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                                    【日本書紀】

一書(第四) 五十猛は種をまいた

素戔嗚尊が高天原から追放された時、その子、五十猛神を連れて新羅国に天下り、ソシモリの所にいた。「この地に我は居たいと思わない」と言って、埴土で船を造って東に渡り、出雲国のヒの川上にある鳥上峰(とりかみのたけ)に着いた。(略)

五十猛神は天下りする時に樹の種を沢山持って天下ったが、韓地(からくに)には植えずに、ことごとく日本に持ち帰った。筑紫から始めて、大八洲国(おおやしまのくに)に播(ま)いて増やし、青山でない所はなくなった。ゆえに五十猛命を名付けて「有功の神」(いきをしのかみ)とした。紀伊国にいらっしゃる大神がこれである。


一書(第五) 素戔嗚の毛が樹になった

素戔嗚尊は「韓郷嶋(からくにのしま)には金銀がある。我が子が治める国に浮宝(うくたから・船)が無いのは良くない」と言って、髭を抜いてまき散らすと、杉になった。胸毛を抜いてまき散らすと檜(ひのき)になった。尻の毛を蒔くと槙(まき)になった。眉毛は樟(くすのき)になった。

それぞれの用途を定めた。「杉と樟は浮宝とすべし。檜は瑞宮(みつのみや)の建材とすべし。槙は人が亡くなった時に使う棺にすべし。八十木種(やそこだね)を皆良く播き生やせ」と言挙げをした。

この時、素戔嗚尊の子を五十猛命と名付けた。妹の大屋津媛命(おおやつひめのみこと)次の妹、4枛津媛命(つまつひめのみこと)の三神は木種を播く神である。紀伊国に行ったのち、素戔嗚尊は熊成峯(くまなりのたけ)に行き、ついに根国に入った。


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『旧唐書』
くとうじょ
倭国伝・日本伝

倭国

倭国はいにしえの倭奴国のことである。唐の都の長安を去ること1万4千里。新羅の東南の大海の中にある。倭人は山ばかりの島に依り付いて住んでいる。倭国の広さは東西は5か月の旅程で、南北は3か月の旅程であり、代々中国と通じていた。

その国の町などには城郭が無く、木で柵を作り、家の屋根は草で葺いている。
四方の小島五十余国は皆、倭国に属していた。倭国の王の姓は阿毎(あま・あめ)氏で、一大率を諸国において検察させている。小島の諸国はこれを畏怖している。制定する官位は12等級ある。訴訟する者は匍匐(ほふく)して前に出る。

倭国には女が多く、男は少ない。かなりの漢字が通用している。俗人は仏法を敬っている。人々は裸足で、ひと幅の布で身体の前後を覆っている。

貴人は錦織の帽子をかぶり、一般人は椎髷(さいづちのようなマゲ)で、冠や帯は付けていない。
婦人は単色のスカートに丈の長い襦袢を着て、髪の毛は後ろで束ねて、25センチほどの銀の花を左右に数枝ずつ挿して、その数で貴賤が分かるようにしている。衣服の制(つくり)は新羅にとても似ている。

貞観5年(631)。倭国は使いを送って来て、地方の産物を献上した。太宗は道のりが遠いのをあわれんで、所司(=役人)に命じて毎年朝貢しなくてよいように取りはからわせ、さらに新州の刺史(しし=長官)高表仁に使者のしるしを持たせて倭国に派遣して、てなずけることにした。ところが表仁には外交手腕がなく、倭国の王子と礼儀の事で争いを起こして、国書を述べずに帰国した。

貞観22年(648)になって、倭国王は再び新羅の遣唐使に上表文をことづけて太祖へ安否を伺うあいさつをしてきた。



日本

日本国は倭国の別種である。その国は日の昇る方にあるので、「日本」という名前をつけている。あるいは「倭国がみずからその名前が優雅でないのを嫌がって、改めて日本とつけた。」ともいう。またあるいは「日本は古くは小国だったが、倭国の地を併合した。」とも。

