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                                    【日本書紀】

神功皇后(8)

出産

神功皇后は12月14日に誉田(ほむた)天皇を筑紫で出産しました。
そのため、時の人は出生地を宇瀰(うみ)と言います。

今回の日本書紀の訳は二行だけです。いろいろと課題の多い事件なので、関係する神社を参考として挙げます。研究に役立てて下さい。

宇美と蚊田 
出産地について、神功皇后摂政の巻では冒頭のように宇瀰としていますが、同じ日本書紀の誉田天皇(応神天皇)の巻では
「誉田天皇は皇后が新羅を討った年の冬12月に、筑紫の蚊田に生まれました。」
となっています。宇美=蚊田説と別の場所説があるようです。

伝承
宇美八幡宮 福岡県粕屋郡宇美町
     神功皇后がホムタワケ命を生んだ場所として伝えている。
     現在も安産を祈願して参拝する人々が絶えない。

王子八幡宮  福岡県粕屋郡志免町
     宝満また宝満山という地名のそばにある。字金明から遷宮したが、
     元宮で王子(ホムタワケ命)が生れたという説がある。

蚊田宮 福岡県三井郡北野町 カダの地名があり、
     神功皇后の出産の伝承がある。ここにも宝満宮がある。

駕輿丁八幡宮 福岡県粕屋郡粕屋 神功皇后を輿に乗せた伝承。

日守神社 福岡県粕屋郡粕屋 神功皇后が時間を聞いたという伝承がある。
  
かだ    真鍋大覚氏 「かだ」は星の古語。拾遺p136
      応神帝が御誕生の時、宇美から鳩座βワズン星が南の空に見え、
      大臣星(おほみのほし)と言った。      
      神功皇后の御安産の前後にありとあらゆる倭法で万全を期した
      武内宿禰の名をとったと聞く。

      宇美星(おほみのほし)が倭人伝の頃は不彌星(ふみのほし)とな
      り、母が身二つになることを祈る星でもあった。

     「誉田」とは「中稲(なかて)」の事。(拾遺p200)


『ひもろぎ逍遥』でのレポートは駕輿丁八幡宮だけです。(2011、3月現在)

当時は立産で、木の枝に両手で万歳の形で支えにして出産したという話もあります。

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饒速日尊(5)

ニギハヤヒ命は妻の兄・長髄彦を殺して、
イワレビコ命に帰順する

〔神武天皇の巻のつづき〕

その時、長髄彦はすぐに使者を出して、イワレビコ命に告げました。
「昔、天神の御子が天磐船(あまのいわふね)に乗って天から降りました。名付けて、櫛玉饒速日命(くしたま・にぎはやひ)と言います。この方が私の妹のミカシキヤ姫(=長髄姫=トミヤ姫)を娶って、ついに子供も生まれました。名前をウマシマデの命と言います。

このような事情で、私は饒速日命を君としてお仕えしています。天神の子がどうして二人もおられましょうか。あなたはどうして、さらに天神の子だと名乗って人の国を奪おうとするのですか。あなたは偽りの御子ではないかと思うのですが。」

イワレビコ命は、
「天神の子供は大勢いる。そなたが君とする人が本当に天神の子なら、必ずしるしの物を持っているはずである。それを見せよ。」
と言いました。長髄彦はニギハヤヒ命の天羽羽矢(あまのははや)を一隻、また歩靫(かちゆき)を持って、イワレビコ命に見せました。イワレビコ命はこれを見て、
「本物だ。」と言って、戻って自分の所有する天羽羽矢一隻と歩靫を長髄彦に見せました。

長髄彦はその天表(あまつしるし)を見て、畏れかしこまりました。しかし、武器を構えていて、その勢いを中途で止められませんでした。またなおも間違った考えを持ったまま、捨てる気持ちになりませんでした。

ニギハヤヒの命
はもともと天神が大切に思っているのは、ただ天孫だけだと知っていました。それに比べて、長髄彦のひととなりはねじけた性格で、天孫と人との違いを教えても理解出来ないのを見て、ついに殺してしまいました。そして、衆人を率いてイワレビコ命に帰順しました。

イワレビコ命はもともとニギハヤヒ命は天から降ったという事を知っていました。そうして、今、忠誠心を示しました。それを褒めて寵愛しました。この人が物部氏の遠祖です。

虚空見つ日本の国(そらみつやまとのくに)
神武31年。夏、4月1日に天皇(イワレビコ命)は巡幸しました。腋上(わきがみ)のホホマの岡に登って、国のようすを見て言いました。
「ああなんと!国を手に入れた。内木綿(うつゆふ)のまさき国といっても、(狭い国だといっても、)蜻蛉が並んで飛んで行くように、山々が並んでいるなあ。」と。
そこから初めて秋津島の名が起りました。

昔、イザナギの尊がこの国を名付けて、
「日本は浦安(心やすらぐ)の国、細戈(くわしほこ)が十分にある国、磯輪上(しわかみ)の秀真国(ほつまくにーすくれた国)。」と言われました。

