人気ブログランキング | 話題のタグを見る
                                   【日本書紀】   

景行天皇(7)
日本武尊の熊襲攻撃


日本武尊は12月に熊襲国に着きました。そして、国の様子や地形を観察しました。当時、熊襲には魁帥(たける)という者がいました。名前を取石鹿文(とろしかや)、別名川上梟帥(かわかみのたける)と言いました。ちょうど親族が集まって、宴をしようとしていました。

そこで日本武尊は髪を解いて乙女の姿になって、ひそかに川上梟帥の宴の時を伺いました。剣を衣の内に佩(は)いて宴の家に入り、女たちの中に紛れ込みました。

川上梟帥はその乙女が美しいのが気に入って、手を取って横に座らせ、杯を取って飲ませて、戯れました。そうして夜が更けて人もまばらになりました。川上梟帥は酔っ払っていました。

日本武尊は衣の中から剣を抜き出して、川上梟帥の胸を刺しました。川上梟帥は息を引き取る前に、頼んで言いました。
「ちょっと待って下さい。言いたい事があります。」
日本武尊は剣を途中で止めて待ちました。
川上梟帥は
「あなたはどなたですか。」と尋ねました。
「私は大足彦(おおたらしひこ)天皇の御子である。名は日本童男(やまとおぐな)と言う。」と日本武尊は答えました。

川上梟帥は言いました。
「私は国中で力ある者です。私の威力に勝るものはいず、従わないと言う者はいません。私は何度も武力で戦ってきたけれども、皇子のような人にはあった事がありません。私のような賤しいものが、いやしい口で尊号を奉ります。聞き届けてくださいますか。」

「よかろう。」
「これから先、日本武皇子(やまとたけるのみこ)と名乗って下さい。」
言い終わると、日本武尊は胸を突き通して殺しました。今に至るまでも、日本武尊と称えて呼ぶのはこれが由縁です。

この後、弟彦たちを遣わして、ことごとくその一党を斬らせました。生き残る者はいません。

こうして海路で倭に向かって吉備を通って穴海を渡りました。そこには荒ぶる神がいました。すぐに殺しました。また難波では柏済(かしわのわたり)の荒ぶる神を殺しました。

28年の春2月1日に、日本武尊は熊襲を平定した状況を奏上して、
「私は天皇の神霊のおかげで、兵士を挙げて、熊襲の首長を殺して、その国を平定しました。こうして西洲(にしのくに)は鎮まりました。人民は無事です。ただ吉備の穴済の神と難波の柏済の神たちだけは有害で、道行く人々を苦しめていて、悪人がおおぜい集まっていたので、を殺して、水陸の安全な道を開きました。」
と言いました。
天皇をそれを聞いて、日本武の功績を褒め讃え、格別に寵愛しました。


景行天皇(7)日本武尊の熊襲攻撃_c0213541_219724.gif



                                    【日本書紀】

景行天皇(8)
蝦夷反乱


景行40年の夏6月に東の国々が多くそむいて、辺境が騒がしくなりました。
秋7月16日に天皇は群臣たちに、
「今、東国が安泰でなくなり、荒ぶる神が大勢立ち上がっている。その中でも蝦夷(えみし)が特にそむいていて、しばしば人民を略奪している。反乱を平定するのに誰を遣わしたら良いだろうか。」
と言いました。が、群臣たちは誰を派遣したらいいのか分かりませんでした。

すると日本武尊が奏上しました。
「私が先に西の方を征伐したので、今度は兄の大碓(おおうす)の皇子の仕事でしょう。」
と。しかし大碓の皇子は恐れて、草の中に隠れてしまいました。

天皇はすぐに使者を送って召しました。天皇は責めて、
「汝が望まない事を無理じいはしない。しかし、まだ敵と相対した訳でもないのに、はなから恐ろしがるのがひどすぎる。」
と言って、これが原因となって、美濃の国に封じました。大碓の皇子は勅命に従って封土に行きました。そして身毛津(むけつ)君守(もり)の君の二族の始祖となりました。

すると、日本武尊はオタケビを上げて、
「熊襲はすでに平定してまだ何年も経たないのに、今また東の夷が背いた。いつになったら太平になるのだ。私が苦労してでも、その乱れを平定しましょう。」
と言いました。

そこで、天皇は将軍としてのしるしの斧とまさかりを授けて言いました。
「東の夷は性格が荒々しくて強情だと聞いている。侵犯ばかりしている。村には長がいなくて、邑にも首長がいない。互いに境を侵し合って略奪し合っている。また山には邪神がいる。野には悪い鬼がいる。別れ道をさえぎり、道を塞いで、多くの人々を苦しめている。