その日本人で唐に入朝する使者の多くは尊大で、誠実に答えない。それで中国ではこれを疑っている。
彼らは「我が国の国境は東西南北、それぞれ数千里あって西や南の境はみな大海に接している。東や北の境は大きな山があってそれを境としている。山の向こうは毛人の国である。」と言っている。

長安3年(703)、その大臣の粟田真人が来朝して国の特産物を献上した。朝臣真人の身分は中国の戸部尚書(租庸内務をつかさどる長官)のようなものだ。彼は進徳冠をかぶって、その頂は花のように分かれて四方に垂れている。(進徳冠…唐の制度の冠の一つで九つの球と金飾りがついている)紫の衣を身に付けて白絹を腰帯にしていた。

真人は経書や史書を読むのが好きで、文章を創る事ができ、ものごしは温雅だ。則天武后は真人を鱗徳殿の宴に招いて司膳卿(しぜんけい・食膳を司る官)を授けて、本国に帰還させた。

開元の初め(玄宗の時代・713~741)また使者が来朝してきた。その使者は儒学者に経典を教授してほしいと請願した。玄宗皇帝四門助教(教育機関の副教官)の趙玄黙に命じて鴻盧寺で教授させた。
日本の使者は玄黙に広幅の布を贈って、入門の謝礼とした。その布には「白亀元年の調布(税金として納めたもの)」と書かれているが、中国では偽りでないかと疑った。

日本の使者は唐でもらった贈り物を全部、書籍を購入する費用に充てて、海路で帰還していった。
その副使の朝臣仲満(阿倍仲麻呂)は中国の風習を慕って留まって去らず、姓名を朝衡(ちょうこう)と変えて朝廷に仕え、左補闕(さほけつ・天子への諫言役)、儀王(第12王子)の学友となった。朝衡(仲麻呂)は京師に50年留まって書籍を愛好し、職を解いて帰国させようとしたが、留まって帰らなかった。

天宝12年(753)。日本国はふたたび使者を送って朝貢してきた。(※藤原清河・大伴古麻呂・吉備真備ら)

上元年間(760~762)に朝衡を左散騎常侍(天子の顧問)・鎮南都護(インドシナ半島北部の軍政長官)に抜擢した。

貞元20年(804)。日本国は使者を送って朝貢してきた。学生の橘逸勢(はやなり)・学問僧の空海が留まった。

元和元年(806)。日本国使判官の高階真人は「前回渡唐した学生の学業もほぼ終えたので帰国させようと思います。わたくしと共に帰国するように請願します。」と上奏したのでその通りにさせた。

開成4年(839)。日本国は再び使者を送って朝貢してきた。



『旧唐書』に出てきた二つの国について、『ひもろぎ逍遥』の関連記事。

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       (2)磐井の君VS継体天皇の背景
       (3)そこは倭国の支配下だったー四県割譲事件
       (4)中国から見た事情・『宋書』倭国伝―倭の五王
       (5)中国正史に「倭国」と「日本」 二つの王朝が書いてある…
       (6)『旧唐書』日本伝・日本国の成り立ちと不思議な白亀年号



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                                    【日本書紀】

穂積臣押山
ほづみのおみおしやま


継体6年の夏、4月6日に穂積臣押山(ほづみのおみおしやま)を百済に派遣しました。その時、筑紫国の馬40頭を贈りました。

冬12月に百済は日本に使いを送って朝貢してきました。別に上表文を書いて、任那国の上哆唎(おこしたり)・下哆唎(あろしたり)・娑陀(さだ)・牟婁(むろ)の四県(こおり)を譲渡するように請願しました。

哆唎国守(みこともち)の穂積臣押山が
「この四県は百済に近く、日本からは遠く隔てています。哆唎と百済は近くて朝夕通い易く、鶏や犬がどちらの国のものか分からないほどです。今、哆唎を百済に与えて合併させるのは手堅い政策で、最良のものでしょう。しかし、たとえ百済と合併させても(他国からの侵略に対して)まだ危ういといえますが、それでも百済と切り離して置いたなら、数年も守りきれないでしょう。」と奏上しました。

