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神功皇后(14)百済は七支刀と谷那の鉄を献上する

                                   【日本書紀】   

神功皇后(14)

百済は七支刀と谷那の鉄を献上する
 
50年の春2月に荒田別たちは帰国しました。

夏5月に、千熊長彦クテイたちも百済から戻って来ました。皇太后は喜びながらも、クテイに、
「海の西のもろもろの韓をすでにそなたの国に与えた。それなのに、またこうして何度もやってくるのはどうしてなのか。」と尋ねました。

クテイたちは、
「天朝の恵みは、遠くて卑しい我が国にまで及んでおります。我が王も喜んで踊り出さんばかりです。そこで真心を示すためにこうして再び参りました。万世に渡るまで必ずお仕えする心を示すためです。」
と奏上しました。

皇太后は
「嬉しいことを言ってくれる。それは私の望むところだ。」
と言って多沙城(たさのさし)を追加して与えて、通い路の駅舎(うまや)としました。

51年春3月に、百済王はまたクテイを派遣して朝貢しました。
皇太后は皇太子武内宿禰に、
「親しくする百済国は、人ではなく天が与えたような国ですね。貢いで来る物は珍しいものばかかりで、見たこともないものばかり。時を置かず常に朝貢して来て、大変喜ばしいことです。(私が死んだあとも)変わらず、厚く恩恵を与えるように。」
と言いました。

その年、帰国するクテイを千熊長彦に送らせました。百済に着くと皇太后の言葉を伝えました。
「われは神の示しに従って初めてここに道を開いた。海の西を平定して百済に与えた。今また友好の縁をしっかりと結び、永遠に慈しむものである。」

百済の王の父子は並んで額を地につけ、
「貴国の恩恵は天地より重いものです。いついかなる時にも決して忘れません。聖王は天上にあって、月や太陽のように輝いておられます。私めは下に侍って、忠誠の心は山のように不動です。永遠に西蕃となって、二心(ふたごころ)は持ちません。」と言いました。

52年の秋、9月10日にクテイたちは千熊長彦に従って来朝しました。その時、七支刀一口、七子(ななつこ)の鏡一面、および種々の宝を献上しました。そして、
「臣下である我が国の西に川があり、水源は谷那(こくな)の鉄山から出ています。

大変遠いところで、七日では着きません。そこに行き、その山の鉄を採って、永遠に聖朝に献上します。」
と言いました。

そうして、肖古王は孫のトムル王に、
「今わたしが使者を通わせている海の東の貴い国は天がひらいた国です。その国が天の恩を我が国にも与えて、海の西側を分けて与えてくれた。だから、この国の基盤は永遠に固いのです。

そなたも、この友好関係を大切にして、国中から集めたものを献上し続けてくれるなら、私は死んでも恨むことはない。」と言いました。これより後、毎年朝貢し続けました。

55年に百済の肖古王は亡くなりました。
56年に百済のクウィス王子が王となりました。
62年に新羅は日本に朝貢しませんでした。その年、葛城襲津彦を派遣して新羅を攻撃しました。
64年に百済国のクウィス王が亡くなり、トムル王子が王に即位しました。
65年に百済のトムル王が亡くなりました。アクヱ王子は年少でした。その叔父の辰斯(しんし)が王位を奪って即位しました。

(66年。この年は晋の武帝の泰初2年である。晋の起居の注に武帝の泰初2年10月に倭の女王が通訳を何人も通して、朝貢したと書いてある。)

69年の夏、4月17日に、皇太后は稚桜(わかさくら)宮で崩御しました。100歳でした。
冬10月15日に狭城盾列陵(さきのたたなみ)に埋葬しました。この日、皇太后に気長足(おきながたらし)姫尊(ひめのみこと)と追号しました。

                                          (終わり)



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