その東の夷の中でも蝦夷は一番手強い。男女が交って住んでいて、子供の父親が誰か分からない。冬は穴に住み、夏はやぐらのような所に住んでいる。毛皮を衣にして血を飲んで、動物と区別がつかない。山に登るのは飛ぶ鳥のようで、草原を走るようすは逃げる獣のようだ。

恩恵を受けても忘れてしまう。恨み事があれば必ず報復する。矢は束ねた髪に入れて、太刀は衣の中に佩いている。仲間を集めては辺境を犯す。あるいは農作業中の人間を拉致していく。攻撃すれば草に隠れ、追えば山に入る。昔から今に至るまで、まだ王風に染まらない。

今こうして、そなたをあらためて見ると、背が高く身体は大きく、容貌は端正だ。力があって鼎を持ち上げることが出来る。猛々しさは雷電のようだ。向かう所敵はなく、攻撃すれば必ず勝つ。

そうか、姿形は我が子だが、中味は神人ではないか。これは、私に力量がなくて国が乱れるのを天がかなしんで、皇位継承を整えて宗廟が絶えないようになせる業か。

この天下はそなたの天下である。この位はそなたの位である。願わくば、先々の事も深く考えて計画して、悪い所を探り変化を見抜いて威力を示し、徳を持って懐柔して、軍卒を使わずに自然と従属するようにしむけよ。巧みな言葉を使って荒ぶる神を抑え、武を振るって悪い鬼たちを追い払ってしまうように。」
と言いました。

そこで、日本武尊は斧とまさかりを受け取って再拝して奏上しました。
「かつて西を討った年に、皇霊の威力を頂いて三尺剣を下げて熊襲国を討ちました。それほど時間もかからず、賊の長は罪に従いました。

今また天神地祇の霊力を頼り、天皇の威信を借りて、辺境に行って徳を示し、服従しないものがあれば兵を挙げて攻撃します。」
と言って、重ねて再拝しました。

天皇は吉備の武彦大伴の武日の連に命じて日本武尊の伴につかせました。またナナツカハギを料理人としました。冬10月2日に、日本武尊は出発しました。



景行天皇(8)蝦夷反乱_c0213541_219724.gif



                                   【日本書紀】   

景行天皇(9)

日本武尊の死と白鳥


(日本武尊が蝦夷討伐に行くと、敵は戦わずに降服した。)

日本武尊はノボ野に着くと病気がひどくなりました。そこで捕虜にした蝦夷たちを神の宮(伊勢)に献上しました。それから吉備の武彦を遣わして天皇に奏上しました。

「私は帝から勅命を受けて、遠く東の夷を討ちました。神の恩寵と帝の威光のおかげで、そむく者は罪に従い、荒ぶる神たちはおのずから降服しました。鎧甲を脱ぎ、鉾を収めて、心安らかに帰還の途についています。早く帝に復命の御挨拶をしようと思って。

しかし天命が尽きてしまい、私には残された時間が無くなりました。独り荒れ野に臥しています。誰と話す事もありません。この身が滅ぶのが残念でしかたがありません。もう帝にお会いできないのが哀しくてしかたありません。」
そうしてノボ野で亡くなりました。この時30歳でした。

天皇はそれを知って、寝ても覚めてもいたたまれず、食事をしても味がせず、昼も夜もむせび泣いて悲しみました。
「我が子、小碓の王よ。昔熊襲が背いた時には、まだアゲマキの髪を結う年にもならなかったのに長い戦いに出かけ、戻って来てからは私の側にいて力になってくれた。

しかし東の蝦夷たちが騒がしくなって、征伐に行く者がいなかった。大事な子供なのに賊との境に行かせてしまった。

一日たりとて、思わぬ日はなかった。もうそろそろ還って来る頃だと朝夕心待ちにしていたのに。いったい何の災いや罪があって、思いがけず愛する者を失くさなければならないのだ。これから先はいったい誰とまつりごとをすればいい。」
と嘆いて言いました。

それから群臣・百寮に命じて伊勢の国のノボ野の陵に埋葬しました。この時、日本武尊は白鳥となって陵から飛んで、倭国を指して飛びました。群臣たちが棺を開けて見ると、衣だけが残っていて遺体はありませんでした。

そこで帝は使者を遣わして白鳥を追わせました。すると倭の琴弾の原にいました。今度はそこに陵を作りました。白鳥はまた飛び立って河内に行って、旧市(ふるいち)の邑に留まりました。またそこに陵を作りました。