大伴の大連金村も詳しくこの事情を知っていて同じ内容を奏上しました。 

そこで物部の大連・麁鹿火(あらかひ)を勅命を伝える使者としました。物部の大連・麁鹿火は難波の客館に出立して、百済の使者に勅命を伝えようとしましたが、そのが強くいさめて、

「そもそも住吉大神が初めて海の向こうの金銀の国、高句麗、百済、新羅、任那などを、胎中天皇と言われる誉田天皇に授けられました。だから大后の息長足(おきながたらし)姫の尊(神功皇后)が大臣の武内宿禰と国ごとに官家(みやけ)を初めて置いて、海外の属国として長年経っているのです。そのように由緒あるものです。
もしそれを裂いて他の国に与えたなら本来の区域と違ってしまいます。永く世のそしりを受けて人々から非難されるでしょう。」
と言いました。

大連(おおむらじ)は「そなたが言うのも道理だが、勅命があった以上は、反対すれば天皇の命令に逆らう事になる。」と言いました。妻は強く諫めていいました。
「病気だと言ってあなたが伝えなければいいのです。」

大連は妻の言葉に従いました。そのため、改めて使者が選ばれて、勅文に下賜の物を付けて、百済の上表文に応じて任那の四県を与えました。
勾大兄(まがりのおおえ)皇子はこの件に関して全く知らず、あとで勅命があった事を知りました。驚いて悔いて変更する命令を下しました。

誉田天皇の御代から官家(みやけ)を置いていた国を軽々しく隣国が乞うがままにたやすく与えられようか。」と。すぐに日鷹吉士(ひたかのきし)を遣わして改めて百済の客人に伝えました。

百済の使者は言いました。
「父の天皇が便宜を図られて既に勅命を与えられたのです。子である皇子がどうして父帝の勅命を変えて、みだりに改めて言われるのですか。きっとこれは虚言でしょう。もしそれが真実ならば大きな頭の杖を持って打つのと小さな頭の杖を持って打つのとどっちが痛いでしょうか。(もちろん天皇の勅命が重く、皇子の命令は軽い。)」と言って帰国しました。

のちに「大伴の大連と哆唎国守の穂積臣押山は百済のワイロを貰ったのだ」という噂する者がいました。

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『宋書』倭国伝
 そうじょ わこくでん

                       成立(432年着手? 502年完成)

倭国は高句麗の東南の大海の中にあって、代々我が国に朝貢してきた。

高祖(南朝宋の武帝)永初2年(421)。高祖・武帝は「倭の讃王は万里も離れている所から朝貢して来る。遠くからでも朝貢する誠意を考慮して官職を授けよう。」と言った。太祖(宋の文帝)の元嘉2年(425)。讃王はまた司馬の曹達を派遣して上表文を奉り、特産品を献上した。

讃王が死んで弟の珍王が即位し、使者を送って朝貢してきた。みずから(都督の最高位である)使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と名乗り、上表文を奉って正式に任命されるよう要望してきた。文帝は勅命を下して安東将軍・倭国王に任命した。珍王はまた倭の隋ら13人に平西・征虜・冠軍・輔国などの将軍の称号を授けるように要望した。文帝はこれらすべて許可した。

元嘉20年(443)。倭国王の済王(せいおう)が使者を送って朝貢してきた。そこで安東将軍・倭国王と任命した。元嘉28年(451)。使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事の称号を加えて、安東将軍は元のままにした。ならびに上表された23人を将軍・郡長官に任命した。(※百済の名が消えていることに注意。)

済王が死んだ。世継ぎの興王(こうおう)が使者を遣わして朝貢してきた。世祖(孝武帝)の大明6年、(462)孝武帝
「倭王の世継ぎ興王はこれまでと変わらず忠心を示し、我が国を守る外海の垣根となり、我が国の文化に感化されて辺境を守り、うやうやしく朝貢してきた。興王は先代の任務を受け継いだのだから、爵号を授ける。安東将軍・倭国王と称号せよ。」と勅命を下した。
興王が死んで弟の武王が即位した。みずから使持節・都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称した。

