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景行天皇(6)筑後の国・日高見の国

                                    【日本書紀】
景行天皇(6)

筑後の国・日高見の国

秋7月4日に、筑紫後国の御木(みけ)に着いて、高田の行宮に滞在しました。そこに倒れた木がありました。長さは970丈。(1.7m×970=1649m)群臣はその木を踏んで往来しました。その時、誰かが歌を詠みました。
 朝霜が降りた 御木の小橋よ 
 群臣らは 渡ることよ 御木の小橋を
天皇は「これは何の木だ。」と尋ねました。

一人の老父が
「この木は歴木(くぬぎ)と言います。昔まだ倒れていない頃には、朝日が当たるとその影は杵島(きしま)の山に届き、夕日が当たると、阿蘇山に届きました。」と言いました。
天皇は「この木は神々しい木だ。これからはこの国を御木(みけ)の国と呼ぶがよい。」と言いました。

7日に八女の県(あがた)に着きました。藤山を越えて南の粟岬を望みました。天皇は
「あの山の峰々が重なってなんと美しいことか。ひょっとすると神がおわすのではないだろうか。」と言いました。

その時、水沼(みぬま)の県主(あがたぬし)・猿大海(さるおおみ)が、
「女神がおわします。名を八女津姫(やめつひめ)と言います。いつも山の中におわします。」
と奏上しました。八女(やめ)の国の名はこれから起こりました。

8月に的邑(いくはのむら)に着いて、食事をしました。この日、料理人たちはウキ(盃)を忘れました。そこでウキを忘れた所を浮羽と呼ぶようになりました。今、的(いくは)というのは訛りです。昔筑紫の人々はウキを浮羽と呼んでいたのです。

19年の秋9月20日に天皇は日向から着きました。
20年の春2月4日にイホノの皇女を遣わして、天照大御神を祭らせました。

25年の秋7月3日に武内宿禰を遣わして、北陸と東方の諸国の地形と人民の消息を視察させました。

27年の春2月12日に武内宿禰は東国から戻ってきて、
「東の田舎に日高見の国がありました。その国の人たちは男女とも、髪をツチのような形に結って、入れ墨をして勇ましい気性です。蝦夷(えみし)と言います。土地が肥えていて、広々としています。攻撃して手に入れるのがよろしいでしょう。」
と奏上しました。

秋8月に熊襲がまたそむいて辺境に侵入しました。

冬10月13日に日本武尊(やまとたける)を遣わして、熊襲を攻撃させました。この時16歳。日本武尊は
「私は弓が強い者を連れて行きたいと思います。そのような弓の名手はいないでしょうか。」
と言いました。ある者が答えました。
「美濃の国に弓の名手がいます。弟彦公(おとひこのきみ)と言います。」
と。そこで葛城の宮戸彦(みやとひこ)を遣わして、弟彦公を召しました。すると弟彦公は石占の横立(いしうらのよこたち)と尾張の田子の稲置(いなき)と乳近(ちぢか)の稲置を引き連れてやって来ました。そうして日本武尊に従って行きました。

現存している地名
緑字の地名は福岡県の筑後地方に、記載通りの地名が残っています。
御木=三池 歴木(くぬぎ) 水沼=三瀦 藤山 八女 浮羽
歴木とは石炭の事で、三池炭鉱は有名ですね。

高田の行宮もどなたかご存知の方ありませんか。



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