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神功皇后(5)筑紫での戦い 熊襲、熊鷲、田油津姫

                                    【日本書紀】

神功皇后(5)

筑紫での戦い 熊襲、熊鷲、田油津姫

それから後、皇后は吉備の臣の祖・鴨別(かものわけ)を遣わして、熊襲の国を攻撃させました。それほど経たない内に、熊襲はおのずから降服しました。

また荷持田村(のとりたのふれ)に、羽白熊鷲(はしろくまわし)という者がいました。そのひととなりは強健でした。身体に翼があって、飛んで高く翔けることが出来ました。この度の皇后の命令に従いませんでした。いつも人民をさらっていました。

17日に皇后は熊鷲を討とうと思って、橿日宮から松峡宮(まつおのみや)に遷りました。その時、つむじ風が起こって御笠が吹き飛びました。そこで当時の人々はそこを名付けて、御笠というようになりました。

20日にソソキ野に着いて、すぐに兵を挙げて羽白熊鷲を討って滅ぼしました。側近に語って、「熊鷲を討ち取った。これで私の心は安らかだ。」と言いました。それから、そこを名付けて安(やす)と言うようになりました。

25日に移動して山門県(やまとのあがた)に着いて、即座に土蜘蛛の田油津姫(たぶらつひめ)を討ち取りました。その時、田油津姫の兄の夏羽(なつは)が軍勢を興して、迎え討ちに来ました。しかし妹が殺された事を聞くと、そのまま逃げました。

夏4月3日に北の火前国(ひのみちのくちのくに)の松浦県(まつらのあがた)に着いて、玉嶋の里の小川のほとりで食事を取りました。その時、皇后は針を曲げて釣り針を造り、飯粒を餌にして、裳の糸を引き抜いて釣り糸にして、川の中の石の上に登って、釣り針を投げてウケイをして言いました。

「私は西の方の宝の国を求めようと思う。もし事を成す事が出来るなら、川の魚よ、かかれ。」そうして、竿を挙げると、アユがかかっていました。皇后は「珍しいものがかかった。」と言いました。こうして、当時の人はそこを名付けてメヅラの国と言うようになりました。今松浦の国というのは訛っているのです。

この事があってから、その国の女人は4月の上旬になると、釣り針を川の中に投げ入れて、鮎を釣る習わしが今に続いています。ただし、男が釣っても魚はかかりません。

皇后はこうして神の教えの霊験がある事を確信して、さらに天つ神、国つ神を祭って祈り、西の方を討とうと思いました。そこで神田を定めました。その時、儺の川の水を引かせて、神田を潤そうと思って、溝(うなで)を掘りました。とどろきの岡に至ると、大岩がふさがって、溝を通す事が出来ません。

皇后は武内宿禰を召して、剣、鏡を捧げて天地の神に祈らせて、溝を通そうとしました。すると雷が急に鳴り出して、その岩を踏み裂いて水を通しました。そこで人々はその溝を裂田溝(さくたのうなで)と言いました。

皇后は橿日浦に戻って祈り、髪をほどいて海に臨んで、
「私は天つ神、国つ神の教えを受けて、皇祖のみ霊のお蔭を受け、青き海原を渡って、みずから西を討とうとしています。今から頭を海水に漬けます。もし霊験があるなら髪が自然と分かれて二つになりますように。」
と言って、海の中に入って立ち上がると、髪は自然と二つに分かれました。

皇后はその髪を結い上げて男の髪型のミヅラにしました。それから群臣に言いました。
「そもそも軍隊を興し、衆人を動かすのは国の大事である。戦いが容易でも危険でも、勝ち戦さでも負け戦さでも、我々に掛かっている。

今、征伐する国がある。戦いの指揮を群臣たちに命ずる。しかし、もし勝つ事が出来なければ群臣たちが罪に問われる。それは不本意である。

私は女で、戦さには慣れていない。しかし、しばらく男の姿になって雄々しく戦おうと思う。上は天つ神、国つ神のみたまの助けを頼み、下は群臣たちの助けをたよって、兵士を奮い立たせて険しい波を渡り、船隊を整えて財宝の国を手に入れる。

勝利すれば軍功は皆と共にある。勝利でなければ、罪は私だけが引き受ける。私はそう決心した。皆はどう考えるか、協議するがよい。」

群臣たちは皆、
「皇后陛下。天下の為に、国家の安泰の為に全力を尽くします。負けて罪を問われるような事態は決してありません。謹んで勅命を承ります。」と答えました。
(つづく)

羽白熊鷲のことは次にレポートしています。
大己貴神社(1) (旧三輪町) 旧三輪町の中心の宮
       (2)大己貴の語源を考える。穴遅とゾロアスター教と錬金の工人

裂田溝 橿日浦 やす 羽白熊鷲 やまと田油津姫 松浦



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