順帝の昇明2年(478)倭国の武王は使者を送って上表文を献じて、「封国である我が国は偏遠の地にあって、外の垣根の役割をしています。昔から祖先はみずから甲冑を身につけ、山川を跋渉し、ひとところに安んじて留まる暇はありませんでした。

東の方は毛人の55国を征し、西の方は衆夷(しゅうい)66国を征服し、海を渡って北の95国を平らげました。皇帝の王道は広く溶け込み、封土は広大です。

我が国は先祖代々宋国に入朝するのに時節を誤った事はありません。わたくしは愚か者ではありますが、かたじけなくも先祖の偉業を継いで、統治する人々を率いて天極である宋国に帰順しています。通う道は百済を通って船路です。

ところが高句麗は無道者で、百済を飲み込もうとして国境の人民を略奪し、殺害しています。常に朝貢の道は滞って、我が良風を失わせようとしています。貴国に行こうとしても通じたり、通じなかったりします。

臣下であるわたくしの父済王は実に高句麗が宋国へ通う道を塞ぐことを怒り、弓矢を持つ兵士100万、義憤の声を挙げて奮いたち、大挙して攻めようとしましたが、にわかに父王と兄王が亡くなって後一息で成功する時に、さいごの一撃が出来ませんでした。わたくしは国に居て喪に服しているので兵士たちを動かさないでいます。こうして戦いをやめて兵士を休めて、高句麗に勝たずにいます。

されども、今こそ兵士を鍛錬して父と兄の志を全うしようと思います。我が義士も勇士も文官も武官も力を発揮して敵と刃を交えようとも命は惜しくはありません。もし皇帝の徳によって、我らを援護していただければ、この強敵をくじき、地方の乱れを収め、祖先の業績にも劣ることはありません。

勝手ながら、わたくしに開府儀同三司を任命され、ほかの諸将にもみなそれぞれに任命されて、貴国に忠節をつくすように勧めて下さい。」と。

そこで順帝は武王を使持節・都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王に任命した。


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                                    【日本書紀】
景行天皇(1)
大足彦忍代別天皇
おおたらし・ひこ・おしろわけのすめらみこと
即位
双子が生まれる

大足彦忍代別天皇イクメ・イリビコ・イサチの天皇(垂仁)の第三子です。母は皇后のヒバス媛の命と言います。丹波道主の王の娘です。イクメ・イリビコ・イサチ天皇37年に皇太子となりました。21歳でした。

99年春2月にイクメ・イリビコ・イサチ天皇は崩御しました。
景行元年の秋7月11日に、皇太子は天皇に即位し、年号を改めました。この年の太歳は辛羊(かのとのひつじ)にありました。

景行2年春3月3日に播磨のイナビの大郎姫(おおいらつめ=イナビのワキ郎女)を皇后としました。皇后は二人の男子を生みました。長男を大碓(おおうす)の皇子(みこ)と言い、次男を小碓(おうす)の尊(みこと)と言います。
(一書には皇后は三人の男子を生む。第三子を稚倭根子皇子(わかやまとねこのみこ)という)

その大碓皇子と小碓尊は双子でした。天皇はただならぬ事が起こったと、臼に向かって(まじないの言葉?)を言いました。そのために双子に大碓・小碓と名付けました。

この小碓尊は日本童男(やまとおぐな)とも言います。あるいは日本武尊(やまとたけるのみこと)と言います。幼い時から勇ましい性格で、男盛りになると美しい顔立ちになりました。身長は170センチで、力が強く、鼎(かなえ)を持ち上げることが出来ました。

景行3年の春2月1日に景行天皇は紀伊の国に出かけて、もろもろの神祇を祭祀しようとして占いましたが、吉ではありませんでした。そこで行幸は中止になりました。

代わりに、ヤヌシ・オシオ・タケオ・ココロの命を遣わして祭祀させました。ヤヌシオシオタケオココロの命が詣でて、阿備(あび)の柏原で、神祇を祭祀しました。そこに9年間住みました。その時、紀の直(あたい)の遠祖ウヂヒコの娘の影姫を娶って、武内宿禰が生まれました。


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スペルボーン(Spellborn)