神託を請いました。今度も、神が教え諭す様子は、全く先日の通りで、
「そもそも、この国は、皇后のお腹の中に宿る御子が治める国である。」
と諭されました。
そこで、建内の宿禰の大臣が言うには
「畏れ多いことです。我が大神さま、今お懸かかりになっているお方のお腹に宿る御子は、男御子か女御子か、どちらでしょうか。」
「男御子ぞ。」
とお答えになりました。さらに詳しく尋ねました。
「今、このように教えられる大神のお名前を知りたいのですが。」
と求めると、すぐにお答えになりました。
「これは
天照大神の御心ぞ。また、底
筒男(そこつつお)、中筒男、上筒男の三柱の住吉大神ぞ。今まことにその国を求めようと思うならば、天の神や地の神、また、山の神、川や海の神々、ことごとく御幣を奉り、私(住吉大神)の御魂(みたま)を船の上に祀り、マキの木の灰をヒョウタンの器に入れ、また、箸と柏の葉で作った皿をたくさん作って、それを皆大海に散らして浮かべて、渡るがよい。」
と言われました。
そこで、詳しく教えられた通りにして、軍勢を整えて、船を並べて、西の方の国に渡られると、海原の魚、大小を問わず、ことごとく御船を乗せて進みました。その上、追い風も大いに吹いて、御船は波が寄せるのに任せて行きました。その御船を乗せた波は新羅の国に押し上がって、完全に国土の半分まで達しました。
そこで、
新羅の国王は恐れをなして、奏上しました。
「これからは天皇の命令に従って、御馬を飼育する者となって、毎年、貢物(みつぎもの)を載せた船を何艘も出して、船の底が乾く間もないようにします。棹(さお)や舵(かじ)が乾く間もないように、天地の運行がとどまることのないのと同じように、お仕えしましょう。」と申し上げました。
そう言う事で、新羅の国は御馬を飼育する部曲と定めて、百済の国は海外の直轄地と定めました。そして、御杖を占有権を表す印として、新羅王の門に突き立てて、住の江(すみのえ)の大神の荒御魂(あらみたま)を新羅を守護する神として祭り鎮めて、日本に戻られました。
ところが、その政(まつりごと)が終わらない内に、腹の御子がお生まれになろうとしました。そこで、子供が生まれないようにと石を取って御裳の腰に巻いて、筑紫の国に渡って、その御子はお生まれになりました。
そこで、その御子がお生まれになった所を名づけて、「
宇美」(うみ)といいます。
その御裳に巻きつけた石は筑紫の国の
伊斗(いと)村にあります。また、筑紫の
末羅縣(まつらのあがた)の玉島の里に着いて、その河のほとりでお食事をされました。
四月の上旬でした。そこでその河の中の石がごろごろした所で御裳の糸を抜き取って、飯粒を餌にして、その河のアユを釣りました。
この故事から、四月の上旬になると、その土地の女の人たちは裳の糸を抜いて、飯粒を餌にしてアユを釣ることが今に至るまで、続いています。
皇位争い さて、オキナガタラシ姫の命は
倭に御帰還される時に、人々が忠誠心を持っているかどうか疑わしいので、喪船(もふね)を一艘仕立てて、御子をその喪船に載せて、先に「御子は既に亡くなられた」と言い洩らさせました。
こうして倭に向かう途中、御子の異母兄弟に当たる
香坂(かごさか)の王と
忍熊王(おしくま)の王が待ち受けて討ち取ろうと思って、斗賀野(とがの)に進み出て、ウケイ(占い)の狩をしました。
香坂の王がクヌギの木に上って座って見ると、大きな怒った猪が出て来て、そのクヌギの木の根を掘って倒し、その香坂の王を食い殺しました。しかし、その弟の忍熊の王はこのウケイの大凶の結果を畏れずに、軍勢を引き連れて、船を待ちました。