また大己貴(おおあなむち)の大神が名付けて「玉垣の内の国」と言われました。

ニギハヤヒの命は天岩船に乗って、大空を翔け巡ってこの国を見下ろして天下りされました。そして「そらみつ日本の国」と言われました。

太歳とは天皇の一世一代の歴制。太陽暦の四季の初日の立春立夏立秋立冬と春分夏至秋分当時と太陽暦の朔望が一致する日。合計16通りある。菊の紋章は日月を祭祀する天皇の象徴。(『儺の国の星』真鍋大覚)


ニギハヤヒを祀る神社 
福岡県の饒速日尊の伝承を追ってみました。(『ひもろぎ逍遥』)
      笠置山⇒穂掛神社⇒天照神社
天照神社 旧 福岡県鞍手郡宮田町磯光字儀長 現在は宮若市
  (1)ついにニギハヤヒの宮へ行きました。
    http://lunabura.exblog.jp/15581560/
 
  (2)奉納された稲穂の由来
  (3)九州の物部氏の分布図 日本の太陽神は二系統ある 
 
穂掛神社 笠置山の麓にある美しい渓流に聖地はあった
    天照神社の元宮 
    http://lunabura.exblog.jp/15664680/ 
 


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葛城襲津彦(8)

福岡県の葛城・平群・曽我
(今回は、福岡県の古代の地名の資料です。)


※簡単に朝鮮半島と往来していた
訳をしていて思ったのは、ソツビコたちに大変機動性がある事です。軍はもちろん、弓月の君王の妹なども日韓を簡単に往来しています。ですから、この話の舞台は、福岡市の早良区や西区を中心とした話ではないかと思うようになりました。
当時の朝鮮半島への航路は唐津経由か志賀島経由でした。

和名類聚抄』によると、福岡市西部を中心に平群曾我、額田、田部などがあった事が書いてあります。大和地方と似た構成です。ですから、渡来人たちは福岡市にまず、拠点を置いて、それから大和地方に移動したと考えるのがナチュラルです。そうすると、どちらにも平群などがある理由が分かります。


※『和名抄』に早良郡に平群や曽我があった事が書いてあった。
「早良郡」ウィキペディアより (早良郡で検索すると出て来ます。)
『和名類聚抄』によれば、毘伊(ひい、現在の城南区樋井川付近)、能解(のけ、現在の福岡市早良区野芥付近)、額田(ぬかだ、現在の西区野方付近)、早良(さわら、現在の城南区鳥飼付近)、平群(へぐり、現在の早良区羽根戸から金武付近)、田部(たべ、現在の早良区小田部付近)、曽我の7郷があったとされる。

※真鍋大覚氏による伝承

『儺の国の星・拾遺』
p244
筑紫で孝元帝(前214~158)から清寧帝(480~484)の間に玄界灘の交易を掌握していた平群は近東系の出であって、月氏のササンの子孫であったと思われる。筑前早良の由来は「ささのあまのはら」で、平群氏が百済人をここに租界させた。
p245
昔、祖先に「かひ」と「とひ」の二つの氏族があった。「かひ」とは夏至を元日とする氏族であり、「とひ」は冬至を元日とする氏族であった。かすかな口伝ではあるが、平群氏は望旦夏至に固執し、曾我氏は朔旦冬至に改革したと説かれる。

皇極帝(645)年はまさに暦法の採否をめぐって中大江皇子の激烈な論争と対決が背景にあったことを心得なければならない。
「そが」は素娥と書き、月の東洋的異称であった。これに対して、「へぐり」は平群と書き、月の西洋的異称であった。

和名抄には筑前国早良郡の条に、まだ平群、蘇我の郷名が記録されているが、今はない。
所は脇山であって、改名の由来は文書にはない。月を女人に事寄せる泰西の民族の伝統に「わき」なる異邦人の租界の古称を重ねて作り上げたものと古老は語っていた。
賀茂の氏族は日本の開拓者であった。刀剣の類を作り上げるよりも、むしろ百姓の鋤鍬の方を主としていた。北方系の胡人であった。

『儺の国の星』
p155 
早良戸栗(へぐり)は、かつての平群氏の故郷であった。
p196
大和の笠置の山々の名は、筑紫の葛城から神功皇后(201~269)の御宇に遷したものと伝えられる。葛城の峰は香椎宮から太宰府の東の空に連なる。

葛城氏竈門山系と水縄山系を領有して南方貿易を独占していたのに対し、平群氏背振山系と志摩山系を治めて北方貿易を掌握していました。せふりの語源は「へぐり」に在ったと語られますが、日繰(ひぐり)すなわち天文暦法の家系を示す古語であります。

香椎宮から太宰府の東の峰は犬鳴連峰の事でしょうか。
水縄=耳納
ウィキペディアと眞鍋氏を合せて解釈して地図を描いてみました。

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なお、「賀茂」が野芥の北にあります。

大和にこれと重なる構成の地名があるのは教科書で学びます。
葛城襲津彦は筑紫の出身で、大和に移住したものと考えると、うまくいきそうです。
それに前後して、多くの氏族の移住もあったのでしょう。
父親の「竹内(つくしうち)の宿禰」は「筑紫の内の宿禰」と考えました。

※日本書紀中の的(いくは)臣について
ソツビコの子孫が的(いくは)臣です。阿藝那臣も子孫です。藝の字は曇の写し間違いだと思いました。安曇那臣が正しいと思います。的臣は福岡の筑後川流域・浮羽(うきは)で、阿曇那臣は福岡市です。



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