このために時の人はこの三つの陵を名付けて、白鳥陵と言いました。しかし、白鳥はついに高く飛翔して天に昇りました。そのために衣冠だけを棺に納めました。そして功績を伝える為に武部(たけるべ)を定めました。この年、景行43年でした。


景行天皇(9)日本武尊の死と白鳥_c0213541_219724.gif



                                    【日本書紀】

景行天皇(10)

蝦夷その後
 

51年の春、正月7日に天皇は群臣を召して、宴を数日催しました。この時、皇子の稚足彦尊(わかたらしひこ)と武内宿禰は宴の庭に出て来ませんでした。

天皇が召して、その訳を尋ねると、
「このような宴の日には群臣百寮は必ず宴の遊びの方に心が行って、国家の事がおろそかになります。もし狂った人がいて宮の垣根の隙を狙いでもしたらと思い、門の所で非常に備えていました。」
と二人は答えました。

これを聞いて天皇は「もっともな事だ。」と言って、二人を格別に可愛がりました。

秋8月4日に、稚足彦尊を立てて、皇太子としました。この日、武内宿禰を棟梁(むねはり)の大臣に任命しました。

さて、前述の日本武尊の佩(は)いていた草薙の剣は、今は尾張の国の年魚市(あゆち)の郡(こおり)の熱田社にあります。

またこの頃、伊勢神宮に献上した蝦夷たちは昼夜大声で騒いで、礼節なく出入りしていました。倭姫(やまとひめ)は、「この蝦夷たちを神宮に近づけてはならない。」と言って、朝廷に送りました。

そこで、御諸山(みもろやま=三輪山)の麓に住まわせました。するとまもなく神山の木を切って、隣里には大声で呼ばわって、人民がおびえました。

天皇はそれを聞いて、群臣に
「神の山の麓に住まわせた例の蝦夷は、もともと獣のような心持ちなので、国の中には住まわせられない。向こうが望むように郊外に住まわせよ。」
と言いました。

これが今の播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の五つの国の佐伯部の祖となりました。




景行天皇(10)蝦夷その後_c0213541_219724.gif



                                   【日本書紀】   

景行天皇(11)

日本武尊の系図

日本武尊ははじめに両道入姫(ふたぢのいりひめ)の皇女(ひめみこ)を娶って妃とし、稲依別王(いなよりわけのみこ)、足仲彦(たらしなかつひこ)天皇(仲哀天皇)、布忍入姫命(ぬのしいりびめのみこと)、稚武王(わかたけのみこ)が生まれました。
この中の第一子の稲依別王は犬上の君、武部の君の二つの族の始祖です。

日本武尊は又、吉備の武彦の娘、吉備の穴戸の武姫を妃として、武卵王(たけかひごのみこ)と十城別王(とおきわけのみこ)が生まれました。
兄の武卵王は讃岐の綾の君の始祖です。弟の十城別王は伊予別君の始祖です。

また次の妃の穂積氏の忍山の宿禰の娘の弟橘姫稚武彦王を生みました。

52年の夏5月4日に景行天皇の皇后の播磨の太郎姫(おおいらつめ)が亡くなりました。
(太郎姫は日本武尊の生母)
秋7月7日に八坂入媛命を皇后としました。

景行天皇(11)日本武尊の系図_c0213541_917446.gif


次の二人は神功皇后の三韓攻撃の帰りに、それぞれ唐津市と平戸市に警備の為に残されて、
祭神として祀られています。

稚武王 ⇒ 唐津市呼子加部島 田島神社 祭神
十城別王 ⇒ 平戸市 志志岐神社

詳しくは 『ひもろぎ逍遥』志式神社(5)
哀しき神々たち 三良天神と志志岐三神 に書いています。
http://lunabura.exblog.jp/13130472/


十城別命の太刀が平戸城に展示されています。
環頭の太刀(国指定文化財、亀岡神社所蔵、平戸城天守閣)
柄頭を環状にまるめ、水牛の角の鍔、竹を馬革で包んだ鞘を持つ93㎝の鉄製直刀。
神功皇后の朝鮮出兵当時の武将の刀であったと伝えられています。志志岐神社祭神である十城別命(ときわけのみこと)は、日本武尊の御子であり、仲哀天皇の弟。

平戸観光再発見
http://www.hirado-net.com/history/cate01_02.php
景行天皇(11)日本武尊の系図_c0213541_219724.gif



スペルボーン(Spellborn)