オキナガタラシ姫の命(Ⅱ)  

息長帯比賣命(Ⅱ)   (神功皇后) 


御子と気比の大神

さて、建内の宿禰の命はその御子を連れて、
みそぎをしようとして、淡海から若狭の国へ行った時、
越前の国の角鹿(つぬが)に仮宮を造って滞在されました。

すると、その地の神イザサワケの大神の命が夢に出て来て、
言われました。
「我が名を、御子の御名と交換したいと思う。」

そこで、建内の宿禰は言祝いで(ことほいで)言いました。
「畏れ多いことでございます。お言葉の通りに変え奉ります。」
と申すと、さらに大神が言われました。
「明日の朝、浜辺に行きなさい。
名を交換したしるしの贈り物をしよう。」

そこで、翌朝、浜に御子が行かれると、
鼻が傷ついたイルカが浜辺全体に打ち上げられていました。

 御子が言われました。
「私に大神の食べ物の魚をくださった。」と。

こうして、大神の御名を称えて、ミケツの大神と
名をお付けになりました。
これから、今でも気比(けひ)の大神と言います。
また、そのイルカの鼻の血の匂いが大変臭かったので、
そこを血浦(ちうら)と言います。
今は都奴賀と言います。

それから、再び大和にお戻りになった時に、
母君のオキナガタラシ姫の命は無事を祈って作る
待酒(まちざけ)を造って献上しました。
そして、歌を詠んでいわく、

  この御酒は私の作った御酒ではありません。
  酒でも極上の酒です。
  常世の国にいらっしゃるスクナビコの神が
  祝福して、狂わんばかりに祝福し、
  豊かであるように祝福し、祝福し尽くして、
  出来上がった御酒ですよ。
  盃を残さずお飲みなさい。
  ささ。

とお歌いになりました。
こうして、大御酒をたてまつりました。
そこで、建内の宿禰の命が御子の代わりに答えて歌いました。

  この御酒を造った人は
  その鼓を臼のように立てて歌いながら、醸したんだなあ。
  舞いながら造ったんだなあ。
  この御酒の、御酒のやたら楽しい事よ。
  ささ。

これは「酒楽」(さかくら)の歌といいます。

オキナガタラシ姫は御年、百歳でお亡くなりになり、
狭城の楯列(たたなみ)の陵(みささぎ)に埋葬されました。



(古事記 仲哀天皇の巻より)
一部、不自然なところは日本書紀を参考にしました。



新羅の国とオキナガタラシ姫 

いきなり新羅や百済の国が出て来ました。
話が唐突に思えるのですが、アカル姫の所を見て下さい。
新羅の王子、アメノヒボコが日本人の妻アカル姫を追って
日本にやって来ています。
彼は日本で新たに妻を娶って、子供を作っています。
その子孫にオキナガタラシ姫の名前が出て来ます。

アメノヒボコは長男なので、本来、次の国王になるところを、
弟に譲っています。
これから考えると、オキナガタラシ姫は
母方が新羅国の王族の血を正統にひく、末裔という事になります。
父方は開化天皇のひ孫です。
彼女は新羅国王と大和国王の両方の血筋を併せ持つ名門の女性でした。

そんな彼女を、大和の国の天皇は大后として迎えたのです。
この婚姻から、新羅との交流は何か大事な趣を持っていた事が
推測できます。

その天皇が本来熊襲を討ちに行ったのに、途中で新羅征伐に変わったのも、
本には書いていない何らかの事情がありそうですね。

『太王四神記』のラストシーンを覚えていますか?

ぺ・ヨンジュンが主演した『太王四神記』のラストシーンで
高句麗王のタムドクが光の中に消えていく先に
大きな石碑がありました。
あれが歴史の教科書に出てくる広開土王の石碑です。

その石碑には日本から后が来たように書かれているそうです。
オキナガタラシ姫の事かもしれません。


香坂王(かごさかのおう)と忍熊王(おしくまのおう)は
何故、オキナガタラシ姫の一行を攻撃したの?


仲哀天皇の王位継承者だったからです。
仲哀天皇には、先に二人の后がいました。
オオナカツ姫との間に、香坂王と忍熊王が生まれ、
オト姫との間にホムヤワケの皇子が生まれました。

香坂王と忍熊王のどちらかが、いずれは天皇になるはずでした。
ところが、新しく大后としてオキナガタラシ姫が選ばれました。
しかも52歳になった天皇に男の子が生まれてしまいました。

古代は末子相続と言って、一番下の子どもが相続する習慣がありました。
オキナガタラシ姫は今度の戦勝で人気を得た上に、
御子が大后の子という事で、
香坂王と忍熊王の立場が、不利になったのです。
そこで武力を使って、新しい王位継承者を抹殺しようとしました。

オキナガタラシ姫が腰に石を巻いたのは御まじない?

オキナガタラシ姫の出産が大幅に遅れました。
石を巻いたくらいで出産を遅らすことは不可能です。

そこで、仲哀天皇の死後に妊娠したのではないかという話が
昔から取り沙汰されています。
石を巻いたのは、そんな事情隠を隠すためかも知れません。
今でも父親探しの歴史本が結構見られます。


殯(もがり)の風習

貴人が亡くなって、古墳に埋葬するまで、棺を納める建物を建てて、
弔いました。
ずっと燈明を灯してお守りするのですが、
仲哀天皇の死を隠すために、燈明は灯されなかったそうです。

うけい(誓約)

古代日本では大事な事を決定する時には、神に祈って
成否を尋ねたり、吉凶を尋ねたりしました。
香坂王と忍熊王も狩りの獲物で占おうとしたのでしょうが、
香坂王が殺されるという大凶でした。

木花咲耶姫の結婚の時も、父親の神がウケイをした結果、
二人の娘を差し出しています。


伝承の伝わる神社

 香椎宮 福岡県東区

仲哀天皇がここに遷都をしました。そして、ここで亡くなりました。
新羅へ攻めるための軍事拠点ともなった所です。
今でも、オキナガタラシ姫と共に、ご神託を伺った場所が遺されています。
天皇の死後、オキナガタラシ姫が一番頼りにした、
建内宿禰の命も祀られています。    
          
            香椎宮(Ⅰ)古宮はこちら
            『ひもろぎ逍遥』からでもリンクしてます。

宇美八幡神社 福岡県粕屋郡宇美町 

神功皇后が御子を出産された所として伝えられています。
今でも、安産を祈願し、またお礼にお参りする人々が絶えません。

 オキナガタラシ姫が移動した先々には、数十以上の神社が伝わっています。
ここでは書き留める事が出来ない数です。
『ひもろぎ逍遥』で、少しずつ紹介して行きます。


神懸かりしたという小山田斎宮に行って来ました。
レポートは⇒カテゴリの『ひもろぎ逍遥』⇒「小山田斎宮」

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