先頭を行く喪船は空の船なので、まずそれを取ろうと攻めかかりました。すると、喪船から隠れていた兵士たちが出て来て、戦いになりました。
この時、忍熊の王は難波の吉師部(きしべ)の祖先の
伊佐比の宿禰を将軍とし、皇太子の軍勢は丸邇(わに)の臣(おみ)の祖先の
難波根子建振熊(なにわねこたけふるくま)の命を将軍としていました。
建振熊の命が忍熊の王の軍を追撃して山代まで行った時、忍熊の王の軍は態勢を立て直し、互いに退かずに、戦いになりました。
そこで、建振熊の命がはかりごとをして、敵に伝えました。
「オキナガタラシ姫の命はすでに亡くなりました。だから、これ以上戦う理由が無い。」
と、伝令に言わせると、弓の弦を断ち切って、偽って服従しました。
敵将軍はその嘘を真に受けて、弓の弦をはずし、武器を収めました。
すると、建振熊の命は頭の上で束ねた髪の中から、仕込んでおいた弦を取り出し弓に張り、追撃をしました。
忍熊の王は逢坂に逃げ退いて、そこで応戦しました。
建振熊の命はさらに追い攻めて、沙沙那美で打ち破り、ついに軍勢に切り込みました。
忍熊の王と伊佐比の宿禰は共に追い攻められて、船に乗って海上に逃げて、歌を詠みました。
さあ、お前。
振熊のやつが痛手を負わないのなら、
カイツブリが水に潜るように、
我々が淡海の湖(琵琶湖)に潜ろうではないか。
と詠むと、そのまま湖に入って、共に死にました。
気比の大神さて、建内の宿禰の命はその皇太子を連れて、みそぎをしようとして、淡海や若狭の国へ行った時、越前の国の角鹿(つぬが)に仮宮を造って滞在されました。
すると、その地の神
イザサワケの大神の命が夢に出て来て、言われました。
「我が名を、御子の御名と交換したいと思う。」
そこで、建内の宿禰は言祝いで(ことほいで)言いました。
「畏れ多いことでございます。お言葉の通りに変え奉ります。」
と申すと、さらに大神が言われました。
「明日の朝、浜辺に行きなさい。名を交換したしるしの贈り物をしよう。」
そこで、翌朝、浜に御子が行かれると、
鼻が傷ついたイルカが浜辺全体に打ち上げられていました。
御子が言われました。
「私に大神の食べ物の魚をくださった。」と。
こうして、大神の御名を称えて、ミケツの大神と名をお付けになりました。これから、今でも
気比(けひ)の大神と言います。また、そのイルカの鼻の血の匂いが大変臭かったので、そこを血浦(ちうら)と言います。今は
都奴賀と言います。
それから、再び都にお戻りになった時に、母君のオキナガタラシ姫の命は無事を祈って作る待酒(まちざけ)を造って献上しました。そして、歌を詠んでいわく、
この御酒は私の作った御酒ではありません。
酒でも極上の酒です。
常世の国にいらっしゃるスクナビコナの神が
祝福して、狂わんばかりに祝福し、
豊かであるように祝福し、祝福し尽くして、
出来上がった御酒ですよ。
盃を空にせずに、お飲みなさい。
ささ。
とお歌いになりました。こうして、大御酒をたてまつりました。
そこで、建内の宿禰の命が御子の代わりに答えて歌いました。
この御酒を造った人は
その鼓を臼の横に立てて歌いながら、造ったんだなあ。
舞いながら造ったんだなあ。
この御酒の、御酒のやたら楽しい事よ。
ささ。
これは「酒楽」(さかくら)の歌といいます。オキナガタラシ姫は御年、百歳でお亡くなりになり、狭城の楯列(たたなみ)の陵(みささぎ)に埋葬されました。
「神功皇后」の方では一部、不自然なところは日本書紀を参考にして、書き換えましたが、この「建内宿禰」では、出来るだけ、原文に添って訳しました。
主に違う所は、喪船の時に死んだのは皇太子と古事記ではなっていますが、日本書紀では天皇と成っています。
(つづく)